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2016年12月10日土曜日

カリマコスとその弟子たち Pfeiffer, "Callimachus and the Generation of His Pupils"

  • Rudolf Pfeiffer, "Callimachus and the Generation of His Pupils," in History of Classical Scholarship: From the Beginnings to the End of the Hellenistic Age (Oxford: Clarendon Press, 1968), pp. 123-51.
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Rudolph Pfeiffer

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アレクサンドリア文献学の歴史において、ゼノドトスに匹敵するのはビザンティウムのアリストファネスしかいない。彼らに次ぐ存在が、カリマコスとエラトステネスである。カリマコスは、アレクサンドリア図書館の図書館員ではなかったが、創造的な詩人と思慮深い学者とが統合された人物であった。キュレネからアレクサンドリアに移り、プトレマイオス二世の宮廷に仕えた。彼は、自分が語ることは、それが詩歌であっても真実であると主張した。また長大な伝統的な詩を批判し、短く清新な詩こそを高く評価した。彼の学識は詩の中に隠れているので、詩を検証しなければならない。

アレクサンドリア図書館のパピルスは、東方の図書館の慣例に従った収蔵方法が採られていた。作品の題名と行数が巻物の最後に書かれていた。カリマコスはこれらの巻物を分類した、120巻にも渡るカタログを作成したのだった。カリマコスの編纂によるこの『ピナケス』においては、詩歌と散文は分けられ、それぞれお題名と冒頭の一行が記されていた。また著者はアルファベット順に並べられ、わずかながらも伝記が付されていた。この一般的な『ピナケス』に加えて、時系列に特化したカタログと、語彙に特化したカタログも別に作成された。何千巻もの巻物を読者の便宜を図りながら収蔵するためには、きちんとしたカタログが必要不可欠だったのである。ビザンティウムのアリストファネスは、のちに『ピナケス』の増補版を作成している。

学者としてのカリマコス自身の著作ジャンルは三つある:古代誌、言語、そして文学批評である。カリマコスは非ギリシア人の生活に関する好奇心にあふれた古代誌を書いているが、あまり科学的なものではなかった(アレクサンドリア学術が科学性を増すのはエラトステネスからである)。言語に関する著作では、魚の名前の語彙集を作成しているが、それを彼の先行者たちのように哲学的な議論のたたき台とすることなく、純粋に文学的に吟味している。文学批評としては、逍遥学派のプラクシファネスの著作を批判した。

詩人としてのカリマコスは、反アリストテレス的な傾向を持っていた。アリストテレスは、ホメロスの詩の統一性、完全性、偉大さを称揚した。カリマコスはホメロスの偉大さを認めるにやぶさかではなかったが、師の文化を再生させるにはそれでは難しいと感じていた。そこでカリマコスは詩の統一性や完全性を求めるのではなく、「薄さ/軽さ(λεπτόν)」こそを重要視した。この用語は、エウリピデスやアイスキュロスの時代には否定的な意味合いしかなかったが、カリマコスはその価値を転倒させたのである。他にも、「頭でっかち(πολυμαθής)」という語についても、かつては真に賢いわけではないという意味だったのを反転させて肯定した。

カリマコスはアレクサンドリア図書館に雇われたときには、詩歌から散文へと方向転換していたが、かといって文学作品の注解書は残していない。彼のホメロス理解は、むしろそれ以前に書いた詩歌の中に残されている。彼の詩の中で引用されているホメロス作品を見ると、彼がホメロスの旧版を読みつつも、一方で明らかにゼノドトスの校訂版を知っていたことが分かる。

カリマコスの弟子としては、ロードスのアポロニオスが挙げられる。『アルゴナウティカ』を書いた彼は、ゼノドトスの後継者として図書館長にもなった。図書館長の伝統として、彼はプトレマイオス三世の家庭教師も務めた。ただし、アポロニオスはカリマコスからは冷遇されたようで、『アルゴナウティカ』を最初に発表したとき、師からその作品を酷評されたために、アレクサンドリアを離れてロードスへと移った。おそらくロードスへと移ってから、彼は『アルゴナウティカ』の第二版を作成した。

アポロニオスの詩歌への態度は、その師であるカリマコスと比べて、より伝統的なものだった。彼の詩は統一性や完全性を目指すものだったのである。その意味で、アポロニオスの詩はアリストテレスの基準にこそかなうものだったが、カリマコスのそれには反するものだった。彼は『アルゴナウティカ』の他にも、地方の英雄をヘシオドスのスタイルで書いた詩や、アルキロコス(カリマコスが嫌っていた)に関する研究所をも著した。彼は特に、詩人たちの生涯や時系列、そしてその詩の主題に関心があった。ホメロスの注解者としては、『ゼノドトス駁論』において、ゼノドトス校訂版を吟味しつつ、さまざまな文学的な問題を扱っている。ゼノドトスの校訂版ではなく、ティモンがアラトスに勧めたような旧版を参照していたことからも、アポロニオスの保守性が見て取れる。

