2018年6月5日火曜日

ユダヤ教、ギリシア・ラテン教父、シリア教父の比較 大澤『金の子牛像事件の解釈史』

  • 大澤耕史『金の子牛像事件の解釈史:古代末期のユダヤ教とシリア・キリスト教の聖書解釈』教文館、2018年。
金の子牛像事件の解釈史: 古代末期のユダヤ教とシリア・キリスト教の聖書解釈金の子牛像事件の解釈史: 古代末期のユダヤ教とシリア・キリスト教の聖書解釈
大澤 耕史

教文館 2018-03-09
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本書は、出エジプト記の金の子牛像事件について、ギリシア・ラテン教父の解釈を参考にしつつ、古代末期のユダヤ教とシリア教父の解釈の比較を試みた一作である。日本ではほとんど知られていないユダヤ伝承やシリア教父の解釈が豊富に引用されている。ユダヤ教側の資料は、5世紀から編纂が始まった『バビロニア・タルムード』まで、キリスト教側は4世紀までの解釈を対象としている。これは、第1章で研究史を概観した結果、時代や地域、歴史的な状況を一定の条件化に制限する必要があると著者が結論付けたからである。

第2章では、子牛像事件の「罪」について扱われる。ユダヤ教にとって、それは「異教祭儀」、中でも姦淫が問題だった。ギリシア・ラテン教父にとっては、具体的な図像への「偶像崇拝」が問題である。これはエジプトと関係した罪でもある。シリア教父は、これら両方の問題を取り込んでいる。すなわち、エジプトとの関係、異教祭儀、偶像崇拝、そして姦淫が取り沙汰される。ここから、シリア教父はキリスト教の立場に身を置きながらも、ユダヤ伝承を活用していたといえる。

第3章では、「アロン」の解釈が分析される。アロンは子牛像事件では「主犯」とも言える人物だが、どの解釈でも比較的擁護されている。それは、彼がユダヤ教にとってもキリスト教にとっても重要な「祭司」だったからである。やはりここでも、シリア教父はユダヤ教とギリシア・ラテン教父との類似性を持っている。

第4章では、「モーセ」の解釈が分析される。いずれの解釈でもモーセは非難されていない。ただし、ギリシア・ラテン教父はモーセを称揚するに際して、民をこき下ろしている。これは、モーセをユダヤ教から引き出してキリスト教側に引っ張り込むためである。シリア教父は、やはりユダヤ教ともギリシア・ラテン教父とも、共に類似した解釈を見せている。

第5章は、「イスラエルの民」に関する解釈が扱われる。ユダヤ教では、非難されるべき者とそうでない者を区別するなど、正当化を図るが、ギリシア・ラテン教父は概して単純に民を非難している。シリア教父は、その両方の解釈を有している。

第6章は、「サタン」の役割が解き明かされる。ユダヤ教では、子牛像事件の背後にはサタンがいたと考えるが(出エジプト記には出てこないにもかかわらず)、サタンのイメージは現代と異なっている。ヘブライ語聖書のサタンは、神の使いとして神の許容範囲内で行動するのに対し、時代が下り、新約聖書に至ると、神の敵や悪魔のイメージを得ている。一方で、ユダヤ教では依然として神の使いとしてのイメージを保持している。シリア・キリスト教はその両方のイメージを持っていた。

以上からも分かるように、シリア教父の解釈には、ユダヤ教とギリシア・ラテン教父のそれぞれに独自の特徴が両方見出される。ユダヤ教との親和性が高い理由としては、シリアではユダヤ教とキリスト教が共に少数派であったこと、相互の共同体の交流が保たれていたこと、そして言語的に似通っていることなどが考えられる。ただし、多くの場合、シリア教父がユダヤの聖書解釈を学んで自らに組み入れたのであって、その逆ではない。そのようにして、ギリシア・ラテン教父の間では失われてしまった、もしくは意図的に捨てたユダヤ的な聖書理解が、シリアにおいては保持された。

著者によると、子牛像事件が重要とされてきたのは、ユダヤ教とキリスト教の両者にとって、この事件が自分たちのアイデンティティーを示すために便利な素材であったからという。これが本書の最終的な結論である。

補遺では、ユダヤ教、ギリシア・ラテン教父、シリア教父による、子牛像事件における神の理解が描写される。ユダヤ教が神の言葉まで自由に改変する一方で、ギリシア・ラテン教父はそうしたことはしない(著者は、ギリシア・ラテン教父の予型論や比喩的解釈は、神を不動のものとして据えた上で、それでもなお多様な解釈を導くための技術だと説明する)。シリア教父は、そのちょうど真ん中ほどの厳格さを示している。やはりここでも、同じ構図が導き出される。

以下は疑問点。第一に、キリスト教でアロンが擁護されるのは、彼が祭司であるがゆえにイエスとの繋がりがあるからと著者は説明するが(91頁)、著者自身が触れているように、イエスの祭司性は伝統的にメルキゼデクに由来するとされてきた(ヘブライ書)。キリスト教において、イエスを祭司アロンとつなげるような解釈はあるのだろうか。

