来る6月11日(土)に、京都大学で京都ユダヤ思想学会の第4回学術大会が開催されます。今年度のシンポジウムの公開講演は、矢内義顕氏(早稲田大学)による、「ユダヤ教、キリスト教、イスラーム―ペトルス・アルフォンスィ『ユダヤ人との対話』を中心に―」です。これは中世の改宗ユダヤ人がユダヤ人反駁をした書物だそうですが、当時のユダヤ人世界には複雑なアイデンティティがあったことがわかります。公開講演会は、どなたでも無料で参加できるようです。お問い合わせは学会事務局まで。
2011年5月23日月曜日
2011年5月18日水曜日
クリュソストモス『マタイ講話』50.2 (2)
クリュソストモスは、一貫してマタイの8章と14章を比較しています。8章では、イエスは病を持った人に直接触れたり、言葉で指示を出さなければ癒すことができませんでしたが、14章では人々はイエスの服の裾に触れるだけで癒されています。クリュソストモスは、この転機を9章の「長血の女」の話に置いています。この長血の女がイエスの服の裾に触れるだけで癒され、それを皆に伝えたことにより、人々の信仰が深まったというのです。
そしてクリュソストモスはこのことを受けて、講話を聴いている聴衆に向けて、「私たちも服の裾に触れましょう」と呼びかけます。またおそらくこの講話は聖餐の際のものであったらしく、自分たちは「服の裾」どころか、「彼の体」たる聖餐のパンを持っているのだから、服の裾に触れた者たちが得た力より大きな力を得ることができると述べています。聖書の中にある類似の話の相違点から、説得力をもって自分の言いたいことを引き出し、それを礼拝のテーマにまで持っていく手腕は見事なものですね。
50.2 (PG 58, col.507の原文と私訳)
というのも、彼らは同様に、以前のように近づきはしなかったし、彼(イエス)を家へと引き入れたり、手の接触や言葉を通しての指示を求めたりもしませんでした〔マタ8:5; 9; 15; 16等参照〕。そうではなく、彼らはより高度に、またより知恵を愛するように*1、そして大きな信仰をもって、癒しを引き出そうとしたのです。なぜなら血を流している女が、皆が知恵を愛するように教えたからです〔マタ9:18-26参照〕。福音書記者が示しているところでは、彼(イエス)は長い時間を通じて(しばらく経ってから)その地方に入りました。いわく、《その地の人々は(彼を)認め、その地方にふれまわった。そして彼らは彼のもとに悪い状態にある者たちを連れてきた》〔マタ14:35〕。しかし同じように、この(長い)時間は信仰を消し去ってしまうことがなかっただけではなく、それをより大きなものとなし、盛んな状態に維持しました。それゆえに、私たちもまた、彼の服の裾に触れようではありませんか。それどころか、もし私たちが望むなら、全体としての彼を持ちましょう。というのも、今や彼の体も私たちの前に置かれているからです*2。服だけではなく、体もまたです。そして触れるだけではなく、食べて満たされるために*3。それゆえに、私たちはそれぞれ病を持ちつつも、信仰をもって近づきましょう。なぜなら、もし彼の服の裾に触れる者がそれほどの力を引き出すならば、彼を全体としてしっかり持つ者たちはいかばかりでしょうか。信仰をもって(パンに)近づくことは、前に置かれているもの(パン)をつかむことだけではなく、清い心をもって触れること、そしてキリストご自身に近づく状態にあることでもあるのです。もしあなたが声を聞くことができないとしても、それが何だというのでしょう。置かれているものを見ればいいのです。(そうすれば)むしろ声もまた聞くことができるでしょう。なぜなら、彼は福音書記者を通して叫んでいるのですから。
*1 philosophosは、G. W. H. Lampe (ed.), A Patristic Greek Lexicon, Oxford 1961-68によると、形容詞として1. loving wisdom, 2. wise, 3. Christian, 4. virtuous, 5. contemplative, 6.solitary, 7. monasticという意味がある。ここでは1の意味を取った。
*2 「彼の体」とは、聖餐におけるパンのこと。
*3 emphoreoについて、Lampeはp.458の2.b.でまさにこの個所を挙げて、"grace through union with God"の 意としている。少々訳しすぎのように思われるので、私訳では受動で「満たされる」とした。
そしてクリュソストモスはこのことを受けて、講話を聴いている聴衆に向けて、「私たちも服の裾に触れましょう」と呼びかけます。またおそらくこの講話は聖餐の際のものであったらしく、自分たちは「服の裾」どころか、「彼の体」たる聖餐のパンを持っているのだから、服の裾に触れた者たちが得た力より大きな力を得ることができると述べています。聖書の中にある類似の話の相違点から、説得力をもって自分の言いたいことを引き出し、それを礼拝のテーマにまで持っていく手腕は見事なものですね。