カリマコスの他の弟子としては、クレタ人リアノスがいるが、彼はアポロニオスに比べてその師の傾向をよりよく引き継いだ。

2016年12月9日金曜日

ゼノドトスと同時代の学者たち Pfeiffer, "Zenodotus and his Contemporaries"

  • Rudolf Pfeiffer, "Zenodotus and His Contemporaries," in History of Classical Scholarship: From the Beginnings to the End of the Hellenistic Age (Oxford: Clarendon Press, 1968), pp. 105-22.
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アレクサンドリア図書館の最初の図書館員であるエフェソスのゼノドトスの仕事は、常に先駆者としての宿命から逃れられないものだった。彼よりあとの者と同じ基準で彼の仕事を評価することは、公平ではない。ゼノドトスは、ホメロスや他の叙事詩の最初の「校訂者(διορθωτής)」として、テクストを校訂・改訂した。そのプロセスは、収集されたテクストを順に並べ、整理し、分類し、カタログ化し、写本を比較し、テクストを改訂するというものであった。彼のホメロスに関する仕事は、おそらくプトレマイオス二世(前288-前247年)の治世において完成されたと考えられている。

ゼノドトスは、叙事詩や抒情詩の新しいテクストや語彙集を出版したことが知られているが、注解書や研究書を出版することはなかった。それゆえに、古代における彼の後継者たちも、現代の研究者たちも、彼が校訂した際の意図を知ることはできなかった。とはいえ、彼の直接の弟子たちの著作の中には、ゼノドトスが口頭で教授した内容が含まれていると考えられている。

ゼノドトスはさまざまな都市から送られたたくさんの写本を吟味したわけだが、著者によると、彼は最も優れた写本を選び出し、それを中心に校訂した可能性があるという。そして、他の写本の読みの中により優れたものがあればそれを採用したり、また自身の見解に従って読みを修正したりしたのだという。こうした修正作業のことを「校訂(Διόρθωσις)」と呼ぶわけである。

ゼノドトスの校訂について、その恣意性が古代においても批判されることがあったが、著者は具体的な例を用いて、ゼノドトスの校訂法が必ずしも非難されるべきものではないことを示した。ゼノドトスの発明品である「オベロス記号」は、単に便利な道具というだけではない。これは、読者や他の学者が校訂者の判断を評価することができるようにさせる偉大な発明だったのである。ゼノドトスは、真正性を疑っている箇所を隠してしまうのではなく、欄外にオベロス記号を付すことで、それを文脈の中に残したのである。そのようにして、彼は自らの見解を示し、読者がそれをチェックできるようにした。

イオニアのアルファベット24文字にちなんで、ホメロスの作品を24書に分けるというやり方も、ゼノドトスに帰されてきた(Lachmann)。後代の文書の中では、これをアリスタルコスに帰すものもある。しかし、『オデュッセイア』の最古のパピルスは、こうした分け方が3世紀の始め、すなわちゼノドトス以前にすでに存在したことを示している。ゼノドトスはヘシオドスやピンダロスの最初の校訂本を作成したとも考えられている。他のも可能性としては、アナクレオンの最初の校訂本も、彼の仕事だといえる。

ゼノドトスの同時代の学者たちとしては、アイトリアのアレクサンデルとカルキスのリュコフロンがいる。詩人としてのアレクサンデルは叙事詩、抒情詩、風刺詩などをものしたが、学者としての彼は悲劇やサテュロス劇を専門的に研究した。カルキスのリュコフロンは、詩人としては悲劇詩人であったが、学者としては喜劇を専門とした。リュコフロンは喜劇に出てくる頻出語などを収めた語彙集を作成した。アレクサンデルやリュコフロンは、エラトステネスのような後代の学者たちによって批判されているが、ゼノドトスの場合と同様に、これは先駆者として割り引いて考えるべきである。

他の同時代には、ソロイのアラトスが挙げられる。ストア派哲学を学んだアラトスは、『パイノメナ』で知られる学者詩人である。『パイノメナ』においては、科学的な主題が、ストア派的な哲学的・宗教的感情と共に、ヘシオドスのスタイルで扱われている。カリマコスは、アラトスのスタイルを「繊細(λεπτόν)」と呼んだ。彼は『パイノメナ』によって詩の再生を図ると共に、過去の傑作の保存にも努めた。