第二に、ギリシア・ラテン教父の間では失われた/捨てられたユダヤ伝承がシリア教父では保持されたと著者は説明するが(178頁)、そもそもギリシア・ラテン教父は失う/捨てるほどユダヤ伝承を知っていたのだろうか。オリゲネスとヒエロニュムスの他に、本当の意味でユダヤ伝承に通じていた教父などいるだろうか(ちなみに本書にはオリゲネスもヒエロニュムスも出てこない)。

第三に、比較のグループ分けが大きすぎないだろうか。少なくとも、ギリシア教父とラテン教父は別物とすべきではないか。本書では、どの章でも、シリア教父がユダヤ教とギリシア・ラテン教父の両方の特徴を持っているという構図が引き出されるが、ユダヤ教やギリシア・ラテン教父には多様な解釈が並存しているので、シリア教父がどんな解釈をしていても、それと似たようなものが見つかるのは当然ではないか。著者性の低いユダヤ教はともかく、ギリシア・ラテン教父では特定の人物を選ぶべきではなかったか。

2018年5月30日水曜日

教父学概論の定番 小高『古代キリスト教思想家の世界』

  • 小高毅『古代キリスト教思想家の世界:教父学序説』創文社、1984年。
古代キリスト教思想家の世界―教父学序説 (1984年)古代キリスト教思想家の世界―教父学序説 (1984年)
小高 毅

創文社 1984-11
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本書はいわゆる教父学(Patristic Studies)の入門書として定評のある一書である(ちなみに、本書によると「教父学(Patrologia)」という名称は、1653年、ルター派の神学者J. Gerhardによって確立された)。今から30年以上も前に、さまざまな教父の引用を豊富に紹介しつつも、不必要に難しすぎない入門書を書き上げた著者には、深い敬意を覚える。本書は現在でも、古代キリスト教思想家という「果てしない森」に分け入るための最適の一書であろう。

第1章で、著者は「教父」とはいかなる人を指すのかについて説明する。初期教会において、教師、特に司教が「父」という名で呼ばれていた。さらに、325年のニカイア公会議に参集した司教たちが、特別な意味で「父」と呼ばれるようになった。以降、公会議に参集し、信経を正しく解釈した司教たちが「父たち」すなわち「教父たち」と呼ばれた。しかし、後代になると、ヒエロニュムスのように司教ではなく司祭であっても、教父と呼ばれるようになる。このようにして基準を明確化していった結果、教父の定義としては、以下の4点が挙げられる:
  1. 教理の面で正統信仰を保持していること(doctrinae orthodoxia)
  2. 聖なる生涯(sanctitas vitae)
  3. 教会の承認(approbatio ecclesiae)
  4. 古代教会に属すること(antiquitas)
これらの基準を満たす教父としては、東方教会では、ダマスコのヨアンネス(749年没)、西方教会では、大グレゴリオス教皇(604年没)あるいはセビリアのイシドルス(636年没)が最後とされる。基準をひとつでも満たさない著作家は、教父ではなく教会著作家と呼ばれる。

第2章では、教父と聖書との関係が論じられる。すべての教父たちは、その信仰や思想を聖書のうちに培った。教父たちは、聖書を神によって書かれた一つの書と考え、新約はもとより旧約聖書の中にもキリストを見出している。ただし、彼らの旧約聖書は「七十人訳」と呼ばれるギリシア語訳であり、その翻訳は神感によるものだと考えられていた。ユダヤ人がヘブライ語原点を重視し、キリスト者が七十人訳を読むことによって、正典論が問題となった。使徒教父たちは外典からも多く引用したが、サルディスのメリトン、ユリウス・アフリカヌス、ヒエロニュムスらは、ユダヤ人の正典目録を重視した。これに対し、オリゲネスやアウグスティヌスらは、キリスト者の正典は教会の伝承に従うべきだと考えた。

第3章では、教父と伝承の問題が取り上げられる。伝承とは、もともとは父なる神に発し、使徒たちを通して教会のうちに伝えられたものである。エイレナイオスやバシレイオスらが生きた時代になると、グノーシス主義をはじめとする異端が現れたため、教会は正統信仰の確立を迫られていた。エイレナイオスは、教会のうちに保持されている伝承が唯一のものであり、その伝達は人間的な力によるものではないと主張した。すなわち、普遍性、古さ、同意性こそが伝承の特徴である。また聖書に基づく信仰は、個人の任意ではなく、伝承を伝える教会の中にあって初めて正しく理解される。つまり、伝承は、聖書と共に信仰の拠り所なのである。

第4章では、教父がどのように哲学と対峙したかが描かれる。ユスティノスは、キリスト教を哲学と見なし、自らを哲学者と呼んでいる。こうした考え方はユスティノスだけのものではなく、異教徒のガレノスもユダヤ人とキリスト教徒を哲学者と呼んでいる。事実、ユダヤ教からの自立と、断続的に襲ってくる迫害から身を守るために、キリスト教知識人が必要とされていた。ユスティノスはストア派のロゴス論をキリスト教的に解釈している。彼の先達者であるアレクサンドリアのフィロンによれば、理性によってギリシアの哲学者たちが習得したことは、啓示によってモーセが習得したこと類似性が認められるが、それは哲学者たちが聖書に負っているからであるという。ユスティノス、オリゲネス、アレクサンドリアのクレメンスらは、この考え方を引き継いでいる。一方で、哲学に対して不信を抱く者たちもいた。その代表者がタティアノスやテルトゥリアヌスであるが、異端との論争において、彼らもまた哲学的な語彙を用いるのであった。