50.2 (PG 58, col.507の原文と私訳)
というのも、彼らは同様に、以前のように近づきはしなかったし、彼(イエス)を家へと引き入れたり、手の接触や言葉を通しての指示を求めたりもしませんでした〔マタ8:5; 9; 15; 16等参照〕。そうではなく、彼らはより高度に、またより知恵を愛するように*1、そして大きな信仰をもって、癒しを引き出そうとしたのです。なぜなら血を流している女が、皆が知恵を愛するように教えたからです〔マタ9:18-26参照〕。福音書記者が示しているところでは、彼(イエス)は長い時間を通じて(しばらく経ってから)その地方に入りました。いわく、《その地の人々は(彼を)認め、その地方にふれまわった。そして彼らは彼のもとに悪い状態にある者たちを連れてきた》〔マタ14:35〕。しかし同じように、この(長い)時間は信仰を消し去ってしまうことがなかっただけではなく、それをより大きなものとなし、盛んな状態に維持しました。それゆえに、私たちもまた、彼の服の裾に触れようではありませんか。それどころか、もし私たちが望むなら、全体としての彼を持ちましょう。というのも、今や彼の体も私たちの前に置かれているからです*2。服だけではなく、体もまたです。そして触れるだけではなく、食べて満たされるために*3。それゆえに、私たちはそれぞれ病を持ちつつも、信仰をもって近づきましょう。なぜなら、もし彼の服の裾に触れる者がそれほどの力を引き出すならば、彼を全体としてしっかり持つ者たちはいかばかりでしょうか。信仰をもって(パンに)近づくことは、前に置かれているもの(パン)をつかむことだけではなく、清い心をもって触れること、そしてキリストご自身に近づく状態にあることでもあるのです。もしあなたが声を聞くことができないとしても、それが何だというのでしょう。置かれているものを見ればいいのです。(そうすれば)むしろ声もまた聞くことができるでしょう。なぜなら、彼は福音書記者を通して叫んでいるのですから。
*1 philosophosは、G. W. H. Lampe (ed.), A Patristic Greek Lexicon, Oxford 1961-68によると、形容詞として1. loving wisdom, 2. wise, 3. Christian, 4. virtuous, 5. contemplative, 6.solitary, 7. monasticという意味がある。ここでは1の意味を取った。
*2 「彼の体」とは、聖餐におけるパンのこと。
*3 emphoreoについて、Lampeはp.458の2.b.でまさにこの個所を挙げて、"grace through union with God"の 意としている。少々訳しすぎのように思われるので、私訳では受動で「満たされる」とした。
2011年5月17日火曜日
『京都ユダヤ思想』創刊準備号(2010年)
京都ユダヤ思想学会の学会誌、『京都ユダヤ思想』創刊準備号(2010年)について、情報がまったくないようなので、以下に目次を挙げておきます。お問い合わせは、学会事務局までどうぞ。
『京都ユダヤ思想』創刊準備号(2010年10月29日発行)
「京都ユダヤ思想学会」発足のご挨拶……1-3
第一回学術大会講演
勝村弘也「レオ・ベックと有賀鐵太郎:京都におけるユダヤ学の黎明」……4-39
研究報告
阿部望 「聖書ヘブライ語動詞חָרַדの意味成分分析と中世ユダヤ教注解」……40-61
伊藤玄吾「フランスの初期人文主義者たちとユダヤ研究:ギリシア語研究とヘブライ語研究の“危険な関係”」……62-69
堀川敏寛「ブーバーがシオニズム思想の中で目指したもの:ヘルツルとの比較を通して」……70-79
その他
赤尾光春 コラム「前提を疑うこと:小話に見るユダヤ精神(イディッシュカイト)」……80-84
手島勲矢「査読者指名制度について」……85-90
京都ユダヤ思想学会活動の記録……91-94
『京都ユダヤ思想』創刊準備号(2010年10月29日発行)
「京都ユダヤ思想学会」発足のご挨拶……1-3
第一回学術大会講演
勝村弘也「レオ・ベックと有賀鐵太郎:京都におけるユダヤ学の黎明」……4-39
研究報告
阿部望 「聖書ヘブライ語動詞חָרַדの意味成分分析と中世ユダヤ教注解」……40-61
伊藤玄吾「フランスの初期人文主義者たちとユダヤ研究:ギリシア語研究とヘブライ語研究の“危険な関係”」……62-69
堀川敏寛「ブーバーがシオニズム思想の中で目指したもの:ヘルツルとの比較を通して」……70-79
その他
赤尾光春 コラム「前提を疑うこと:小話に見るユダヤ精神(イディッシュカイト)」……80-84
手島勲矢「査読者指名制度について」……85-90
京都ユダヤ思想学会活動の記録……91-94
クリュソストモス『マタイ講話』50.2 (1)
