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2012年2月27日月曜日

アガダーの本質 Heinemann, "The Nature of the Aggadah"

  • Joseph Heinemann, "The Nature of the Aggadah," in Midrash and Literature, ed. Geoffrey H. Hartman and Sanford Budick (New Haven/London: Yale University Press, 1986), 41-55.
0300034539Midrash and Literature
Geoffrey H. Hartman Sanford Budick
Yale Univ Pr 1986-04
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アガダー(ユダヤ教説話文学)に関する概説的な論文を読みました。この論文は、ヨセフ・ハイネマンの代表的な著作である『アガダーとその発展』(ヘブライ語)の第1章を英訳したものです。
B000KYMEGEAggadah and Its Development - HEBREW
J. Heinemann
Keter 1974by G-Tools

アガダーというタームは密接に「話すこと」と関係しているわけですが、それは第一に、パレスチナの文書で使われるハガダーという語(ハイネマンによるとアガダーの同義語[筆者注:要確認!])の動詞形「述べる」(להגיד)が、「(物語を)語る」(לספר)という動詞と同じ意味であること、第二に、ハガダー(=アガダー)という言葉がミドラッシュ文学における定型句「聖書曰く」(מגיד הכתוב)という言い回しに由来するものであること、から分かるそうです。そしてアガダーとは何か、という定義については、伝承方法の観点から言えば、「公けの説教において口頭で伝わってきた伝承」、そして内容的な観点から言えば、「ミツバー(ユダヤ教の法)以外の部分」という言い方ができます。後者のような否定的な定義の仕方は、中世から伝わる伝統的なものです。

ユダヤ賢者たちは創造的な聖書解釈することによって、激変する現実にトーラーを対応させようとしたわけですが、ハイネマンはアガダーを次の3つのカテゴリーに分けています。1)聖書物語に関するアガダー、2)聖書以後の人物・出来事を記す「歴史的」アガダー、3)宗教・倫理の指針となる「倫理・教化的」アガダー。とはいえ、聖書アガダーも歴史的要素を含んでいますし、逆もまたしかりなので、言うまでもなくこれらは完全な区分ができるものではありません。賢者たちは、アガダーの物語性・娯楽性を打ち出すというよりも、聖書に従属しつつそこに新たな意味を見つけ、倫理的な教えを引き出すという目的を持っていたため、あまり独立した形式には拘りませんでした。
... the bulk of talmudic-midrashic Aggadah does not stand by itself but rather serves the Bible, explicating and elaborating it, and also adapting it ... to present needs. For this reason rabbinic aggadot generally did not take the form of epic stories or extensive independent works. Since these rabbinic aggadot were most often told during the public homily which was linked to the reading of the scriptual lesson in the synagogue, they were automatically related to the relevant biblical stories.(p. 47)
賢者たちは、単に聖書テクストの内容のみならず、一件無関係な単語レベルからの解釈まで進むこともあり、その際にはしばしば聖書のコンテクストが無視されることすらありました。またそうして聖書の隠れた意味を探すだけでなく、シナゴーグの聴衆たちの宗教的な問題を解決し、導きとなり、そして彼らの信仰を強めるような解釈をしようとしましたので、アガダーは抽象的な議論というよりは、具体的な物語のかたちを取ることが多くなりました。
... most aggadot have two levels of meaning, one overt and the other covert. The first deals openly with the explication of the biblical text and the clarification of the biblical narrative, while the second deals much more subtly with contemporary problems that engaged the attention of the homilists and their audience.(p. 49)
アガダーの特徴はハラハー(法)との比較によっても浮かび上がってきます。実際のところタルムードなどでは、両者の区別は判然としない場合があり、最初ハラハー的な議論から始まった箇所も、最終的にアガダー的な解決がなされることすらあるようですが、ハイネマン(およびアブラハム・ヨシュア・ヘシェル)はハラハーとアガダーとを、パンとワインに比すことで、両者の違いを説明しています。
Talmud, that is, Halakhah, is characterized as man's chief nourishment without which existence is impossible; but, like wine, Aggadah "wears a smile." ... Man does not live by bread alone; wine has something that bread lacks—there is no joy without wine and one does not sing songs except over wine.(pp. 51-2)
むろんこうした比喩はアガダーを肯定的に扱っているわけですが、バビロニアのアモライームたちの中には、アガダーの自由度の高さを批判する者たちもいました。彼らによれば、ハラハーに関しては、自分の師から聞いたものをそのまま次の世代に教えていけばよいわけですが、アガダーに関しては、自分の師からの教えのみならず、付加や逸脱が容易になされてしまうことが問題なのです。しかしハイネマンによると、こうしたアガダーへの否定的評価というのは、ラビ・ユダヤ教の伝統を脅かすセクトによるアガダー創作(外典・偽典などに結実する)の急増が理由の一つと考えられるそうです。

