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2015年2月26日木曜日

ラビ聖書の歴史 Barry Levy, "Rabbinic Bibles, Mikra'ot Gedolot, and Other Great Books"


本論文は、ユダヤ教のラビ聖書の成立と発展について概観したものである。まず、著者は「ラビ聖書(Rabbinic Bibles)」と「大聖書(Mikra'ot Gedolot)」とについて、それぞれの本来的な意味を説明する。前者が全聖書文書とその注解を意味するのに対し、後者は聖書の全文書あるいは部分を文字どおり大きな版(フォリオ)で作成したものを意味する。つまりここでの「ガドール(大きい)」とはサイズの問題である。これに加えて、より小さいサイズで五書とその注解のみで構成されるものとして、「ラビ五書(Rabbinic Pentateuchs)」がある。ラビ五書はラビ聖書より以前から親しまれていた。しかし19世紀になると、小さなサイズのラビ聖書でも大聖書と呼ばれるようになった。ここにおいて、「ガドール」は「偉大な」の意味に変わり、現在に至る。

最初のラビ聖書は1517年に出版され、続いて1524年に第二のラビ聖書が新たに出版された。ラビ聖書は、その読者がどのようにして聖書の適切な学びをしていたかを教えてくれる。ラビ聖書には同じ注解がいつも収録されるわけではないが、初期のラビ聖書(1517-1619)によく採用されたのは、ラシ、イブン・エズラ、ラダック、ラルバグらの注解であった(イブン・エズラは最初のラビ聖書には入らなかった)。中世以降の版で採用されたものとしては、アブラハム・ファリッソルのヨブ記注解とダヴィッド・イブン・ヤフヤの箴言注解があるが、定番にはならなかった。こうしたことから、ラビ聖書の特徴としては、中世初期の聖書注解が中心となっていることが挙げられる。さらにこれらの注解者たちは二つの特徴がある。第一に、方法論はさまざまだが、トーラーのみならず全聖書文書に対して関心を向けること、第二に、聖書注解者であるのみならずタルムード注解者でもあることである。第二の点に関して、ラダック、ラルバグ、ヴィルナのガオンなどはタルムード注解者であるが、ヨナ・イブン・ジャナハやイブン・エズラはそうではなかったため、後者は規範的なラビ的解釈ではないと考えられることもあった。

1517年にフェリクス・プラテンシスによって編集された最初のラビ聖書は、母音記号と詠唱記号のついた聖書本文、タルグム・オンケロス(五書)、タルグム・ヨナタン(預言書)、ラシ注解(五書とメギロット)、ラダック注解(預言書と詩篇)、ラルバグ注解(ダニエル)、ナフマニデス(ヨブ記)などが収録されていた。1524年にヤコブ・ベン・ハイムによって編集された二番目のラビ聖書は、完全なマソラーとイブン・エズラ注解を含み、以降のラビ聖書のモデルとなった。両者の最も大きな違いは、1524年版においては、すべての聖書文書に対して複数の注解が参照できるようになった点であり、それによって読者は多角的な聖書の読み方をできるようになった。印刷技術の向上によって、より多くの情報をひとつの頁に詰め込めるようになっていった。特に、1724年にアムステルダムで出版された『ケヒロット・モシェ』は八つの注解をも収録できた。

ラビ五書はラビ聖書よりも手軽であり、ラビ聖書を作成するときのモデルともなった。三種のタルグム(オンケロス、偽ヨナタン、フラグメント)、ハフタロット(週ごとの預言書箇所)、613の戒律、礼拝テクスト、タルグムや中世聖書解釈へのスーパー・コメンタリーの付加などは、最初にラビ五書に施された。1858年にウィーンで出版されたラビ五書は、のちに定番となる1907年にヴィルナで出版されたラビ五書のモデルとなった。これらのラビ五書は、ラビ聖書よりはるかに多くの注解を収録している。のちには、ヴィルナ版ラビ五書(1907年)とワルシャワ版ラビ聖書(1860年)の預言書および諸書部分を合わせたハイブリッド・ラビ聖書も作成された。

ラビ聖書が含まないものとしては、以下のものが挙げられる。ラビ・ユダヤ教以前(ヘレニズム期)の注解(ギリシア語だから)、ゲオニームやカライ派の注解(アラビア語だから)、ミドラッシュ集(ラビ聖書の作成時期がミドラッシュに重きを置かない時期だったから。例外もある)、ユダヤ哲学者の注解(ラダックやラルバグなどの哲学的な注解はある)、カバラー注解(ナフマニデスやイブン・アタルなどのカバラー的注解はある)、ハシディズム注解。

問題がある記述を検閲されたり、読者に望まれなくなったりしたために、排除されてしまう注解もあった。イブン・エズラのイザヤ書注解、ラダックの前預言者注解の序文、ノルツィの五書に関する『ミンハット・シャイ』などである。逆に、ラシュバムの注解は20世紀になって初めてラビ聖書に加えられるようになった。

ラビ聖書の成立にはキリスト教徒の存在も欠かせなかった。しばしばユダヤ人は宗教的な書物を印刷することができなかったので、キリスト教徒の出版人が代わりに教会の許可を得て出版することがあった。ダニエル・ボンベルグは宣教的な目的もあり、多額の金を払って出版許可を得ていた。キリスト教徒たちは、自分たちのためとユダヤ人のためにラビ聖書を含むユダヤ教文書を出版していたのである。ここで考慮に入れるべきは、ラビ聖書に収録された注解の選択におけるキリスト教徒の影響である。ラダックの注解はキリスト教徒の人気が高かったことが知られている。逆にオバディア・スフォルノはキリスト教徒にはあまり人気がなく、初めてラビ聖書に収録されたのは、ユダヤ人のみによって初めて出版された1724年のラビ聖書においてだった。レカナティの神秘主義的注解は、ラテン語訳がよく読まれていたにもかかわらず、収録されなかった。

イスラエルで最初に出版されたラビ聖書は『トーラット・ハイーム』である。これは聖書本文はアレッポ写本および関連の写本に拠り、オンケロス、『セフェル・ハヒヌーフ』、10の注解(サアディア、ラベイヌ・ハナネル、ラシ、ラシュバム、イブン・エズラ、ラダック[創世記]、ナフマニデス、マハラム・トーテンベルク、ヒズクニ、スフォルノ)が収録されている。オンケロスとラシュバム以外は、出版社モサッド・ハラヴ・クックから、それぞれ独立した校訂版も出版されている。『トーラット・ハイーム』はすべての注解を通常のヘブライ文字で印刷した初めてのラビ聖書である。これにより、読者によって便利になり、より読みやすくなった。ただし、多くの注解の序文を省略してしまっているので、最上のラビ聖書とは言えない。またサアディア、マハラム、ラベイヌ・ハナネルは『トーラット・ハイーム』において初めてラビ聖書に収録された。ただし、代わりに『バアル・ハトゥリーム』、『オール・ハハイーム』、『ケリ・ヤカル』、そしてヴィルナのガオンの注解は落とされてしまった。これは収録する注解の上限を16世紀に定め、ラビ聖書の伝統どおり中世を主軸にしたことによる。いうなれば、『トーラット・ハイーム』においては、説教学、普遍性、そして19世紀や20世紀の注解でアップデートするチャンスなどは、中世のプシャット主義の犠牲となったのである。この版が流通することで、説教的、ハシディズム的、ミドラッシュ的な注解が日の目を見なくなってしまった。

ちなみに、本論文が出版された当時には存在しなかった最新のラビ聖書として、バル・イラン大学の『ミクラオット・グドロット・ハケテル』がある。このケテル版はまだ完成されていないが、注解者たちの序文を含む、より完全なラビ聖書を目指している。

2015年2月25日水曜日

考古学的観点から見るクムランの女性 Galor, "Gender and Qumran"

  • Katharine Galor, "Gender and Qumran," in Holistic Qumran: Trans-Disciplinary Research of Qumran and the Dead Sea Scrolls, ed. Jan Gunneweg, Annemie Adriaens and Joris Dik (Studies on the Texts of the Desert of Judah Vol. 87; Leiden: Brill, 2010), pp. 29-38.
Holistic Qumran: Trans-disciplinary Research of Qumran and the Dead Sea Scrolls (Studies on the Texts of the Desert of Judah)Holistic Qumran: Trans-disciplinary Research of Qumran and the Dead Sea Scrolls (Studies on the Texts of the Desert of Judah)
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本論文は、遺跡としてのクムランからの考古学的発見をもとに、クムラン共同体における女性の存在を検証したものである。広く受け入れられている解釈では、クムランの遺跡は洞窟と文書を結びつけた、主として独身の共同体によって使われていたものだという。一方で、近年の研究によって提唱されている別の解釈では、遺跡と住人の特徴はよりひろい地域の文化や人口を映しているという。著者は、第一の解釈が長く優勢だったのは、考古学におけるジェンダー研究が立ち遅れていたからだと主張する。またクムラン研究におけるテクスト偏重の傾向もそれに拍車をかけた。

著者は、クムラン遺跡から発見された装身具、櫛(これはクムラン遺跡からではなくワディ・ムラバットから)、ヘアネット、チュニック、布地、紡錘車、そして香水や油の壺などを、他の遺跡で発見されたものと比較することで、それらが他の遺跡同様、女性によって用いられていたことを示す。ローマ人のチュニックは一枚織りであったが、ユダヤ人のチュニックは二部分に分かれており、肩のところで縫い合わせられ、首元が広く開いていた。そして特にガンマの形をした模様があるチュニックは、女性によって織られていた。香水の中でもバルサムは男性によっても使われていたことが知られているが、新約聖書やタルムードでは香水は主として女性のものとされている。

こうしたことから、クムランの遺跡は他の地域の遺跡と比べて特別に変わったことはなく、それは女性の存在に関しても同様であると著者は結論付ける。

2015年2月23日月曜日

死海文書への社会科学的アプローチ Jokiranta, "Social-Scientific Approaches to the Dead Sea Scrolls"

  • Jutta Jokiranta, "Social-Scientific Approaches to the Dead Sea Scrolls," in Rediscovering the Dead Sea Scrolls: An Assessment of Old and New Approaches and Methods, ed. Mexine L. Grossman (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2010), pp. 246-63.
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本論文は、死海文書研究において、社会科学的アプローチがどのような貢献をすることができるかを示したものである。著者は、まずさまざな研究者たちによる「セクト」の定義を紹介する。Bryan Wilsonは、セクトの特徴として、「より広い世界に対する抵抗・逸脱・緊張」を挙げる。A. Baumgartenは、セクトの外側から(etic)の定義と内側からの(emic)定義とを定めた。いわく、外側からの定義では、セクトとは「自分のグループと、そのままであれば自然と同じグループと見なされたであろうグループとを分けるような境界を持った、自発的に集まった集団」であり、内側からの定義では、ヨセフスがパリサイ派とサドカイ派とを分けるために用いた「ハイレーセイス」がそれに当たるという。またセクトとは相対的なものでもある。著者は、セクトとはその自身でセクトになれるわけではなく、必ず何か他のものとの関係の中でセクトになると述べる。そしてStarkとBainbridgeを引きつつ、セクトの特徴を、「相違(difference)」「敵対(antagonism)」「孤立(separation)」に求める。

著者によれば、クムラン共同体を指し示すために用いられた「セクト」という言葉がこうしたさまざまな社会学的背景を否応なく暗示してしまうにもかかわらず、多くのクムラン研究者は無自覚にこの言葉を使っているという。そして、テクストがセクト主義的であるかどうかを、そのテクストがあるタームを含んでいるか否かで決めてしまうことを批判している。なぜなら、特定のタームを含んでいなくてもそのセクトのメンバーによって作成された文書も存在するからである。こうした短絡的な解釈を避けるために、我々はテクスト的・歴史的な研究のみならず、社会科学的な研究をも必要としているのだといえる。