ブログを開設してみました。このブログでは、自分の勉強についてや、その合間にやっているギリシア語読書会についてメモを残していこうと思っています。
目下の研究対象がラテン教父であるため、ここのところずっとラテン語ばかり読んでいて、ギリシア語の勉強がおろそかになっていたので、ギリシア語読書会を始めました。
テキストは、肩慣らしのつもりで、
R. A. Whitacre, A Patristic Greek Reader, Peabody: Hendrickson, 2007.
というギリシア教父の読本を使うことにしました。本書は、使徒教父からはじまって、ギリシア教父文学の最盛期(ユスティノス、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオス、ナジアンゾスのグレゴリオスなど)を経て、ビザンツ期の新神学者シメオンに至るまで、広範な教父たちを取り上げ、それぞれおいしいところを読んでいくという作りになっています。ギリシア語の単語も初学者向けにかなり親切に意味を載せてくれているので、ストレスなく読むことができます。
読書会では、最初にヨアンネス・クリュソストモス『マタイ講話Homiliae in Matthaeum』50.2-4(pp.167-74)を読むことにしました。ギリシア語原典の底本はPatrologia Graeca 58 , col.507-9です。クリュソストモスについて日本語で読める文献としては、次のようなものがあります。
・武藤慎一『聖書解釈としての詩歌と修辞:シリア教父エフライムとギリシア教父クリュソストモス』、教文館、2004年。
・――「宗教生活から生活宗教へ:4世紀シリア・キリスト教の転換」、『宗教研究』77巻2揖(2003年)、295-316頁。
『マタイ講話』50.2では、マタ8:27と14:32ff.の、イエスが湖の上を歩いたことに関する記事が取り上げられています。前者ではイエスが海を叱りつけて鎮め、それを周囲の人がただ驚いていたのに対し、後者ではイエスは叱りつけることなしに海を鎮め、かつ周囲の人に「神の子」と認められています。クリュソストモスはこれを人々の信仰の深まりのゆえであると説明するのです。近代の聖書学では資料に分けておしまいになってしまうようなこうした類似の記事も、古代教父はひとつながりの物語として読み、矛盾や描写の違いを話の流れに沿って解決しているのがわかります。
50.2 (PG 58, col.507の原文と私訳)
《そして彼らが船に乗ると、そのとき風が止んだ*1》〔マタ14:32〕。これより前では、彼らは次のように言いました。《この人は何て人だ、風も海も彼に従うなんて》〔マタ8:27〕。一方、こちらではそうは言っていません。いわく、《船にいる者たちがやってきて、彼を拝して言った、「本当にあなたは神の子です」》〔マタ14:33〕。あなたは*2、彼(イエス)がいかにして少しずつすべての者たちをより高みへと導いていたかを見ているでしょうか。というのも、海の上を歩くことや、他の者にこうせよと命じることや、また危険な状態にある者を救うことなどから〔14:28-30参照〕*3、信仰はついに大きなものとなっていたのです。先のところ(8:27)では彼は海を叱っていますが、今のところ(14:32)では叱っていません。それどころか、彼は自分の力を大いなるやり方で示したのです。それゆえに、彼らはこう言いさえしました。《本当にあなたは神の子です》。それでどうなったでしょうか。彼はこのことを言った者を叱ったでしょうか。むしろまったく逆に、彼は言われたことを確認し、大いなる権威をもって、近づいてきた者たちを癒したのです。先のときのようではありませんでした。いわく、《そして彼らは渡ってきて、ゲネサレトの地へやってきた。そしてその土地の人々は彼を認めて、その地方全体にふれまわった。彼らは彼のもとに、悪い状態の人々を皆つれてきた。彼らは彼の衣服の端に触れることを嘆願した。触れた者は誰もが癒された》〔マタ14:34-36〕。
〔つづく〕
*1 マタ14:32の引用
この引用は、Nestle-Alandの27版と比べると、かなり言い回しが異なっています。他の引用は原文と近いので、一概に記憶から引用していたとも言えません。しかし写字生が聖書原文に合わせて書き換えるという可能性もあるので、今のところクリュソストモスがどのように引用をしているのかはわかりません。
*2 「あなたは、彼(イエス)がいかにして…」
horaisは、2人称単数なので、この説教がだれか一人に向けて話されたものであることが示されています。実際には聴衆の前でしゃべっていても、あえて「あなた」とひとりひとりに語りかけているのかもしれません。
*3 「他の者にこうせよと命じることや、また危険な状態にある者を救うこと…」
ここでの内容は、明示されていませんが、マタ14:28-30のペトロに関することを述べていると思われます。つまり「他の者」(heteros)とはペトロのことなんですね。
