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2015年12月22日火曜日

アブラハムのエジプト滞在をめぐる時系列の問題 Wacholder, "How Long Did Abram Stay in Egypt?"

  • Ben Zion Wacholder, "How Long Did Abram Stay in Egypt? A Study in Hellenistic, Qumran, and Rabbinic Chronography," Hebrew Union College Annual 35 (1964), pp. 43-56.

本論文は、アブラハム(混乱を避けるために本エントリーではアブラムの時代のこともアブラハムで表す)のエジプト滞在をめぐる時系列の問題を扱っている。創12:11-20のの記事に関して、古代においては、次の2点が問題となっていた:アブラハムがエジプトを訪れた本当の理由は何か?そして、彼はエジプトにどのくらい滞在したのか?

デメトリオス、アルタパノス、偽エウポレモスらギリシア・ユダヤ人作家は、アブラハムがエジプトを訪れたのは、天文学を含む科学の知識を伝えるためであり、その期間はたとえば20年といったかなり長い期間であるとする。

一方で、『ヨベル書』(宗派テクスト)は、アブラハムがエジプトにいたのは5年であるとしている。他にも『ヨベル書』は、時系列を加え、アブラハムを非難するファラオのセリフを省き、そして民12:22における、ヘブロンがツォアンより7年前に建設された記事を引用している。論文著者によれば、こうした『ヨベル書』の解釈は、『外典創世記』の解釈をもとにして考えるとよく分かるという。両者共に時系列と出来事の順番は同じだが、『外典創世記』はアブラハムがまずヘブロンで2年過ごし、それからエジプトで5年過ごしたことを説明している。いずれにせよ、両者は共に時系列についての関心を持っているといえる。ただし、『外典創世記』が相対的な時間軸を用いるのに対し、『ヨベル書』が絶対的な時間軸を用いていることから、前者の方がより古い時代に書かれたと考えられる。

ただし、『外典創世記』の著者は、自身や『ヨベル書』のような時系列の考え方以外にも、別の考え方があることを知っていたと考えられる。それが、ミシュナー、トセフタ、タルムード、『セデル・オーラム』といったラビ文学に残されている解釈である。これらは、アブラハムがハガルを側女にするためにはサラとの間に10年間子供がいないことが必要だったという見解をもとに、アブラハムがカナンで10年を過ごしたと想定するので、エジプトで過ごしたのは3ヶ月に過ぎなかったと考える。ラビ文学は、さらに「アブラハムのハランからの二度の出発」という解釈をも持っている。

また出12:40における、イスラエルの民がエジプトに住んでいたのは430年という記事と、創15:13における、アブラハムの子孫が違法の国で400年の間奴隷となるという記事とには、30年の矛盾がある。これを解決するために、ラビ文学は、430年とはアブラハムが神の幻を見たときからのことで、400年とはイサクの誕生からのことであると、それぞれ説明する。一方で、『ヨベル書』は430年がイサクの誕生からのことであることを説明するのみで、400年の方には触れない。『外典創世記』によるこの箇所の解釈は失われてしまっているが、傾向から鑑みて、『ヨベル書』と同じものだったに違いないと論文著者は考える。

以上のことから、明らかに時系列の説明に関して、二つの学派――『セデル・オーラム』を始めとするラビ文学に代表される学派と、『ヨベル書』や『外典創世記』を始めとする宗派テクストに代表される学派――があると考えられる。

さらに、デメトリオスを始めとするギリシア・ユダヤ人作家の学派の存在も想定できる。そもそも物語の時系列が研究対象として取り上げられるようになったのは、前3世紀のアレクサンドリアにおいてであり、ギリシアやエジプトの様々な文学の時系列が俎上に挙げられた。論文著者の言い方で言えば、The date of Abram's journey to Canaan became to the Hellenistic Jewish writers  what the fall of Troy to the Greeks (p. 52)となる。

アブラハムのエジプト滞在に関する、ラビ文学、宗派テクスト、ギリシア・ユダヤ人作家の三者の解釈をそれぞれ比べたとき、論文著者は、ラビ文学と宗派テクストとは相容れないが、ギリシア・ユダヤ人作家と宗派テクストとは似たようなポジションを取っていると述べる。確かに、ラビ文学においては、アブラハムのカナン滞在を延ばしたためにエジプトに数か月しか滞在していないのに対し、ギリシア・ユダヤ人作家と宗派テクストにおいては、アブラハムが学問を伝えるのに十分な期間エジプトに滞在していたとされている。