そのときに、著者はセクト主義の社会学ではなく、社会的アイデンティティ・アプローチ(Social Identity Approach)こそが有効だと述べる。前者が人間の行動を社会的環境の一部分として理解しようとする方法であるのに対し、後者は人間の心理のレベルにまで矛先をのばす、社会心理学的なアプローチである。社会的アイデンティティとは、端的に言えば、自分があるグループのメンバーであるという自己理解のことである。この自己理解の力は強く、たとえばまったく知らない人同士でも、同じグループに振り分けられると、簡単に他のグループのことを別物と捉えるようになる。このとき人は自分のことを主体的な個人ではなく、グループのメンバーとして見なすのである。著者はこれを用いて、『詩篇注解』(4QpPsa, 4Q171)を再解釈している。

詩篇37編には、義人と神との関係が描かれているが、そこでの「怒りを解き、憤りを捨てよ」の意味は、「義人は自分の怒りを制御しなければならない」ということではなく、「義人は神の怒りをを避けなければならない」という意味であるという。なぜならば、ここでの悪とは義人との関係性の中での悪であり、すなわち個人的な堕落だけではなく、外的グループの集団的な災難や罰のことを指すからである。

死海文書のカテゴリー分けの方法 Rietz, "Identifying Compositions and Traditions of the Qumran Community"

  • Henry W. Morisada Rietz, "Identifying Compositions and Traditions of the Qumran Community: The Song of the Sabbath Sacrifice as a Test Case," in Qumran Studies: New Approaches, New Questions, Michael Thomas Davis and Brent A. Strawn (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2007), pp. 29-52.
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本論文は、これまでの研究で分かっている死海文書のカテゴリーを分ける基準を『安息日の犠牲の歌』(4Q400-407他、以下『安息日』)に適用することで、その基準が有効か否かを検証するものである。著者は、第一に、共同体で作成された宗派的文書、第二に、共同体で作成されたわけではないがその伝統として機能していた文書を扱った上で、『安息日』に基準を適用している。

共同体で作成された宗派的文書。死海文書の著者性を決定するよすがとして最も便利なのは、テクニカル・タームである。クムラン共同体で実際に作成されたと考えられる、いわゆる「宗派的(sectarian)巻物」には、ヤハッド、セレフ、メバケル、マスキール、パキッド、ブネイ・オール、ブネイ・エメット、ブネイ・ホシェフ、ブネイ・ツェデク、ドルシェイ・ハハラコット、モレー・ハツェデク、ハコーヘン・ハラシャアといった言葉が用いられている。さらに二元論や予定説的な言葉や、聖書解釈におけるペシェルといった言葉も頻出する。D. Dimantによれば、宗派的巻物の特徴は、第一に、アラム語ではなくヘブライ語で書かれていること、第二に、黙示的な文書でないこと、第三に、上のタームを含んでいなくても、ハラハー、暦法、年代、占星術に関係していることであるという。

共同体で作成されたわけではないがその伝統として機能していた文書。ある文書が実際に共同体内部で用いられていたかどうかを見分ける基準として、著者は三点を挙げている。第一に、現存する写本の数、第二に、その写本がクムランで実際に筆写された証拠、そして第三に、クムランで作成された文書の中にその文書の言及、暗示、引用などがあることである。第一の点に関して、写本数として抜きん出ているのは、詩篇、申命記、イザヤ書、創世記、出エジプト記、レビ記、ダニエル書、十二小預言書、民数記などである。興味深いことに、エステル記は読まれていた形跡がない。聖書以外では、『ヨベル書』、『第一エノク書』、『巨人の書』が特筆される。第二の点に関しては、E. Tovによって盛んに研究された写字生の癖が注目される。タームに基づいてクムランで作成された文書と同定された文書には、同一の筆写上の傾向が見られるのである。これによって、共同体で作成されたか否かを見分けることができる。第三の点に関しては、宗派的文書の中で肯定的に引用されている文書は、共同体の中で伝統として機能していたと考えられる。たとえば『ヨベル書』と『第一エノク書』はある主の権威を持っていたと考えられる。

『安息日の犠牲の歌』。著者は上で確認したような基準を用いて、『安息日』がクムラン共同体において伝統として機能しているのみならず、おそらくは共同体内部で作成された文書であることを示している。『安息日』は第四洞窟における7つの写本と、第十一洞窟における一つの写本、そしてマサダで発見された一つの写本が存在するが、どれもTovの方法論によれば、共同体内部で作成されたものと考えられる。またマスキールという語の使用も注目される。さらに『安息日』は、『主人の歌』や『祝福と呪い』といった共同体で作成されたと見なされる文書と語彙を共有しており、なおかつ『共同体の規則』からの引用に近い箇所も見られる。以上より、著者は『安息日』はクムラン共同体の伝統として機能しており、なおかつ共同体内部で作成された文書であると結論付ける。

2015年2月22日日曜日

『会衆の規則』(1QSa)における女性 Grossman, "Women and Men in the Rule of the Congregation"

  • Maxine L. Grossman, "Women and Men in the Rule of Congregation," in Rediscovering the Dead Sea Scrolls: An Assessment of Old and New Approaches and Methods, ed. Mexine L. Grossman (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2010), pp. 229-45.
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本論文は、『会衆の規則』(1QSa)を女性の立場から読むことで、男性中心主義的な観点の再考を促すものである。フィロン、プリニウス、ヨセフスらの記述をもとに、クムラン共同体をエッセネ派の集団と考える初期の研究者たちの中には、共同体を独身主義の集団であると考える者もいた。こうした研究者たちには、中庸な社会的カテゴリーを想定する場合も当然それは男性であり、女性は例外的な存在に過ぎないという男性中心主義的なバイアスがかかっているのである。しかし実際には、独身主義を明確にしている文書はないのであり、フェミニスト的な視点を導入することで、男性中心主義的な視点では見えないことが見えてくると著者は主張する。

『会衆の規則』は、『共同体の規則』(1QS)と異なり、はっきりと女性や子供について言及している文書である。共同体の構成員のことも、『共同体の規則』が「自発的な者たち(ナドゥビーム)」と呼ぶのに対し、『ダマスコ文書』同様「イスラエルの民衆(ハエズラハ・ビイスラエル)」と呼んでいる。本論文の中で特に著者が注目しているのは、1QSa 1:6-16の部分である。それによると、男女が結婚すると、「女性は夫の律法遵守について証言をするために、また裁判の事情聴取のために受け入れられる」とされている。この記述は、他のユダヤ文学には類を見ない、証言者としての女性の役割を示唆している。

この記述について、ある研究者たちは言葉通りにクムラン共同体における女性の役割を想定した。しかしJ. Baumgartenは、三つの理由をもとに、上の記述における主語を女性ではなく男性にして、「男性はトーラーの法に従って証言をするために受け入れられる」と読み替えた。その理由は、第一に、男性のための規則を示している文脈の中で女性が突然主語になるのはおかしいから。第二に、夫の年齢の問題と女性の証言の問題とを結びつける理由がないから。第三に、アテーナイでもローマ法でも、さらにはパウロの教会でも、女性が公の場で証言をすることは許されていなかったから。

しかし、著者はBaumgartenのような読み替えをする必然性はないと主張する。そしてフェミニスト的な批判的な読み方は、これまで資料を解釈してきた基礎的な文化フレームを再考するよすがになるという。男性中心主義的な読み方は、中庸であるふりをしているが、その実、実際の社会状況よりも多くのことを隠してしまうのである。たとえば、第四洞窟で発見された『ダマスコ文書』断片(4Q266-73)をもとに、著者は二つの指摘をしている。第一に、結婚前の女性で姦通の疑いがある者は、信頼の置ける女性監督者によって吟味されるのだという。『ダマスコ文書』(CD)によると、裁判における信頼性の高い証言者は、構成員の中で罰されていないよい状態である必要があるので、まさにこの女性監督者は、共同体の中で役割を持った人物として見なされている。第二に、『会衆の規則』が会衆の中の「父親」にのみ言及しているのに対し、『ダマスコ文書』断片は「父親」と「母親」の両方に言及している。これも、共同体における女性の役割を明らかにしている(ただし、両者のステータスは厳密には同じではない)。いずれにせよ、男性中心主義的な読み方が当初想定していたよりも多くの役割を、共同体の中で女性は担っていたと想定されるのである。

2015年2月21日土曜日

ラシュバムの創造理解 Kamin, "Rashbam's Conception of the Creation"

  • Sarah Kamin, "Rashbam's Conception of the Creation: In Light of the Intellectual Currents of his Time," Scripta Hierosolymitana 31 (1986): 91-132.
本論文は、ラシュバム(ラビ・シュモエル・ベン・メイール、1080-1160)による創世記1章の注解に焦点を当てて、彼の聖書解釈の特徴を明らかにしたものである。彼の主張をまとめると以下のようになる。創世記1章の創造物語は、創造の全過程を明らかにしたものではなく、あくまで部分的に記しているにすぎない。記述の中で最初に実際に創造されたのは、3節の光である。しかし光が創造されたときにはすでに天と地は創造されていたので、天と地の創造は、創世記1章で描かれる六日間の創造の中には入っていないのである。著者はラシュバムの聖書解釈の特徴を、ラシとの比較、同時代のキリスト教聖書解釈との比較、そして同時代のユダヤ教聖書解釈との比較から明らかにしている。

ラシとの比較。ラシュバムは部分的にラシと聖書解釈を共有しており、共に創1:1を後続の節に対する時間的な従属節と捉えている。これは、文法的にベレシートという言葉が「はじめに」という独立した句にはなり得ず、むしろ次の言葉と共に「天と地の創造のはじめに」と取られるべきだからである。といっても、両者の力点の置き所は異なっている。ラシュバムは「天と地の創造のとき〔あと〕に、〔すでに創造されていた〕地は混沌だった」と読むのに対し、ラシは「天と地の創造のはじめに、また地が混沌で闇があるときに、神は光あれと言った」と読む。すなわち、ラシュバムは主節を2節とするのに対し、ラシは3節としているのである。ただしいずれの場合も、創世記の記述の中で最初に創造されたものは3節の光であって、天と地の創造は描かれていないことになる。水の上を漂っていた「風」について、ラシはそれをミドラッシュに依拠して「神の玉座」のことと解釈するが、ラシュバムは単なる「風」とし、その風が上の水と下の水を分けたと説明した。すなわちラシに比して、ラシュバムは我々が現実の世界で見えることのみに限定して創造物語を説明しようとしている。

さらにラシュバムは、創造物語の目的とは創造の過程を示すことではなく、十戒における安息日遵守の掟を示すことだと考えている。すなわちトーラーの本当のはじまり創1:1ではなく、シナイ山におけるモーセへのトーラー授受のときだというのである。ラシュバムによれば、聖書は必ずしもそのときに必要でないことも、あとで別の場所で出てくるときのために先に説明することがあるので、創世記1章も同様の機能を持っている(この原理は北フランスの聖書解釈者たちに共通して知られていたが、それを創造物語に適用したのはラシュバムのみ)。すなわち、安息日遵守こそが創世記の著者としてのモーセの目的ではあるが、実際に出エジプト記でそのことを説明する前に、創世記のはじめにそのアイデアを示しているのである。すると、ここで描かれていることは創造物語のすべてではなく、安息日について説明するために必要なことのみであるといえる。ラシュバムの解釈に、宇宙進化論的(cosmogonical)な説明が欠けているのも、このことゆえにである。