2012年2月24日金曜日

ギリシア・ラテン教父のアガダー評価

ギリシア・ラテン教父たちが、ユダヤ教のアガダー(説話)文学をどのように評価していたかを検証した論文を読みました。教父学とユダヤ学の双方に目配りの行き届いた、素晴らしくよく書けた論文です。

すでにハインリヒ・グレーツをはじめとする19世紀のユダヤ教科学によって、教父文学にはユダヤ教由来の伝承が数多く含まれていることが指摘されていましたが、当時の研究はそうした平行箇所の同定に留まり、なかなか本質的な検証には至っていませんでした。そこでKamesarは、実際に当時の教父たちがアガダーをどのように評価していたのかというところまで問いを深めようとしたのです。教父たちはアガダーを「ヒストリア」として捉えていましたが、これはラビたちのアガダー理解(=ハラハー以外の部分、物語による聖書の敷衍、道徳的・神学的な狙い)とは異なり、むしろ世俗の古典文学の解釈法を念頭に置いた理解でした。古典文学の伝統において、解釈法は4つに分けられていました。
I.    アナグノースティコン:正しい読みと発音
II.  エクセーゲーティコン:内容理解
III. ディオルトーティコン:正しいテクストの確立
IV.  クリティコン:テクストの美的・道徳的評価
このうち二つ目のエクセーゲーティコンはさらに次の4つの観点に分類されます。
i.   グロッセーマティコン:語彙
ii.  ヒストリコン:実際の物事の説明
iii. テクニコン:文法・修辞
iv. メトリコン:韻律
教父たちはユダヤ教のアガダーを、こうした分類の中でも、エクセーゲーティコンのうちのヒストリコンに当てはめて考えていたのです。ちなみにヒストリコン自体もさらに次の4つの下位分野があります。
1. ゲネアロギコン:人の系譜
2. トピコン:場所
3. クロニコン:時間
4. プラグマティコン:出来事
さて、世俗の古典文学の解釈においては上のように「ヒストリコン」の分野がれっきとして存在したわけですが、クインティリアヌスやセクストゥス・エンピリクスなどの文法学者たちは、1)過度に「歴史的」な解釈は衒学的で不必要である、2)何が「歴史的」で何がそうでないかの基準がはっきりしない、という2つの批判を投げかけていました。教父たちは、アガダーを利用しつつも、こうした文法学者によるヒストリコン批判をも受け継いでいたために、アガダーに対しクインティリアヌスらと同様の批判をすることになったのです。しかしその批判にも濃淡があり、いわゆる「学派」によってざっくりと分けることができます。

アガダーを積極的に受容したのはアレクサンドリア=パレスティナのグループで、オリゲネス、エウセビオス、ヒエロニュムス、アレクサンドリアのキュリロスなどが挙げられます。一方で、非受容派はアンティオキアのグループで、タルソスのディオドロス、モプスエスティアのテオドロスなどが挙げられます。後者のアンティオキア・グループは字義通りの解釈を特徴としており、その原則は、「聖書で語られていないことについては研究すべきではない」(テオドレトス)というものでした。聖書で沈黙されていることについて過度に関心を持つことは、推測的な解釈を誘発し、聖書の真実とかけ離れてしまう、と彼らは考えたわけです。

これに対し、アレクサンドリア=パレスティナのグループは、アンティオキア学派と2つの大きな違いを持っていました。第一に、アレクサンドリア=パレスティナのグループは、アガダーは成文律法ではないにしろ、ユダヤ教の正当な伝承経路を持った、口伝の歴史的証言であると考えていました。また第二に、アンティオキア学派の言うように、アガダーが(聖書に対するうがった)憶測的な側面を持っているにせよ、歴史の解釈の文脈の中で何らかの役割を果たすはずとも考えていました。つまり、アガダーを歴史が反映している口伝伝承であると考える場合と、根拠のない憶測的な証言であると考える場合とがあるわけですが、前者の判断のもとでアガダーを紹介する場合はtradunt, narrantという枕詞が使われ、後者の場合ではputant, autumant, suspicanturという言葉から始まることが多いようです。こうした区別は、特にヒエロニュムスにおいて顕著であり、彼はある聖書箇所に関するアガダーが他の聖書箇所によって裏打ちされる場合にのみアガダーを肯定的に扱い(歴史が反映しているから)、一方でそうした裏打ちがない場合には口を極めてユダヤ伝承を罵っています(単なる憶測だと判断したから)。