第5章では、教父と異端との関係が語られる。異端とは、キリスト教の教理において、洗礼を受けた人物によって保持された教説であり、それが教会によって退けられ、教会から排斥すると宣言された偽りの教説である。異端の思想は、その原典が残っていないことが多いため、論争相手だった教父たちの著作を通して知ることができる。異端とは、ギリシア語の「選択する」に由来し、ある教説や生き方を選択することである。言い換えれば、使徒たちの伝承と権威を否定し、自分の選択によって偽造の教えを奉じるということである。それゆえに異端はしばしば、ラディカルな理想主義や英雄的なリゴリズムを必要とし、その信徒は少数になる。またラディカルに反社会的であることも、社会に対してまったく無関心であることもある。そして終末論的ラディカリズムに向かう傾向がある。教会は、教会会議によってこれらの異端に対処した。

第6章では教父と神学である。神学という言葉は、ウァッローの「三種の神学」に端を発することからも分かるように、もともとは異教の神々について述べる合理的な説明のことを指していた。これをキリスト教に適用したのはオリゲネスであった。彼は父と子の神性に関する考察を神学的考察(theologia)と呼んだ。これをエウセビオス、ナジアンゾスのグレゴリオスらが踏襲した。西方教会では、同様の用法は12世紀のアベラルドゥスまで待たなければならなかった(中世においては、聖なる教え(sacra doctrina)という言葉が支配的であった)。また教父たちの「神学」は、トマス・アクィナスの神学大全のような体系的な思想ではなく、実践的動機や外的状況、すなわち異郷や異端に対して信仰を擁護するためのものだった。体系化の動きは、オリゲネス『諸原理について』、ニュッサのグレゴリオス『大信仰教育講話』、エルサレムのキュリロス『信仰教育講話』などにわずかに見られるのみである。

第7章では司牧としての教父の姿が語られる。教父たちは司教として、典礼儀式の充実を図った。東方教会で行われていた詩篇や賛美歌の詠唱は、ミラノのアンブロシウスによって西方教会に取り入れられた。説教の名手としては、アウグスティヌス、ナジアンゾスのグレゴリオスらが挙げられる。説教の中でも特に聖書講話は、オリゲネスやヨアンネス・クリュソストモスらが得意とした。

第8章では、信仰の人としての教父が論じられる。教父といえども人間であり、欠点がある。とりわけヒエロニュムスやアレクサンドリアのキュリロスらは性格的に問題があった。教父たちの信仰の発露として、隠遁生活や修道生活がある。これはアントニオスによって始められた習慣だが、迫害の世から逃れるための生活ではない。むしろ、砂漠で悪魔との戦いに赴くことだった。バシレイオスやナジアンゾスのグレゴリオスは、修道生活を共にしながら、オリゲネスの『フィロカリア』を編んだ。

本書には、教父からの引用が豊富だが、それぞれの教父の生涯などについてはほとんど触れられていない。そうした情報については、同じ著者の『父の肖像』(ドン・ボスコ社、2002年)がある。

父の肖像―古代教会の信仰の証し人父の肖像―古代教会の信仰の証し人
小高毅

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2018年5月22日火曜日

七十人訳とヘブライ語テクスト、寓意的・霊的解釈と字義的・歴史的解釈  Lössl, "A Shift in Patristic Exegesis"

  • Josef Lössl, "A Shift in Patristic Exegesis: Hebrew Clarity and Historical Verity in Augustine, Jerome, Julian of Aeclanum and Theodore of Mospuestia," Augustinian Studies 32.2 (2001), pp. 157-75.

本論文は、旧約聖書の解釈に際して、基準となるテクストを七十人訳とヘブライ語テクストのどちらにするのか、そしてその解釈法はどのようなものであるべきか、といった問題について、4人の教父たち、すなわち、アウグスティヌス、ヒエロニュムス、エクラヌムのユリアヌス、そしてモプスエスティアのテオドロスの特徴を明らかにしたものである。

アウグスティヌスはヒエロニュムスに対し、七十人訳のラテン語訳(=七十人訳版)を作成するようにと繰り返し進言していた。なぜなら、アウグスティヌスにとって、七十人訳は霊感を受けた権威あるテクストだったからである。彼は結局それを得ることは叶わなかったが、ヒエロニュムスによるヘブライ語テクストのラテン語訳(=ヘブライ語版)は手に入れた。そのヘブライ語版を、彼は『神の国』の中で少なくとも6回七十人訳と比較している。ただし、それは異読を知るためであって、あくまでも基礎となるのは七十人訳である(ただし、例外として『キリスト教の教え』4.7.15-21でアモス書の一節を七十人訳なしでヘブライ語版のみを引用している)。ヘブライ語版を引用するのは、文学的・修辞的分析をするためだけである。ただし、その修辞的分析は、神学へと繋がってもいる。なぜなら、預言者たちは雄弁であると同時に神的な知恵を持っていもいるからである。