同時代のキリスト教聖書解釈との比較。ラシュバムは聖書解釈におけるプシャット(字義的解釈)とデラッシュ(説教的解釈)との区別、そして両者の価値を共に認めつつも、自身のプシャットへの依拠を明確にしている。実はこうした「並行するいくつかのレベルの意味解釈の中で、字義的解釈の優位性を認める」という姿勢は、当時のキリスト教聖書解釈(サン・ヴィクトール学派、アベラール)の特徴でもあった。彼らは字義的解釈を中心にしつつも、寓意的、倫理的、そして神秘的解釈をも視野に入れていた。また字義的解釈の重視から、両者は共に、モーセ(著者)が創造物語の中で言及しているのは、目に見えるこの世のものについてのみであると考えていた。ただし両者には違いもあって、キリスト教聖書解釈は、字義的解釈と寓意的解釈とが相互に依存しており、前者が後者の素地であると考えるのに対し、ラシュバムは、字義的解釈(プシャット)と非字義的解釈(デラッシュ)とを相互に独立した等価値のものであると考えた。さらに、創造物語が安息日の遵守の説明になっているという理解は、やはりラシュバム独自のものである。いうなれば、キリスト教聖書解釈が現世的な可知的世界と精神的な不可知的な世界とを区別するという哲学的なアプローチを取るのに対し、ラシュバムは理解可能な人間世界と、神秘主義の対象となる神的世界とを区別しているのである。以上より、同時代のキリスト教聖書解釈はラシュバムと共通点も持っているが、それだけではラシュバムの独創性を説明できないといえる。

同時代のユダヤ教聖書解釈との比較。同時代のユダヤ教聖書解釈と比較してラシュバムがぬきんでているのは、彼が創造物語を説明するのに宇宙進化論的あるいは神智学的な説明を一切用いなかったという点である。コヘレト書2:3, 13の注解において、ラシュバムはセフェル・イェツィラーやメルカバー神秘主義といった「深い知恵」と、普通の人間が持っている「常識的な知恵」とを区別しているが、彼は創造物語の解釈に際して後者のみを使うべきと考えているのである。つまり、神秘主義的説明の欠如は意図的なものだったのだ。これは翻って考えると、当時のユダヤ教聖書解釈の多くは、創造物語の説明のために「深い知恵」ばかりを用いてしまっているということでもある。たとえばラシである。ラシュバムもラシも共に、創造物語が創造の順序について教えているわけではないという認識を共有していたが、ラシはミドラッシュに依拠し、宇宙進化論的な理解をもとに創造物語を解釈していた。またラシュバムはベレシートという言葉を「~の創造のあとで」と読むことで、無からの創造の立場を取らなかった。つまり、モーセが創造物語を可知的なことにのみ限定して描いたように、ラシュバムももまた創造以前のことには何の言及もしないようにしたのである。なぜなら、当時の多くのユダヤ教聖書解釈(ラビ・ユダ・ハシッドやシャバタイ・ドノーロ、ベホル・ショル)のように、これを「~の創造の前に」と取ってしまうと、創造の神秘を説明するための宇宙進化論的説明が必要になってしまうからである。たとえばベホル・ショルは創世記の記述を創造の全体像を表しているものと捉え、そこから神学的な原理を論じている。しかしながら、ラシュバムにとって聖書解釈とはあくまでプシャットとデラッシュに基づいたものであり、それ以外の「深い知恵」によるメルカバー神秘主義やセフェル・ハイェツィラーの解釈は受け入れ不可能なのであった。

2015年2月19日木曜日

北フランスにおけるユダヤの聖書解釈 Grossman, "The School of Literal Jewish Exegesis in Northern France"

  • Avraham Grossman, "The School of Literal Jewish Exegesis in Northern France," in Hebrew Bible/Old Testament: The History of Its Interpretation, Vol. 1, Part 2, ed. Magne Sæbø (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2000), pp. 321-71, esp. 321-31.
Hebrew Bible / Old Testament: The History of Its Interpretation: From the Beginning to the Middle Ages (Until 1300): The Middle AgesHebrew Bible / Old Testament: The History of Its Interpretation: From the Beginning to the Middle Ages (Until 1300): The Middle Ages
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本論文は、11から12世紀の北フランスで興隆した、字義的な聖書解釈(プシャット)の伝統を概観するものである。扱われているのは、メナヘム・ベン・ヘルボ(1015-1085)、ラッシー(1040-1105)、ヨセフ・カラ(1050-1130)、シェマイア(1060-1130)、ラシュバム(1080-1160)、ボージェンシーのエリエゼル(12世紀)、ヨセフ・ベン・イツハク・ベホル・ショル(12世紀)らである。彼らは聖書解釈の方法論として、プシャット(平明な意味)とデラッシュ(説教的解釈)とを区別したのである。では、いったいなぜこのような字義的解釈の学派が11世紀のフランスに突然現れたのだろうか。著者は以下の3つの理由を挙げている。
  1. スペインのユダヤ教文化の影響。
  2. 12世紀の文化的ルネサンスの影響。
  3. 同時代のキリスト教聖書解釈の影響。
スペインのユダヤ教文化の影響。ラッシーをはじめとする北フランスの聖書解釈者たちは、メナヘム・ベン・サルークやドゥナシュ・ベン・ラブラットといったスペインのヘブライ語文法学者たちの影響を強く受けている。また聖書解釈については、スペインで作成された正確な聖書の写本に多くを負っている。北フランスの聖書解釈者たちは、他のどの地域のユダヤ人よりもスペインの伝統に対して開けていたために、それを取り入れて発展させ、新しい形式をもった創造的な聖書解釈へと進むことができたのだといえる。

12世紀ルネサンスの影響。いわゆる12世紀ルネサンスは信仰と理性の葛藤、聖書的権威と解釈の問題などさまざまな新しいアイデアが導入された時代である。文学的活動においては、文法への関心、聖書の(部分的な)批判精神、聖書の字義通りの解釈、正しいテクストの要求などが挙げられる。いうなれば、12世紀ルネサンスは人間理性への新しい自信の世紀であった。キリスト教神学者へのユダヤ教聖書解釈の影響もあり、サン・ヴィクトールのヒュー、リシャール、アンドリュー、シャンポーのウィリアムなどがユダヤ教聖書解釈を参照していたという。

同時代のキリスト教聖書解釈の影響。9世紀以降、ヨーロッパにおいてしばしばユダヤ教徒とキリスト教徒(リヨンのアゴバルドやアムロら)との間に聖書に関する論争が起きた。ユダヤ教側の懸念は、伝統的なラビ的聖書解釈である説教的解釈のデラッシュが、キリスト教側のプロパガンダに利用されてしまうのではないかということであった。一方で、プシャットを主張しすぎると、今度はキリスト教側から聖書の寓意的意味を見落としていると批判されるおそれもあった。多くのユダヤ教聖書解釈者たちは、注解の中にキリスト教徒との論争をそれと分からぬように紛れ込ませている。

古代エジプトの家庭事情 Rowlandson, Women and Society in Greek and Roman Egypt, Ch. 3

  • Jane Rowlandson (ed.), Women and Society in Greek and Roman Egypt: A Sourcebook (Cambridge: Cambridge University Press, 1998), pp. 84-154.
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本書はギリシア・ローマ時代のエジプトで書かれたパピルスから、当時の社会を特に女性の役割に特化して検証するものである。解説部分と実際のパピルスの英訳とが収録されている。当時のエジプトでは、せっかく生まれても、多くの人が大人になる前に亡くなっていたので、全体的に若い世代が多い社会だった。生まれた子供は5歳になるまでに半分が亡くなっていたという。

女性は比較的若いときに結婚した。ただし、12-13歳での結婚は確かにあったが、一方で十代の後半から二十台の前半に結婚する事例もある。男女の年齢差は大きく、しばしば父親ほどの年齢の伴侶を持つ女性もいた。

ローマ時代には近親間の結婚がしばしば見られた。おそらく人口の四分の一は近親結婚だったと考えられる。近親婚はローマ社会では禁じられていたが、富裕なギリシア人たちは血統を守るため、財産の分割を防ぐため、そして結婚の支度金を省くためなどから近親婚をした。さらには若者は大人と比べてさまざまな理由から結婚が難しかったため、早く結婚しようとすると自然と近親婚をするに至ったとも考えられる。

当時の肉親を呼ぶ呼び方は、必ずしも実際の肉親関係のみならず、親しみを表すために他人に対しても用いられていた。特にエジプトのキリスト者たちは、宗教の構成員を「兄弟」「姉妹」と呼んでいたことが知られている。

ローマ時代に、兵士たちは兵役が終わるまで結婚することを禁じられていたが、エジプトに駐屯していた兵士が事実婚状態となることはままあった。この間に生まれた子供は父親なしと見なされたが、兵役が終わるとローマ市民権を取って、ローマの正式な結婚にすることが許された。

こうしたパピルスは、広義のアーカイブに保存されていたものだが、しばしば近代の発見者が別々に売り払ってしまうことがあり、どのパピルスとどのパピルスが同じところから出てきたのか分からなくなってしまったり、分かっていても場所が離れているために関連付けがされていなかったりと、さまざまな問題がある。

2015年2月18日水曜日

悪の祭司について VanderKam, "The Wicked Priest Revisited"

  • James C. VanderKam, "The Wicked Priest Revisited," in The "Other" in Second Temple Judaism: Essays in Honor of John J. Collins, ed. Daniel C. Harlow, Karina Martin Hogan, Matthew Goff and Joel S. Kaminsky (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2011), pp. 350-67.
The The "Other" in Second Temple Judaism: Essays in Honor of John J. Collins (Calvin Institute of Christian Worship Liturgical Studies)
Daniel C. Harlow

Wm. B. Eerdmans Publishing 2011-02-08
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本論文は、さまざまな仮説が提唱されている「悪の祭司」の正体について、『ハバクク書注解』(1QpHab)を中心に再検証したものである。悪の祭司という呼称が示す対象としては、単数の大祭司説(Mathias Delcor, Karl Elliger, Geza Vermes)と複数の大祭司説(Andre Dupont-Sommer, William Brownlee, Adam Simon van der Woude)とがある。悪の祭司は義の教師と同時代にいたと考えられるので、前者の詳細が分かれば自然と後者のことも分かるはずである。悪の祭司の正体について最も有力な説は、Vermesによるハスモン王朝のヨナタン(在位前152-前42年)説であり、これはRoland de Vauxによるクムラン遺跡の年代測定にも一致するが、Jodi Magnessがその年代測定に異を唱えており、それが正しいとするとVermesの説も変更を余儀なくされる。著者によれば、初期の研究者たちには、『ハバクク書注解』に書かれた悪の祭司像を真に受けすぎているために、実像が見えないのだという。

第一洞窟で発見された『ハバクク書注解』において、悪の祭司という言葉は、ハバ2:5-17の注解部分に5回現れる。それらによると、悪の祭司は傲慢な人物だったという。それだけでなく、彼は民から富を奪う権力を最初は持っていたが、やがて民によって復讐された。これはつまり、悪の祭司は祭司であるだけでなく、強力な軍事的指導者でもあったことを示しており、それはすなわちハスモン朝以前の祭司では考えられないということを意味する。しかし富に目がくらむ前はよい祭司だったという描写も見られる。よい祭司であるがゆえに、神に反する暴力的な民の富を収奪したのだが、やがて民全体から富を奪うようになって悪の道に染まったのだった。

興味深いことに、悪の祭司の描写において、動詞はほぼ必ず完了形あるいはヴァヴ倒置未完了形になっている。すなわち、悪の祭司の動作はまったく預言や未来に帰されていない。一方で、悪の祭司は浄不浄の問題と密接に関わるような描写を施されている。こうした悪の祭司をあるグループが制裁したように描かれている。その制裁とは、折檻、悪の裁き、病気、肉体的な拷問を含んでいた。悪の祭司が病気に罹ったのだとすると、第一マカバイ記13:12-24によるとヨナタンはいかなる病気にも罹っていないので、悪の祭司=ヨナタン説に合致しないが、これは民が悪の祭司に対し極めて辛辣だったことを表現しているのだと考えることもできる。

