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2014年11月22日土曜日

セルウィウスによる『アエネーイス』注解 Stansbury, Servius' Commentary

  • Mark Stansbury, "Introduction," in Christopher M. McDonough, Richard E. Prior and Mark Stansbury, Servius' Commentary on Book Four of Virgil's Aeneid (Wauconda, IL: Bolchazy-Carducci Publishers, 2004), pp. xi-xxiii.
Servius' Commentary on Book Four of Virgil's AeneidServius' Commentary on Book Four of Virgil's Aeneid
Christopher Michael McDonough Richard E. Prior Mark Stansbury SERVIUS

Bolchazy Carducci Pub 2002-09
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ウェルギリウス『アエネーイス』の注解を残したセルウィウスは、ある文学作品を注解するためには、以下の要素を吟味する必要があると述べている。1)詩人の生涯、2)作品の題名、3)詩の特徴、4)著者の意図、5)書物の冊数、6)書物の順番、7)注解。このイントロも、セルウィウス自身によるこの主張に沿って書かれている。

生涯。マウルス・セルウィウス・ホノラトゥスはシチリア出身で、四世紀後半から五世紀前半にかけてローマで教えた文献学者(grammaticus)であった。彼は四世紀のローマの文献学者アエリウス・ドナトゥスを引用しており、一方で五―六世紀のコンスタンティノポリスの文献学者プリスキアヌスによって引用されている。当時の教育では、まず文法学者(litterator)のもとで読み書きを習い、文献学者(grammaticus)のもとで言語の正しいシンタックスと作品の解釈(ennaratio)を学び、そして修辞学者(rhetor)のもとで弁論の仕方を学んだ。セルウィウスの作品として知られているのは、ウェルギリウス作品の『注解』、アエリウス・ドナトゥス『技法(Artes)』の注解、『語末について(De finalibus)』、『百の韻律について(De centum metris)』、『ホラーティウスの韻律について(De metris Horatii)』がある。

題名。ウェルギリウス注解のタイトルとしては、commentum, commentarius, commentariumとされる場合と、expositio, explanatioとされる場合とがある。

作品の特徴。ウェルギリウス注解は『アエネーイス』、『農耕詩』、『牧歌』をカバーしている。セルウィウスは、現存しないアエリウス・ドナトゥスの注解をかなり参照しているとされる。セルウィウス注解は、二つのバージョン、すなわち九世紀以降の写本が残る「S(Servius)」と、1600年に人文学者ピエール・ダニエルが校訂した「DS(Servius Danielis)」が残っている。前者が相反するさまざまな解釈を列挙しているのに対し、後者はそのS版にさまざまなスコリアを混ぜて一貫性を持たせたものである。ただし、セルウィウス当時の注解の特徴は、注解者自身の意見を述べるのではなく、さまざまな注解者の解釈を挙げて可能性を示唆するのみに留めることで、読者に決定を委ねるというものだった(ヒエロニュムス『ルフィヌス駁論』1)。こうした文献学者の美徳は、「控えめさ(verecundia)」と「入念さ(diligentia)」という二つの言葉で表現されていた。

作者の意図。セルウィウスは、現代の注解者のように、細部から全体図まで見取り図を広げていくといったことはせず、ひたすら細部に拘った。これは、当時の注解のスタイルがそうだったからというよりは、セルウィウス自身のスタイルだった。同時代の注解者であるティベリウス・クラウディウス・ドナトゥスの『ウェルギリウス作品の解釈(Interpretationes Vergilianae)』と比較すると、セルウィルスの特徴がよく見えてくる。ドナトゥスは、『アエネーイス』を修辞学における称賛詩(genus laudatiuum)として位置づけることで、その解釈もまた文献学者ではなく弁論家によってなされるべきと考えた。そのため、ドナトゥスの注解は、原文で描かれている出来事を要約し、人物の動機を描写し、それから原文を引用するというスタイルを取った。一方でセルウィウスは語や短いフレーズに対する簡潔な説明を繋げていった。

書物の冊数と順番。セルウィウスの『アエネーイス』注解は、『アエネーイス』12巻に沿って12冊ある。彼はその中で、ウェルギリウス自身の詩のほかに、ホラーティウス、ユウェナーリス、ルーカーヌス、テレンティウスの詩を5回以上引用している。ただし、セルウィウスが何らかの比較をする場合、これらの作家たちとウェルギリウスとを比較することよりも、むしろ『アエネーイス』における別の節との比較、あるいはウェルギリウスの他の作品群との比較の方を重要視した。

さらなる参考文献。
Guardians of Language: The Grammarian and Society in Late Antiquitity (Transformation of the Classical Heritage)Guardians of Language: The Grammarian and Society in Late Antiquitity (Transformation of the Classical Heritage)
Robert A. Kaster

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オバマ弾劾演説

先日(2014年11月20日)に、共和党上院議員のテッド・クルーズが、オバマ大統領の移民政策を批判するために、キケローの『カティリーナ弾劾』第一演説の冒頭をほぼそのまま引用して演説しました。政治的な問題はともかく、現代にキケローの弁論が甦ったようで興味深いですね。キケローのもともとの演説とクルーズの演説を色分けして比較した記事があったので、そちらもリンクを貼っておきます。クルーズ版では、ところどころ現代アメリカにおけるポリティカリー・コレクトな言い回しに直してあるのも面白いところです。


http://www.washingtonpost.com/blogs/the-fix/wp/2014/11/20/ted-cruz-goes-peak-senate-in-opposition-to-emperor-obama/
(2014年11月21日閲覧)

2014年11月13日木曜日

第四マカバイ記の諸問題 Van Henten, "4 Maccabees"

  • Jan Willem van Henten, The Maccabean Martyrs as Saviours of the Jewish People: A Study of 2 and 4 Maccabees (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 57; Leiden: Brill, 1997), pp. 58-82.
The Maccabean Martyrs As Saviours of the Jewish People: A Study of 2 and 4 Maccabees (Supplements to the Journal for the Study of Judaism, V. 57)The Maccabean Martyrs As Saviours of the Jewish People: A Study of 2 and 4 Maccabees (Supplements to the Journal for the Study of Judaism, V. 57)
J. W. Van Henten

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第四マカバイ記は七十人訳聖書中の一書だが、他の文書とは語彙に関して大きく異なった特徴を持っている。こうした四マカの文学的スタイルは、アジアニズムと呼ばれる前3世紀以来のスタイルに似ている。同じ言い回しや似たイメージの繰り返しや、同根の言葉での言い換えなどがその特徴だが、アジアニズムという評価は、対となるアッティシズムの側からの否定的評価である場合も少なくなかったので、はっきりとした定義があるわけではない。

四マカの文学的形式については、さまざまに議論されてきた。FreudenthalやThyenらは、四マカはアレクサンドリアのシナゴーグにおける説教、特にハヌカー祭のときに語られた説教だったと考えたが、これは今ではあまり支持されていない。Nordenは、四マカはむしろ、前半部分1:1-3:18が哲学論文であるディアトリベー、後半部分3:19-18:24が個人に対する賛辞であるエンコーミオンだと考えた。実際古代の注解者フィロストルギオスは、四マカがヒストリアよりはエンコーミオンだと述べている。一方でLebramは、Nordenの説を引き継ぎつつ、後半はエンコーミオンではなくエピタフィオスだと主張した。ここで言うエンコーミオン(顕徳演説)、エピタフィオス(葬礼演説)、パネギュリコス(祭典演説)などは、アリストテレスによる弁論術の分類、すなわちディカニコン(法廷弁論)、シュンブーレウティコン(議会弁論)、エピデイクティコン(演示弁論)のうち、三つ目である演示弁論に分類されるものである。ディカニコンが過去のことを法廷で、またシュンブーレウティコンが未来のことを議会で議論する際に用いられるのに対し、エピデイクティコンは現在のことを祭りや葬儀などで議論し、徳を賞賛したり悪徳を非難したりする際に用いられた。以上の関係を図示すると次のようになる:
  • ディカニコン(法廷弁論)
  • シュンブーレウティコン(議会弁論)
  • エピデイクティコン(演示弁論):エンコーミオン(顕徳演説)、エピタフィオス(葬礼演説)、パネギュリコス(祭典演説)
エンコーミオンもエピタフィオスも共に死者を賞賛する際に用いられたが、前者は個々人を対象とし、かつ必ずしも名誉の死を前提としないのに対し、後者はもともとアテーナイにおいてポリスの名誉のために死んだ市民全体を顕彰する愛国的なものだった。Lebramはさらに、葬礼演説がしばしば墓の前で行なわれたことと、四マカ17:8に架空の墓碑銘が出てきていることから、四マカ後半は葬礼演説であるという主張を続けている。ただし、Van Hantenは、四マカ後半が葬礼演説として解釈できることと、四マカが実際に墓の前で読まれたこととは別の問題であると指摘している。また、四マカ後半には、葬礼演説には似つかわしくない苛烈な拷問の描写があることにも注意すべきであるという。

こうした前半と後半とのスタイルの違いから、Lebramは、現在の四マカはそれぞれ別のソースを一つに編集したものだという仮説を立てたが、両者の修辞イメージの一貫性、相互参照、似た語彙、言語的・主題的な関連性などから、まったく別物と考えることはできないとVan Hantenは述べている。むしろこうした構造は、アリストテレスによる弁論が備えるべき二つの特徴を現している:第一に、主題と問いがあること(プロブレーマあるいはプロテシス。四マカではヒュポテシス)。第二に、その証明があること(アポデイクシス)。