ヒエロニュムスは、ヘブライ語テクストに基づいたラテン語訳聖書を作成したわけだが、ヘブライ語やヘブライ語聖書の学びは、当時ユダヤ人の専売特許と考えられていたので、彼は親ユダヤと考えられていた。しかしながら、彼の学びは、実際には反ユダヤ・プロパガンダのために行われていた。『創世記におけるヘブライ語研究』において、彼はラビ的教えがギリシア聖書学を凌ぐと述べているが、彼の基本的な考え方によると、「ヘブライ的真理」はギリシア・ラテン聖書学の文献学的・歴史的な誤りを明らかにはするが、より深い霊的なレベルでは、そうした誤りはむしろより高次の真理として明かされるという。それゆえにこそ、彼の注解の「二重見出し」において、ヘブライ語版による引用は歴史的・文献学的解釈を、七十人訳版による引用は霊的・寓意的・予型論的解釈を導く。

アウグスティヌスとヒエロニュムスは結局のところ七十人訳を重視していたが、エクラヌムのユリアヌスはヒエロニュムスのヘブライ的傾向をさらに推し進め、ヘブライ語版のみを重視した。なぜなら、そこに明晰さ、統合性、信頼性があるからである。ユリアヌスにとっての七十人訳版は二次的なものにすぎなかった。ヘブライ語版に依拠して、厳格に修辞的・文学的分析に終始することで、ユリアヌスはテクストの「一貫性(consequentia)」を提示しようとした。この一貫性には、歴史的意味の一貫性のみならず、ときに予型論的意味や寓意的意味の一貫性をも意味する。ユリアヌスにとってのテクストの意味とは、アウグスティヌスよりもヒエロニュムスよりも厳格に、シンプルな字義的なものを指すのだった。ただし、彼の議論の土台はヒエロニュムスのヘブライ語版であり、彼の注解もヒエロニュムスに多くを負っている。

ユリアヌスの字義的・歴史的アプローチは、一方ではヒエロニュムスに由来するものだが、他方ではモプスエスティアのテオドロスにも由来する。ユリアヌスはテオドロスの注解を訳したことが知られているが、ことによるとある時期テオドロスのもとで学んでいた可能性すらある。テオドロスはオリゲネスやディデュモスの寓意的解釈を拒絶し、歴史的解釈に集中した。彼は、七十人訳にあいまいなところがあるのは、それが翻訳だからだと考えていたが、それを明らかにするために、ヒエロニュムスのように後代のギリシア語役者たち、すなわち、アクィラ、シュンマコス、テオドティオンを参照することはなかった。彼にとってテクストが正しいか否かは、その物語の真実味にかかっていた。彼はそれにこだわるあまり、アンティオキア学派において重要なテオーリアすら無視することもあった(テオーリアとは、寓意のように第二段階の意味を導くのではなく、意味の強度を示すことにある)。

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2018年5月20日日曜日

ヒエロニュムスのユダヤ人教師 Williams, "Lessons from Jerome's Jewish Teachers"

  • Megan Hale Williams, "Lessons from Jerome's Jewish Teachers: Exegesis and Cultural Interaction in Late Antique Palestine," in Jewish Biblical Interpretation and Cultural Exchange: Comparative Exegesis in Context, ed. Natalie B. Dohrmann and David Stern (Jewish Culture and Contexts; Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 2008), pp.66-86, 258-63.
ヒエロニュムスはユダヤ人教師から、ユダヤ人、彼らの習慣、そして彼らの聖書解釈を学んでいた。彼の持っている情報は概ね良好である。ここからは、単にある聖書解釈の伝統が別の伝統に影響を与えたことだけでなく、ユダヤ人とキリスト者の直接のコンタクトがあったことを窺い知ることができる。

380年の中期にベツレヘムに移り住むと、ヒエロニュムスはヘブライ語聖書の翻訳と預言書の注解に力を傾注した。そのときに彼が参照したのが、東方教父とパレスチナのユダヤ人の持っていた伝統だった。東方キリスト教の伝統には、直接師事した教父たちや文書を通じてアクセスしたが、ユダヤ人の伝統には、フィロンやヨセフスを除いて文書でアクセスすることはほとんどできなかった。そこで、彼はユダヤ人情報提供者とのコンタクトを取ったのである。

ヒエロニュムスのユダヤ人に対する態度はアンビバレントである。一方で、ユダヤ人教師に師事し、ユダヤ的な聖書解釈に繰り返し従いながら、他方で、当のユダヤ人やその聖書解釈に敵対的なことも書いている。これを単に「ヒエロニュムスは分裂した人格を持っていた」(Benjamin Kedar)と説明するだけでは不十分であろう。ヒエロニュムスがユダヤ文化と西方世界との架け橋になったのは、単に不本意な結果だったのだろうか。

4-5世紀におけるユダヤ人とキリスト者との交流は、かつて考えられていたよりも活発で重要なことだったことが明らかになっている(John G. Gager)。また「ユダヤ人」と「キリスト者」、あるいは「ユダヤ教」と「キリスト教」というカテゴリーは不安定ではっきりしないものであり、完全な別物と考えることはできない。影響関係についても、どちらが影響を与え、どちらが与えられたかを問うことは難しく、むしろ創造的な相互のプロセスだったと考えるべきである(Peter Schaefer)。