著者によると、悪の祭司の描写を検証することでさまざまな可能性を挙げることはできるが、はっきりと分かっているのは、悪の祭司は、イスラエルを支配して悪に染まる以前にはよい評判を持っていたことと、民の富を収奪して復讐されたことぐらいであるという。しかし、さまざまな可能性を考慮しても、ヨナタンは依然として高い確率で悪の祭司の正体であるといえる。

2015年2月17日火曜日

写本研究から見る死海文書の形成過程 Hempel, "Sources and Redaction in the Dead Sea Scrolls"

  • Charlotte Hempel, "Sources and Redaction in the Dead Sea Scrolls: The Growth of Ancient Texts," in Rediscovering the Dead Sea Scrolls: An Assessment of Old and New Approaches and Methods, ed. Mexine L. Grossmann (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2010), pp. 162-81.
Rediscovering the Dead Sea Scrolls: An Assessment of Old and New Approaches and MethodsRediscovering the Dead Sea Scrolls: An Assessment of Old and New Approaches and Methods
Maxine L. Grossman

Eerdmans Pub Co 2010-06-28
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本論文は、死海文書の文献学的研究がどのようなことを教えてくれるのかについて簡潔に示したものである。死海文書を研究するに際して、テクスト同士あるいはテクスト内の差異に敏感な「分割派(splitters)」と、ひとつのテクストを切り分けることを嫌う「凝集派(clumpers)」とに分かれる。我々はテクスト上の証拠から、分割派が好むような出来事が実際に起こったことを知りえている。特にそうしたことが顕著なのが『共同体の規則』で、著者はこれを題材に、1)写字生による欄外のしるし、2)写字生による修正、3)同作品の複数の写本における相違点と類似点、4)違う作品同士の共有部分、5)写本上の根拠のなさ、といった観点から論じている。

写字生による欄外のしるし。C.A. KorpelやJ.M. Oeschらはdelimitation criticismと呼ぶ方法で、『共同体の規則』の研究に取り組んでいる。それによると、1QS写本の欄外に古ヘブライ文字が書かれているところには、何らかの意味が認められる。たとえば、1QS 5:1にヴァヴが書かれていることは、同箇所がテクストにおける重要な起点であることを示していると考えられる。なぜならば、4QSdは1QS 5:1に当たる部分から始まっているからである。また、パラグラフォス・サインと名づけられたしるしがあるところは、E. Tovによると、後代の写字生や読者によって挿入された部分であるという。こうしたことをTovはparatextual elementsと呼んでいる。これらのしるしは、その箇所からテクストが発展したことを示しているのである。

写字生による修正。1QS 7-8は、AとBの二人の写字生によって書かれたものであると考えられており、Aが作成したものを修正したBは、その修正に際してAが用いたものとは異なった写本を用いたと考えられる。そしてその異なった写本とは、完全にではないにせよ第四洞窟で発見された写本と同じものと考えられるという。また1QS 8-9に見られる「それらがイスラエルにあったとき」という表現とそれより少し長い表現とを比べると、前者の方がより古いと考えられるので、それは1QSの写字生Aの担当部分と考えられる。同様の表現が4QSdと4QSeにも見られる。

同作品の複数の写本における相違点と類似点。『共同体の規則』の1QS写本と諸4QS写本における違いは、以下の4点である。
  1. 1QSa(『会衆の規則』)と1QSb(『祝福の規則』)といった『共同体の規則』の補遺部分は、第四洞窟から発見された写本には見られない。
  2. 4QSbは第四洞窟写本の中で、唯一1QS写本のすべての資料(1QS 1-4を含む)をカバーしている。
  3. 4QSdは1QS 1-4を含んでおらず、1QS 5に当たる箇所から始まっている。
  4. 4QSeは1QS 8:15-9:11に当たる部分を含んでいない。
こうしたことから、1QSより短い4QSdはより古い『共同体の規則』を保存していると考えることができる(写本の年代自体は1QSの方が4QSdよりも古いので、新しく1QSが作成されたあとも、古い版が書写され続けていた)。ただしP. Alexanderはまったく逆に、古いほうが長く、新しい方では短くなったと主張している。4QSeの欠落も、より新しい4QSeはより古い1QS 8:15-9:11を欠いているとも考えられるし、Metsoのように、より新しい1QS 8:15-9:11はより古い4QSeを拡張したものだと考えることもできる。つまり考え方次第で解釈は変わるということだが、著者は共有している部分が古い箇所であって、欠落にせよ拡張にせよ、共有していない部分が新しいと考える。

違う作品同士の共有部分。『共同体の規則』(1QS)、『ダマスコ文書』(4QDa)、『諸規則』(4Q265)における共有部分はより古い箇所と考えられる。つまり、さまざまなテクスト伝承が集まってできたヘブライ語聖書のように、クムランでもそれぞれ別の伝承が集まっていったのだといえる。

写本上の根拠のなさ。Jerome Murphy-O'ConnorとJean Pouillyは、第四洞窟の校訂版が出揃う以前から、『共同体の規則』(1QS)は以下の過程を通って現在の姿になったと推測していた。
  1. 1QS 8:1-10a, 12b-16a, and 9:3-10:8a
  2. 1QS 8:10b-12a; 8:16b-9:2
  3. 1QS 5:1-13a and 6:8-7:25
  4. 1QS 1:1-4:26; 5:13b-6:8a; 10:9-11:22
すなわち、1QS 8-9を初期の核として、そのあとから1QS 1-4と1QS 10-11とが集められていったということである。この考え方は、のちに第四洞窟からの成果が明らかになったあとにも、ほぼそのまま通用している。

2015年2月16日月曜日

死海文書研究の概観 Metso, "When the Evidence does not Fit"

  • Sarianna Metso, "When the Evidence does not Fit: Method, Theory, and the Dead Sea Scrolls," in Rediscovering the Dead Sea Scrolls: An Assessment of Old and New Approaches and Methods, ed. Mexine L. Grossmann (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2010), pp. 11-25.
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本論文は、死海文書研究の興隆によって出てきた新しいデータを解釈していく際にどのような問題が生じるかを概観したものである。すべての死海文書の校訂版が出版され終えた現在、研究者の課題はそれらに含まれる情報をどのように概念化し、統合していくかということになった。しかし、新しいデータの発見は、これまで共有されてきた考え方と必ずしも合致しないこともある。そこで著者はクムラン研究の現状を概観するために、第一に、聖書テクストの概念の問題、第二に、ハラハー(法)の概念の問題、第三に、死海文書をもとにした歴史の再構築の実現可能性について言及している。

聖書テクストの問題。第十一洞窟で発見された『大詩篇巻物』は聖書テクストなのかそうではないのかをめぐって、以下の観点から議論がなされた。第一に、その礼拝的な性質、第二に、非聖書的な一節の存在、第三に、古ヘブライ文字による神聖四文字、第四に、ダビデの作とされる散文、第五に、マソラー本文とは異なった詩篇の順番である。こうした特徴から、多くの研究者は『大詩篇巻物』を聖書写本ではなく二次的な礼拝集成とジャンル分けした。しかし、上のような特徴が実は『第四編巻物』独自のものというよりは、クムランから発見される聖書写本に共通して見られるものだと分かってきたのである。「改訂五書(Reworked Pentateuch)」と呼ばれる4Q364-367もまた、マソラー本文と比較したときに多くの付加や省略があることが指摘されていたが、これもまた第二神殿時代の聖書テクストによく見られる特徴であることが判明した。いうなれば、「改訂五書」はマソラー本文やサマリア五書と平行して存在した、トーラーの異なった版であったということである。それゆえに、クムランで見つかった聖書テクストにおけるさまざまな違いを、単に写字生の誤りとして一蹴するのではなく、むしろ本文批評に積極的に活用していくべきだと著者は主張する。

ハラハーの問題。クムランの共同体における法的伝統がどのように形成されたのかについて、いくつかの説がある。第一に、L.H. Schiffmanによれば、クムランの法的伝統の唯一の源泉は聖書解釈であるという。第二に、P.R. Daviesによれば、異なった共同体ごとに異なった方法で法的伝統を形成したという(『ダマスコ文書』を用いた共同体の法的伝統と『共同体の規則』を用いた規則のそれとは異なる)。第三に、M. Weinfeldによれば、契約にかかわる規則はトーラーから、社会的組織にかかわる規則は共同体の構成員の経験から形成していったという。著者は、レビ記の一節が『ダマスコ文書』と『共同体の規則』との両方において証明句として機能している例を挙げている。それによると、法的伝統は共同体の生活における必要性から生まれてきて、それにあとから聖書の証明句を当てはめているのであって、その逆ではないという。その証拠に、『共同体の規則』の平行箇所において、第一洞窟から発見された写本には証明句があるが、第四洞窟からの写本にはない。そしてこうした証明句は、決められた規則が厳しいことを正当化する役割と、一方でその厳しさを緩和する役割とを同時に担っているという。こうした刑法に違反した場合の罰則は、しばしばモーセの律法に対する違反と同等の重さを持っていた。M. Weinfeldは全イスラエルに向けられたトーラーの命令と、特定の共同体に向けられた規則とを区別したが、著者によれば、こうしたグループは自らこそが真のイスラエルだと考えていたのであるから、むしろハラハーには普遍的な志向性と排他的な志向性とが並存していると考えるべきだという。

歴史の再構築の問題。第一洞窟で発見された写本と第四洞窟のそれとを比較すると、さまざまな一節が実は異なった時代の異なったグループに由来していることが分かる。著者は『共同体の規則』(1QS)3:13-4:26と『結婚の儀式』(4Q502)とを比較して、前者の全体が後者に依拠しているわけではないと主張する。するとさまざまな可能性が考えられる。両者は共通のソースを持っていたのだろうか。『結婚の儀式』は別のエッセネ派テクストから引用されているのだろうか。それとも『共同体の規則』を知らないエッセネ派外のテクストから取られているのだろうか。すなわち、社会学的・歴史学的な観点や編集過程の観点から、さまざまな仮説が生み出されうるのである。さらには、ソースとしての口承伝承のことを考慮に入れると、事態はさらに複雑になる。口承伝承への依拠という仮説は、書かれたテクストが入手可能であったという可能性を除外するものではない。これを検証するためには、フィジカルな「規則集」という言葉がどのように使われていたかに注目する必要がある。
The new evidence provided by the Dead Sea Scrolls provides a unique challenge to scrolls scholars. It raises a broad range of methodological and theoretical questions, and an even broader range of not-yet-asked questions must be raised in our attempt to understand the treasury of documents illuminating Second Temple Judaism. Such questions have the potential of making us rethink even our most basic understandings of what such central concepts as Scripture, halakhah, and history mena in this period [...] With a larger amount of evidence, we are also in a better position to create a methodologically more solid foundation for our analysis. This will result in ruling out certain hypotheses, while at the same time demonstrating the accuracy of others. (p. 25) 

2015年2月13日金曜日

ラシュバムのプシャット Lockshin, "Rashbam as a 'Literary' Exegete"

  • Martin Lockshin, "Rashbam as a 'Literary' Exegete," in With Reverence for the Word: Medieval Scriptural Exegesis in Judaism, Christianity, and Islam, ed. Jane Dammen McAuliffe, Barry D. Walfish and Joseph W. Goering (Oxford: Oxford University Press, 2003), pp. 83-91.
With Reverence for the Word: Medieval Scriptural Exegesis in Judaism, Christianity, and IslamWith Reverence for the Word: Medieval Scriptural Exegesis in Judaism, Christianity, and Islam
Jane Dammen McAuliffe