Kamesar自身が、今回は手を付けなかった問題として最後に触れているのですが、ここにシリアの伝統を組み込むと、さらに興味深いことになるようです。というのも、アンティオキア学派はアレクサンドリア=パレスティナのグループと異なり、直接ユダヤ人との交渉を持っていなかったと考えられますが、一方で彼らだけがエフライムやアフラハトなどシリア教父たちの資料を知ることができたからです。すると、エメサのエウセビオスなどが重要な意味を持ってくることになります。

9068319582A Syrian in Greek Dress the Use of Greek, Hebrew and Syriac Biblical Texts in Eusebius of Emesa's Commentary on Genesis (Traditio Exegetica Graeca)
R. B. Ter Haar Romeny
Peeters Bvba 1997-01-01
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2012年2月21日火曜日

言語とグノーシス

  • ジョージ・スタイナー(亀山健吉訳)「言語とグノーシス」、『バベルの後に:言葉と翻訳の諸相』、法政大学出版局、1999年、101-205頁。
バベルの後に〈上〉言葉と翻訳の諸相 (叢書・ウニベルシタス)バベルの後に〈上〉言葉と翻訳の諸相 (叢書・ウニベルシタス)
ジョージ スタイナー George Steiner

法政大学出版局 1999-03
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スタイナーの『バベルの後に』の第2章を読みました。この章は、実に素朴な問いから始まっています。曰く、「いったい、人間は何故、何千もの異なった、相互に了解し得ない言葉を語っているのであろうか」(101頁)。第1節では、この問いをめぐって、歴史的にどのような議論があったかが紹介されています。特に近代に入って、ベンヤミン、カフカ、ボルヘスらの議論が紹介されています。

とはいえ第1節の議論はあくまでイントロダクションで、この章の中心的な議論は第2節からはじまります。すなわち、このように多様な言語がある中で、異なった言語間の翻訳というものが本当に可能なのかどうか、という問いです。特に言語学における研究史を紐解くと、この問いに対しては、次の2つの説明がなされてきました。第一は「普遍主義」の立場からの説明で、それによると言語の相違とは表面的な問題であり、言語の深層に潜んでいる構造そのものは普遍的なものであるのだから、もちろん翻訳は可能であるという結論になります。第二は「単子主義」(あるいは「相対主義」)の立場です。こちらによると、普遍主義などというのはまやかしであり、一般的に《翻訳》と呼ばれているものは実際のところ粗筋が似ている別物にすぎないという結論になります。