四マカは、殉教物語の素材に関しては、二マカに大きく依拠している。二マカ自体はキレネ人ヤソンの現存しない文書に依拠していると述べられているが(二マカ2:19)、四マカは二マカとヤソン文書の両方を知っていたとされている。二マカと四マカとの比較によって得られた結果を、Van Hentenは四点ほど指摘している。第一に、四マカ著者は、二マカにおける殉教者の台詞を、自らの言葉で語りなおしている。第二に、四マカ著者は殉教者の台詞を敷衍し、拷問の様子を拡大している。第三に、しばしば四マカには、二マカの文章をそのまま取ってきたような箇所が見られる。第四に、いくつかの箇所で、四マカは二マカに記された情報とは違う情報を提供している。Van Henten によれば、これらの違いは、四マカ著者が二マカの素材を、自分の論文の論旨と、四マカの読者の社会文化的な文脈とに適用させるための「脚色(adaptation)」によるものだという。

四マカが成立した時代について、Grimmをはじめ多くの学者は一世紀としている。これに対しBickermanは、四マカ中でキリキアがローマ属州として説明されていることを受けて、同地がローマ属州であった18-54年を四マカ成立の年代としている(Hadasはさらに37-41年にまで範囲を狭めた)。しかし、文書中である事柄が説明されているからといって、必ずしもそれが文書の年代を特定できるわけではないし、そもそもキリキアは72年まで実質的にローマ属州であったことがのちに判明したために、Bickermanの年代特定は不確実であるといえる。Breitensteinは、四マカが神殿に無関心であることから、神殿崩壊後の70年以降を成立年代とした。さらに、Dupont-SommerやCampbellは、ヘレニズム哲学の再興隆の時期と重ね合わせて、2世紀に書かれたと主張した。Van Henten自身は、神殿への無関心、ユダヤ人やユダヤ地方の抽象化、使徒教父文書との類似、新約聖書との非類似などから、二世紀初頭からそれ以降の成立と結論付けた。書かれた場所としては、アレクサンドリアやアンティオキアといった大都市を想定する者と、小アジアの小さな町を想定する者とに別れる。Van Hentenは、殉教の舞台自体はアンティオキアだったとしつつも、文書が書かれたのは小アジアだったと主張する。というのも、四マカにおける歴史記述が小アジアを想定している箇所があり、さらには作中の墓碑銘で使われている語彙が小アジアで出土した碑文と酷似しているからである。

2014年11月12日水曜日

アブラハムの魂を持った母親 Young, "Women with the Soul of Abraham"

  • Robin Darling Young, "The ‘Woman with the Soul of Abraham:’ Traditions about the Mother of the Maccabean Martyrs," in "Women Like This:" New Perspectives on Jewish Women in the Greco-Roman World, ed. Amy-Jill Levine (Early Judaism and Its Literature 1; Atlanta: Scholars Press, 1991), pp. 67-81.
"Women Like This": New Perspectives on Jewish Women in the Greco-Roman World (Early Judaism and Its Literature)
Amy-Jill Levine

Society of Biblical Literature 1991-01
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第二マカバイ記および第四マカバイ記に、七人の兄弟と母親の殉教物語が出てくるが、これらの文書では母親の名前は記されていない。ラビ文学においては、ハンナ、ミリアム・バット・タンフム、ギリシア語およびシリア語のキリスト教文学においては、ソロモーネ、マルト・シモウニなどと呼ばれている。この論文では、マカベア殉教者物語とその中での母親の役割、母親の描写で用いられている用語、そしてユダヤ教におけるこの母親の内的生と公的役割が論じられている。

二マカは、内容的にはセレウコス朝支配下のパレスチナを舞台に前180-161年頃のことを記している文書で、前1世紀に成立した。殉教物語は6:7-7:42に残されている。殉教物語を書いた目的は、第一に、マカバイ記の一連の出来事がユダヤ民族を全滅させるためではなく、教訓をもたらすためであることを思い出させるため(6:12; 17)、そして第二に、若者たちに高貴な模範を残し、彼らが律法のために高貴な死に方ができるようにするため(6:28)であった。

二マカには、ストア派的な影響、あるいはストア哲学のユダヤ教的受容が見られる。エレアザルが勇気(アンドレイア)の模範として描かれているところや(6:31)、母親の第一のスピーチの中で、男性的勇気によって女性的心情を奮い立たせているところ(7:21-23)などがそうである。一方で、極めてユダヤ教的な部分も見られる。たとえば、殉教者たちがユダヤ教の律法を遵守し、預言を成就する模範として描かれていることや、母親が息子たちに「父祖の言葉」で語りかけているところ、また復活あるいは不死を語るところなどがそうである。

つまり、二マカにおける殉教物語は、ストア的用語と宗教的アイデアとを用いて、新しいイスラエルの英雄像を描いているのだといえる。二マカは、彼らの英雄譚はマカバイ戦争とは別のところで語っているが、彼らの犠牲こそがユダヤ人の勝利につながったと考えているのである。

対する四マカは、二マカを解釈し、拡張している。前者で重視されていたマカバイ戦争はあまり重要視せず、より透徹したストア哲学を用いている。歴史的データをほとんど描いていない一方で、母親の行為やその解釈については、かなり複雑になっている。文学的には、修辞的なディアトリベーとパラエネシス(奨励)といったジャンルに分類することができる。思想的には、ストア哲学と中期プラトン主義の折衷といえるが、実際のところ、著者は、犠牲の概念、霊的な家族関係、律法の遵守、そして永遠の生への復活といったさまざまな事柄を、哲学的にというよりも神学的に解釈している。

四マカの目的は、敬虔な理性が情念を支配することができると証明することであり(1:1, 1:13; 76)、それを、徳のために死んだ人々、すなわちエレアザル、七人の兄弟とその母親の勇敢な行為(1:8)を通して証明しようとしているのである。四マカは基本的な構造を二マカに負っているが、ディアトリベーと賛辞を加え、さらに理性的に最も弱い者、すなわち母性につながれた母親における理性の勝利というパラドックスに紙幅を費やしている。四マカは、アンティオコス王に属する一時的な王制と、神の永遠の王制(あるいは、王の言葉に従うことによる一時的な安全[ソーテーリア]と、神に従った永遠の生をもたらす敬虔さ[エウセベイア])とを比較しているが、同時に、母親の、親としての愛情(ストロゲー)と、律法に従って訓練された母親の理性(ロギスモス)も比較している。

四マカは二マカよりも母親の人物像の倫理的側面に光を当てている。これは、二マカにもある母親の二つのスピーチと、四マカの二つのスピーチ(16:15-23, 18:6-23)とを比べると明らかである。四マカの第一のスピーチの中では、二マカで語られていた創造論などの神学的なことは語っていない。むしろ、アブラハム、イサク、ダニエルといった聖書の登場人物たちのように、律法を遵守して死を選ぶように諭している。第二のスピーチは、本の最後のところで補足のように伏されている(ゆえに、四マカの本当の結論はこのスピーチの前の17:7-18:5である)。この中では、興味深いことに、二マカには一切出てこない兄弟たちの父親のことが語られている。

母親の描写および説明は、14:11を皮切りに作品の終わりまで続いていくが、その中で一貫しているのはアブラハムのイメージである(14:20等)。彼女が兄弟たちを一時的な救いではなく、永遠の救いへと導いたことにより、神を畏れるアブラハムの勇敢さを思い出し(15:28)、ついには「民族の母」という、アブラハムと同等の地位にあると見なされている(15:29)。16:14では、「信仰のために戦った年老いた神の兵士」と、男性的な称号を授けられているが、これもアブラハムを暗示しているといっていい。極めつけは、17:2-6における母親へのアポストロフェーで、この中で母親は「アブラハムによって子供をもうけた」とまで言われている。この箇所で著者の念頭にあるのは、創22章のアブラハムによるイサクの奉献である。これは第一に、アブラハムのように、彼女の子供たちが星の中で数えられていること(17:5)、そして第二に、アブラハムのように、彼女は自ら進んで自分の子供を犠牲に捧げたことから、そのように言える。

2014年11月10日月曜日

祭司エレアザル、七人の兄弟とその母親の殉教 Van Henten and Avemarie, "Martyrdom and Noble Death"

  • Jan Willem van Henten and Friedrich Avemarie, Martyrdom and Noble Death: Selected Texts from Graeco-Roman, Jewish and Christian Antiquity (London: Routledge, 2002), 42-77, 132-51.
Martyrdom and Noble Death: Selected Texts from Graeco-Roman, Jewish and Christian Antiquity (The Context of Early Christianity)Martyrdom and Noble Death: Selected Texts from Graeco-Roman, Jewish and Christian Antiquity (The Context of Early Christianity)
Friedrich Avemarie Jan Willem van Henten

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本書の第二章Noble Death in Early Jewish Sourcesと第四章Martyrdom and Noble Death in the Rabbinic Traditionの、第四マカバイ記の殉教物語と関係する箇所を読みました。前者ではダニエル書3章および6章、第二マカバイ記、第四マカバイ記、フィロン、ヨセフスなどが扱われ、後者ではタルムードや各種ミドラッシュなどのラビ文学が扱われている。