とはいえ、論文著者は、両グループが敵対心を持って互いを見ていたことは否定できないし、影響関係にも完全な中立はあり得ないと述べる。とりわけヒエロニュムスの著作は、そうした敵対心があったという社会の現実の証拠を示している。それゆえに、彼の著作を読むために、よりホリスティックで洗練された読み方が必要とされる。

3世紀から4世紀にかけて、「異教」としてローマの伝統宗教は、文化や宗教のリソースとして潜在的な活力をまだ失っていなかった(Peter Brown)。しかしながら、4世紀にキリスト教は国教化する。これは、カルトや蛮族の侵入といった外的要因によって異教が力を失ったからではなく、帝国の内的変化によって起こったものと考えられる。この変化の理由は、司教たちがローマの市民生活のあらゆる領域で自分たちの権威を確立しようとしたことにあるという。こうした前提からミラノのアンブロシウスのキャリアを再解釈すると、彼が皇帝との関係性を強化して自らの司教としての生き残りを模索した様子が浮かび上がってくる(Neil McLynn)。

しかしながら、こうした司教たちの動きは、キリスト者と非キリスト者という明確な分離を生み出した。それまで未分化だったキリスト教と異教とが、355年以降になると、はっきりと分かれてしまった。つまり、キリスト教が確固とした社会的地位を獲得していくに従って、そうでないものとしての異教があらわにされていったのである(Robert Markus)。そしてヒエロニュムスの時代こそは、キリスト教が社会的・文化的に最もはっきりとしたアイデンティティを持っていた時代であった(その後キリスト教は成長を続け、一人勝ちした結果、キリスト教が他を吸収するかたちで再び未分化になる)。

ローマの伝統宗教がそうであったように、ユダヤ教もまたキリスト教にとっての他者であった(Daniel Boyarin)。テオドシウス1世以降のキリスト教皇帝たちがユダヤ人をキリスト教徒と別個のカテゴリーと見なし、「誤り」として区別したことは、ユダヤ人とキリスト教徒との間に法的権利上の大きな差異を生み出した(Seth Schwartz)。ただし、その差異は、キリスト教と異教との差異とは微妙に異なってもいた。異教徒や異端者がキリスト教への改宗を強制されたのに対し、ユダヤ人は社会の周縁に押しやられつつも、改宗を強制されなかったのである。というのも、アウグスティヌスのユダヤ人理解に見られるように、ユダヤ人を悲惨な運命のまま、生かさず殺さずの状況下に置くことで、キリスト教の正しさが証明されるからである。もしユダヤ人がいなくなってしまったら、キリストを拒絶し殺したものたちの後継者として、集合的な罪を一身に背負う存在がいなくなってしまう(Paula Fredriksen)。Schwartzはさらに、礼拝での詩歌であるピユートには、古代末期のキリスト教徒による反ユダヤ的な神学を取り込んだ内容のものが見られると述べる。ヤンナイなどの詩人は、ユダヤ人の衰亡とエドム(=キリスト教的ローマ)の繁栄を対照的に描いている。

さて、ヒエロニュムスが活動を始めた時期には、ユダヤ人とキリスト者の境界線は明確ではなかったが、彼自身がそれを越えてユダヤの聖書解釈を取り入れていくことによって、かえってその境界線は強まった。ヒエロニュムスの大きな業績は、預言書の注解と聖書の翻訳である。彼の注解は、テクストを字義的・歴史的意味と、寓意的・霊的意味に分ける。まずは字義的解釈によって、聖書の歴史的意味を明らかにした上で、それから寓意的解釈によって、聖書の霊的意味を明らかにする(そのときに前者は後者から独立しているのではなく、むしろそれを抑制する)。興味深いことに、彼は、字義的・歴史的解釈をユダヤ的、そして寓意的・霊的解釈をキリスト教的と呼ぶ。これは、それぞれの解釈法で依拠したソースを表しているのではない。なぜなら、彼の寓意的解釈には、明らかにユダヤ教のミドラッシュから取られたものもあるからである(逆もまた然り)。

ヒエロニュムスがユダヤの解釈伝統のカテゴリーに帰しているのは、本文批評、歴史的解釈、そして千年王国説的解釈である。第一に、本文批評に関して、ヒエロニュムスが実際に依拠しているのはオリゲネスの『ヘクサプラ』であるが、彼はそれを常にユダヤ人教師から習ったと主張する。第二に、歴史的解釈は、ヒエロニュムスがユダヤ資料から直接学んだものものあれば、オリゲネスが彼の教師から習ったものを間接的に学んだものもある。また、ユダヤ人のものともキリスト者のものとも限定されない、シリア・パレスチナで共有されていた聖書解釈も含まれていた。

そして第三に、千年王国説的解釈は、神の国が地上に到来することを予言するような解釈のことであるが、これをヒエロニュムスはユダヤ由来とした上で、無意味で不快なものとして紹介している。ただし、やはりこれも実際にはユダヤ的伝統のもののみならず、キリスト教的な黙示的解釈をも含んでいる(テルトゥリアヌス、エイレナイオス、ウィクトリヌス、ラクタンティウス、アポリナリオスなど)。この解釈においてヒエロニュムスが問題としているのは、メシアが到来した未来には、大いに食べたり飲んだり結婚したりすることが許される、といった色欲に関わる事柄が含まれていることだった。修道者である彼は、これらを唾棄すべきものだと考えた。以上のように、ヒエロニュムスは、キリスト教的解釈であっても、彼が同意しないものはユダヤ的と呼んだのだった。