後者の主張の代表者であるライプニッツによると、我々の思考を決定づけているのは他ならぬ言語そのものであるのだから、言語を異にする者同士は互いに異なった世界の見方をしている(ゆえに本質的には翻訳は不可能)ということになると述べています。第二節では、このライプニッツをはじめとして、後者の立場から議論した人々が挙げられています。たとえば、ハーマン、ヘルダー、フンボルト、そしてベンジャミン・リー・ウォーフなどで、たとえばヘルダーはロマン主義的な考え方から、ドイツ民族の母語たるドイツ語の個性は、他の言語に移し得ないと説明しました。フンボルトは、言語によって世界観が異なることを示すために、ギリシア語とラテン語を例に、ギリシアとローマとがいかに対照的な文化の構造と社会現象を作り出したかを証明しようとしました。そしてホピ語の研究をしたウォーフの言説に関して、スタイナーは次のようにまとめています。
ウォーフの主張したテーゼはよく知られている。すなわち、個人が自分の住んでいる世界の中で何を知覚し、世界についてどう考えるか、を決定するのは言語の型である。こういう言語の型…は、それぞれ大幅に異なっているので、異なった言語体系を用いる集団においては、知覚の仕方、思考の方法、および反応の有り様は当然異なってくるはずである。そうなると、基本的に違った世界像が生まれてくることになる。…それ故、人間の意識に関する限り、普遍的な意味で客観的と言えるような現実は実体としては存在しない。(170頁)
こうした相対主義的な議論に対し、第三節においては普遍主義の議論が紹介されます。普遍主義の立場の者たちは、もちろん言語間にはたまたま生じた違いがあるだろうが、その下部には統一された、普遍的な原則が潜んでいるのであって、この原則こそが人間の言語に特有の精神を決定しているものなのだ、と述べます。そうした原則としては、音韻、文法、意味の3つがあります。音韻については、トゥルベツコイの研究が有名であり、文法についてはグリーンバーグの研究が挙げられていますが、いずれも多くの例外を含んだ不十分なものとされています。普遍主義の代表選手であるチョムスキーは、こうした音韻論や通常の構文レベルで普遍的なものを追求しようとしても不十分であり、より深いところに潜らねばならないと考えました。チョムスキーは、文法習得は環境からのフィードバックとは全く無関係な生得的なものであり、そうした能力は人間に内在しているものであるのだから、言語間のさまざまな違いは結局「表層構造」の違いだけであって、重要なのは「深層構造」であると述べています。スタイナーによれば、こうした言語構造の普遍性は、結局のところ推測に基づく暫定的なものでしかないようですが、しかし「翻訳」というものがある以上、こうしたある種の普遍性を前提としなければなりません。
翻訳というものは、本質的には、今問題にしている普遍的原理があることを示す、最も明白な証拠を提示して見せなくてはならない。言語相互の間で意味の移動が可能であるということ自身、人間の言語すべての底にある何か共通の鋳型、もしくは、共通の構造に固く根ざしているように思われる。しかしながら、実質的な普遍性を形式的な普遍性から区別するにはどうしたらよいのであろうか。…形式的な普遍性があらゆる言語の根底にあるが故に完全な翻訳が可能になるのか、それとも、普遍性が実質的な形状を示すのは稀な場合で、たとえ示すとしても曖昧な形でしかないので、翻訳というものは実際には、いつまで経っても不可能なのか、我々はいったいどうすればこの問題に決着をつけることができるのであろうか。(199頁)
スタイナーは、この章を最終的にはチョムスキー批判のようなかたちで締めくくっており、翻訳の可能性に関わる上の問いに対しては、次のように述べるにとどまっています。
言語の働き方のうち、より深く重要なものは、現実の意識、もしくは潜在的なあり得る意識の次元を、遥かに超えたところで働いていることを承認するより先に(これがチョムスキーの要請するところである)、今取り上げた意識が最も直截的に働いている場所である文芸の世界――生々たる活気に満ちた無秩序の領域――に我々は注目しなくてはならない。言語、および、翻訳についてより多くを知るためには、変形文法でいうところの〈深層構造〉から、詩人の領域というさらに深部の構造へと移ってゆかなくてはならない。(204頁)
スタイナーは、要するに、翻訳について論じるためには言語学では不十分で、文学の領域で論じなければならないというところに持っていきたかったようです。私自身があまりチョムスキーについてよく知らないために、スタイナーの批判の勘所が分かりづらかったので、いずれそのあたりを押さえて再読してみるのもいいかもしれません。ちなみに途中でスタイナーがユダヤ思想について触れた文章があったので、引用しておきます。
旧約聖書の創世記から始まり、ヴィトゲンシュタインの『哲学研究』、または、ノーム・チョムスキーの「ヘブライ語における形態音素論について」という最も初期の未刊の論文に至るまで、ユダヤ的な思想は、言語の神秘性および、言語についての学術や哲学について、大いなる役割を果たしてきた。ユダヤ人にとっても、非ユダヤ人にとっても、「モーセの五書」はその後のいかなる言語作品とも異なり、啓示的な性格を持っていたことになる。そういうわけで、ヘブライ語というものは、折に触れ、裁断器のダイヤモンドの刃として働いてきたのである。こういうユダヤの伝統を見ると、その中に、人間の言語の本質、および、言語が不思議なことに分裂しているのは何故か、という問題について、西欧において交わされた討論の主要な項目は、みなそこに見出すことができる。我々に伝えられたユダヤの原典の内蔵している要素はそのどれひとつを取ってみても、ユダヤの神秘主義においても、ラビと呼ばれるユダヤ教の学者の研究活動においても、それぞれの主題ごとに学問の伝統を育んできたのである。(120頁)

2012年2月10日金曜日

マタイ1:23におけるイザヤ7:14の引用について

マタイ福音書1:23における、いわゆる「インマヌエル預言」の引用についての論文を読みました。この箇所はマリアの「処女性」をめぐって、古代より議論百出しているわけですが(たとえば以前のKamesarの論文には古代教父たちの議論が紹介されています)、今回の論文では、むしろマタイの引用と、引用元であるイザヤ書の文言の相違に焦点が当てられています。問題としては3点あります。