目下の研究対象がラテン教父であるため、ここのところずっとラテン語ばかり読んでいて、ギリシア語の勉強がおろそかになっていたので、ギリシア語読書会を始めました。
テキストは、肩慣らしのつもりで、
R. A. Whitacre, A Patristic Greek Reader, Peabody: Hendrickson, 2007.
A Patristic Greek Reader Rodney A. Whitacre Hendrickson Publishers 2007-09 売り上げランキング : 211207 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
というギリシア教父の読本を使うことにしました。本書は、使徒教父からはじまって、ギリシア教父文学の最盛期(ユスティノス、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオス、ナジアンゾスのグレゴリオスなど)を経て、ビザンツ期の新神学者シメオンに至るまで、広範な教父たちを取り上げ、それぞれおいしいところを読んでいくという作りになっています。ギリシア語の単語も初学者向けにかなり親切に意味を載せてくれているので、ストレスなく読むことができます。
読書会では、最初にヨアンネス・クリュソストモス『マタイ講話Homiliae in Matthaeum』50.2-4(pp.167-74)を読むことにしました。ギリシア語原典の底本はPatrologia Graeca 58 , col.507-9です。クリュソストモスについて日本語で読める文献としては、次のようなものがあります。
・武藤慎一『聖書解釈としての詩歌と修辞:シリア教父エフライムとギリシア教父クリュソストモス』、教文館、2004年。
・――「宗教生活から生活宗教へ:4世紀シリア・キリスト教の転換」、『宗教研究』77巻2揖(2003年)、295-316頁。
『マタイ講話』50.2では、マタ8:27と14:32ff.の、イエスが湖の上を歩いたことに関する記事が取り上げられています。前者ではイエスが海を叱りつけて鎮め、それを周囲の人がただ驚いていたのに対し、後者ではイエスは叱りつけることなしに海を鎮め、かつ周囲の人に「神の子」と認められています。クリュソストモスはこれを人々の信仰の深まりのゆえであると説明するのです。近代の聖書学では資料に分けておしまいになってしまうようなこうした類似の記事も、古代教父はひとつながりの物語として読み、矛盾や描写の違いを話の流れに沿って解決しているのがわかります。
50.2 (PG 58, col.507の原文と私訳)
《そして彼らが船に乗ると、そのとき風が止んだ*1》〔マタ14:32〕。これより前では、彼らは次のように言いました。《この人は何て人だ、風も海も彼に従うなんて》〔マタ8:27〕。一方、こちらではそうは言っていません。いわく、《船にいる者たちがやってきて、彼を拝して言った、「本当にあなたは神の子です」》〔マタ14:33〕。あなたは*2、彼(イエス)がいかにして少しずつすべての者たちをより高みへと導いていたかを見ているでしょうか。というのも、海の上を歩くことや、他の者にこうせよと命じることや、また危険な状態にある者を救うことなどから〔14:28-30参照〕*3、信仰はついに大きなものとなっていたのです。先のところ(8:27)では彼は海を叱っていますが、今のところ(14:32)では叱っていません。それどころか、彼は自分の力を大いなるやり方で示したのです。それゆえに、彼らはこう言いさえしました。《本当にあなたは神の子です》。それでどうなったでしょうか。彼はこのことを言った者を叱ったでしょうか。むしろまったく逆に、彼は言われたことを確認し、大いなる権威をもって、近づいてきた者たちを癒したのです。先のときのようではありませんでした。いわく、《そして彼らは渡ってきて、ゲネサレトの地へやってきた。そしてその土地の人々は彼を認めて、その地方全体にふれまわった。彼らは彼のもとに、悪い状態の人々を皆つれてきた。彼らは彼の衣服の端に触れることを嘆願した。触れた者は誰もが癒された》〔マタ14:34-36〕。
〔つづく〕
*1 マタ14:32の引用
この引用は、Nestle-Alandの27版と比べると、かなり言い回しが異なっています。他の引用は原文と近いので、一概に記憶から引用していたとも言えません。しかし写字生が聖書原文に合わせて書き換えるという可能性もあるので、今のところクリュソストモスがどのように引用をしているのかはわかりません。
*2 「あなたは、彼(イエス)がいかにして…」
horaisは、2人称単数なので、この説教がだれか一人に向けて話されたものであることが示されています。実際には聴衆の前でしゃべっていても、あえて「あなた」とひとりひとりに語りかけているのかもしれません。
*3 「他の者にこうせよと命じることや、また危険な状態にある者を救うこと…」
ここでの内容は、明示されていませんが、マタ14:28-30のペトロに関することを述べていると思われます。つまり「他の者」(heteros)とはペトロのことなんですね。
聖書解釈としての詩歌と修辞―シリア教父エフライムとギリシア教父クリュソストモス 武藤 慎一 教文館 2004-02 by G-Tools |
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