二マカは、アンティオコス4世、アンティオコス5世、デメトリオス1世の治世(前175-前150年)の歴史を網羅しているが、実際に書かれたのは前124年頃と考えられている。内容としては、ハヌカーのもとになったキスレヴ月の新しい祭りへの参加を招く二つの手紙(1:1-2:18)と、ユダヤ解放の歴史(3-15章)とから構成されているが、後者の中にはエレアザル(6:18-31)、母親と七人の兄弟(7章)、そしてラジスの自殺(14:37-46)と、アンティオコス4世のもとで起きた3つの殉教物語が含まれている。前者二つの殉教物語においては、逮捕や尋問の過程ではなく、殉教者と王との対立に焦点が絞られている。加えて、二マカにおいてはエルサレムの神殿がきわめて重要なものとして描かれる。興味深い点を以下列挙:
  • 二マカ6:30におけるエレアザルの台詞「聖なる知識を持っておられる主は、すべてのことを見通しておられる。私は死を逃れることもできたが、鞭打たれ、耐え難い苦痛を肉体で味わっている。しかし、心では、主を畏れ、むしろそれを喜んで耐えているのだ」は、箴1:7, 9:10などの知恵文学の影響を受けていると考えられる。
  • 二マカ7:8「父祖の言葉」はアラム語かヘブライ語か不明だが、この表現は、兄弟たちの殉教が宗教的な観点からなされたものである一方で、ユダヤ民族の一員として死ぬというユダヤ的なアイデンティティからなされたものであることを示す。
  • 二マカ7:21「彼女は、息子たち一人一人に父祖たちの言葉で慰めを与え、女の心情を男の勇気で奮い立たせながら、彼らに言った」は、通常こういった文学で男性に帰せられる勇気や徳あ女性に帰せられるようになった例。のちに初期キリスト教文学に引き継がれる。四マカではこの点がより強調される。
  • 二マカ7:41「最後に、子供たちの母親も死んだ」と、母親の死が極めてシンプルに描かれているが、四マカでは彼女の神への賛美を長く付け加えている(四マカ14:11-16:25)。
四マカは、敬虔な理性の自律に関する哲学的な論文と、二マカで描かれたマカバイの殉教者たちの称賛とから構成される。こちらでは、二マカよりも母親に対する比重が重くなっている。かつては別々の資料を編者が再構成した書物と考えられていたが、語彙やスタイルの共通性から、ひとつながりの文書と考えられている。ただし、二マカをソースとして用いているのは明らかである。四マカは、アレクサンドリアかアンティオキアで、1世紀後半から2世紀初頭に書かれたディアスポラの書物で、ユダヤやエルサレム神殿に対するこだわりは見られない。また、哲学的な議論とそれを証明する具体例(アポデイクシス)こそが主題であるので、二マカで出てきたユダ・マカバイの軍事的な戦争は出てこない。哲学的には、当時のさまざまな哲学を参照しているが、最終的には、エウセベイアを基礎とした情念支配論といった、哲学としてのユダヤ教を押し出している。

ラビ文学においては、殉教物語はあまり多く残されていない。これはラビ文学において殉教が重要なポイントでなかったからではなく、ラビ文学は殉教というしゅだいに関して、個人のケースや歴史的な事柄よりも、その神学的な意味や倫理に照準を合わせていたからと考えられる。二マカおよび四マカに残されている母親と七人の兄弟の殉教物語に相当するエピソードは、『哀歌ラバー』1.16(およびその変形として、『バビロニア・タルムード』「ギッティン57b」、『プスィクタ・ラバティ』43)にある。二マカと哀歌ラバーとは、物語の語りにおいて、エレアザルに対する王の配慮、殉教者自身の罪意識、母親から末子への助言、母親による子供へのいたわりの描写、拷問器具としてのフライパンの使用などといった点が共通している。四マカと哀歌ラバーとは、殉教者をアブラハムおよびイサクと比較する点、末子と母親の描写を重視するが共通している(哀歌ラバーによると、末子の年齢は、6歳と半年と2時間だという)。一方で哀歌ラバーだけに見られる特徴としては、一神教意識が色濃いこと、そして未来における報い(迫害者に対する否定的な報いと殉教者に対する肯定的な報いの両方)の意識が薄いことが挙げられる。

2014年11月9日日曜日

第四マカバイ記における殉教者 O'Hagan, "The Martyr in the Fourth Book of Maccabees"

  • Angelo P. O'Hagan, "The Martyr in the Fourth Book of Maccabees," Studii Biblici Franciscani Liber Annuus 24 (1974): 94-120.
本論文の中で、著者は第四マカバイ記において殉教者たちがどのように解釈・理解されているかを、二つの立場、すなわち他の人間たちに対する殉教者の立場、そして神の前における殉教者の立場の双方から検証している。前者の立場においては、証人(witness)、競技者(champion)、そして徳の模範(paradigm of consummate virtue)としての殉教者としての殉教者の役割が、そして後者の立場においては、仲裁者(interceding)、贖罪者(atoning)、そして犠牲にされた者(being sacrificed)としての殉教者の役割が語られている。

証人としての殉教者。四マカにおいては使われていないものの、マルテュスという語は法廷における意味(forensic)と倫理的・宗教的な文脈における比喩的な意味(tropological)とを持っている。四マカに出てくるこれと関連した語としては、ディアマルテュリアがあるが(16.16)、この箇所にも両方の意味が重なっている(四マカにおける殉教者たちは、実際王の前で裁判にかけられている)。一方では神に成り代わって法廷に立ち、他方では民の代表者でもある四マカの殉教者は、キリスト教における殉教理解のさきがけになったともいえる。

競技者としての殉教者は、さらに三つのイメージとも重なっている。第一に、戦争における戦士のイメージ。オリンピックなどでもそうであるように、競技者とは、代理戦争としてのスポーツを通してある集団の卓越性を示す戦士の役割をも担っていた。しかも四マカにおける殉教者たちは、ただユダヤ民族の代表であるばかりか、神のために戦う者たちでもあった。第二に、神の定めた歴史を遂行する者のイメージ。彼らの理解によれば、歴史は神がすでに定めたものであり、人は定められたとおりに進んでいくのみである。その宇宙的な秩序を遂行するのが殉教者なのである。第三に、死によって勝利する勝利者のイメージ。殉教者たちは、忍耐(ヒュポモネー)によって、迫害者の野蛮さに勝利する。四マカはそれを表現する際に、復活などの黙示的用語は避け、代わりに知恵文学などに見られる個人における終末論的用語を用いている。そこでは、肉体の復活ではなく、天上における終わりなき生が語られる。

徳の模範としての殉教者。旧約聖書においてもギリシア文学においても、模範となるべき徳を備えた登場人物の描写を通して教育するという例はあったが、四マカなどヘレニズム・ユダヤ文学において両者が融合した。ただし、四マカは殉教者たちを殉教の模範として描いているわけではなく、あくまでも理性が情念を支配できることを体現する徳の模範として描いている。しかしその際には、ストア派の最高の徳であるアパテイアの高みではなく、むしろ宗教的な理性(エウセース・ロギスモス)を通して苦痛を耐えるヒュポモネーを中心に据えている。これは、ヘレニズム化された聴衆に、反ヘレニズム的なヘブライ的徳としてのエウセベイアを教えるためであった。このエウセベイアは、律法の遵守によって可能になる。死に至るまでに律法を信じることの例は、『モーセの昇天』、『第四エズラ記』、ヨセフス、ミシュナーなどにも見られるものであった。

以上が、人間に対する殉教者の役割で、以下は神に対する殉教者の役割である。

仲裁者としての殉教者。当時のユダヤ教では、ある者が他の者に代わって神との仲裁の役割を担うことができると信じられていた。そうした仲裁者は、法廷における弁護士のように、ある種の特権的な代表者としての地位が与えられた。この仲裁者としての役割は、以下の贖罪者および犠牲者としての役割にも密接に結びついている。

贖罪者としての殉教者。殉教者の祈りは、罪人に対する神の恵みを願う和解の祈りである。四マカ当時のユダヤ文学では、人々の罪の意識が顕著であり、それはぜひとも贖われなければならなかった。しかし次第に、それは罪人自身ではなく、犠牲による身代わりでも果たされるものだという考え方(theology of vicarious satisfaction)が生まれていった(ただしこれはパリサイ派など、のちにユダヤ教の中心的な思想を形成する派閥にはない考え方だった)。四マカにおける「身代わりの贖罪」という考え方の直接的な背景は、第二マカバイ記における並行記事である。二マカにおいて、殉教者たちは、自らの死によって、民全体にもたらされた神の怒りを静めようとしていた。二マカと四マカとの違いは、殉教者の民との距離である。二マカにおいては、殉教者は罪のある民と自らとを同一視しているように描かれている。一方で四マカにおいては、殉教者本人はまったく潔白であるにもかかわらず、罪ある民のためにそれを肩代わりしてあげたように描かれている。