第一にוקראתはMT上では、וְקָרָאת(ヴェカラット)と母音記号が振られています。これは伝統的に「彼女は呼ぶだろう」と訳され、Geseniusなどはそれを補う文法的な説明をしてきましたが、MenkenはDequekerに従って、そうした読み方はできないと述べます。そして写本によってはוְקָרָאתָ(ヴェカラター、お前[男]は呼ぶだろう)という読みがあること、また1QIsaaではוקרא(彼は呼ぶだろう)という読みがあること、そしてDequekerはヴェカラターを正しい読みだと考えていることを紹介しています。ちなみに、וקראは本来三人称単数で読まなければならないですが、聖書の中では複数で読まれることも多いそうです。
  •  L. Dequeker, "Isaie vii 14: וקראת שמו עמנו אל," Vetus Testamentum 12 (1962): 331-35.

上の第一点は、独立した問題ですが、次の第二・第三点は連動した問題です。第二点としては、הרהの訳として、七十人訳ではἐν γαστρί ἕξειとἐν γαστρί λήμψεταιという訳があるが、さまざまな文献学的証拠から、前者が訳として一貫性があり、マタイの引用でも前者の表現が使われていることが述べられます。そして第三に、七十人訳ではוקראתの訳として、καλέσεις, καλέσετε, καλέσει, καλέσουσινの4つが写本上で確認できるが、原典に対する正確な訳という意味では、マタイの引用にあるκαλέσουσιν(彼らは呼ぶだろう)ではなく、多くの写本が支持するκαλέσεις(お前は呼ぶだろう)が正しい訳であることが説明されています。

さて、上のことを総合して考えると、まずἐν γαστρί ἕξειなどの表現がマタイと七十人訳とで共通していることから、マタイはこの箇所では通常と異なり、ヘブライ語を自ら訳して引用するのではなく、七十人訳から引用していることが分かります。そして、マタイが引用するときの方針として、コンテクストに合わせて引用を改変することはほとんどないということを考慮に入れると、マタイが使った七十人訳は、現在のそれが支持する正しい訳のκαλέσειςではなく、マタイが引用したままのκαλέσουσινという表現であったはずということになります(ここで、クムランのוקראが三人称単数ではなく複数でも読まれ得るということが効いてくるわけです)。通常では、七十人訳とマタイの文言が違うのは、マタイが文脈に合わせてκαλέσειςをκαλέσουσινに改変したからだと説明されてきましたが、Menkenは、マタイの引用は、意図によって改変を経たものではなく、彼が見たままの文言を素直に引用しただけだと反論しているわけです。そしてそうであるならば、マタイが使った七十人訳は、現在のそれとは異なる、改訂された七十人訳であったということにもなります。

正直なところ、私にはMenkenの議論は少々トートロジーのようになってしまっているような気がしますし、 וקראתを伝統的に「彼女は呼ぶだろう」と読んできた根拠をあっさり切り捨てておきながら、καλέσουσινがマタイの使ったテクストだと主張する際の根拠のひとつが「וקראを複数として読める場合がある」からというのは、根拠としての弱さという点ではあまり変わらないような気がします。それにしても、イマヌエル預言というキリスト教にとって極めて大事な個所にまつわる議論が、このように依然として積み重ねられているというのは驚きですね。

2012年2月9日木曜日

エウセビオス、七十人訳と他の翻訳者たち


  • Dominique Barthélemy, "Eusèbe, la Septante et 'les autres,'" in La Bible et les Pères: Colloque de Strasbourg (1er-3 octobre 1969), ed. André Benoit and Pierre Prigent (Paris: Universitaires de France, 1971), pp. 51-65.

B000Z9UULALa Bible et les Pères: Colloque de Strasbourg (1re-3 octobre 1969)
André Benoit
Presses Universitaires de France 1971
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七十人訳の研究者であるバルテルミーが、エウセビオスを中心としてオリゲネス、ヒエロニュムスらの七十人訳成立縁起の解釈を比較した論文を読みました。この論文は、次のアンソロジーにも採録されています(pp. 179-93)。おそらくこちらの方が手に入りやすいかと思います(同志社の図書館にはこちらの本が収蔵されてました)。

  • Dominique Barthélemy, Études d'histoire du Texte de l'Ancient Testament (Orbis Biblicus et Orientalis 21; Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1978).