三者のそれぞれの特徴としては以下のように言える:ギリシア・ユダヤ人作家は概して創世記の記述からかけ離れた解釈を施して、当時の文脈に合うように改変を施している。宗派テクストも同様の傾向があるが、それに反する箇所を省かない。ラビ文学はより現代的かつ主観的で、歴史としての聖書の記述よりも、聖書解釈に関心がある。

2015年12月17日木曜日

ユリアヌスがエルサレム神殿を再建しようとしたのはなぜか? Lewy, "Julian the Apostate and the Building of the Temple"

  • Yohanan (Hans) Lewy, "Julian the Apostate and the Building of the Temple," in The Jerusalem Cathedra: Studies in the History, Archaeology, Geography and Ethnography of the Land of Israel, vol. 3, ed. Lee I. Levine (Detroit, Mich.: Wayne State University Press, 1983), pp. 70-96; originally published in Zion 6 (1940/41), pp. 1-32 [Hebrew].
本論文は、ローマ皇帝ユリアヌスが後363年初頭にどうしてエルサレムにユダヤ教の神殿を自費で再建しようとしたのかを、特にその神学的な側面に注目して検証したものである。著者はそれをするのに、ユリアヌスからユダヤ人たちに宛てて書かれた2通の手紙を主たる参考文献としている。

ユリアヌス以前の思想状況。キリスト教の歴史理解においては、ダニエル書(9:27)やイエスによって預言された第二神殿の崩壊が成就したことから、イスラエルの選ばれた民という肩書は無効になった。これに対し、新プラトン主義者のポルフュリオスは、モーセ五書もギリシア文化もキリスト教に属するものでないこと、またキリスト教のダニエル書理解は間違っていることを証明しようとした。しかし、エウセビオスはポルフュリオスに反論し、新約聖書において成就されていない預言など一つも存在しないことを組織的に証明しようとした。そしてユリアヌスの目的は、哲学的にポルフュリオスの方法論に則りつつ、エウセビオスによって拡張されたキリスト教の歴史神学の土台を破壊することだった。

犠牲の政治的・宗教的側面。ユリアヌスはローマ帝国の一体化のために、市民が皇帝に犠牲を捧げることを望んでいたが、キリスト者たちは異教の神々に祈ることを嫌い、それを拒否していた。ユダヤ人は神殿を再建して犠牲祭儀を復活させることを望んでいたので、エルサレムにおける神殿再建はユリアヌスの意図とも合致していた。いうなれば、この犠牲の問題がユリアヌスにエルサレムにおける神殿再建を思いつかせたのであり、こうしたユリアヌスのユダヤ人に対する好意は、実はキリスト教に対する反発から来ていたのである。また犠牲は、ユリアヌスにとって、こうした政治的な意味のみならず、イアンブリコスに代表される新プラトン主義における「弁解の犠牲(sacrifice of pleading)のような宗教的な側面も持っていた。祭司が神に犠牲を捧げるユダヤ教は、この宗教的な側面ともよく調和するのである。

ユリアヌスのユダヤ人理解。ユリアヌスのユダヤ教贔屓には、キリスト教の歴史神学を破壊すること、そしてユダヤ教の犠牲祭儀をローマ式に更新することという2つの理由があったが、彼はユダヤ教のすべてを肯定したわけではなかった。彼は律法における戒律を称賛したが、ユダヤ教の神理解を批判した。特に十戒の第二戒であるヤハウェ以外に神なしという掟には反発した。ユリアヌスにとってユダヤ人とは、部分的な真理を持った、神を畏れる者たちなのである。すなわちユダヤ人は、物質世界を支配する神――ギリシア人は別の名であがめる神――の掟を遵守するという意味では正しいが、他の神々を拒否し、自分たちだけが選ばれたと考えているという意味では誤っているのである。

ユリアヌスの神学。ユリアヌスはユダヤ人の神を、イアンブリコスを通じて、プラトン『ティマイオス』におけるデミウルゴスとして理解していた。世界の創造主たるデミウルゴスは他の神々に人間の支配を委ね、一方でこの神々はそれぞれの民族に掟を与えたのである。それゆえに、世界にはたくさんの宗教が存在するようになった。つまり、ユリアヌスはユダヤ人の神を唯一で特別なものと捉えずに、ギリシア人が別の名で呼ぶ最高神のことだと解釈したのである。そしてこの最高神がエルサレムに住まう神であるならば、神殿を再建しなければならないと考えた。ただし、当然ながらこれはユダヤ人自身による唯一神教的な理解とは異なるものである。デミウルゴスはあくまでたくさんの神々の中で最も偉大な神であるだけである。ユリアヌスは、ゼウス、ヘリオス、セラピスなどを統べる最高神としてユダヤ人の神を捉えることで、排一神教的な信仰を作り出し、すべてをローマの国教システムの中に組み込もうとしたのである。