Oxford Univ Pr on Demand 2003-01-02
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プシャット的聖書解釈は、聖書のプレーンな意味を求める方法論とされている。これはいうなれば、聖書テクストの一字一句にこだわるクロース・リーディングをするということである。しかしながら、実際にはプシャットを奉ずる注解者たちはクロース・リーディングを避ける傾向にあった。たとえばアブラハム・イブン・エズラはこうした読み方を批判し、聖書における言葉の選択には必ずしも重要な意味はないと喝破した。それゆえに、創41章のように、ファラオの夢が地の文で語られ、さらに登場人物によって再度語られるような現象から、ことごとしく違いを見出す必要もないというのである。同様の見解はダヴィッド・キムヒ、ヨセフ・イブン・カスピ、そしてヨセフ・カラなどにも見られる。すなわち、ひとくちにプシャットといってもバリエーションがあるということである。対して、現代の読者は同じ事件の語りなおしに意味を見出そうとする。

ラシュバムもプシャット主義者として、イブン・エズラと極めて似通った聖書解釈のアプローチを取ったが、聖書物語の文学類型を決定するやり方において大きく異なっている。たとえば、両者は共にラビ的ミドラッシュの有効性を認めているが、イブン・エズラがそれを釈義としてではなく伝統としてのみ認めるのに対し、ラシュバムはそれを釈義としても認めている。ことにタルムードの釈義において、ラシュバムはプシャットと共にイトゥリーム(過剰な読み込み)をも用いている。ただし、聖書解釈の場合、ラシュバムはそうした読み込みを参考情報(referential)としてではなく、あくまで修辞的な(rhetorical)な意味として読者に与えているのだった。

たとえば、出22:23における繰り返し表現も、ラシがそれを読者に新しい情報を与えるためのreferentialな意味を読み込んでいるのに対し、ラシュバムはその場面を強調をするためのrhetoricalな意味だと説明する。なぜならば、繰り返しは読者に何らの新しい情報を与えないからである。ただし、そうした強調を、著者がなぜその箇所で用いたのかといった問題を追及することはない(ヨセフ・カラはこうした点にも言及する)。

ラシュバムはプシャットを用いて聖書テクストを解釈するときに、そこから教育的・倫理的な教訓を引き出すことがないのである。いうなれば、彼はユダヤ教を「教える」ために聖書解釈をしているのではないのだといえる。ただし、聖書の中に教育的・倫理的教え自体は含まれているので、それを知りたければ自分のプシャット注解ではなくミドラッシュを読めばいいのだと考えた。そして自分自身の役割を聖書の文学的な表現を明らかにすることに制限しているのだった。

2015年2月11日水曜日

ヒエロニュムスとユダヤ人 Stemberger, "Hieronymus und die Juden seiner Zeit"

  • Günter Stemberger, "Hieronymus und die Juden seiner Zeit," in Begegnungen zwischen Christentum und Judentum in Antike und Mittelalter, ed. Dietrich-Alex Koch and Hermann Lichtenberger (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1993), pp. 347-64.
3525542003Begegnungen zwischen Christentum und Judentum in Antike und Mittelalter
Heinz Schreckenberg
Vandenhoeck + Ruprecht Gm 1997-03-01by G-Tools

本論文は、ヒエロニュムスが当時のユダヤ人とどのような関係を持っていたかについて、彼自身の証言を検証したものである。ヒエロニュムスの持っているユダヤ伝承の由来や彼のヘブライ語能力についてはしばしば議論されてきたが、ここではそういった個別の問題よりも、むしろ彼が持っていたユダヤ教に関する情報一般に関して議論されている。

372年から381年にかけて、ヒエロニュムスはアンティオキア、カルキス砂漠、コンスタンティノポリスにいた。カルキス砂漠では、ヘブラエウスと彼が呼ぶユダヤ・キリスト者からシリア語(アラム語)を学び、加えてヘブライ語も学んだという(書簡125.12、ダニエル書の序文)。このヘブラエウスの母語はギリシア語かアラム語だったと考えられる。この時点でのヒエロニュムスのヘブライ語能力は、かろうじて聖書を読むことができるほどであった。381年にコンスタンティノポリスにおいて、彼はカルダエウスと呼ばれる人物からヘブライ語を習ったという(書簡18A.15)。ただしこの書簡で彼が「ヘブライ人から聞いた」として説明している聖書解釈はオリゲネス由来だとされている。

382年から385年にかけて、ヒエロニュムスはローマで過ごした。ここで彼はローマの貴婦人たちにヘブライ語聖書を教えたが、この頃には彼のヘブライ語は抜きん出たものになっていたと見られる。それはヘブライ語に熱中するあまり、ラテン語がおかしくなってしまったほどであった(書簡29.7)。この時代の証言として重要なのは、教皇ダマスス宛の書簡36で、この中でヒエロニュムスはシナゴーグにおいて聖書のみならず、聖書以外のヘブライ語文献(ミドラッシュか?)をも読んでいたと述べている。ただし、この書簡は後年のアンブロシウスとの論争の中で書かれた架空の書簡だという説があることと、ローマにおける滞在が比較的短いことから、この時代に本当にヒエロニュムスがユダヤ人との交流を持っていたか疑問視する向きがある。そこから著者は、ヘブラエウスとカルダエウスらユダヤ・キリスト者との交流を除けば、ベツレヘム滞在より前のヒエロニュムスはほとんどユダヤ人との交流を持っておらず、主な情報源は書物であったと結論付ける。

385年にローマを出ると、ヒエロニュムスはパレスチナを周遊し、最終的にベツレヘムに住むことになる。周遊の際には、ユダヤ人のガイドを得て、パレスチナの地理の知識を得たようである(七十人訳歴代誌の序文)。地理に関しては、ヒエロニュムスはエウセビオスの『オノマスティコン』を翻訳している。ただし翻訳に際し、ヒエロニュムス当時の状況をあまり反映させていない。彼自身が訪れたはずの土地についても、聖書以外の情報を付け加えることはなかった。他の彼の地理情報の提供者は、パレスチナへの巡礼者や彼の修道院の修道士たちであった。また『ハバクク書注解』2:15やヨブ記の序文においては、リダ出身の教師なる人物を挙げている。興味深いことに、彼はタナイームのことをデウテロテース、パリサイ派のことをデウテローセイス、ハハミームのことをソフォイなどというように、ヘブライ語の用語をギリシア語で説明することがある(書簡121)。これはJ. Barrの言うように、彼がこのリダ出身の教師とギリシア語で会話していたからかもしれない。

386年からのその死の420年まで、ヒエロニュムスはベツレヘムに住んだ。ただし、エルサレムは当時ユダヤ人が入ることを禁じられていたために(彼自身がそう証言している)、この時代に本当に彼がユダヤ人と会えたのかは疑わしい。なおかつ、ユダヤ人側も非ユダヤ人にトーラーを教えることに積極的でなかったと考えられる。それでも、この時代のヒエロニュムスのユダヤ教師として、バル・ハニナという人物が知られている(書簡84.3)。ユダヤ人居住区はベツレヘムより南のヘブロンやリダだったので、バル・ハニナはわざわざそうしたところからヒエロニュムスを訪ねてきたことになる。著者はバル・ハニナをキリスト教に共感するユダヤ・キリスト者だと見ている。ヒエロニュムスの敵対者たるルフィヌスは、彼がユダヤ人に聖書を習っていることを攻撃してきた。また「歴代誌の序文」に出てくるティベリア出身の教師、『コヘレト注解』1.14および「トビト記序文」に出てくる教師などもいるが、これら人物もユダヤ・キリスト者と考えられる。こうした人物たちをヒエロニュムスは「ヘブラエイ」と呼んでいる。

ヒエロニュムスの著作から当時のユダヤ人の生活を再現できると考える研究者たちもいたが、彼の証言は、先行者や聖書からのものであることが多い。たとえば、ヒエロニュムスのユダヤ人評は新約聖書上のパリサイ派の描写から来ている。S. Kraussはヒエロニュムスの証言から当時のシナゴーグ礼拝の様子を再現しようとしたが、ヒエロニュムス自身は礼拝に出席したことがないようである。『イザヤ書注解』45:18-26では、ユダヤ人が跪いて礼拝すると述べているが、これは正しくない。またフィロンとオリゲネスの著作を混ぜ合わせたような証言もある。

以上から、著者はヒエロニュムスの証言の再検討の必要性を説く。ユダヤ人との接触もそれほど頻繁ではなかったし、ヘブライ語能力もさほど高くなかったと考えられる。ユダヤ人教師はラビではなく、一般の住民であったため、彼が聞いたユダヤ伝承にも信頼が置けない。

『共同体の規則』における刑法 Hempel, "The Penal Code Reconsidered"

  • Charlotte Hempel, "The Penal Code Reconsidered," in Legal Texts and Legal Issues, ed. Moshe Bernstein, Florentino Garcia Martinez and John Kampen (Leiden: Brill, 1997), pp. 337-48.
Legal Texts and Legal Issues: Proceedings of the Second Meeting of the International Organization for Qumran Studies Cambridge 1995, Published in Honour of Joseph M. Baumgarten (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)Legal Texts and Legal Issues: Proceedings of the Second Meeting of the International Organization for Qumran Studies Cambridge 1995, Published in Honour of Joseph M. Baumgarten (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)
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Brill Academic Pub 1997-08-01
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本論文は、『共同体の規則』(1QS、以下『共同体』)の第6-7欄に含まれる刑法について、『ダマスコ文書』の死海写本(以下D写本)4QDa, 4QDb, 4QDeなどとの比較を通して、その発展の経緯を検証したものである。『共同体』の罰則に関しては、Joseph Baumgartenが検証を試みたが、本論文の著者はむしろ、刑法(penal code)への違反がどのように理解されているかという点に注目している。

まず『共同体』とD写本が共有している刑法の違反を比較すると、両者がまず間違いなく直接の影響関係にあったことが分かる。ただし、両者が共有している刑法は、『共同体』に収録されたあと、『共同体』の発展の中で改定されていったものと思われる。それが特に分かるのは、自分たちの共同体の呼称に関して、『共同体』はラビームという名を好むのに対し、『ダマスコ文書』はラビームという言葉はいくつかある呼称のうちのひとつにすぎず、むしろエダーをよく用いる。ただし4QDaには『共同体』同様にラビームという言葉がある。著者はこのことについて、もともと『共同体』と『ダマスコ文書』が共有していた刑法にラビームという言葉があり、それがたまたま『共同体』のみに残ったというよりは、むしろ4QDaに出てくるラビームは後代の付加と考えるべきと主張している。

クムラン共同体が持っていたであろう初期の違反は、『共同体』にはないが、D写本すなわち4QDb,eのみが保存する違反から見て取ることができる。『共同体』とD写本とが共有している違反だけに注目してしまうと、刑法を『共同体』のみと関連付けてしまうことになる。しかし、D写本のみに収録された違反の存在は、『共同体』や『ダマスコ写本』よりも以前のバージョンがあったことを教えてくれる。D写本および『ダマスコ文書』に女性や子供への言及があるにもかかわらず、『共同体』にはないことは、『共同体』を奉じた共同体が意図的にこうした言及を省いたのだと考えられる。

以上より、著者は5点の結論を導く。第一に、刑法のジャンルは『共同体』の前身となる運動に端を発する。第二に、この前身となる運動の刑法の名残りは、D写本に残されている。第三に、『共同体』を作成した共同体は、このジャンルを採用し、自分たちの刑法を作った。第四に、この共同体はD写本の刑法を改定した。第五に、この共同体による採用・改定のあと、『共同体』はさらに独自に発展していった(=もとのD写本から離れていった。例:呼称がエダーからラビームへと代わっていった)。