犠牲にされた者としての殉教者。四マカにおいて殉教者たちの死は、神と人とを仲裁し、人々の罪を贖うための自発的な犠牲として解釈される。一方で、二マカにおいて殉教者たちの死は、神殿とそこでの犠牲という文脈において解釈される。両者の違いを検証するために、論文著者はさまざまな犠牲にまつわる語の使用を調べた。なかでも興味深いことに、二マカが犠牲(テュシア)とその類語を頻繁に使うのに対し、四マカには一切出てこず、また二マカが血(ハイマ)を犠牲とも殉教とも関係ない文脈でしか使っていないのに対し、四マカは犠牲としての殉教者の血という意味合いでこの語をしばしば使っている。つまり、二マカが神殿と神殿祭儀に大いに関心を持っているのに対し、四マカはそうではなく、むしろ犠牲用語を殉教者と結びつけることに腐心している。さらに清めにまつわる語の使用を見ると、二マカが聖なる(ヒエロス)という語を神殿に言及する際に用いているのに対し、四マカは殉教および殉教者を形容する際に用いている。以上のような比較の結果として、著者は四つのポイントを指摘している。
  1. 二マカも四マカも共に犠牲に関心を持っているが、それぞれの使用の文脈は異なる。
  2. 二マカが伝統的な神殿の清めや犠牲を描いているのに対し、四マカは神殿犠牲にまったく頓着していない。
  3. 二マカが殉教者の死を犠牲祭儀としては見ていないのに対し、四マカはそのように見ている。
  4. 二マカが殉教者の受難や死を犠牲祭儀の用語と関連付けないのに対し、四マカは殉教者を犠牲祭儀の用語で描写している。
すなわち、四マカは意図的に、二マカで描かれている殉教を神学的に解釈し、犠牲祭儀の用語を殉教者の描写に用いることで、殉教者の死を贖罪の犠牲のアナロジーと見なしているのだった。旧約聖書における動物犠牲やイサクの奉献と同様に、四マカにおいて殉教者たちの命は神に捧げられ、それによって民の罪が贖われたのである。さらには、殉教者たちの犠牲は自己の弱さや悪に打ち勝って、自発的に行なわれた気高い犠牲であった分、神殿祭儀よりもさらに尊いものであったということができる。

2014年11月6日木曜日

第四マカバイ記におけるノモス Redditt, "The Concept of Nomos in Fourth Maccabees"

  • Paul L. Redditt, "The Concept of Nomos in Fourth Maccabees," The Catholic Biblical Quarterly 45 (1983): 249-70.
第四マカバイ記の主題は、敬虔な理性が情念を支配できるかを議論することである。しかし、Urs Breitensteinによれば、実際中心的に語られているのは、理性が敬虔さに基づいていること、そしてその本質は律法遵守にあることであるという。言い換えれば、四マカにおいては、律法、すなわちノモスの概念こそが中心的な議題なのである。ノモスという語は四マカにおいて40回出てくるが、そのうち5箇所は明らかに五書に出典があるものであり、その他も五書を指していると考えられる。

このノモスの機能として、Redditは5つの特徴を挙げている。
  1. 教育すること(teaching):古代ギリシアにおいて、ノモスという語は子供のしつけや一般的な訓練のことを意味していた。ここから、ユダヤ文化の継承をノモスという語が示すようにもなった。
  2. 理性的な生を可能にすること(enabling rational living):人間が創造されたときに、ヌースにノモスが与えられたことで、理性的な行動が可能になった。
  3. 奨励すること(encouraging):ノモスは人間に敬虔な振る舞いをするように奨励する。
  4. 非難すること/しないこと(condemning/not condemning):ノモスは、脅迫に屈して律法遵守を破った者を非難することもあれば、そうした脅迫に対抗できるように励ますこともある。
  5. 当為命令と禁止命令(commanding/prohibiting):ノモスは人間にさまざまな命令を下す。人間はそれは従うべきだが、生命の危険など、さまざまな理由で例外的に従わなくてもよい場合もある。
以上より、Redditは、ノモスは単に律法というだけではなく、理性的な生を教えるものでもあると結論付ける。

Breitensteinは、四マカに表れる哲学について次のように述べている。第一に、哲学が殉教物語にきちんと統合されていない。第二に、一貫したギリシア哲学の原理を欠いており、直接の引用もない。第三に、ノモスを中心とした宗教的粉飾が施されている。これを受けてRedditは、自然、理性、知性、知恵、哲学、そして真理といったギリシア哲学の用語が四マカにおいてどのように使われているかを検証した。
  1. 自然(ピュシス):ストア派以前はピュシスとノモスとはまったく別物であったが、ストア派は自然に従って生きることが恣意性を克服する人間的なノモスだと考えた。さらにユダヤ教はそのノモスを人ではなく神に帰した。いうなれば、四マカにとってピュシスとは、神によって創造された世界秩序としてのノモスと理解することができるため、ストア派の言う「人間はピュシスに即した生を送るべき」という考え方は、人間はノモスに従って生きるべきと言い換えることができる。こうしてノモス=トーラー=ピュシス=神という等式が完成する。
  2. 理性(ロギスモス):ロギスモスが十全に機能するためには宗教への帰依が必要とされる。つまり、ロギスモスは独立したものではなく、宗教(エウセベイア)との関係の中で働く。ユダヤ教においてはノモスもエウセベイアも共にロギスモスとの関係の中にあるので、ノモスとエウセベイアとは同一視される。これに対して、ギリシア哲学では、ノモスとは人間の慣習でしかないので、決して宗教とは結びつかない。
  3. 知性(ヌース):ほぼロギスモスと同じ意味で使われている。創造のときに人間のヌースにはノモスが与えられたと説明されている。
  4. 知恵(ソフィア):ソフィアの範疇として、ストア派の枢要徳が挙げられている。一方で、旧約的な知恵文学の影響から、ソフィアとノモスとは同一視される(箴1:7「神への畏れは知恵の始まり」)。
  5. 哲学(フィロソフィア):ソフィアと同様に、フィロソフィアもノモスと同一視される。四マカで王はユダヤ教をばかげたフィロソフィアと述べるが、エレアザルは、自分たちのフィロソフィアをピュシスに即した極めて合理的なものと反論している。
  6. 真理(アレテイア):ヘレニズム的なアレテイアを持ち出す王に対し、エレアザルはユダヤ的なエメットは神を喜ばせる生の秩序であると述べている。
以上から、四マカにおいてノモスは人間の慣習とはまったく違うものと考えられていることが分かる。また、ノモスは自然的であると共に理性的なものである。ゆえに、ノモスに従って生きることは単なる慣習ではなく、知恵や哲学のしるしに他ならない。四マカはノモスの説明のために、ギリシア哲学的な用語を用いてはいるが、その中身はすぐれてユダヤ的である。

四マカにおける殉教物語に出てくる殉教者への賞賛は、ギリシア文学のジャンルであるエピタフ(墓碑銘、追悼詩文)と共通する特徴を持っている。エピタフの4つの特徴としては、第一に、ペルシアの王が暴君のプロトタイプとして出てくること、第二に、暴君に屈するよりも自分自身の法に従う者が出てくること、第三に、殉教者の戦いが宗教的な敬虔さの戦いとして描かれること、そして第四に、生の一時性と死後の永遠の報いを強調することがある。まさにこれを踏襲している四マカは、修辞法であるディアトリベーとエピタフとの混合物であるといえる。また殉教物語は著者の主張の証拠として機能している。

四マカはユダヤ人の共同体がギリシア世界の中でどのように生きるべきかを語っている。特に食餌規定の遵守は何度も言及しているが、割礼、安息日、神殿あるいはシナゴーグでの礼拝などについては欠落している。著者はこうした特徴を、四マカが書かれたと考えられるアンティオキアのユダヤ人共同体の特徴と重ねて説明している。

2014年10月30日木曜日

過越し祭とミシュナー2 Bokser, "Ch. 5: A Jewish Symposium?"

  • Baruch M. Bokser, "Ch. 5: A Jewish Symposium? The Passover Rite and Earlier Prototypes of Meal Celebrations," in id., The Origins of the Seder: The Passover Rite and Early Rabbinic Judaism (Berkeley, CA: University of California Press, 1984), pp. 50-62.
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第四章より、ミシュナーは神殿崩壊後に過越し祭の食事を行なうに当たって、犠牲祭儀抜きのやり方を提示したことが分かった。しかし、過越し祭から犠牲祭儀を抜いてしまっては、単なるギリシア・ローマ的な饗宴(シュンポシオン)になってしまうのではないか、というのが本章の主題である。結論からいえば、ミシュナーは両者の類似性を意識しつつも、過越し祭の独自性を維持するために、両者を明確に区別した。

ギリシア文学における饗宴の記述としては、プラトン、クセノフォン、プルタルコス、アテナイオスらが挙げられる。論文著者は、こうしたソースから得られる饗宴の特徴とミシュナーおよびトセフタから得られる過越し祭の特徴と比較し、9つの類似点を指摘している。
  1. 食事を運ぶ給仕の使用。
  2. 食事するときに横になること。
  3. 食べ物をソースなどにディップすること。
  4. 前菜(オードブル)があること。
  5. 食前・食中・食後におけるワインの飲用。
  6. 浮かれること。
  7. 知的な議論を教育に用いること。
  8. 神のために歌い、賛美すること。
  9. 子供たちが起きていられるようにゲームをすること。
こうした類似点から、Siegfried Steinなどの研究者は過越し祭に対するギリシア・ローマ的影響を強調する議論を展開したが、著者は、ミシュナーが持つ前提である、過去との継続性と犠牲祭儀の喪失とがある限り、過越し祭の食事をギリシア・ローマの文脈だけで語ることには無理があると述べる。ヘレニズム時代およびローマ時代のユダヤ人たちにとって、共同の食事は重要な意味を持っていたが、それが必ずしもヘレニズム的かつローマ的なやり方を踏襲しているわけではないのである。それを見るために、著者はパリサイ派の食事、クムラン教団の食事、そしてフィロンによって記述されたテラペウタイの食事を検討している。