ユリアヌスの聖書解釈による神理解。ユリアヌスによれば、モーセや預言者たちは哲学の学習によって知性の力を磨かなかったので、神に関する不正確な知識しか得ることができなかった。しかしながらユリアヌスは、モーセより以前のアブラハム、イサク、ヤコブとは、実際には新プラトン主義者たちが伝えているカルデアの魔術師(Chaldean theurgists)たちのことだと述べている。言い換えると、ユリアヌスはユダヤ人の神に関して、カルデアの父祖たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)の伝統を受け入れたが、モーセや預言者たちの伝統を拒絶したのである。

神殿再建とユリアヌスの神学。このように、ユリアヌスはユダヤ人の神を、ヘリオスに代表されるさまざまな名を持ったローマ帝国の神であると考えたのだったが、それはあくまでキリスト教を否定するためだった。そこで彼は、第一に、キリスト者が学校教師になる権利を剥奪し、第二に、エルサレムの神殿を再建しようとした。神殿を再建することで、ユリアヌスはユダヤ人の神を異教の神々のヒエラルキーの中に位置づけようとしたのである。ユリアヌスはペルシア遠征における勝利をユダヤ教の神のおかげと考えていた節もあり、神殿再建はその感謝のしるしであったともいえる。ユダヤ教の神はローマの神々の中に組み込まれているので、ローマ帝国を救った神として、感謝されるのは当然なのである。

エルサレム神殿の再建というユリアヌスのアイデアは、ユダヤ教が帝国内の他の宗教ともはや矛盾せず、異教の中に位置づけられるに値するものであると考えられていたことを意味している。ユリアヌスはユダヤ教の実践の内的な部分ではなく、あくまで外的な見た目のみを変えようとした。彼はユダヤ人の聖書における誤謬を笑いつつも、彼らが拝む最高神とモーセや預言者の神とを区別し、その最高神こそが異教の神々を統べる者であるとした。いうなれば、ユダヤ教の十戒は、他の神々の存在を否定する第二戒を除いて、異教のそれと異なることはないのである。このようにしてユリアヌスは、皇帝の宗教とユダヤ教との妥協点を見出した。彼はユダヤ人が自分たちの神を拝むのをやめることを望んだのではなく、エルサレムに住まう自分の神を拝みつつ、その神に仕える他の神々もまた存在していることを認識してほしかったのである。この考え方は、エズラ記のキュロス王にも比較され得る。

2015年12月16日水曜日

エウセビオスの護教論 Kofsky, "The Concept of Christian Prehistory"

  • Aryeh Kofsky, Eusebius of Caesarea Against Paganism (Leiden: Brill, 2002), pp. 100-14.
Eusebius of Caesarea Against PaganismEusebius of Caesarea Against Paganism
Arieh Kofsky

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本論文は、カイサリアのエウセビオスの護教論の内在的な論理をまとめたものである。エウセビオスは3つの目的を持って著述活動をしていた:第一に、異教の宗教および哲学を粉砕すること、第二に、キリスト者によって好まれるヘブライ的宗教および哲学が異教のそれよりも優れていると証明すること、そして第三に、いかにしてキリスト教がユダヤ教から離れ、それを上回ったかを説明すること、である。またエウセビオスは、人間をギリシア人、ユダヤ人、そしてキリスト者の3種に分け、中でもキリスト者を第三の民と見なした(あるいは、キリスト教をユダヤ教とヘレニズムとの間に立つ第三の宗教と見なした)。エウセビオスの議論は畢竟するに、キリスト教が異教を破棄したこと、また聖書を受け継ぎつつもキリスト教がユダヤ教から逸脱したことという、二つの批判に対する反論であった。

父祖の宗教とキリスト教との同一視。エウセビオスによれば、キリスト教という名前自体は新しいが、その生き方や宗教的敬虔の倫理的な徳は、アブラハムら父祖の時代から連綿と続いてきたものであるという(『福音の論証』)。一方で、ユダヤ教が始まったのは、モーセが律法を制定してからのことであった。すなわち、エウセビオスはイエスによってもたらされたキリスト教をアブラハムら父祖たちの宗教と同一視しつつ、両者をモーセによって始められたユダヤ教から区別したのである。