2015年2月10日火曜日

『共同体の規則』の写本伝承 Metzo, "The Textual Traditions of the Qumran Community Rule"

  • Sarianna Metso, "The Textual Traditions of the Qumran Community Rule," in Legal Texts and Legal Issues, ed. Moshe Bernstein, Florentino Garcia Martinez and John Kampen (Leiden: Brill, 1997), pp.141-47.
Legal Texts and Legal Issues: Proceedings of the Second Meeting of the International Organization for Qumran Studies Cambridge 1995, Published in Honour of Joseph M. Baumgarten (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)Legal Texts and Legal Issues: Proceedings of the Second Meeting of the International Organization for Qumran Studies Cambridge 1995, Published in Honour of Joseph M. Baumgarten (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)
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本論文は、第一洞窟で見つかった『共同体の規則』(1QS)のテクストと、第四洞窟で見つかった断片とを比較することで写本伝承を明らかにしたものである。4QSbと4QSdは、平行箇所において(たとえば第5欄)、1QSよりも短くなっている。第四洞窟の両者は基本的には同じテクストと考えられるが、4QSdには1QSにおける第1欄から第4欄までが欠けている。4QSd, bは古文書学的には1QSよりあとのものとされるが、1QSよりも古い伝承を保存していると考えられる。

4QSeは1QSにおける8:15b-9:11が欠けているが、前者の方がオリジナルに近い。さらに4QSeと4QOtotには、1QSの第10-11欄における暦法がなく、オリジナルもそのようだったと考えられる。4QSaは1QSと並行する箇所がない。

以上より、著者は仮想上のオリジナルテクストは、1QS第1-4欄を含まずに第5欄から始まっており、なおかつ8:15b-9:11と9:26b-11:33も欠けているため、1QSよりもかなり短いものだったと考える。これが4QSeに見られる伝承経路(A)において第一段階の編集され、聖書の証明句が挿入された。さらに4QSdに見られる別の伝承経路(B)においては、8:15b-9:11が加えられた。これらの二つの伝承経路をもとに1QSを編集した編集者(C)は聖書の証明句を加え、1-4, 10-11, 8:15b-9:11を付け加えた。しかしこの編集の後にもう一段階別の編集者(D)が(C)に対して7-8欄を付加した。この再編集は、4QSb,dおよび4QSeの両方の伝承のコンビネーションである。ただし、共同体はこうして出来上がった1QSを持ったあとも、より以前のバージョン(4QSb,d)を筆写し続けた。

2015年2月9日月曜日

クムランと周辺地域との交流 Schofield, "Between Center and Periphery"

  • Alison Schofield, "Between Center and Periphery: The Yahad in Context," Dead Sea Discoveries 16 (2009): 330-50.

本論文の中で、著者はクムランにおけるセクトとしてのヤハッドを、エルサレムなどの都市との関係の中で相対化する試みをしている。すなわち、ヤハッドとは、クムラン遺跡そのものだけに留まらない現象なのである。そのために、セクト的共同体の新しい理解をもたらす社会人類学的なモデルと、そうしたダイナミックなパラダイム中でその共同体の刑法がいかに新しい理解を得られるかを提示している。

そのために、著者はRobert Redfieldによる「大伝統と小伝統の相克論(great and little traditions)」というモデルにヒントを得ている。すなわち、文化の中心地で体系化された伝統と、それを周辺地域の非エリートが日々の生活に合うものにするために受容・再解釈する伝統との相互関係である。彼によれば、いかなる小伝統も大伝統における文化的・宗教的文化から分離して発展することはないという。小伝統は、大伝統で生まれた普遍的な遺産や知識を、自分たちのローカルな遺産や知識に混ぜるのである。これを当てはめると、クムラン共同体の自己理解も、エルサレムのエリートによって体系化された大伝統と、それに対する自分たちの多様な小伝統との相互作用を通して捉えることができる。すなわち、彼らの自己理解は、ユダヤ教の大伝統との同一性とそれに対して境界を引く異質性とを併せ持っているのである。

著者はRedfieldのモデルを敷衍しつつ、クムラン共同体の特徴を「伝統の放射的・対話的交換(radial-dialogic exchange of traditions)」というモデルで説明する。『律法儀礼遵守論』(4QMMT)の中では、この文書の著者グループが自分たちのことを中心的な権威を通じ、あるいはそれに反発することで定義している様子を見ることができる。彼らは暦法に関して太陽暦を採用したが、これは太陰暦を採用していたエルサレムとの対話の中から出てきたことだと理解できる。すなわち、ヤハッドは常にユダヤ的な中心地に照らして自分たちを理解していたのである。こうしたエルサレムに代表される文化的中心地とクムランとの交流の様子は、考古学的にも証明されている。死海文書が入っていた壺はエリコからもたらされたものだとされている。

刑法もまたセクト共同体の新しいパラダイムを示す好例である。『共同体の規則』、『ダマスコ文書』、そして4Q265など比べると、三つのことが分かる。第一に、それぞれの規則に合致しないことがあることから、クムランの刑法はクムランのみで出来上がったものではない。第二に、これら三つの法規は順番に時系列的に発展したものではない。第三に、それぞれが独自の法規を持っていることから、4Q265の作成者がほか二つの抜粋をつなげたわけではない。著者は他にも5Q13と4Q504も比較対象にしている。すなわち、クムランの刑法は決してその場所だけでできあがったものではなく、同様の刑法を持つさまざまなオーディエンスとの交流の中でできあがってきたものといえる。

Redfieldの「大伝統・小伝統」モデルに準じると、『共同体の規則』は周辺的な特徴を備えた文書であり、また『ダマスコ文書』は統一的な中心地の文書であるということができる。確かにクムラン共同体はエルサレムの権威や神殿とのコンタクトを通じてできあがっていった。しかし本論文の著者が提唱する「放射的・対話的」モデルは、この二項対立的な「大伝統と小伝統」モデルと異なり、クムラン共同体がよりミクロのレベルではもっとさまざまな影響関係の中にあったことを説明できる。

『共同体の規則』におけるヤハッド Collins, Beyond the Qumran Community, Ch 2

  • John J. Collins, Beyond the Qumran Community: The Sectarian Movement of the Dead Sea Scrolls (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2010), pp. 52-87.
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第二章では、第一章で扱った『ダマスコ文書』(CD)と比較しながら、『共同体の規則』(1QS、以下『共同体』)を検証している。『共同体』の写本は、1QSの他に、第四洞窟から発見されたものもいくつかある。クムラン共同体における共同体を記した書物として、『ダマスコ文書』と『共同体』とにはたくさんの共通点がある(たとえば、入門者の共同体への入会時の作法の一部や、自らの共同体を荒野におけるイスラエルのモデルとして理解していることなど)。一方で、両者にはかなりの違いも見られる(『共同体』においては、女性や子供への言及がないことなど)。『ダマスコ文書』が共同体を「エダー」と呼ぶのに対し、『共同体』は「ヤハッド」と呼ぶことからも、後者の方がよりタイトな関係性であったことが分かる。

『ダマスコ文書』に対する『共同体』に見られる違いとしては、以下の点が挙げられる。入会時の手順がより発展し、複雑化している。入会時に共同体に寄付する額として全財産を求めている(『ダマスコ文書』は給料二日分のみ)。独身主義を貫くことを求めているわけではないが、女性や子供への言及がなく、家族を前提としていない。エルサレムにおける神殿祭儀からのさらなる分離が見られる。共同体内部がより階級的である。共通点としては、「ツァドクの子ら」という表現があくまで警鐘的な表現であり、実際の祭司家系を現すものではないという点が挙げられる。そもそも、『共同体』の第一洞窟からの写本には「ツァドクの子ら」という表現が見られるのに対し、第四洞窟からの写本にはそれが見られないことから、この表現は後代の付け足しである可能性が高い。以上から、『共同体』は『ダマスコ文書』の発展形であるといえる。ただし両者の違いを共同体の「分裂」に求めるのは早計である。

著者は『共同体』におけるヤハッドという名称が、大きさの変化を伴う複数の集団をまとめていうときの包括的な名称か、それとも『共同体』の共同体は一つの大きな集団であり、それのみを表しているのかを考えたときに、前者の考え方を採用している。すなわち、ヤハッドとは、クムランのみならず近隣の村における共同体なども含めた、小集団をまとめていうときの名称なのである。こう考えると、1QSのみならず、第四洞窟からも複数の『共同体』の写本が出てきた理由も説明できる。すなわち、『共同体』は一つの共同体で写されたのではなく、同時にさまざまな小集団の中で写されていたのである。

『共同体』第8章に出てくる「12人の男と3人の祭司」という表現から、これらの人々がクムラン共同体の最初の住人と考えられてきた(E.F. Sutcliffe)。ただし、彼らは単なる入会や行政を司る「共同体の議会」ではなく、特別な訓練を経たエハッドの中のエリート集団と考えることができる。彼らはヤハッドを神殿祭儀の地位に代わるものと捉え、荒れ野での生活を始めたのである。

『会衆の規則』(1QSa、以下『会衆』)と呼ばれる文書は、『共同体』と異なり、『ダマスコ文書』のように女性や子供への言及があることから、家族を想定していると考えられる。ここから『ダマスコ文書』と『会衆』とに何らかの関連性があることは明白だが、同時に『共同体』と『会衆』とにも共通点として「共同体の議会」という表現が見られる。『会衆』はこれら二つの文書同様に、人々をより聖なる段階へと連れ出そうとしたのである。

結論としては以下のようになる。『ダマスコ文書』と『共同体』とが分裂によって別々の共同体を示しているとは考えにくいが、前者よりも後者の方がより洗練され、発展した共同体を想定している。前者は家族を基本にしているが、後者は女性と子供に言及がない。また後者は複数の小集団の集合であり、エリート集団も含まれると考えられる。

この章では補遺として、クムラン共同体と比較できるものとして、ギリシアにおける志願によって構成されるいくつかの集団を紹介している。ディオニュソスを崇める「イオバッキ」などがそれである。ただし、他の一般社会からの分離の度合いや入会に際しての寄付の度合いなどが異なる。他の比較対象として興味深いのはピタゴラス主義者たちである。ヨセフスによるエッセネ派描写やフィロンによるテラペウタイ描写は、ピタゴラス主義者に似ている。ただし、荒野で暮らしていたユダヤ人のセクトがピタゴラス主義に影響を受けていたとは考えにくいため、同様の現象が別の場所で現れたと考えるべきである。むしろユダヤ教内での比較対象として、ミシュナーとトセフタに出てくる「ハヴラー」が挙げられる。これは第二神殿時代のパリサイ派の伝統から出てきたものである。

2015年2月7日土曜日

ギリシア語パピルスの手紙 Luiselli, "Greek Letters on Papyrus"

  • Raffaele Luiselli, "Greek Letters on Papyrus: First to Eighth Centuries: A Survey," Asiatische Studien/Études Asiatiques 3 (2008): 677-737.
本論文は、後一世紀から八世紀にかけて、主としてギリシア語で書かれた手紙について、書く道具、字体、前書き、本文、末尾、宛名書き、封印の仕方、保存方法、バイリンガリズム、定型文などの観点から概観したものである。