それによると、三者は共に、皆で集まり、共同で食事をし、聖書を学び解釈し、神を称え歌っている。といっても、それぞれの相違点はあり、ミシュナーのラビたちが失われた犠牲祭儀の代わりとして過越しの食事を解釈しているのに対し、パリサイ派は神の存在と神殿に関する自分たちの見解を表現する方法としてそれを見なしており、またフィロンは祭儀的な概念をテラペウタイの食事に転嫁している。クムランは祭儀的というよりも終末論的な観点から食事を捉えている。

こうした三者三様の考え方がありつつも、著者はそれらを「転移(transference)」という概念で包括的に説明できると考えている。ある共同体は自らの考え方や信仰を通じて現実を認識し、新しいことが起きてもそれを基にして自らを順応させる。しかし、彼らがある破綻を経験し、自分たちの考え方に意味を与えていた制度を失ったとき、彼らは何らかの代替物を用いてそれを解決しようとする(the need to find a substitute for sometiong unavailable, p. 59)。そしてその代替物に、先の制度と関係のある概念を「転移」させるのである。これらのユダヤ人たちも、エルサレムの神殿の喪失および接近不可能性によって、この考え方を用いたのだと説明できる。

上で挙げたような共同体は、食事こそが神殿祭儀を転移するに相応しい文脈であると考えた。そしてその転移は、ギリシア・ローマの饗宴からではなく、それぞれの共同体が応答を迫られていた宗教的な状況から来るものだったのである。そうした意味で、ミシュナーが過越し祭の食事に対して持っていた観点は、70年の神殿崩壊前に神殿から離れた場所に住んでいたユダヤ人たちが共同の食事に対して持っていた観点と極めて似ているということができる。

2014年10月26日日曜日

第四マカバイ記について Schürer, "The Fourth Book of Maccabees"

  • Emil Schürer, The History of the Jewish People in the Age of Jesus Christ (175 B.C.-A.D. 135), Vol. 3, Part 1, revised and edited by Geza Vermes, Fergus Millar and Martin Goodman (London: Bloomsbury, 2014), 588-93.
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第四マカバイ記は、ユダヤ教を哲学として描こうとしている。四マカ著者の目的は、対象読者(あるいは聴者である)ユダヤ人の宗教的教化であったが、いわゆる説教ではなく哲学的な提題を用いてそれをしようとしている。その主張は、宗教的な理性の教えに従いさえすれば、敬虔な生活を送ることは難しいことではないというものである。なぜならば、そうした理性は情念を支配できるからである。こうした内容ゆえに、しばしばこの書は『理性の支配について』(エウセビオス『教会史』3.10.6)と呼ばれることもある。

四マカ著者はそうした哲学を裏打ちする具体例として、殉教者たちの事跡を持ち出している。彼の情報源は、第二マカバイ記と、それよりも詳細が描かれていたキレネのヤソンの著作(現存しない)だったと考えられる。二マカと四マカには記述に違いが見られ、その理由を四マカがヤソンの著作に依拠したからと考えることも可能だが、むしろ両著者の目的やジャンルの違いがそうした結果を生んだと考える方が妥当だろう。

四マカの哲学的背景は、中期プラトン主義および中期ストア派といえる。しかしより根本的なアイデアはユダヤ教である。というのも、彼が情念を支配する決め手として描く理性は、通常のギリシア哲学における理性ではなく、律法に従うことによって得られる宗教的理性(ホ・エウセベース・ロギスモス)である。つまり四マカ著者はギリシアの修辞的な記述法の中で、同時代の哲学的なアイデアを用いていたにすぎないのである。彼のユダヤ教由来の独特な見解は二つある。第一は、天上における不死性である。これはあくまで天上における永遠の生のことを指しているのであって、パリサイ派的な肉体的な復活とは異なる。第二は、義人の殉教による人々の贖罪である。

四マカはしばしばヨセフスに帰されるが、それはエウセビオスとヒエロニュムスによるものである。書かれた場所は不明である。書かれた時期については、一世紀中頃が有力で、少なくとも70年より以前と考えられる。写本としては、シナイ写本、アレクサンドリア写本などのギリシア語聖書写本に収録されたものと、ヨセフスの著作の写本に収録されたものとがあるが、前者の方が信頼性が高い。

2014年10月23日木曜日

過越し祭とミシュナー1 Bokser, "Ch. 4: The Mishnah's Response"

  • Baruch M. Bokser, "Ch. 4: The Mishnah's Response: The Meaning of Passover Continues without the Passover Sacrifice," in id., The Origins of the Seder: The Passover Rite and Early Rabbinic Judaism (Berkeley, CA: University of California Press, 1984), pp. 36-49.
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過越し祭を祝うために、ラビ・ユダヤ教以前には、子羊など動物の犠牲が必要不可欠だった。言い換えれば、聖書における過越し祭は神殿祭儀と密接に関わっていたのである。では神殿がなくなったあとのラビ・ユダヤ教はこれをどのように解決したのか。この論文の著者は、ミシュナーのモエード篇ペサヒーム10章を検証することで、ミシュナーが犠牲なしでの過越し祭をいかにして可能にしたかを論じている。それに際し、著者はミシュナーによる9つの試みを明らかにした。

1.過越し祭の食事を、時間や品目に関して犠牲の食事と「同期」させる。出12:8や申16:6のように、聖書は過越し祭の食事を夜に取ることを言明しているが、ミシュナー(・ペサヒーム、以下省略)10.1はこれを踏襲し、なおかつより厳密な規定を与えている。トセフタ(・ペサヒーム、以下省略)2.22はさらに細かい時間を指定し、なおかつ食事に必要な品目を挙げている。

2.種無しパン(マッツァー)と苦菜(ハゼレット/メロリーム)を犠牲と同等に捉える。種無しパンと苦菜は聖書においても言及されているが、あくまで犠牲に対して二次的なものと考えられていた。これに対し、ミシュナー10.3(およびトセフタ10.9-10)は、種無しパンと苦菜をいわば格上げし、犠牲と同等のものと見なしたのである。さらにトセフタ2.22は、苦菜、種無しパン、犠牲を並べた上で、仮にどれかが欠けても残りのものは無効にならないと述べている。ミドラッシュの『メヒルタ・デ・ラビ・シムオン・バル・ヨハイ』の出12:18の解釈では、さらにはっきりとした区別を打ち出し、種無しパンを苦菜よりも上位に置いた。

3.聖書でも指示されている子供への教えは犠牲なしでも可能と言明する。出12:25-27, 13:8などで、両親は子供に過越し祭の意味を説明しなければならないとされているが、ミシュナー10.4では犠牲なしでの説明の方法が示されている。また苦菜を二度ディップすることや、種無しパンと(犠牲の代わりに)焼いた肉のみを食べることなども指示されている。

4.ワインの役割に関するさまざまな規定を示す。実際は聖書にはワインに関わる規定はなく、最初に言及したのは第二神殿時代の聖書文学であるヨベル書であるが、ミシュナーは杯の数、いつワインを飲むか、いつワインに祈るかなどを指示している。

5.三つのことを口に出して言うことでそれらの重要性を認識する。ミシュナー10.5では、ラバン・ガマリエルの教えとして、食事の中で、過越し祭(ペサハ)、種無しパン(マッツァー)、苦菜(メロリーム)という三つの言葉を口に出して言うことが指示されている。これは、あえて口に出して言うことでそれらの事柄に対する集中を促し、それが犠牲と同じくらい重要であると認識させるためである。

6.詩篇の朗誦を専門の朗誦者や犠牲がなくても可能にした。過越し祭の食事では、ハレルと呼ばれる詩篇113篇および114篇の朗誦があるが、ミシュナー10.5-6においては、専門の朗誦者も犠牲も楽器もいらないことが示されている。

7.祭日の重要な要素である幸福になることを犠牲なしでも可能にした。歴代誌やヨベル書で言及されている、肉を食べることで喜びを得られるという考え方は、ラビ・ユダヤ教以前では過越し祭でも同様であった。これに対し、ミシュナー10.1, 2, 4およびトセフタ10.4では、肉に取って代わり、ワインが喜びをもたらすことが示されている。これは特にトセフタの方に顕著な特徴である。

8.ペサヒーム内の章区分から見えるミシュナーの試み。ペサヒームの1章から4章にかけては、過越し祭の神殿崩壊後にも適用可能な側面が記されており、5章から9章にかけては、犠牲について記されている。そのあとに、本論文の対象である10章が来ることになる。ミシュナーは、最初の方の章でいろいろと原理を説明していったあと、最後にそれを適用するとどうなるかを論じるという特徴があるため、ペサヒーム10章もまさにそれに相当している。