2827101351Etudes d'histoire du texte de l'Ancien Testament (Orbis biblicus et orientalis) (French Edition)
Dominique Barthelemy
diff. J. Gabalda 1978
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一応読み通したのですが、どうもよく分からないところがちょこちょこ出てきたので、以下備忘用のメモになります。エウセビオスの『詩篇注解』など注解書の内容に関して、彼のオリジナリティを検証するのはかなり難しいようです。というのも、写本伝承上の欠損があるため、正確なUrtextを再構成するのが難しいことが挙げられます。しかしいくつかの証拠から、バルテルミーはエウセビオスの注解に対するオリゲネスの影響を認めて、次のように述べています。
Lorsque nous attribuerons une opinion à Eusèbe, il nous faudra donc toujours envisager la possibilité qu'elle ait été déjà formulée par Origène. (p. 53)
また、七十人訳の成立縁起に関しては、アウグスティヌス、エウセビオス、ヒエロニュムスの三者の言説を紹介したのち、ふたたびオリゲネスとの比較をしています。七十人訳とヘブライ語テクストとの間には文言の相違があるわけですが、なぜそのようなことが起こるかというと、アウグスティヌスによれば、文言の違いは七十人訳者のせいではなく、写本の伝承の過程で写字生がミスをしたという説明になります。一方エウセビオスやヒエロニュムスらは、それは七十人訳の翻訳者であるエルサレムの長老たちが、異教徒であるプトレマイオス王に聖書の真理が知られることがないように、文言を改変して翻訳したからと考えました。かつまた、(旧約)聖書に預言されているメシア(=イエス)の到来は翻訳の時点でははるか先のことであり、訳者たちはそのことを隠しておかなければならなかったわけです。バルテルミーは、こうしたエウセビオスやヒエロニュムスの説明もまた、オリゲネスの影響を受けていると述べています。
Lorsque Eusèbe dira que les Septante ont "dissimulé le sens" parce que "notre Sauveur n'était pas encore apparu dans le monde", il peut donc vouloir dire, à la suite de son maître Origène... (p. 59)
ただ、七十人訳とヘブライ語テクストとの違いを指摘していたのは、オリゲネスだけではありません。当然のことながらラビ・ユダヤ教においてもこの違いを説明する伝統がありました。こちらについては、やはりヒエロニュムスの残した説明が参考になります。ヒエロニュムスによるユダヤ伝承の報告というのは、教父学の研究史においては信憑性が疑われていましたが、おそらくバルテルミーもそうしたことを意識しつつ、次のように書いています。
Malgré la tendance à généraliser qui dévalue bien des affirmations de Jérôme, on peut se fier généralement à ses dires lorsqu'il prétend tenir des juifs une tradition. (p. 60)
ラビ文学からは、メキルタ・デ・ラビ・イシュマエル(出12:40)、タルムード(メギラー9a)、タンフーマ(シェモット22)などが比較対象として挙げられてされています。これらの書物においては、七十人訳とヘブライ語テクストとの(特にメシア的な記述に関する)相違がリストアップされているのです。ただ、バルテルミーは、ヒエロニュムスがこうした伝承に親しんでいたことは認めつつも、エウセビオスに関しては、やはり典型的なキリスト教的な解釈をより強く残していると説明しています。

2012年2月6日月曜日

翻訳としての理解


  • ジョージ・スタイナー(亀山健吉訳)「翻訳としての理解」、『バベルの後に:言葉と翻訳の諸相』(上)、法政大学出版局、1999年、1-100頁。

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文学研究から翻訳論を論じた代表的な著作の第一章を読みました。文学(主に英文学)から山ほど具体例をもってくる息の長い文章が続くので、読むのにけっこう苦労しました。「第二版への序文」の中で、スタイナーはこの本で主張したかったことを次のように述べています。
『バベルの後に』が主張しているのは次のことである。すなわち、形式的に見ても、実際にも、伝達行動のあらゆる場面において、また、最も広い意味における記号論においても、さらに、より限定された言語的な交換においても、あらゆる場合における意味の送達と受容が行われるときには、必ず翻訳が含まれている、ということである。理解するとは暗号の解読であり、意味を聴き取るとは翻訳することである。こう考えてくると、翻訳という作業の基本的な構造および実行の手順、および、それに伴う問題点はすべて、どんな言語であれ、その言語における発話、筆録、図像による記号化等の活動の中にすべて含まれていることになる。異言語間における翻訳も、たった一つの言葉しか語られていないところでの人間の発話の形態やモデルを、特殊な場合に適応しただけのことである。(xv頁)。
要するにスタイナーは、「翻訳」とひとくちにいっても、いわゆる「異言語間の翻訳」だけではなく、何らかの「意味の送達と受容」が行われるとき、 我々は必ず「翻訳」ともいうべき作業をしているのだと述べています。こうした考え方は、スタイナー以外にも、たとえばロマーン・ヤーコブソンも、「翻訳の言語学的側面について」の中で、翻訳の三要素(言語内翻訳、言語間翻訳、記号法間翻訳)という分類をしています。つまり、同言語内である言葉を別の言葉に言い換えたり(言語内翻訳)、ある言葉から得たイメージを絵に描いたり(記号法間翻訳)することも、「翻訳」なのです。