2016年12月7日水曜日

アレクサンドリア学芸の黎明 Pfeiffer, "The Rise of Scholarship in Alexandria"

  • Rudolf Pfeiffer, "The Rise of Scholarship in Alexandria," in History of Classical Scholarship: From the Beginnings to the End of the Hellenistic Age (Oxford: Clarendon Press, 1968), pp. 87-104.
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紀元前4世紀にギリシアで起きた政治的・社会的な変化により秩序は失われ、不安定な現在に生きる人々は、偉大な過去に憧れるようになった。それは詩に携わる人々も同じであった。新時代の作家たちは、特にイオニアの詩人たちを振り返ることによって、自分たちの新しい詩的テクニックを作り出そうとした。これは、第一に、詩の再生と未来のために必要なことであり、第二に、過去の達成に対する責務であった。

前4世紀のコス島のフィリタスがこうした新しい世代の嚆矢である。彼は、ストラボンによると、詩人であり学者でもあったという。詩人としてのフィリタスは、哀歌、短い叙事詩、そして風刺詩などを残している。彼は、短いスペースの中で美的な完成を目指した新しい詩人たちの最初であると目された。また彼は、ヘルメシアナクスが作成した、オルフェウス以降の目立った初期詩人のリストにおいて、唯一名前が挙げられている古典期後の詩人である。

学者としてのフィリタスは、言葉の選択のために必要な単語帳を作成した。この単語帳の作成は、過去の偉大な詩人の作品を深く理解するためにも役立った。フィリタスによる、珍しい表現、専門用語、ホメロス用語の集成は、ギリシアですぐに有名になった。フィリタスは、プトレマイオス一世による下命を受けて、その息子のプトレマイオス二世の家庭教師となった。フィリタスの弟子であるエフェソスのゼノドトスもまた彼の家庭教師として仕えた。

フィリタスのような学者詩人の伝統は、コロフォンのアンティマコスに受け継がれた。彼は、初期ヘレニズム文学とその後のヘレニズム文学とのリンクのような存在だった。とはいえ、後代のカリマコスなどは、アンティマコスの詩はあまりエレガントでないと評価した。アンティマコスはむしろ、ヘレニズム期以前の唯一のホメロス校訂者であった。むろん、彼の仕事は校訂というほど精度の高いものではなく、やはり最初の校訂者はゼノドトスと言うべきだが。

フィリタスも、アンティマコスも、のちのカリマコスも、皆非アリストテレス的な背景を持つ学者たちだったが、彼らの住むアレクサンドリアに、たとえばテオフラストスの弟子であるファレロンのデメトリオスを通して、アリストテレス的な思想が入ってくることによって、学問の第二ステージが始まったのであった。

プトレマイオス一世が作ったアレクサンドリアの博物館は、シュノドスとも呼ばれており、王によって任命された祭司が統括する宗教的な組織であった。この博物館は、逍遥学派によってギリシアからエジプトに写されたアテーナイの出店のような施設ではない。事実、博物館員には哲学者はおらず、むしろ文献学者や科学者が統括していた。彼らには食事と高給が保証され、税金を支払う必要も講義を行なう必要もなく、自由に研究することができた。彼らは、象牙の塔ならぬ、素晴らしい鳥かごの中で俗世から切り離されて生活していた。

博物館の中にあるいくつも施設の中で、図書館は特筆すべきものだった。エウセビオスによって引用されたエイレナイオスは、この図書館の創設者がプトレマイオス一世だったと証言している。図書館長のファレロンのデメトリオスは、アテーナイとアレクサンドリアとをつなぐ人物だった。図書館長としてのデメトリオスについては、『アリステアスの手紙』と、ツェツェス『アリストファネスへの序言』とにおいて証言されている。前者においては、ヘブライ語聖書の五書がギリシア語に訳されたことが語られているが、後者ではそれは省かれている。他にも、時系列、二つ目の図書館の存在、所蔵する本の数など、両者には齟齬が見られる。

前3世紀は本の世紀であった。人々は、かつての優れた文学を収集・改訂し、保存に努めた。現存する最古のパピルスがこの時代のものであることは、当然のことと言える。このようにして、学術が生まれ、発展していったのである。アレクサンドリア図書館は公に開かれていたので、この学術には多くの人間が参加することができたのだった。

関連記事

2016年12月4日日曜日

教父と旧約聖書 Horbury, "Old Testament Interpretation in the Writing of the Church Fathers"