9.過越し祭が犠牲を失うことは他の犠牲祭儀を失うことと何ら変わりないことを示す。ラビ・イシュマエルは過越し祭を他の祭りよりも重要と考え、過越し祭の祈りは他の祭りにも適用できるが逆は不可能と述べた。これに対し、ミシュナーは最後に、これに反対するラビ・アキバの意見を挙げることで、過越し祭が犠牲をなくしても、それは取り立てて大きな損失ではないと主張している。

結論としては、最初に述べたように、ミシュナーの目的は、過越し祭を祝うことは犠牲祭儀を欠いても可能であることを強調することであった。ただし、すると新たな問題が生じてしまう。犠牲祭儀は過越し祭の食事を特徴付けるものであったが、それを欠くと、過越し祭の食事とギリシア・ローマの饗宴(シュンポシオン)との区別がつかなくなってしまうのである。ミシュナーはこの問題を解決しなければならなかった。(つづく)

以下蛇足ながら紹介。過越し祭の食事では、ハガダーと呼ばれる特別なテクストを皆で読むが、2014年1月にヒブル・ユニオン・カレッジ(Hebrew Union College)の教授たちを中心にアメリカの改革派ユダヤ教が数十年ぶりにハガダーの改訂版を出版した。イスラエルで手に入るハガダーと比較することで、アメリカの改革派ユダヤ教の特徴を捉えることができるだろう。またアール・デコ風の印刷が美しいので、単純に手にとって眺めるだけでも楽しい。重要な箇所はヘブライ語と英語とが対訳になっているが、英訳は現代の改革派の現実に照らしてかなり解釈が入っている。
  • Rabbi Howard A. Berman and Rabbi Benjamin Zeidman (eds.), The New Union Haggadah: Revised Edition (New York: CCAR Press, 2014).
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2014年10月22日水曜日

トセフタとミシュナーとの関係 Zeidman, "An Introduction to the Genesis and Nature of Tosefta"

  • Reena Zeidman, "An Introduction to the Genesis and Nature of Tosefta: The Chameleon of Rabbinic Literature," in Introducing Tosefta: Textual, Intratextual, and Intertextual Studies, ed. Harry Fox and Tirzah Meacham (Hoboken, NJ: Ktav Publishing, 1999), 73-97.
0881256374Introducing Tosefta: Textual, Intratextual, and Intertextual Studies
Harry Fox
Ktav Pub Inc 1999-09-01by G-Tools
一般的に、ミシュナーの補遺と見なされているトセフタは、位置づけの難しい書物である。ミシュナー文学の領域に入れるべきか、タルムード文学の領域に入れるべきか、答えは簡単ではない。中世以来の定説では、トセフタは書物としてのミシュナー成立の一世代あとに、ラビ・ヒヤ(バビロニア生まれだったが、パレスチナに移住し、ラビ・ユダ・ハナスィのもとで学んだラビ)によって編纂されたものとされている。しかし、特に近代の研究者の中には、トセフタの成立をタルムード以後と考える者たちもいる。つまり、トセフタの成立について、ミシュナー成立のすぐあとくらいのより古い時代と考える者たちと、タルムード以後のよりあとの新しい時代と考える者たちがいる。

より古い時代と考える者たちは、中世より枚挙の暇がない。ラビ・シェリラ・ガオン、ラベヌ・ハナンエル、ラビ・ナタン・ベン・ラベヌ・イェヒエル、ラビ・ユダ・ハバルセロニ、ラシ、マイモニデス、メイリなどが代表である。同じ立場を取る近代の学者たちは(M.S. Zuckermandel, A. Spanier, A. Guttmann, Y.N. Epstein, B. Cohen, M. Moreshet, Y. Kutscher, B. DeVries, B.M. Bokser, J. Hauptman, D. Halivni, A. Goldberg, J. Neusner)、仮にトセフタに収録されている伝承に、タルムード中のバライタと同じ伝承=新しいものが含まれていたとしても、それはトセフタをタルムードに合わせて後代に改訂した結果であって、トセフタそのものが新しいものなのではないと主張した。一方で、トセフタとタルムードのバライタが異なることがあるのは、それぞれ別のソースを持っていたからだと結論付ける者もいた。一方で、より新しい時代と考える者たちは(D. Hoffmann, L. Friedlaender, J.H. Dunner, A. Schwarz, Ch. Albeck, S. Lieberman, Y. Elman)、トセフタの成立をアモライーム時代よりあと、すなわち両タルムードよりあとのこととしている。

両者は意見を異にしているが、いずれも、トセフタをタルムードとの関係の中に置いているところでは共通している。しかし、本論文筆者は、むしろトセフタはミシュナーとの関係の中に置くべきだと主張する。しかもそのとき、両者が「対位法(counterpoint)」を奏でているように考えるべきというのである。Neusnerのように、トセフタはミシュナーを拡張したものであり、一方ミシュナーはトセフタを要約したものと言うこともできるが、実際はElmanが述べているようにもっと複雑で、両者が相互に改訂していき(interactive redaction)、共存しているのである(symbiotic redactional scheme)。そのために、著者は、ミシュナーに対するトセフタからの付加の例、両者が対位法的に相互に作用している例、トセフタがミシュナーと関係せず独立している例などを挙げている。ただし、ミシュナーなしにトセフタを読むことができない箇所があるため、トセフタの方がより後代のものであることは変わらない。

2014年10月20日月曜日

フィロン、第四マカバイ記、初期キリスト教の情念理解 Aune, "Mastery of the Passions"

  • David C. Aune, "Mastery of the Passions: Philo, 4 Maccabees and Earliest Christianity," in Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response within the Greco-Roman World, ed. Wendy E. Helleman (Lanham: University Press of America, 1994), pp.125-58.
Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response Within the Greco-Roman World (Institute for Christian Studies S)Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response Within the Greco-Roman World (Institute for Christian Studies S)
Institute for Christian Studies

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この論文では、フィロンと第四マカバイ記著者(以下四マカ著者)の情念理解が比較されつつ、それらが初期キリスト教思想でどのように受容されたかが議論されている。ストア哲学では、魂の病的・非理性的衝動を情念(パテー)と呼んでいるが、その情念は快楽(ヘドネー)、欲望(エピテュミア)、悲しみ(リュペー)、恐怖(フォボス)に分類されている。そしてこの病的な感情である情念の根絶こそがアパテイアと呼ばれる状態である。

フィロンは、プラトンによる魂の三部構造(理性的な部分ロギコス、活発な部分テュミコス、欲望的な部分エピテュメーティコス)と、ストア派の情念論(情念とは魂の非理性的・非自然的・病的な状態である)とを組み合わせ、魂の非理性的部分(=ロギコス以外)は、その本性において非理性的・非自然的・病的であると考えた。またフィロンは、倫理的に完全な者は自らこの病的部分であるテュミコスとエピテュメーティコスとを切り離すことができるが、他の者たちはロギコスによって病的部分を支配するに留まるとしている。そして、トーラーこそが真の哲学を含んでいるのであるから、トーラーを遵守することこそがこのロギコスによる病的部分の支配を可能にさせるのだというのである。

フィロンにとって最高の目標は、情念を根絶してアパテイアに至ることではある。しかし、これは神のように倫理的に完全な者以外にはほぼ不可能なことである。そこで、フィロンは自制の獲得に段階を設けた。すなわち、アパテイアほど高度に理想的な状態ではなくても、ある程度情念を支配しているメトリオパテイアに至ることができれば僥倖であるし、さらにそこまでも至っていない者でも、向上する努力を続けている限り、そのこと自体が善であると考えたのである。そして聖書の登場人物たちの中にも、さまざまな段階が見られるとして、具体例を挙げている。フィロンによれば、モーセは外科医のように情念を根絶し、完全なるアパテイアに至った人物であり、なおかつそれを何らの痛みあるいは労苦なく(アネウ・ポノン)成し遂げた点が重要である。アロンは倫理的向上の途中にある者(プロコプトン)であり、情念の完全な根絶はできなかった。しかし、理性と徳という薬を使って情念を癒し、メトリオパテイアに至った。アブラハム、イサク、ヤコブのうちでは、フィロンは、生まれ持った徳でアパテイアを達成したイサクを最上としている。アブラハムはいくつかの情念を克服することはできたが(イサク奉献やサラの死のときなど)、残りのものは緩和できただけであった。ヤコブは訓練(アスケーシス)によって神を見ることができるようになったが、高度の徳が得られる場合とそうでない場合とがあった。フィロンは、他にもエッセネ派やテラペウタイの修道生活や自分自身の例を挙げて、徳の獲得には、個人の能力差や段階があることを示している。言い換えれば、アパテイアに至ることができる者はほとんどいないが、トーラーの学習と遵守によって、プロコプトンでも段階的に情念のない状態に近づくことができるのである。