スタイナーは、まずシェイクスピアやジェーン・オースティンの物語で使われている言葉に注目し、それが現在の意味といかに異なっているかを示します。そして、このような時間を異にするテクストを正確に読むためには、「同一言語内の翻訳」=「解釈」が必要だと述べています。「原典と受け手の間に立ちはだかって障害となっているもの、もしくは、距離を作っているものは、実は時なのである」(60頁)。解釈の「障害」はこれだけはなく、他にも、階級、年齢、性別の違いなどもまた、意味の伝達と受容をさまたげるものとなります。しかもやっかいなことに、これらの例の場合、言葉は何かを伝達するためではなく、何かを伝達しないためにも用いられることがあります。たとえば、子供たちは隠語や独自の言い回しで会話をしますが、これはそうした言い方をすることで大人には分からないこと、逆に言えば自分たちだけが分かることを語っているわけです。かように、言葉には通時的な違いと共時的な違いがあり、それらが意味の送達と受容をさまたげているのだとスタイナーは述べています。そして、そうした言語活動におけるあらゆる違いを架橋するために、翻訳が必要になってくるわけです。

まだ一章しか読んでいないので、序文で主張していたことを越えるような記述は出てきていませんが、それはともかくときどき出てくるスタイナーの含蓄ある言葉がなかなか印象的だったので、以下目についたのを抜き出しておきます。
今日古典作家とみなされている者のみが、実は、真に革命的という名に値する唯一の人物なのである:こういう作家こそ、静かな海原――そこでは、言語と人間とがいわば一心同体ともいうべき間柄にあった――の中へではなく、未知の国(terra incognita)の中へと敢然と飛び込んでゆく勇気をもっていた最初の人物であった。この未知の国とは、象徴的な表現、類推、隠喩、直喩、皮肉などが、事実とは別の旋律を奏でるような対位法の支配する国を指すのである。我々は人間がいつ、どこで、多数の人間を虐殺したか、どんな形で人を騙したか、その歴史を知ってはいるが、しかし、比喩がいつ、どこで、どんな形で成立したか、その歴史については何も知らない。海の色を初めて葡萄酒の濃い色と比べた人、あるいは、人の表情の中に初めて秋の気配を読み取った人がどんな気持ちだったのか、我々は的確にその心中を想像することはできない。こういう比喩は世界を新しく写像することであり、こういう像は、我々の現実の中での住みつき方を再構成するものであると言ってよい。(48-49頁)

真に書物を読みこなす人は辞書に凝るはずである。(51頁)

我々が経験する過去なるものの大部分は言葉の産物である。歴史とは言語活動に他ならず、過去という時制を選び取って用いたものにすぎない。建物とか遺跡とかも歴史的遺物として認められるためには、まず<読み取られ>なくてはならない。すなわち、言語による認知とか位置づけとかいう文脈の中に嵌め込まれなくてはならないのである。歴史とは、言語以外に、すなわち、本質的に言語的なものである記録を我々が解釈を加えながら信ずること以外に、いったい、どこに実質的な実在性を持っているのであろうか(沈黙するところに歴史はない)。(62頁)

人間が生物として免れることのできない制約である死に直面しても、それでも生き延びることができるのは、世界を観念と化し得るだけの言語の構成的な生産力によるものである。文法という神秘的な力――私はこの神秘的という形容を引っ込めるつもりは全くない――は、反事実を作り出し、<もしも>という仮定の命題を生み、とりわけ未来時制なるものを産み出した。この未来時制こそ、人間という種に希望という能力を付与し、個人がやがて死滅してゆくのを超えて、遥か遠くまで思いを馳せる能力をも与えたのであった。我々は耐えて生き続け、しかも、単に受身にではなく創造的に耐え忍んで生きてゆくが、それも我々の内にはやむにやまれぬ力があるからであり、その力により、我々は今あるがままの現実に<否>と言うことができ、自分が自分以外のものになるという虚構を築き、その<他者性>を自己意識の住処として夢見たり、意欲したり、待ち続けたりするものである。(xviii頁)

2012年2月4日土曜日

ヒエロニュムスとウルガータ


  • Dennis Brown, "Jerome and the Vulgate," in A History of Biblical Interpretation: Volume 1, The Ancient Period, ed. Alan J. Hauser and Duane F. Watson (Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Publishing, 2003), pp. 355-79.

