- 志田雅宏「棄教者への書簡:ヤコブ・ベン・エリヤフとプロファイト・ドゥラン」『ユダヤ文献原典研究』第1号(2014年)51-72頁。
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http://alderekhhaemet.blogspot.com/2014/04/1.html
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アウグスティヌスの時代には、キリスト教徒にとってユダヤ人とはキリスト教的真理の証人であるという救済史的な役割が与えられていた。ところが12世紀以降になるとユダヤ人はキリスト教の「異端者」にすぎないという認識に変わり、さらには1391年のイベリア半島のユダヤ人迫害に際しては、キリスト教への強制的改宗すら強いられるようになった。志田は、こうした13世紀から14世紀にかけてのヨーロッパにおける、ユダヤ教徒から棄教者に向けて書かれた2つの書簡を扱っている。一つがヤコブ・ベン・エリヤフ『ヴェネツィアからのラビ・ヤコブの書簡』、もう一つがプロファイト・ドゥラン『アル・テヒ・カ-アヴォテハ』である。
前者では、タルムードの中に非知性的な箇所があることを批判する名宛人(パウルス・クリスティアーニ)に対し、ラビ・ヤコブはキリスト教の聖人伝における奇跡譚を引き合いに出している。しかし注目すべきは、彼が奇跡譚を批判しているのではなく、それをあくまで価値中立的に記述するに留まっているという点である。ラビ・ヤコブは、あくまで記述的アプローチを貫くことで、そもそもユダヤ教の非知性的物語が批判の対象となるのはそれを批判する者がいるからであり、しかもそのときその批判は当の批判者(キリスト教側)にも跳ね返るのだと警告しているのである。これは、ユダヤ教共同体への直接的な脅威となる活動をしていた棄教者たちを食い止め、あわよくばユダヤ教に再び戻らせようとする試みだった。
一方後者では、三位一体のような、知性では理解し得ない教義を持つキリスト教と、さまざまな学知と調和する教義を持つユダヤ教との対比の中で、ドゥランはあえてキリスト教の神秘性・非論理性を賞賛することで、実はアイロニカルにそれを批判している(これは書簡のタイトルにも現れている)。特にキリスト教の実体変化の教義に対しては、当時の諸学に照らしつつ、批判的態度を取っている。さらには新約聖書の記述をも引き合いに出し、実体変化の教義がイエス自身の思想とかけ離れていることを証明しようとした。加えて、使徒行伝でパウロによって律法の実践を求められていないのは異邦人だけであり、「アブラハムの子孫」は引き続き律法の実践が求められていることから、名宛人(ボンジョルン)もまた律法を守らねばならないと述べる。すなわち、ドゥランはボンジョルンを「ユダヤ人のキリスト教徒」という二重イメージで見ており、棄教者のユダヤ教的部分を批判の対象にしているといえる。ここでドゥランがボンジョルンに対して感じているのは、ラビ・ヤコブがパウルスに感じていた(ユダヤ教共同体に仇なすような)危険性ではなく、ユダヤの知的伝統に属していたはずの友人が、その知性を捨ててしまったことへの軽蔑である。
以上より、志田は、これらの書簡の著者の特色として、彼らが直接的にキリスト教を批判するのではなく、その役割を名宛人たる棄教者自身に担わせていると結論付ける。ラビ・ヤコブは、ユダヤ教の非知性的物語を批判する者たちに対し、キリスト教の同様の物語をつきつけることで、彼らの言葉が自動的に跳ね返るように操作し、一方ドゥランは、キリスト教の神秘性・非論理性を称揚しつつも、その実ユダヤ教の論理性を押し出すことで、棄教者にまだ残っているユダヤ教的部分に訴えかけている。前者は記述的な態度を、後者はアイロニーを用いることで、キリスト教批判の役割を棄教者に担わせているのである。
読後の質問としては、以下4点。第一に、なぜ「プロファイト・ドゥラン」という表記にしたのか。一般的には「プロフィアト」がよく知られており、ジュダイカの項目もそうなっていたと思うが、注9で著者自身が二様の表記法があることを認識しつつも、なお「プロファイト」を採用した理由が書かれていない。第二に、『ラビ・ヤコブの書簡』の名宛人パウルスは、「もとはシャウルという名を持つユダヤ教徒」だったというが、これはパウルス・クリスティアーニのみならず、新約聖書のパウロ(もとの名はサウロ)を暗示してはいないか(すると同時にこの書簡は個人ではなくキリスト教全体を批判しているのではないか)。第三に、ドゥランが実体変化の批判の際に後ろ盾とした「自然学・形而上学・視覚についての学」というのは、当時のヨーロッパで確立していた自由七学芸のうちの四科のことか、それともユダヤ教内部に別の教育システムがあったのか(前者のように見えるが、すると「視覚についての学」とはいったい何なのか)。第四に、特に古代においては往復書簡は個人的な私信ではなく、公開討論に近い意味を持っていたが、これらもそうなのか。そうであるならば、ヘブライ語で書かれていることから、読者として想定されているのは、生粋のキリスト教徒たちではなく、元ユダヤ教徒であった棄教者およびユダヤ共同体なのか(前者には批判、後者には警告の意味で)。