一方で、四マカ著者は、プラトンの魂の三部構造の否定と、快楽(ヘドネー)と苦痛(ポノス)を中心とした情念理解という特徴を持っている。四マカ著者の魂理解は、理性的部分である精神(ヌース)が、非理性的部分である情念(パテー)と特性(エーテー)とを支配しているというモデルである。しかも情念と特性とは神が人間の魂に植えつけたものなので、根絶することは不可能である(中期ストア派のポセイドニオスの教説からの影響)。それゆえに、彼にとってアパテイアとは、情念の根絶ではなく、情念の完全な支配のことといえる。またストア派の通常の情念理解は上に述べたとおりで四分類だが、四マカ著者はそれに喜び(カラー)と痛み(ポノス)を加えて六分類に増やしている。肉体に由来する情念である快楽を中心に、欲望(エピテュミア)と喜び(カラー)があり、一方で魂に由来する情念である苦痛を中心に、恐怖(フォボス)と悲しみ(リュペー)がある。そして、快楽と苦痛とは、怒り(テュモス)によって結ばれている。詳細はともかく、四マカ著者の特徴は、情念の基礎を快楽と苦痛に置いていることであり、それによって、マカバイ戦争の殉教者たちが世俗的な快楽に溺れず、拷問の苦痛にも耐えたことを哲学的に解釈したのである。

そして四マカ著者はこうした情念を支配し、アパテイアを獲得するために重要になるのが「敬虔な理性(ホ・エウセベース・ロギスモス)」、すなわちトーラーの厳密な解釈および適用に合致した理性的思考であるとした。この考え方は、トーラー遵守を前提としていることから、フィロンでいうところのプロコプトンによる情念支配の状態と近い考え方といえるが、四マカ著者は徳の獲得に個人の能力差や段階を認めない。つまり、フィロンのように徳を獲得できない人々への寛容さをあまり持たず、より厳格なのである。それは、作中で挙げているマカバイ戦争での殉教者たちの例、すなわちエレアザル(老人)、7人の青年(若者)、そしてその母親(女性)からも見て取れる。いわば彼は、エウセベース・ロギスモスを持ちさえすれば、すべての人が情念(快楽+苦痛)を支配し、アポノス・アパテイア(痛みのないアパテイア)を獲得することが可能だと主張しているのである。

初期キリスト教もまた、聖書がいかに徳をもたらすものかを証明することに腐心した。といっても、特に新約聖書においては、パトスという語の多くはキリストの受難を表すものであり、プラトン・ストア派的な哲学上の意味合いはない。これはヘドネーやエピテュミアといった情念の内容を表す語に関しても同様である。ギリシア哲学のような情念支配を新約聖書の考え方に当てはめるならば、それはキリストによって魂が完全に新しくされることで達成されるものであり、その際にはフィロンや四マカ著者のようにトーラーの遵守は前提とされないといえる。いわば、情念はキリストと共に十字架に架けられるべきということである。ただし、情念を支配するという姿勢自体はキリスト教でも歓迎されるものであるため、二世紀になるとキリスト者もギリシア哲学を取り入れるようになっていった。特に代表的なのがアレクサンドリアのクレメンスであり、彼はフィロンの多大なる影響下にあって、ギリシア哲学のよいところは吸収しようとした。それどころかトーラー遵守(特に食餌規定)でさえ情念支配を可能にする要件と考えた。むろん両者を手放しで受け入れたわけではなく、彼にとってはギリシア哲学とユダヤ教とは、キリスト教の準備(praeparatio evangelica)のためのものだったのである。彼の思想の背景にはフィロンからの色濃い影響があったが、フィロンが個々人の能力と段階を考慮したのに対し、クレメンスは、キリストの導きがあるのだから、すべての人がアパテイアを獲得できるはずと考えた。この点で、クレメンス自身はおそらく四マカを読んだことがなかったにもかかわらず、四マカ著者の思想に近づいているといえる。クレメンスの思想は、オリゲネス、カッパドキア教父、アンブロシウス、ヒエロニュムスらに引き継がれていくことになる。

2014年10月16日木曜日

イブン・エズラの雅歌注解 Reif, "Abraham Ibn Ezra on Canticles"

  • Stefan C. Reif, "Abraham Ibn Ezra on Canticles," in Abraham Ibn Ezra y su tiempo: Acatas del Simposio Internacional: Madrid, Tudela, Toledo. 1-8 febrero 1989, ed. Fernando Diaz Esteban (Madrid: Asociacion Espanola de Otientalistas, 1990), pp. 241-49.
8460075001Abraham Ibn Ezra y su tiempo: Actas del simposio internacional : Madrid, Tudela, Toledo, 1-8 febrero 1989 = Abraham Ibn Ezra and his age : proceedings of the international symposium (Spanish Edition)
Asociacion Espanola de Orientalistas 1990by G-Tools

イブン・エズラの聖書注解を理解する上で問題となるのは、彼が遍歴生活の中でそれらを書いたために、しばしば一貫性を欠くことがある点である。Moritz SteinschneiderとAdolf Neubauerによる研究から、彼が自分の注解をしばしばあとで改訂していたことが分かっている。雅歌注解に関して、Michael Friedlanderは、イブン・エズラが二度の改訂を施していると考えた上で、フランスにいたときの二度目の改訂をA、イタリアにいたときの一度目の改訂をBと呼んだ。またFriedlanderは、改訂Bの方が改訂Aよりもテクストに対して批判的であり、非ミドラッシュ的な傾向が見られるが、その理由は当時のイタリアのリベラルな風潮がイブン・エズラにそのような改訂を可能にしたからだと主張している(Uriel Simonはこの説明には懐疑的)。Yehuda Fleischerは、Friedlanderの区分を踏襲しつつ、二度目の改訂Aがなされたのは、1156年から翌年にかけて、フランスのドルーという町でのことだったと述べている。

イブン・エズラの雅歌注解は、言語的注解(linguistic)、字義的・文学的注解(literal and literary)、そしてミドラッシュ的・寓意的(midrashic and allegorical)の三部に分かれている。改訂Aの雅歌注解では、全体に関する序文と、この三部のそれぞれに対する特別な序文が付されている。全体に対する序文では、著者とされるソロモン王を称賛し、また雅歌が性的な詩ではなく神とイスラエルとの関係を比喩的に表していることを述べている。第一部の序文では、抽象的・宇宙論的な解釈を否定し、ラビ的伝統における寓意を方法論とする旨を言明している。第二部の序文では、乙女と若者の愛のメタファーについて叙述している。そして第三部の序文では、自身はミドラッシュ・ラバーの解釈で満足しているが、それでも自らの寓意的な解釈をする必要があることを述べている。

改訂Aの第一部、すなわち言語的注解においては、他の聖書文書における彼の注解とさほど変わらないスタイルが採られている。文法的なトピックとしては、男女両性の名詞(common gender)、音位転移(metathesis)、ハパクス・レゴメナ(hapax legomena)、欠性動詞(privative verbs)、畳語形(reduplicated form)などが扱われている。また、ある語の説明のために、聖書ヘブライ語のみならず、アラム語、ラビ・ヘブライ語、スペイン語、そしてアラビア語を引くこともあった。さらに、鳥、動物、植物、石、あるいは地形などの自然物に関する定義も多く行なっている。彼は注解において、たくさんの説を挙げた上で、そうと言わずに自説を述べ、結局他の説を捨てるという手順を踏んでいた。

改訂Aの第二部の字義的・文学的注解においては、雅歌で描かれている若者と乙女の詩をそのまま解釈し、恋愛的な内容にも踏み込んでいる。ただし、そうした内容を明確に解釈したいという意志と、検閲を恐れる意識とが緊張感をはらんでいるようにも見える。また興味深いことに、イブン・エズラは雅歌をもとにして作られた当時のムスリムの恋愛詩を知っていたため、それについての言及もなされている。

改訂Aの第三部のミドラッシュ的・寓意的注解においては、族長物語や出エジプトなど、聖書の歴史的部分に関する寓意的解釈(historical allegory)と、信仰、改悛、教訓、トーラー、性的倫理などといった神学的な問題に関する寓意的解釈(theological allegory)が扱われている。ここでのイブン・エズラの記述は、自身が第一部の序文で抽象的・宇宙論的な解釈を否定しているにもかかわらず、当時の新プラトン主義哲学を濃厚に反映しているという。

一方で、改訂BはAに比べてあまり構造的でなく、スタイルにも一貫性がない。また第一部と第二部に関しては40パーセントも少なくなっており、自身の他の聖書文書の注解へのリンクもない。序文に関してもより短くなっており、全体の序文は第一部の序文と一緒になっている。ただし、Bの方が写本に関しては良好に保たれている。改訂Bの第一部では、Aと異なり、イブン・エズラの自説は匿名でなく開陳されるが、他言語に依拠した説明は少なくなっている。改訂Bの第二部では、ユーモアや性的な言及は減ったが、医学的な見解が加味されている。ムスリムの恋愛詩への言及はない。改訂Bの第三部では、抽象的・宇宙論的な議論はシンプルになり、ユダヤ的な説明においても思想よりも実践に重きが置かれている。

以上より、論文著者は三つの結論を導いている:
  1. イブン・エズラの三部の解釈は、しばしば互いに一貫していないが、雅歌に対する一つの包括的なアプローチを代表するものである(筆者注:何を指しているのか不明)。
  2. 二つの改訂に見られる変化から、遍歴を重ねる中で、イブン・エズラが自らの著作を改訂・加筆する必要を感じていたといえる。
  3. 二つの改訂に見られる変化の原因は、必ずしもイブン・エズラがイタリアからフランスに移ったからではない。すなわち、変化の原因を書いた場所に帰するべきではなく、遍歴の中で移り変わっていったと考えるべきである。