このようにして、ヒエロニュムスがある特定の注解を「ユダヤ的」と呼んだことは、キリスト教とユダヤ教との分化が加速する一因となった。この不当表示は、不当ながら力強いものであり、単なる修辞を超えて、のちに司教や帝国の権力と結びつくことで、既成事実となったのである。

2018年5月16日水曜日

ヒエロニュムスの神学 Kamin, "The Theological Significance of the Hebraica Veritas in Jerome's Thought"

  • Sarah Kamin, "The Theological Significance of the Hebraica Veritas in Jerome's Thought," in ead., Jews and Christians Interpret the Bible (Jerusalem: The Hebrew University Magnes Press, 2008), pp. vii-xx.
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Sarah Kamin

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ヒエロニュムスが、七十人訳の聖性を否定し、ヘブライ語テクストから旧約聖書を翻訳することを決断した理由は、これまでの研究では、第一に、既存の翻訳(七十人訳あるいは古ラテン語訳)への不満(スタイル上の劣化、写本の劣悪な保存状態、テクスト上の異同)、第二に、原典がヘブライ語であるという事実(古ラテン語訳は重訳)などから説明されてきた。本論文の著者は、そうした「文献学的・科学的」な動機付けだけでは、もともと保守的な思想の持ち主だったヒエロニュムスが、教会からの反感を買いながらも大胆な決断をしたことを十分に説明できないと主張する。

ヒエロニュムスの批判者だったアウグスティヌスは、七十人の長老たちが霊感を得て翻訳したと考えた。そして七十人訳の権威とは、畢竟するにこの霊感に由来するものだと主張したのだった。七十人訳に、ヘブライ語テクストとテクスト上の異同があっても、それは神の計画の基づく意味のある違いである。その違いによって、七十人訳が原典に劣ると言うことはできない。いわば、翻訳者は実際には預言者と同じ機能を持っているのである。論文著者は、この霊感を基にした権威の有無を、「神学的」な議論と呼んでいる。すなわち、アウグスティヌスは、七十人訳とヘブライ語テクストとのテクスト上の異同という文献学的な事実を、霊感の有無の議論を持ち込むことで、神学的に説明している。

論文著者は、このアウグスティヌスの議論に見られるような神学的なポイントが、ヒエロニュムスの議論にもあるはずだと考え、彼の『五書序文』を取り上げている。ここでのヒエロニュムスの議論の出発点もまた、アウグスティヌス同様、七十人訳とヘブライ語テクストとのテクスト上の異同という文献学的な事実である。しかしながら、彼は七十人の翻訳者を預言者ではなく単なる(知識のある)人間だと見なした。ヒエロニュムスによれば、七十人は、キリストの到来の前に翻訳をしたので、聖書における神の言葉を十全には理解しておらず、よく分からないところは曖昧にしている。それどころか、彼らは誤りを犯しているところさえある。

論文著者によれば、ここにおいて、ヒエロニュムスの議論が神学的なものに変わる。彼にとってヘブライ語テクストが重要なのは、それが神のもともとの言葉であり、またキリストの到来を預言しているからである。七十人訳は、単なる人間にすぎない翻訳者たちがキリストの到来を実際には知らないままに作った翻訳にすぎない。それにもかかわらず、当時のキリスト者は七十人訳を、あたかも霊感を受けているものであるかのように大事にしている。そこでヒエロニュムスは、キリスト教世界のために、キリスト教的な翻訳を作成しようとしたのだった。

ヒエロニュムスの議論を論文著者はこう説明するが、自身の説明の弱点を二点挙げている。第一に、証拠となるテクストが『五書序文』ひとつであること、そして第二に、その序文の中でヒエロニュムス自身が矛盾したことを述べていることである。ヒエロニュムスによれば、七十人訳に曖昧なところや誤りがあるのは(たとえば、新約聖書における旧約引用は、七十人訳とは文言が一致しないが、ヘブライ語テクストとは一致する)、七十人がキリストの到来を知らないままに翻訳したからであった。一方でヒエロニュムスによれば、七十人は、旧約聖書中に含まれている父・子・聖霊に関する言及がプトレマイオス王に露見することを恐れたために、意図的に意味を変えたのだという。すなわち、七十人訳に見られる異同は、七十人が旧約聖書の真の意味を分かっていたからであり、同時に分かっていなかったからでもあるという説明をしていることになる。

この矛盾を抱えたまま、ヒエロニュムスは次のような結論を導く。第一に、七十人は霊感ではなく自分たちの見解を基に翻訳した。第二に、七十人訳はキリスト教共同体にとって特に有益ではない。七十人訳による訳文改変が意図的であるというヒエロニュムスの見解は、おそらく彼の先達者であるエウセビオスやオリゲネスから来ている。ただし、彼らは七十人の霊感説を前提とした上で、翻訳者たちが神の言葉を意図的に改変したのは、まだ異邦人がキリストの教えを受け入れるには機が熟していないと考えたのに対し、ヒエロニュムスは霊感説を否定した上で、翻訳者たちがいわば神の言葉を改竄したと考えた。