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前者では、タルムードの中に非知性的な箇所があることを批判する名宛人(パウルス・クリスティアーニ)に対し、ラビ・ヤコブはキリスト教の聖人伝における奇跡譚を引き合いに出している。しかし注目すべきは、彼が奇跡譚を批判しているのではなく、それをあくまで価値中立的に記述するに留まっているという点である。ラビ・ヤコブは、あくまで記述的アプローチを貫くことで、そもそもユダヤ教の非知性的物語が批判の対象となるのはそれを批判する者がいるからであり、しかもそのときその批判は当の批判者(キリスト教側)にも跳ね返るのだと警告しているのである。これは、ユダヤ教共同体への直接的な脅威となる活動をしていた棄教者たちを食い止め、あわよくばユダヤ教に再び戻らせようとする試みだった。
一方後者では、三位一体のような、知性では理解し得ない教義を持つキリスト教と、さまざまな学知と調和する教義を持つユダヤ教との対比の中で、ドゥランはあえてキリスト教の神秘性・非論理性を賞賛することで、実はアイロニカルにそれを批判している(これは書簡のタイトルにも現れている)。特にキリスト教の実体変化の教義に対しては、当時の諸学に照らしつつ、批判的態度を取っている。さらには新約聖書の記述をも引き合いに出し、実体変化の教義がイエス自身の思想とかけ離れていることを証明しようとした。加えて、使徒行伝でパウロによって律法の実践を求められていないのは異邦人だけであり、「アブラハムの子孫」は引き続き律法の実践が求められていることから、名宛人(ボンジョルン)もまた律法を守らねばならないと述べる。すなわち、ドゥランはボンジョルンを「ユダヤ人のキリスト教徒」という二重イメージで見ており、棄教者のユダヤ教的部分を批判の対象にしているといえる。ここでドゥランがボンジョルンに対して感じているのは、ラビ・ヤコブがパウルスに感じていた(ユダヤ教共同体に仇なすような)危険性ではなく、ユダヤの知的伝統に属していたはずの友人が、その知性を捨ててしまったことへの軽蔑である。
以上より、志田は、これらの書簡の著者の特色として、彼らが直接的にキリスト教を批判するのではなく、その役割を名宛人たる棄教者自身に担わせていると結論付ける。ラビ・ヤコブは、ユダヤ教の非知性的物語を批判する者たちに対し、キリスト教の同様の物語をつきつけることで、彼らの言葉が自動的に跳ね返るように操作し、一方ドゥランは、キリスト教の神秘性・非論理性を称揚しつつも、その実ユダヤ教の論理性を押し出すことで、棄教者にまだ残っているユダヤ教的部分に訴えかけている。前者は記述的な態度を、後者はアイロニーを用いることで、キリスト教批判の役割を棄教者に担わせているのである。
読後の質問としては、以下4点。第一に、なぜ「プロファイト・ドゥラン」という表記にしたのか。一般的には「プロフィアト」がよく知られており、ジュダイカの項目もそうなっていたと思うが、注9で著者自身が二様の表記法があることを認識しつつも、なお「プロファイト」を採用した理由が書かれていない。第二に、『ラビ・ヤコブの書簡』の名宛人パウルスは、「もとはシャウルという名を持つユダヤ教徒」だったというが、これはパウルス・クリスティアーニのみならず、新約聖書のパウロ(もとの名はサウロ)を暗示してはいないか(すると同時にこの書簡は個人ではなくキリスト教全体を批判しているのではないか)。第三に、ドゥランが実体変化の批判の際に後ろ盾とした「自然学・形而上学・視覚についての学」というのは、当時のヨーロッパで確立していた自由七学芸のうちの四科のことか、それともユダヤ教内部に別の教育システムがあったのか(前者のように見えるが、すると「視覚についての学」とはいったい何なのか)。第四に、特に古代においては往復書簡は個人的な私信ではなく、公開討論に近い意味を持っていたが、これらもそうなのか。そうであるならば、ヘブライ語で書かれていることから、読者として想定されているのは、生粋のキリスト教徒たちではなく、元ユダヤ教徒であった棄教者およびユダヤ共同体なのか(前者には批判、後者には警告の意味で)。