ヘブライ人とユダヤ人との区別。『福音の準備』第7巻において、エウセビオスはまず異教の宗教や哲学に真理がないことを示したあと、「ヘブライ的」な宗教な哲学には真理が宿っていることを証明しようとした。このときの「ヘブライ人」は「ユダヤ人」から区別されている。前者が父祖たちのこと、そして引いてはキリスト者のことを意味するのに対し、後者はより後代に出てきたモーセの律法を遵守する者たちのことを意味する。モーセ自身はヘブライ人と見なされ、彼が律法を与えた者たち最初のユダヤ人となった。このユダヤ人たちはエジプトにいたために、エジプト人から悪い影響を受けてしまったのである。それゆえに、アブラハムと神とが交わした約束は、ユダヤ人ではなくキリスト者によって成就した。

ヘブライ的神学とキリスト教神学との同一視。ヘブライ人は、誤謬ばかりの異教徒と異なり、理性的な哲学者なので、エウセビオスは、フィロン、アリストブロス、ヨセフスもまたヘブライ人であると見なした。そのように考えることで、エウセビオスは特にフィロンのロゴス神学を三位一体につなげたのだった。その意味で、使徒ヨハネやパウロもまたヘブライ人であった。このようにして、ヘブライ的神学とキリスト教的神学とが同一視された。

七十人訳の重要性。『福音の準備』第8巻では、ユダヤ的政治形態および律法について議論されている。ユダヤ教の律法はあくまでユダヤ人にのみ有効であって、その他の民族には関わりがない。ユダヤ人は嫉妬心から自分たちの律法を隠していたが、七十人訳が作成されたことで、イエスの現れが準備されたのだった。ではなぜそもそもキリスト教は直接父祖の宗教から発生したのではなく、ユダヤ教から生まれたのだろうか。

ユダヤ人哲学者。エウセビオスによれば、それはそもそもユダヤ人の中にも、律法の文字通りの意味に従って生きる者たちと、律法の意味を理解してそこから哲学的に徳を獲得する者たちとがおり、モーセは後者を「ユダヤ人哲学者」として、律法を守る義務を免除した。エウセビオスは、こうしたユダヤ人哲学者の代表例をエッセネ派に見ている。またフィロンのことをヘブライ人哲学者であるとも見ている。エウセビオスによれば、ここでは「ユダヤ人」と「ヘブライ人」との区別に矛盾はないという。なぜならば、ユダヤ人哲学者とは、ユダヤ人の間で父祖の伝統を守り続けるヘブライ人のことだからである。

古い契約と新しい契約。エウセビオスは、父祖の宗教をキリスト教と同一視することを主張はしたが、その無理やりさも自覚していた。というのも、キリスト教は聖書を受け入れたのに、それに沿ってはいないからである。また間にはさまるユダヤ教との関係も問題である。そこでエウセビオスはより現実的な説明もした。彼によれば、2つの契約があり、1つ目の古い契約がユダヤ人の律法であった。この1つ目の契約は、父祖の宗教から離れたときに、多神教や偶像崇拝といったエジプト人の習慣を含んで出来上がったものである。モーセはこれを、メシアの到来によって更新される、あくまで一時的な契約として作った。2つ目の契約は新しい福音であり、すべての民族に向けられている。ただし、この新しい契約は新しくもあり古くもある。なぜなら、この契約はモーセの時代には隠されていたので、一見新しいものであるように見えるが、実際には1つ目の古い契約よりも古い父祖たちの時代から続くものだからである。

モーセは古い契約を一時的なものであると見なしていたので、ユダヤ人による新しい契約の拒否は、実はモーセの意志を裏切るものだといえる。というのも、ローマ人によるエルサレム神殿の破壊は、古い契約が神意によってもはや無効にされたことを示していると考えられたからである。一方で、新しい契約とは、実際には古い契約よりも古い父祖の時代からのものであったので、イエスの生と教えとは、アブラハムの古い宗教の再生であると見なされたのだった(それどころか、父祖たちは実際に「キリスト者」と呼ばれてさえいたのだとエウセビオスは主張する)。