興味深いことに、エウセビオスやオリゲネスによると、シュンマコスらのちのユダヤ人翻訳者たちは、ヘブライ語テクストをより正確に翻訳したために、ユダヤ人でありながら、かえって七十人訳よりも正しく、旧約聖書に含まれるキリスト教的な信仰を伝えているという。すなわち、七十人は旧約聖書中のキリスト教信仰を理解していたがゆえにそれを隠し、ユダヤ人翻訳者たちは知らなかったがゆえにそれを明らかにしたのである。七十人訳よりもユダヤ人翻訳者の方が正しいというエウセビオスらの考え方から、七十人訳よりもヘブライ語テクストの方が正しいというヒエロニュムスの考え方へと変わるのは、時間の問題であった。

筆者の考えとしては、論文著者の指摘する上記の矛盾は、それほど大きな問題ではない。ヒエロニュムスによれば、七十人は、キリストの到来をまったく知らなかったわけではない。彼らをそれを「歴史」として知らなかったのであって、「預言」としては知っていたのである。つまり、すでに起きたこととしてキリストの到来を知っている使徒(やヒエロニュムス自身)に比べれば、七十人はそれを知らなかったかもしれないが、これから起こることとして、プトレマイオス王にそれを知らせないようにするほどには知っていたのである。

2017年10月2日月曜日

クムラン共同体の宗教思想 Vermes, "The Religious Ideas of the Community"

  • Geza Vermes, The Complete Dead Sea Scrolls in English (Fiftieth anniversary edition; London: Penguin Books, 2011), pp. 67-90.
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ユダヤ教の信仰や習慣というのは、クムランも含めてシステマティックなものではないので、キリスト教的なドグマをモデルにすると歪んでしまう。それでもユダヤ教において重要なキータームとしては「契約」を挙げることができる。聖書物語というのは、神との契約への継続的な不信仰の物語といえる。イザヤ書やエレミヤ書では、何度悔い改めても契約が守られないので、新しい契約という考え方が示されている。クムランにおいてもこの考え方が踏襲されている。すなわち、改宗の報いとして、義の教師が新しい契約を定めるために送られてきたのであり、義の教師を迎えた共同体のみが新しいイスラエルとなるのである。

第二神殿時代のユダヤ教はさまざまな党派に分かれていたが、律法の遵守を重要視するという点では一致している。というよりも、それぞれの党派は自らの考え方を律法に基づいて正当化しようとする。クムラン共同体に独特な律法解釈としては結婚に関する考え方がある。レビ記18:13において叔母と甥の結婚が禁止されているが、では叔父と姪はどうなのかというと、パリサイ派やラビ・ユダヤ教はこれを許す。なぜなら聖書はこの組み合わせについては沈黙しているからである。しかしながら、クムラン共同体は男性に適用される法は女性にも適用されると考えるために、叔父と姪の結婚は許されない(CD 5.8-11、11QT 66.16-17)。クムラン共同体は律法のみならず預言書もまた重要視している。これは、彼らが終末論的世界観の中で、共同体の賢者のみが預言書を正しく解釈できると信じていたからである。義の教師は、預言者自身も分かっていない預言の内容を正しく解き明かす。

選民思想についても、クムラン共同体は独特の考え方を持っていた。ユダヤ教においては基本的にすべてのユダヤ人が選ばれているとされるが、後代になると善人は選ばれるが悪人は選ばれないと考えるようになった(『パレスチナ・タルムード』「キドゥシン」61c)。これに対しクムランでは、第一の特徴として、個人の選びがある。すなわち、ユダヤ人であれば自動的に選民となるのではなく、大人になる過程で契約に入るプロセスを経て初めて選ばれるのである。第二の特徴は予定説である。すなわち、選ばれるかどうかは最初から決まっているのである。そして第三の特徴としては、善人と悪人との区別がある。

クムラン共同体における祭儀は、独特の暦に基づいている。ユダヤ教の多くの党派では一年を354日とする太陰暦が用いられ、アダル月のあとに閏月を入れていたが、クムランでは一年を364日とする太陽暦が用いられていた。太陽暦を用いることで、必ず同じ曜日に同じ祭りが開催されることになるのである。クムラン共同体が特別な暦を採用したことで、彼らは他の集団とは別の時期に祭りを祝うことになる。これはあえてそうすることで自分たちのアイデンティティを確立することができる。

クムラン共同体は、儀礼的な沐浴、神殿祭儀、そして共食についてしばしば言及する。沐浴は清浄規定と関わる。彼らは、体の外側だけではなく内側もまた清浄な者のみが沐浴をすることを許した(1QS 5.13-14)。神殿祭儀については、むろんエルサレムの神殿ではなく、クムラン共同体という新しい神殿での祭儀が真正だと考えられた。共同体を神殿と同一視する考え方がしばしば見られる(1QpHab 12.3-4)。一般的に、性行為をした者は神殿祭儀に参加することを禁じられたが、共同体でもこの決まりは守られた。共食について、最後の食事は終末のプロトタイプだと考えられた。