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以下は、私の4点の質問に対する著者の志田さんからの回答です。合わせてお読みいただくと、よりいっそうこの論文の内容理解が深まると思います。志田さん、ご回答ありがとうございました。
- Profayt Duranという表記は僕が留学中にお世話になったRam Ben-Shalom先生に倣ったものです。英語表記としてはProfiatが多く、ジュダイカでもそうなっていますが、ベン・シャローム先生によれば、こちらの方が元の表記に忠実なのだそうです。先行研究ではRichard Emeryも同じ表記を使っています。Jacob ben Eliyahuも英語ではJacob ben Elijahと書くことも多いですね。
- パウルス・クリスティアーニからパウロへの暗示ですが、ヤコブ・ベン・エリヤフについて、そのように言えるかどうかはわかりません。
キリスト教そのものを批判する態度は、彼よりもドゥランの方がはるかに鮮明です。とくに、ドゥランのKelimat ha-Goyimはイエスの教えとパウロ以降のキリスト教制度の乖離を指摘したもので、ドゥランの当時のキリスト教世界の問題(大分裂など)と改革運動が彼のキリスト教批判に大きく影響していることは間違いないと思います。
これは可能性の話ですが、もしパウルスとパウロの暗示的な関係が成り立つとしたら、そこにヤコブ・ベン・エリヤフのキリスト教批判の巧妙さを見ることができるかもしれませんね。書簡では少なくとも表向きにはキリスト教の教義そのものを批判しているわけではありません。ユダヤ人を迫害する活動や、ユダヤ人の家族との絆を断ち切ることが問題なのであって、批判の矛先はキリスト教というよりも、キリスト教への改宗者です。ただ、指摘してもらったような暗示的関係があるとしたら、パウルスの活動を批判するなかで、実はパウロをも攻撃する意図を持っていた、ということが言えるかもしれませんね。 - ドゥランによる諸学問の基礎からの批判は、やはりヨーロッパの知を前提にしていると考えられます。
「視覚についての学問」というのは、医学(または自然学?)の一部だと予想します。
リベラル・アーツには入っていませんが、当時のヨーロッパの学問体系のなかで、すでに確立された学問的基礎の一部なのかなと思いました。 - 想定される読者の問題ですが、ご指摘のとおり、基本的にはユダヤ人(ユダヤ教徒や棄教者)だろうと思います。
そのうえで、想定の問題について、この手の議論で思うのは、その「想定」を必ずしも著者自身の意図に還元する必要はないのでは、ということです。
著者サイドからすれば、今回取り上げた書簡は本当に私信かもしれないし、逆に広く読まれることを意図していたのかもしれない。
ただ、そのどちらであっても、歴史的には、その書簡は書き写されていきます。
そして、「書き写す」という行為によって、当の著者が意図しなかったことが実現する可能性があります。
それを考えると、読者に棄教者が含まれるかどうかという問題は、書簡を書き写す者が棄教者と関係を持つような環境にいたのかどうか、という点にかかってくると思います。そうなると、手がかりになりそうなのは、写本の冒頭や最後に写し手が付した文言や、後代の他の著作での引用のされ方ですね。
著者自身が送り手以外の棄教者を想定していたかという問題で見ると、ヤコブ・ベン・エリヤフは同時代の棄教者(とくにドニン)をひとつのイメージとして印象づける傾向があるように思いました。なので、他の棄教者への警告というのは意図されていたかもしれません。一方、ドゥランの場合はよりプライベートな印象を受けました。パウロ・デ・ブルゴスの活動をもっと描写するようなことがあれば、同時代の棄教者のイメージを同時代の読み手に印象づけつ戦略を読みとれたかもしれませんが、そのような傾向はあまりないと思いますね。ドゥランの場合は、Kelimat ha-Goyimというかなり直接的なキリスト教批判の著作も書いています。この著作では、当然ボンジョルン以外の読者(ユダヤ教徒も棄教者も)も想定されています。なので、書簡はプライベートなものなのかもしれません。ただし、繰り返しになりますが、そうだとしてもそれは著者の意図であって、書き写され、拡散していけば、その意図を超えた役割や意義がその書簡に与えられていくことになるのです。