  • William Horbury, "Old Testament Interpretation in the Writing of the Church Fathers," in Mikra: Texts, Translation, Reading and Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism and Early Christianity, ed. Martin Jan Mulder and Harry Sysling (Compendia Rerum Iudaicarum ad Novum Testamentum; Philadelphia: Fortress, 1988), pp. 727-87.
Mikra: Text, Translation, Reading, & Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism & Early ChristianityMikra: Text, Translation, Reading, & Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism & Early Christianity
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教父の時代の通して、ユダヤ人から受け継いだ聖書は、キリスト者にとっての主要文書であり続けた。霊と物質との強いコントラストを強調する同時代の哲学は、物質的な響きをする旧約聖書は批判の的になっていた。そうした観点から、グノーシス主義者や特にマルキオンは旧約聖書を否定し、その影響はマニ教にも及んだ。一方で、旧約聖書は異教徒をシナゴーグに引き寄せるほどに魅力的なものとしても捉えられていた。論文著者は、教父が旧約聖書を解釈した舞台として、説教、注解、要理教育、護教論、教会法、典礼、詩歌、美術を挙げている。

説教はもともとシナゴーグにおける文化だったが、教会もそれを採用した。説教には、内部向けも外部向けもあった。初期の説教はあまり新約を扱わず、むしろ旧約を扱った。説教の主題は、論争的、教義的、祈り的、倫理的、そして霊的なものだった。説教の名手としては、オリゲネス、アウグスティヌス、クリュソストモス、バシレイオス、ニュッサのグレゴリオス、グレゴリウス1世、アンブロシウスなどがいる。

注解において、ギリシア語で旧約聖書を扱ったものは、フィロンなど少数を除いて、皆キリスト者によるものであった。アレクサンドリア学派とアンティオキア学派とは、単純に言えば、それぞれ寓意的解釈の擁護者と批判者と言うことができる。シリア教父は、広義のアンティオキア学派に属する。個人の注解は4世紀に興隆したが、5世紀になると、さまざまな著者の抜粋を集めたカテーナが作られた。レンマを引用するなど注解に特徴的な点もあるが、説教と区別しすぎるべきではない。

要理教育(カテキズム)とは、信仰と倫理に関する教育のことである。これは、通常の説教において、またキリスト教教育の場において、特に洗礼前の候補者に対して行なわれた。第一に、創造神話から聖書が語りなおされ、第二に、聖書の証言の解説がなされる。

護教論において、キリスト者は最初フィロンの『ヒュポテティカ』やヨセフス『アピオーンへの反論』をモデルにしたが、その相手はユダヤ人であった。ユダヤ人に対しては、イエスがメシアであること、儀式的な律法は廃されたこと、異邦人の教会がイスラエルに取って代わったことを証明しようとした。異教徒に対しては、第一に、ヨセフスがしたように聖書の古代性を強調し、第二に、預言の正しさを主張し、そして第三に、モーセを哲学者たちに匹敵する者として描いた。

教会法においては、レビ記における祭司の決まりを取り入れたテルトゥリアヌスやアンモニオスのようなケースの他にも、再婚、祭司と信徒との結婚、信徒の維持、高利貸し、そして占いなど、旧約聖書に実際に書かれていないこともまた法規として取り入れられた。

典礼においては、3つないし2つのレッスンが語られるようになったが、前者の場合2つが旧約に関するものであり、後者の場合1つがそうであった。ただし、こうしたレッスンは聴衆が親しんでいる旧約物語に関するものであることが前提条件だったので、西方教会においてヒエロニュムスがヨナ書中の植物をヒョウタンからツタに変えるようなことは、聴衆には受け入れられなかった。

詩歌は、キリスト教においては、ヘブライ詩とギリシア詩の伝統の中で発展した。2世紀の『シビュラの託宣』のように六脚韻で書かれたものもある。内容的には、ヘブライ詩同様に教訓的なものが多かった。代表的な詩人としては、ギリシア世界ではメトディオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、シュネシオス、シリア世界ではエフレム(同時代のピユートとの関係にも注目される)、ラテン世界ではアンブロシウス、プルデンティウス、ノラのパウリヌスがいる。

芸術としては、カタコンベ、壁画、写本などがある。それらは、一つの描写が旧新約における複数の場面を表わしたり、旧約の場面が新約の場面と共に表現されたり、また旧新約の場面が予型として表現されたりする。

旧約聖書と新約聖書との関係においては、旧約の否定や、旧新約との調和など、さまざまな折衷案が試された。旧約を否定したのはマルキオンである。彼は、旧約聖書の非一貫性に基づき、キリスト者をユダヤ人の上に置いたのだった。ただし、それでもユダヤ人は異教徒よりは上に置いた。同様に、プトレマイオスや偽クレメンスは律法には誤りが含まれていると主張した。