クムラン共同体は、特異なメシアニズムを持っていた。ユダヤ教一般と同様に、一人のメシアを語ることもあるが、一方で二人のメシア、そして時には三人のメシアについても語っている。第一のメシアは「王としてのメシア」であり、「ダビデの若枝」、「イスラエルのメシア」、「全会衆の王子」、そして「王笏」などとも呼ばれる。第二のメシアは「祭司としてのメシア」であり、「アロンのメシア」、「祭司」、「律法の解釈者」などと呼ばれる。この祭司としてのメシアは、栄光の前に恥辱を味わうというイメージがある。そして第三のメシアが「預言者としてのメシア」である。クムラン共同体では、この預言者こそがすでに到来している義の教師であると考えた。

死後の世界についてもクムラン共同体は特異な解釈を持っている。聖書時代の死後の世界は、善人も悪人も行く「シェオル」という冥界が少し出てくるくらいだった。すなわち、神が人と関わるのは、人が生きているときだけだった。しかし捕囚後になると、アンティオコス・エピファネスの迫害などで殉教した者たちについて、自発的に神のために死んだ報いとして「復活」の考え方が出てきた。さらには「不死」の考え方も『知恵の書』などで言及されるようになった。ヨセフスによると、エッセネ派は、牢獄としての肉体から魂として永遠の生へと至るという、ヘレニズム的な「不死」の概念を持っていたが、「復活」には言及していない。これと同様に、クムランでも義人の報いとしての「不死」の概念は出てくるが、「復活」はほとんど出てこない(唯一の例外が4Q521)。

2017年9月21日木曜日

クムランの聖書学 クロス「ヘブライ語聖書テキストの背後にあるテキスト」

  • フランク・ムーア・クロス「ヘブライ語聖書テキストの背後にあるテキスト」、ハーシェル・シャンクス編『死海文書の研究』(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)、ミルトス、1997年、217-38頁。
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死海文書の発見以前には、すべての中世のヘブライ語聖書写本は、紀元後の早期に定着した単一の校訂本が底本となっていると考えられていた。すなわち、中世のテクストは単一の原型、一つの写本に由来すると信じられていたのである。

しかしながら、クロスによれば、クムランで発見された聖書写本と、死海南部で発見された聖書写本(ナハル・ヘヴェル、ワディ・ムラバアト、マサダ)とを比較すると、大きな違いがあるという。クムラン写本は70年の第一次ユダヤ反乱以前に書かれ、南部写本は70年から第二次ユダヤ反乱の135年の間に書かれた。南部写本は現在に伝わるマソラー本文から際立った逸脱が見られないテクストであるのに対し、クムラン写本はマソラー本文につきものの標準化が見られないのである。たとえばクムランからは、2種類のエレミヤ書や詩篇が見つかっている。

クロスは、こうしたさまざまなテクストタイプは、筆写による伝達の中で、地域ごとに発達したものだと考える(=「ローカル・テクスト理論」)。そしてとりわけ五書やサムエル記に関しては、パレスチナ、エジプト、バビロニアの三つの土地ごとの発達が見られるという。パレスチナ・テクストはサマリア五書へと至るものである。エジプト・テクストは七十人訳やクムランの短いエレミヤ書へと至るものであり、古パレスチナ・テクストから枝分かれしたものである。そしてバビロニア・テクストはマソラー本文の基礎となっている。

このように、聖書写本には本来少なくとも三つのタイプがあるはずであるが、南部写本からはマソラー本文と極めて近いテクストタイプがただ一つあるのみである。それゆえに、第一次ユダヤ反乱以後、少なくとも第二次反乱までに、マソラー本文の原型が権威あるものとして確定していたと言うことができる。

マカベア王朝以後の派閥の乱立の中で、さまざまなローカル・テクストがユダヤへ流れ込み、テクストの乱れにつながった。その後の前2世紀以降の宗派間の宗教論争によって、固定された権威あるテクストの必要性が生じた。そしてついに第二次反乱までにラビ校訂版が発布されたわけだが、クロスによればそれは大賢者ヒレルの仕事であったという。バビロニアからパレスチナへやってきたヒレルは、バビロニア起源のテクストを基礎として校訂版を作成したものである。その際に彼は、他のローカル・テクストから異同を取り出して折衷的な合成テクストを作ることはしなかった。とはいえこれは五書に限った話で、預言書ではパレスチナ・テクストが採用された。それは、マソラー本文では長い版のエレミヤ書が採用されていることからも見て取れる。

聖書の正典化、すなわち確定された聖書のリストに関して、確認できる最古のものはヨセフス『アピオーンへの反論』に収められたものである。クロスは、このヨセフスの記述はヒレルと彼の学派の教義に由来すると考えた。これまでしばしば後1世紀の終わり頃にヤブネでラビたちの会議が開かれ、そこで正典が確定したと考えられてきたが、ヤブネでは実際にはコヘレト書や雅歌について論じられていただけだったと、近年では考えられている。クロスによれば、ヤブネでの話し合いなどより以前のヒレルの意見に沿って、ヨセフスは聖典を挙げたのである。

また、この正典の確定はテクストの確定と連動している。ヒレル派のライバルの祭儀や暦の教義、競合する法的見解や神学的教義、そして黙示思想やグノーシスの神話解釈に対して、ヒレル派の弁論を構築する上で、テクストと正典の確定は必要なプロセスだった。