A History of Biblical Interpretation: The Ancient Period (History of Biblical Interpretation Series)A History of Biblical Interpretation: The Ancient Period (History of Biblical Interpretation Series)
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聖書解釈史の論集から、ヒエロニュムスの章を読みました。著者はヒエロニュムスについて、以下の本も書いています。

080286161XVir Trilinguis: A Study in the Biblical Exegesis of Saint Jerome
Dennis Brown
Kok Pharos Pub House 1993-06
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今回読んだ論文は、ヒエロニュムスについての入門的な一篇ですが、ところどころはっとさせられるいい論文でした。トピックスとしては、大きく3つに分かれており、翻訳者としてのヒエロニュムス(ヘブライ語、翻訳の必要性、古ラテン語訳、ウルガータ翻訳、他の翻訳、正典論)と、聖書解釈(注解書、文字通りの解釈とアレゴリー的解釈、ユダヤの聖書解釈)、ヒエロニュムスの伝説となっています。以下、目についた部分を書いておきます。

James Barrはヒエロニュムスがヘブライ語の母音記号の読み替えによって異なった意味にするような聖書解釈の方法を、ユダヤ教のアル・ティクレーからの影響を受けていると考えましたが、Brownは、単にヒエロニュムスはヘブライ語の知識を自慢したかったのだろうと述べています。(p. 357)

現在ではヒエロニュムスは新約聖書に関して福音書のみを改訂したと考えられていますが、J. Chapmanのように、新約聖書全体を改訂したと考える人もいました。ヒエロニュムスが書簡などで引用するパウロ書簡の一節と、ウルガータの同箇所が一致しないことから、後者はヒエロニュムスの手によるものではないというのが一般的な考え方でしたが、Chapmanに言わせれば、福音書からの引用にも同じような不一致があるのだから、このことをもってパウロ書簡だけヒエロニュムスの手によるものではないとは言えないということになるのです。むしろこうした不一致は、ヒエロニュムスの引用の仕方が気まぐれであることを示すにすぎないともいえるわけです。とはいえ、CavalleraやKellyなど主要な研究者も通説を支持しており、Chapman説が現在どれだけの信憑性があるのかは分かりません。(pp. 359-60)



ヒエロニュムスが旧約聖書に関して、ヘブライ語原典の重要性を認識したのは、ベツレヘムに移り住んだあとの390年頃(つまりこの時期に、ヒエロニュムスはヘクサプラLXXを参照しながらラテン語写本の改訂をしていたのですが、ヘブライ語との相違があまりに多く、やはり直接翻訳するほかないと考えるに至った)というのが通説で、Brownもそれに従って解説していますが(p. 361)、私はこれには反対です。書簡を注意深く読むに、ヒエロニュムスがヘブライ語の重要性を認識したのは、382年あたりのローマ時代のことだと思われます。

ヒエロニュムスの聖書解釈には、アレクサンドリア学派、アンティオキア学派、ユダヤ教の三者からの影響が見られます。
Jerome was essentially an eclectic scholar. He searched diligently in the works of others and drew the best points from each, while striving to avoid their errors. This holds true also of the different "schools" of interpretation accessible to Jerome — Alexandrian, Antiochene, and Jewish. (p. 371)
 彼は注解において、まずアンティオキア学派と同様に、字義通りの意味を重要視します。その後アレクサンドリア学派、特にオリゲネスを範とするアレゴリー的解釈へと移りますが、重要なのは、字義通りの解釈や歴史問題をクリアせずにアレゴリーへと一足飛びに移ることはないということです。また、ヒエロニュムスは後年「オリゲネス論争」に巻き込まれますが、それ以降はやはりオリゲネスの解釈への依拠は減っていき、『エレミヤ書注解』などはもっぱら字義通りの解釈が中心となるということです。ユダヤ教の聖書解釈からの影響は、アガダー的な部分とハラハー的な部分の両方にまたがりますが、やはりBrownもオリゲネスからの盗用の可能性を指摘します。しかし彼が出している例は、おそらくG. Bardyの論文からの例であって、Brown自身の独自の見解ではなさそうです。