エイレナイオスは、キリスト教の法に繋がる十戒と、モーセの律法とを区別することで、旧新約との調和をも目指した。テルトゥリアヌスもまた、十戒における倫理的な法と、モーセによる一時的な儀式的な法とを区別した。オリゲネス、アンブロシウス、アレクサンドリアのキュリロスなど、多くの教父たちも、旧新約の調和を目指した。

教父たちの聖書解釈の背景は三つあり、第一に、聖書テクストの独特の特徴、第二に、アリストテレス論理学、そして第三に、キリスト教以前の予型論と寓意的解釈である。アレクサンドリアのクレメンスは、「モーセの哲学」を、倫理学、自然学、形而上学の三分野に分けた。オリゲネスは、聖書には肉体(歴史)、魂(倫理)、そして霊(神秘)の三重の意味があると主張した。その後、聖書解釈はさまざまに変遷を遂げたが、クレメンスとオリゲネスによる字義的意味と霊的意味との二分法こそが最も大きな影響を与えた。

予型論寓意的解釈との違いは、前者が旧約の歴史的な舞台を深刻に捉えるのに対し、後者が聖書における無時間的な真理を引き出すことである。とはいえ、教父たちは両者を繰り返し混同してはいる。予型論とは、原型の意味における「予型」に由来しており、預言とその成就と近しい関係にある。教父たちの予型論は、要理教育、護教論、礼拝、そして芸術にも見られる。

寓意は、旧約聖書と古典文学に根差している。特にストア派によるホメロスの哲学的解釈からは強い影響を受けている。フィロンとヨセフスを通して受け継いだ寓意的解釈という方法を、教父たちは自身の関心に従って、聖書的律法や物語に当てはめた。ただし、それぞれが自身の関心に従うために、同じ箇所に基づいてまるで真逆のことを示すこともある。またこうした寓意の説教的かつ倫理的な用い方は、フィロンのようなアレクサンドリアの伝統のみならず、ラビ・ユダヤ教のミドラッシュとも近しいものである。

字義的解釈は、予型論や寓意的解釈が猛威を振るう中でも、常に重要なものとしてあった。千年王国説を主張するネポスや、歴史性を問題にするアフリカノスや、寓意的解釈に批判的なポルフュリオスは、字義的解釈を重視した。寓意的解釈の代表者であるオリゲネスは、霊的解釈であるテオーリアを奉じるアンティオキア学派――エメサのエウセビオス、ラオディキアのアポリナリオス、ヨアンネス・クリュソストモス、モプスエスティアのテオドロス、テオドレトスら――によって批判された。また字義的解釈は、とりもなおさずユダヤ的解釈のことと見なされた。

ヘブライ語テクストとユダヤの聖書解釈。ヒエロニュムス、オリゲネス、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオスなどは、しばしば「ヘブライ人が次のように言った」という決まり文句で、ユダヤの聖書解釈を紹介している。ヒエロニュムス以外は、必ずしもヘブライ語を知らなかったが、ユダヤ人教師とはギリシア語で会話したものと思われる。ただし、教父たちがユダヤの聖書解釈を引用するのは、必ずしも肯定的な意図ではなく、否定するためにすることもあった。教父たちは、シナゴーグにおいてや家庭教師としてのラビから直接聞いたのかもしれないし、フィロンやヨセフスのような前段階の伝承を知っていたのかもしれない。ユダヤ・キリスト者の同胞から聞いたとも考えられる。

代表的な教父の歴史は、以下のように分類される。

ニカイア公会議(325年)以前の教父:『クレメンスの第一の手紙』、ローマのクレメンス、『バルナバの手紙』、ユスティノス、サルディスのメリトー、エイレナイオス、テルトゥリアヌス、マルキオン、キュプリアヌス、ヒッポリュトス、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネス、カイサリアのエウセビオス

アレクサンドリア学派:アタナシオス、盲目のディデュモス、アレクサンドリアのキュリロス

アンティオキア学派:エメサのエウセビオス、ラオディキアのアポリナリオス、タルソスのディオドロス、モプスエスティアのテオドロス、キュロスのテオドレトス

シリア教父:アフラハト、エフレム

カッパドキア教父:カイサリアのバシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス

ラテン教父:ポワティエのヒラリウス、アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アンブロシウス、アウグスティヌス

5-6世紀の教父:エルサレムのヘシュキオス、ガザのプロコピオス、カッシオドルス、グレゴリオス一世