書簡は、コミュニケーションの道具であると同時に、哲学や文学のフォーマットとしても用いられていた。著者は手紙の種類を三つに分けている。
  1. documentary: 古代に住んでいたごく普通の個人によって書かれた手紙。しばしばパピルスなど壊れやすいものに書かれている。
  2. literary: 歴史上の人物によって書かれ、のちに広い読者層のためにコレクションされたもの。しばしば羊皮紙や紙のコーデックスに書かれている。
  3. fictitious: 架空の人物によって書かれた手紙。物語の中などに挿入されている場合もある。知的に洗練された著者によって書かれることが多い。
本論文で扱われているのは、このうちの一つ目のdocumentaryな手紙である。こうした手紙は、パピルス、陶器、羊皮紙、木の皮などに書かれた。パピルスの場合、20シートの巻物を小分けにして使った。ローマ時代になると特に、シートを縦長にして使うことが多かったが、さらに時代が下がると横長にする場合もあった。基本的には、別の要件には新しいパピルスを使うことが原則だったが、裏紙として再利用することも多々あった。人々はパピルスのリサイクルをあまり気にしなかったようである。文学テクストに比べ、手紙では語の間にスペースを取ることが多かった。アクセント記号や気息記号、さらに行下げなども用いられた。

手紙は口頭で述べられたことをプロが書き留めることもあれば、本人が書くこともあった。公的な手紙の場合、スタイルや草書体の度合いなどは、TPOに応じて自ずと決まっていった。これに対し、個人の手紙は読みやすさが重視された。

前書きでは、送り主の名前と宛名が示される。その方法は4種類ほどにまとめられるが、組み合わされる場合も多かった。アラブ時代のエジプトの手紙では、ギリシア語で書かれていても、ヘブライ語的な挨拶やアラビア語のバスマラのような書き方が見られる。「万能の主の名において」という書き出しは、ユダヤからキリスト教を通じ、イスラーム期でも用いられるようになった。本文では多種多様なことが語られたので、ここでは割愛。末尾の挨拶は5種類の書き方があったが、これも組み合わされることが多かった。仕事の手紙では省略されることもあった。

新しいパピルスに手紙を書く場合は、相手の住所は、パピルスを巻いた外側に書いたが、裏紙の再利用の場合は、さまざまに工夫して住所を書いた。巻き方としては二種類あり、横に巻く場合、開いて読みやすいように左側の縁が上になるように巻いた。縦に巻く場合、上側の縁が上になるように巻いた。保存するときは、公的な手紙は、来た手紙と送った手紙とをくっつけて長い巻物にして保存した。個人の場合はさまざまだが、壺などに丸めて入れることが多かった。

多くのエジプト人は、エジプト語が母語であってもギリシア語で手紙を書くことが多かった。ローマ時代にはラテン語で書くこともあったが、依然としてギリシア語は共通言語として用いられていた。しかし、書き手の言語習得のレベルによって、母語からのさまざまな影響が見られる。とはいっても、十分にギリシア語で書ける人物が、本文はギリシア語で書いて前書きや住所をラテン語で書く場合や、本文はコプト語で書いてその他はギリシア語で書く場合などもあり、どのような基準で言語を変えているのか不明な場合も多々ある。ラテン文字で書かれたギリシア語の手紙やその逆も見つかっている。

2015年2月5日木曜日

成就の解釈学 Charlesworth, "Revelation and Perspicacity in Qumran Hermeneutics?"

  • James H. Charlesworth, "Revelation and Perspicacity in Qumran Hermeneutics?" in The Dead Sea Scrolls and Contemporary Culture, ed. Adolfo D. Roitman, Lawrence H. Schiffman and Shani Tzoref (STDJ 93; Leiden: Brill, 2011), pp. 161-80.
The Dead Sea Scrolls and Contemporary Culture: Proceedings of the International Conference Held at the Israel Museum, Jerusalem (July 6-8, 2008) (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)The Dead Sea Scrolls and Contemporary Culture: Proceedings of the International Conference Held at the Israel Museum, Jerusalem (July 6-8, 2008) (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)
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本論文は死海文書における聖書解釈の特徴であるペシャリームがどのようなものかを概観したものである。著者はクムラン聖書解釈の特徴に関する自身の考えを冒頭でまとめているので、それを以下で示しておく。
クムランの人々の自己理解はトーラー学習によって獲得されたものだった。彼らはトーラーが神の神聖なる意図と確実な約束を含んでいると考えていた。彼らは自分たちがユニークであることを知っており、また自分たちが荒れ野で神の道を整えるために神によって選ばれた「光の子」として創造されたことを知っていた。そして、聖書とは、自分たちにのみ向けられたものであり、、その比類なき教師(モレー・ハツェデク)について預言されたものであり、また聖書上の歴史におけるある特別な時に焦点を合わせたものであると考えていた。〔……〕彼らの聖書学習の方法は、成就を強調した解釈であった。このように、ペシャリームは成就の解釈学の最初期の例を明らかにしてくれる。この方法論は、クムランのヤハッド、すなわち「聖性の家」にのみ住まう「聖霊」の存在によって制御されている。〔……〕ペシャリームを通して、クムランの人々は、我々が彼ら内部のユニークな歴史理解や、神が彼らのためにどのようにふるまったかを理解することを助けてくれる。このようにして、たとえ今は悪がこの世を支配しているのだとしても、祝福された未来がそれぞれの「光の子ら」(……義の教師の支持者たち)のために確約されているのである。クムランには正統性というものはないが、一貫した世界観と時間理解とによってペシャリームは他のクムランでの発明品と一つのものになっている。これらすべてのクムランで出来上がったものは、聖書の解釈と成就の解釈学とによってかたちづくられている。全員がイスラエルの神の力と、終末が光の子らにとってよいものとなることとを認識している。
筆者は以上の理解をもとに議論を進めている。聖書時代の預言は、第一に前八世紀までの古典的な預言時代、第二に前六世までの第二の預言の時代、そして第三に、ユダヤ教の主流派の見解では預言がすでに止んでいたとされる第二神殿時代(『エノク書』などが代表例)に分けられる。第二神殿時代のクムランでも、義の教師のみが知恵によって聖書を解釈することができるとされていた。

当時の聖書は、まだ正典化されていない流動的なものである。ヘブライ語聖書は複数の版が同時に存在しており、それが後一世紀までに次第にまとまってマソラー本文が形成されたと考えられる。それゆえに、ペシャリームにおける聖書引用がマソラー本文と異なっているからといって、解釈者たちが意図的に本文を変更したと考えるのは早計である。むしろ異なった本文を持っていたと考えるのが妥当であろう。レンマ(聖句の見出し)を引いた上で注釈を施すのはクムラン共同体独特の方法であった。また、「義の教師」「嘘の人」「ツァドクの子ら」「なめらかなものの探求者」「キッティーム」など、注釈の中で独特の用語を使うことでも知られている。こうしたペシャリームは、義の教師の支持者たちが彼の教えから作り上げた方法と考えられる。死海文書から見つかったペシャリーム写本は、おそらく著者自身の手になるものではなく、その写しであることが分かっている。こうした聖書解釈によって、クムランの人々は自らの存在理由と、なぜ荒れ野に住んでいるかを説明した。これは特にイザヤ書40:3の解釈に基づいている。

ペシャリームの解釈における特徴は、未来を指し示す聖書の預言が、部分的にはすでに自分たちの時代に、しかも自分たちの共同体において成就していることを確認する点である。そうしたことから、「成就の解釈学(Fulfillment Hermeneutics)」と呼ぶことができる。

クムランの人々は、聖書に隠されている秘密は自分たちの共同体にのみ知ることが赦されていると考えていた。そしてそれを解釈できる者こそが義の教師であった(同様の意識は、『エノク書』、フィロン、ヨセフスなどの著作にも見られる)。そうした意味で、義の教師は神からのメッセンジャーであった。そしてそれを支持するクムランの人々は、祭司やレビ人から構成されていた。義の教師が知ることのできる預言の神秘は、エルサレムの大祭司たちには理解できないものであり、それどころか、預言をした預言者自身でさえその本当の意味では分かっていなかったが、義の教師のみはそれを真に理解することができるとされていた。なぜなら、聖霊はすでにエルサレムを離れ、クムランに臨んでいたからである。エルサレムには悪の祭司がおり、クムラン共同体における太陽暦と異なった太陰暦を用い、常に義の教師の命を狙っていた。

2015年2月3日火曜日

死海文書とラビ文学における法 Shemesh, "Halakhah between the Dead Sea Scrolls and Rabbinic Literature"

  • Aharon Shemesh, "Halakhah between the Dead Sea Scrolls and Rabbinic Literature," in The Oxford Handbook of the Dead Sea Scrolls, ed. Timothy H. Lim and John J. Collins (Oxford: Oxford University Press, 2012), pp. 595-616.
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本論文は、死海文書の法的解釈について、特にミシュナーとミドラッシュを中心としたラビ文学との比較をしたものである。著者は死海文書の「エッセネ派仮説」を支持している。ただし、『律法儀礼遵守論』(4QMMT)などからは、サドカイ派的な特徴が見受けられる。そこでJacob Sussmannは、サドカイ派とエッセネ派とは別のグループだが、法的システムに関して共有する部分もあると考えた。そして両者は明らかにパリサイ派からは異なっている。

死海文書には、それ自体としては法テクストではないが法的部分を含むテクスト、まごうかたなき法的テクスト、さまざまな法的問題を広く収集しているテクストがあり、三つ目の代表例として、『神殿巻物』と『ダマスコ文書』がある。『神殿巻物』はいわゆるrewritten Bibleと呼ばれるもので、聖書テクストに依存しながら法解釈をするのではなく、自らをトーラーと同列のものと考えている。そのため、神は三人称ではなく一人称で直接語りかけてくる。また、研究者によっては、rewritten Bibleではなくalternative Pentateuchal textsと呼ぶ者もいる。一方で『ダマスコ文書』は聖書テクストと解釈とをはっきりと区別し、なおかつトピックに従って説明が加えられている。聖書引用はほとんどないが、ある場合にも、それは証明句ではなく、トピックの題名として機能しており、法的解釈がどのように聖書から証明されるのかについては明らかにされていない。すなわち、自らをトーラーと同じ権威があるものと考える『神殿巻物』に対し、『ダマスコ文書』はトーラーの権威に依拠しつつ、トーラーの正しい解釈を伝える権威者として振舞っているのである。

こうした死海文書とラビ文学とを比較すると、聖書の流れに従い、また一節ずつ互いに関係しているミドラッシュは、『神殿巻物』や他のrewritten Bibleと似ている。一方で、トピックに従って攻勢されているミシュナーは、『ダマスコ文書』と似ている。逆に、自らを権威と考えるという点では、ミシュナーは『神殿巻物』と似ており、自らをトーラーの解釈者と規定するという点では、ミドラッシュは『神殿巻物』と似ている。ただし、死海文書とラビ文学との決定的な違いは、ラビ文学はラビたちの議論や、棄却された解釈ですら保存している点である(マハロケット)。

死海文書では、法の権威として神の啓示の概念が共有されている。ただし、ここでも『神殿巻物』およびrewritten Bibleと『ダマスコ文書』とでは違いがある。『神殿巻物』は『ヨベル書』同様に、自らはモーセによってシナイ山で啓示されたものだと考えていた。一方で、『ダマスコ文書』や『共同体の規則』(1QS)は、トーラーには「顕かにされた意味(niglot)」と「隠された意味(nistarot)」とがあるという理解をもとに(申29:28)、神への回帰と贖いとは全イスラエルではなく、一部のセクトにのみ課せられた課題であると考えた。両者は共に、法の権威を神の霊感に帰しているといえる。これらに対し、ラビ文学は人間の自主性を強調する。すなわち、預言と法解釈とにははっきりとした違いがあるのである。ハラハーは人間の営為であり、神的権威ではなく人間的な過程から引き出されるものである。