このように考えると、エウセビオスは水平的にキリスト教がユダヤ教とヘレニズムとの間に立っていると考えていただけでなく、垂直的にキリスト教が両者の上に立っていると考えてもいたのが見て取れる。エウセビオスにとってのキリスト教は、ギリシアの誤謬および破損や、モーセによって導入されたすでに無効の契約を置き去りにするものであったのだ。

2015年12月2日水曜日

ヘロドトス『歴史』の方法論とジャンル Luraghi, "Meta-historie"

  • Nino Luraghi, "Meta-historie: Method and Genre in the Histories," in The Cambridge Companion to Herodotus, ed. Carolyn Dewald and John Marincola (Cambridge: Cambridge University Press, 2007), pp. 76-91.
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ヘロドトスの記述の中には、歴史文学においては稀なことに、しばしば一人称で語り手が登場する。これは、他の多くの歴史家が、自分がある情報をどこで手に入れたかを問題にしないことが多いのに対し、ヘロドトスは情報入手のプロセスを語るために、一人称を必要とするからである。論文著者は、情報を集めて評価するプロセスに関する一人称と、「~人が言うところでは」という三人称とを同時に用いることを、「メタ・ヒストリエ」と呼んでいる。本論文は、このメタ・ヒストリエがヘロドトス『歴史』の中でどのように機能しているかを検証したものである。

ヘロドトスの歴史記述には三つの基礎があって、それらは、第一に口頭での情報(アコエー)、第二にヘロドトス自身の目撃証言(オプシス)、そして第三にヘロドトス自身の調査(グノーメー)である。オプシスがヘロドトス自身の経験に根差したものであり、グノーメーがヘロドトス自身が調査して正しいと考えているものであるのに対し、アコエーは必ずしもヘロドトスが正しいかどうか確信があるわけではなく、真実であることを保証しないものである。オプシスとアコエーは、ソクラテス以前の哲学者であるエフェソスのヘラクリトスによっても用いられている方法であったが、これらの方法論だけではヘロドトスの『歴史』を説明できない。そこで、論文著者は、アコエー、すなわち口頭伝承に注目している。

口頭伝承の収集というと、まるでヘロドトスが現代的な科学的な態度で、異なる版を比較し、情報提供者の妥当性を吟味し、情報の流通経路を確かめたかのように見えるかもしれない。実際に、植民地時代以前のアフリカの歴史を再構成するために、口頭伝承に注目したJan Vansinaなどは、ここで言うところの科学的な態度によって、口頭伝承の伝達や機能を分類することに成功した。しかしながら、ヘロドトスにおける語り手による情報提供者への言及を文字通りの意味で取ることはできない。なぜなら、ヘロドトスにおける口頭伝承の情報には、二つの傾向があるからである:第一に、ある民族グループが、いつでも彼ら自身の国で起こったことや、彼ら自身の先祖に起こったことのために引き合いに出されること、第二に、そうしたグループは自分たちを有利な立場にする説明のみを提供していることである。これらから見て、ヘロドトスが情報を得たとしている情報提供者を、現代的な意味でのそれを信じるわけにはいかない。彼は、読者によって期待されている関心や観点を、口頭伝承として提供しているのである。そのときにヘロドトスがあえて情報提供者を出すのは、彼が読者をだまそうとしているというよりも、自分自身をその情報から引き離すためなのである。また、ヘロドトスが他の歴史家からの引用をほとんどしなかったのは、当時は書かれた記録よりも、こうした口頭伝承の方が読者により信頼されたからであると考えられる。

さて、ヘロドトスがメタ・ヒストリエという方法論を採った理由のひとつは、読者の期待に沿うためだったわけだが、もう一つジャンルの問題がある。彼はメタ・ヒストリエの語り手として、自身や読者が必ずしも信じることを求められていないような説を挙げているが、それは、通常ならば文学のジャンルに縛られて語れないようなことを語るためであった。ホメロスがトロイア戦争で語っている内容には異説があるわけだが、ホメロスは叙事詩に適した説のみを歌っている。それぞれの文学ジャンルは、それぞれ語るに適切な内容を選ぶのである。ヘロドトス以前の歴史ジャンルは神話を扱っていたので、叙事詩と変わらない内容であった。しかし、メタ・ヒストリエの方法を用いることで、ヘロドトスは他の文学ジャンルとの違いを示したのである。また複数の語り手を出すことで、他の文学ジャンルであればそのジャンルに縛られて省いてしまうような内容をも語れるようにし、読者に判断を委ねたのだった。