ヨセフスやタルムードの記事から見ると、パリサイ派は伝承に重きを置くのに対し、サドカイ派は聖書に書かれていることのみを議論する。この点で、死海文書はサドカイ派と共通している。一般的に、死海文書やサドカイ派はパリサイ派よりも厳格な法解釈をするという特徴がある。これを、もともとサドカイ派的厳格路線が主流だったのをパリサイ派が和らげたのだとする研究者がいるが、むしろ当時一般的に許されていたことをも、サドカイ派は聖書に照らして禁じたと考えるべきと著者は言う。こうした例として、『ダマスコ文書』における叔父と姪との結婚の禁止について論じている。レビ18:10, 17には、結婚が禁じられている近親関係が挙げられているが、ここにない関係(例えば叔父と姪)でも、同等のものが禁止されていれば(例えば祖母との結婚がダメなら祖父との結婚もダメであり、祖父の妻との結婚がダメなら孫の妻との結婚もダメ)、基本的に禁止されていた(ゆえに叔父と姪ともダメ)。しかし、これに対しパリサイ派は父祖の伝統に則り、不必要な禁止を加えないように努めた。

死海文書のハラハーの特徴を描き出したものとして、著者はJacob SussmanとDaniel Schwartzの研究を挙げている。前者はサドカイ派の厳格路線とパリサイ派の甘め路線とを指摘した。パリサイ派はしばしば「ドルシェ・ハハラコット」と呼ばれるが、これは「滑らかなものの探求者」が字義通りの意味だが、実際には「より容易な解釈の探求者」という意味であった。これはパリサイ派の自己理解である「ドルシェ・ハハラホット(律法の探求者)」のもじって揶揄したものである。サドカイ派にとってみれば、パリサイ派は律法遵守に関してより簡単で快適な生活をしているにもかかわらず、自分たちを敬虔な者と見なしている不届き者ということになる。Schwartzは、サドカイ派を「現実的」、パリサイ派を「規範的」と表現した。すなわち、サドカイ派が法を自然や現実に即したガイドラインと見なしたのに対し、パリサイ派は法を神によって作られた掟であると見なしたのである。この点で、死海文書も現実的といえる。

ユダヤ教の法文書を、著者は「発展的(developmental)」と「反映的(reflective)」というモデルに分けている。前者のモデルによれば、死海文書は古い法的伝承で、それが発展してラビ文学になったといえる。後者のモデルによれば、ラビ文学の法解釈は、死海文書の法的伝統の反映だと考えられる。シャマイ学派の法解釈は、しばしば死海文書のそれとの類似性が指摘されているが、これは発展的モデルから説明される。ラビ・アキバに代表される、高度に洗練されたミドラッシュ的テクニックは、反映的モデルから説明される。

2015年2月2日月曜日

カイロ・ゲニザからクムランへ Schiffman, "From the Cairo Genizah to Qumran"

  • Lawrence H. Schiffman, "From the Cairo Genizah to Qumran: The Influence of the Zadokide Fragments on the Study of the Qumran Scrolls," The Dead Sea Scrolls: Texts and Context, ed. Charlotte Hempel (Studies on the Text of the Desert of Judah, Vol. 90; Leiden: Brill, 2010), pp. 451-66.
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本論文は、19世紀にカイロ・ゲニザから発見されていた『ダマスコ文書』(『ツァドク派断片』)が、さらにクムランからも発見されたことにより(以下クムラン断片)、『ダマスコ文書』理解がどのように進んだかを概観するものである。

文書の本質と文学的特徴。『ダマスコ文書』は、「訓戒(admonition)」と「法(laws)」の二つの部分に分かれている。クムラン断片は、第五洞窟、第六洞窟からそれぞれ1つずつ、そして第四洞窟から8つ、全部で10の写本が発見されている。J. Murphy O'ConnerやPhilip Daviesらによる「訓戒」部分の研究により、『ダマスコ文書』は複雑な文学的歴史を持った、合成された文書であることが明らかになった。さらに、J.T. Milikによる『ダマスコ文書』とクムラン断片との比較によると、第一に、S. Schechterによる『ダマスコ文書』の写本の頁振り分けは誤りであり、第二に、法部分は現存する『ダマスコ文書』より実際はもっと長く、第三に、『ダマスコ文書』のB写本はA写本を引き伸ばしたものであることが明らかになった。

文書の由来とセクトの正体。S. Schechterは、『ダマスコ文書』がツァドク派/サドカイ派の伝統と関わっていると考え、それゆえに、カライ派やドシテオス派によって書かれたものかもしれないと考えた。他にも、多くの研究者たちが『ダマスコ文書』の由来として、パリサイ派、初期キリスト者、熱心党、エビオン派キリスト者などを挙げてきた(エッセネ派説はほとんどない)。しかし、クムラン断片の発見により、パリサイ派説、キリスト者説、カライ派説は支持しがたいものとなった。またE. Sukenikによってエッセネ派説が主張され、現在でも支持されている。著者は同書をサドカイ派的伝統に連なるものと考えている。

法(ハラハー)的議論。L. GinzbergやCh. Rabinらは、『ダマスコ文書』に含まれる法的議論をラビ文学と比較することで、大きな成果を上げた(Ginzbergの唯一の間違いは、同書の由来をパリサイ派と考えたことである)。同様の試みは、フィロン、ヨセフス、カライ派、エチオピア語テクスト、外典、偽典などと対象を変えて続けられた。そして死海文書の発見後には、『ダマスコ文書』のクムラン断片、『神殿巻物』、『律法儀礼遵守論』などにも範囲が広げられた。その結果、第二神殿時代の法解釈は、ラビ文学に見られるそれに比較して、概してより厳格であると結論付けられた。ただし、この違いは時代の違いではなく、A. Geigerによると、第二神殿時代にすでに、ツァドク派・サドカイ派的な厳格路線とパリサイ派・ラビ的な甘め路線とが並存していたのだという。死海文書の発見はこの見解を裏付けている。

セクトの歴史の構築。訓戒部分には、クムラン共同体の歴史的背景を再構築する際にしばしば引き合いに出される、「390+20年」および「義の教師」に関する記述がある。研究者たちはこれらの記述を資料批判(source criticism)の方法で検証してきた。その代表例として挙げられるのは、「ダマスコ」の意味である。クムラン断片出土以前には、研究者たちはこれを文字通りシリアにあるダマスカスのことと捉えていた。しかし出土以降、これはクムランを指す暗号であるという意見が優勢になった。さらに、ダマスコをバビロニアのことと主張する者たちもおり、彼らは共同体の誕生をハスモン朝時代ではなくバビロニアに求めている。

ユダヤ教とキリスト教の歴史の再構築。ユダヤ教の歴史について、『ダマスコ文書』は第二神殿時代のユダヤ教のセクト主義やユダヤ法の歴史を明らかにしていた。キリスト教の歴史については、E. Wilson, J.M. Allegro, A. Dupont-Sommerらが取り組んだが、彼らの研究は死海文書の意味を引き出しすぎるものであったため、よりバランスの取れた研究が望まれている。

結論として、筆者は次のように述べている。『ダマスコ文書』の初期の研究はその祭司的な性格とセクト性を強調したが、クムラン断片出土後の研究の前半は祭司と法をあえて強調しないようになった。そしてすべてのテクストが出揃った現在は、祭司の法解釈やエッセネ派的イデオロギーが反映した書物として、『ダマスコ文書』を再文脈化しようとている。いずれにせよ、『ダマスコ文書』はクムラン断片を含む死海文書なしに語られることはなくなった。

2015年2月1日日曜日

パピルスから見るアレクサンドリアのユダヤ人 Bell, Jews and Christians in Egypt, Ch 1

  • Harold Idris Bell, Jews and Christians in Egypt: The Jewish Troubles in Alexandria and the Athenesian Controversy (London: Oxford University Press, 1924), pp. 1-37.
0837125871Jews and Christians in Egypt: The Jewish Troubles in Alexandria and the Athanasian Controversy
Sir Harold Idris Bell
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本論文はエジプトで発見された一巻のパピルス(Papyrus 1912, A.D. 41)をもとに、ローマ時代のアレクサンドリアに住んでいたユダヤ人がどのような環境にいたかを明らかにしたものである。このパピルスには、皇帝クラウディウス(在位後41-54年)が、その在位の初期の頃に、アレクサンドリア市民に向けて書いた書簡が含まれていた。書簡のスタイルは、極めてラテン語的なギリシア語文であるため、ラテン語で書かれたものがギリシア語訳されたか、あるいはラテン語話者によるギリシア語作文であると考えられる。これはいうなれば皇帝からの布告であるため、公の場で朗読されたと見られる。

内容的には三部に分かれている:第一に、クラウディウスの皇位継承の祝福に対する返礼および返答。第二に、いくつかの嘆願への返答。第三に、近年起きた反ユダヤ騒動への布告。第一の問題について、アレクサンドリア市民は、クラウディウスを神殿の祭司として任命しようとしていたが、彼は生きているうちから神格化されるのを嫌い、またそうした行為が市民から見て「不快」に映るのを恐れ、それを断っている。しかし、自分の誕生日を「アウグストゥスの日」として祝うことや、自分や家族の像を建立することは許可している。いずれにせよ、ここからは、帝国祭儀の発展がいかに皇帝に対する神格化を不可避にしていったかを見ることができる。

第二の問題について、クラウディウスはアレクサンドリア市民の嘆願を巧妙にはぐらかしている。未成年者の市民権に関する問題や、神殿の監督者に関する問題など、はっきりと文脈が見えないような回答になっている。中でも、アレクサンドリアに議会を作りたいという嘆願に関する問題は重要であるが、これに対してもクラウディウスはわれ関せずという態である。実際、アレクサンドリアはセプティムス・セウェルスの時代になるまで議会を持つことができなかった(プトレマイオス朝時代にもなかったと考えられる)。

第三のは反ユダヤ主義の問題である。アレクサンドリアのユダヤ人たちは「デルタ」と呼ばれる地区に固まって暮らしていたが、三つの点から敵対心を持たれていた。第一に、ユダヤ人たちが金銭的に恵まれていたという経済的理由、第二に、当時のアレクサンドリアの共同体は、とりもなおさず先祖崇拝などを中心とした宗教的な共同体だったが、ユダヤ人たちはその中で特殊な宗教を持ち、なおかつ優遇されていたという宗教的理由。第三に、ローマ帝国の支配下で二流都市に凋落してしまったアレクサンドリアにおいて、ユダヤ人たちがいち早くローマ側に寝返ったという政治的理由である。これに加えて、ユダヤ人たちはさらなる特権として、アレクサンドリアの市民権を要求していた。

ユダヤ人がアレクサンドリアの市民権を持っていたかどうかについては議論がある。フィロンとヨセフスは市民権を持っていたという証言をしているが、第三マカバイ記は市民権はなかったとしている。三マカの歴史的証言は疑問視されているので、フィロンおよびヨセフスに軍配が上がりそうだが、一方でさまざまなパピルスが市民権がなかったという証言を残している。さらにアレクサンドリアに住むマケドニア人たちが市民権を持っていなかったことも分かっている。こうしたことからフィロンとヨセフスの証言を再検証すると、やはりユダヤ人が市民権を持っていたという説はかなり弱くなる。そして本論文で扱っているパピルスもまた、市民権がなかったことを裏付けている。

クラウディウスの手紙で言及されているポグロムが、フィロンやヨセフスが記録している、ガイウス帝政下のものであるかどうかについて、著者は『イシドロスの事績』との比較から、肯定的な見解を導いている。そしてこの出来事においては、明らかにギリシア人側の方に非があることを認めている。

興味深く思ったところを引用しておきます。
The subject of the relations between the Jews of the Diaspora and the Graeco-Roman world in which they lived has been frequently discussed in recent years, but on more than one of the fundamental problems a generally accepted agreement has still to be reached. Unfortunately the discussion, in modern as in ancient times, has not always been free from racial or theological bias. (p. 10)