2014年10月12日日曜日

6つのヒエロニュムス像 Fürst, "Hieronymus"

  • Alfons Fürst, "Hieronymus: Theologie als Wissenschaft," in id., Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien zur antiken Theologiegeschichte (Arbeiten zur Kirchengeschichte 115; Berlin: De Gruyter, 2011), 25-42.
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ヒエロニュムスは同時代の教父たちの中で、ほとんど孤立した存在であるといっていい。その特徴は教義上の問題への無関心であるといえる。当時アウグスティヌスらによって盛んに論じられていた、三位一体論やキリスト論、あるいは創造と救済の出来事における自由論、恩寵論、認識論といった事柄についてはわずかなコメントを残しているばかりである。本論文の著者によれば、ヒエロニュムスの貢献は、むしろ苦行運動と学術活動の二つに代表されるという。そうした見取り図をもとに、著者はヒエロニュムスの6つの人物的側面に光を当てている。以下興味を持った点のみ挙げる。

苦行者としてのヒエロニュムス。ヒエロニュムスはアクィレイアおよびカルキス砂漠で苦行生活をし、さまざまな苦行者たちの伝記を書いていたが、都会人である本人はそうした生活に向いていなかった。彼は、文化も文明も捨ててしまうようなシリアの隠遁者たちの極端な苦行を求めていたわけではなく、むしろ古代の異教文化・教養を捨てることなく、キリスト教的・苦行的生活を送ろうとしていたのである。すなわち、福音と(世俗的)文化、あるいはキリスト教的・修道的霊性と古代の学術とを結び付けようとした。ただし彼は、ペラギウスに代表される誰もが参加できるスタイルの苦行ではなく、少数のエリートのための苦行こそが理想的であると考えていた。

学者としてのヒエロニュムス。学者として、個人の図書館を持っていたことが重要な点である。彼は、キリスト教の著作、さまざまな言語の聖書の版、聖書注解などをすぐに参照できる場所に置いていたが、416年にベドウィンたちの襲撃で焼かれてしまった(彼自身はペラギウス派による襲撃だと思い込んでいた)。また学友であったパンマキウスなど、貴族のパトロンを多く持っていたために、金銭的な援助を受けることができていた。言語に関しては、母語であるラテン語に加えて、ギリシア語、シリア語、アラム語、ヘブライ語に通じていた。

翻訳者としてのヒエロニュムス。ラテン語世界全体のギリシア語リテラシーが落ちていた時代だったので、彼はオリゲネス、カイサリアのエウセビオス、アレクサンドリアのディデュモス、サラミスのエピファニオス、アレクサンドリアのテオフィロス、パコミオス、ギリシア語訳されたコプト語文書などを盛んにラテン語に翻訳していた。同様の翻訳活動をしていた人物としては、アクィレイアのルフィヌスとケレダのアニアヌスなどが挙げられる。また最初の翻訳理論家でもある。聖書とそれ以外の書物との翻訳に関してはフレキシブルに対応したために、自身の理論との矛盾が生じたが、なるべく首尾一貫した理論とエレガントなラテン語訳を目指していた。

聖書翻訳者としてのヒエロニュムス。聖書翻訳を可能にしたのは、さまざまな言語の聖書を所蔵する図書館と、彼のギリシア語およびヘブライ語への精通であった。最初から彼の基本方針は、極力原文を参照するということだった。それゆえに、聖書翻訳において、それぞれ「ヘブライ語の真理(Hebraica veritas)」、「アラム語の真理(Chaldaica veritas)」、「ギリシア語の真理(Graeca veritas)」という言葉を残している。彼のヘブライ語からの翻訳は確かに死後には評価されたが、生前はアウグスティヌスらによって七十人訳の権威を貶めるものとの評価を受けていた。しかしヒエロニュムス自身は柔軟な考え方をしていた。すなわち、学問的には、七十人訳およびそれに基づくラテン語訳は不正確なので自分の新しい訳に取って代わられるべきだが、教会的には、使い慣れたものが礼拝で用いられるべきであり、自分の訳と注は参照されればよいと考えていた。

聖書注解者としてのヒエロニュムス。ヒエロニュムスの注解はアレクサンドリア学派(オリゲネス、ナジアンゾスのグレゴリオス、アレクサンドリアのディデュモス)とアンティオキア学派(ラオディケイアのアポリナリオス)の折衷である。前者からの影響としては、類型論と寓意的解釈を方法論として用いている。オリゲネスの注解には特に大きく依拠しており、ときに盗作とさえいえるような内容もある。一方で、後者からの影響としては、本文批評(特に写本伝承への関心)、緒論学(著者、成立年代、歴史背景、地名、人物像、語源学)の重視などが挙げられる。これにユダヤ的な聖書解釈が加わることで、ヒエロニュムスの注解は特に個性的なものとなった。

教義学者としてのヒエロニュムス。彼が関与した代表的な教義論争は三つ。第一に、コンスタンティノポリスやニケーアでの公会議で議論されていた存在論については、ヒエロニュムスは複雑な競技的・教会政治的な状況をよく分かっておらず、また現実の教義史の発展を誤解してもいた。第二に、オリゲネス主義論争では、オリゲネス批判派にまわり、擁護派のルフィヌスとの不和を招いた。ヒエロニュムスは、教義理解に関してはオリゲネスを異端と見たが、聖書解釈に関しては継続的に参照していた。第三に、ペラギウス派論争では、意志の力によって罪のない生を生きることができると主張したペラギウスに対し反論した。ヒエロニュムスは、反ペラギウスということでアウグスティヌスと結託していたが、アウグスティヌスの恩寵論や原罪論のような思弁的な議論にはついに馴染まないままだった。

ヒエロニュムスは、神学的には秀でていなかったが、アンブロシウスやアウグスティヌスらと共に有力な教父と見られていた。彼は古代の学識(philologie)とキリスト教的霊性(theologie)とをつなぎ、苦行運動(asketischen Bewegung)と世俗的な成果(weltlichen Errungenschaft)とをつなぎ、また修道制(Askese)と聖書学(Bibelgelehrsamkeit)とをつないだ。さらに、学識ある修道士や、学術の中心としての図書館を持つ修道院といったイメージのもとにもなった。彼の為したこととは、古代の文化、修道的な霊性、そして学術的な神学を、ユダヤの聖書解釈を含めつつ、キリスト教的に統合したことであるといっていい。

2014年10月8日水曜日

カライ派の雅歌解釈 Frank, "Karaite Commentaries on the Song of Songs"

  • Daniel Frank, "Karaite Commentaries on the Song of Songs from Tenth-Century Jerusalem," in With Reverence for the World: Medieval Scriptural Exegesis in Judaism, Christianity, and Islam, ed. Jane Dammen Mcauliffe, Barry D. Walfish and Joseph W. Goering (Oxford: Oxford University Press, 2003), 51-69.
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ユダヤの聖書解釈は、当初はミドラッシュやタルグムのように、個人名義でないある種のアンソロジーのかたちをとることが多かったが、9世紀のダーウード・イブン・マルワーン・アル=ムカッマスの登場で初めて個人名義かつシステマティックな構成を取るようになったとされている。彼はユダヤ人であったが、一時期キリスト教に改宗したことがあったため、キリスト教の聖書解釈の著作法を知っていたのだという。しかも興味深いことに、イラク人である彼はその注解をアラビア語で書いたという。10世紀にはサアディア・ガオンと、カライ派ヤークーブ・アル=キルキサーニーが個人名義の注解を著した。彼らの著作は当時のイスラームの合理主義の影響を色濃く受けていた。

雅歌については、サアディアが注解を残したことが知られているが、現存しない。現存するユダヤ人による最古の個人名義の雅歌注解は、共にカライ派のサルモン・ベン・イェロハムとヤフェット・ベン・アリによってユダヤ・アラビア語で書かれたものである(ヤフェットは聖書文書全体の注解を初めて書いたユダヤ人でもある)。これらは一節ごとの釈義と、聖書の逐語的なアラビア語訳から構成されている。彼らはなるべくひとつの「正しい」解釈を提供するようにしていた。複数の注解を挙げる場合も、どれが最も好ましいかを必ず述べていた。また彼らの解釈は、当時のユダヤ人たちの中でも、「ショシャニーム」と呼ばれる党派的な共同体の聖書解釈を反映しているとされている。彼らの特徴は3つあり、第一に、現在から見た終末への強い意識、第二に、孤立および象徴的解釈、第三に、イスラームおよびラビ・ユダヤ教に対する派閥意識である。

サルモンによれば、雅歌は3つの重要な要素を持っているという。第一に、律法を教えてくれるようにという神への嘆願、第二に、イスラエルの罪に対する自責の念と罰への嘆き、第三に、イスラエルがメシア的な救済を求めていることの表明である。こうした要素を、サルモンは雅歌を寓意的に解釈することで発見した。彼によれば、雅歌の冒頭から7:10までは人が創造主へ向けて語っており、そこから結末までは人がメシアに向けて語っている。またすべての女性の表現はイスラエルを示しているのだという。彼の注解が寓意的である一方で、彼の聖書のアラビア語訳はプシャットを旨とした字義的なものだった。

ヤフェットの注解はより学問的で、一貫しており、明晰であった。彼は雅歌を完全にエゾテリックな書物として寓意的に解釈した。彼にとって雅歌注解とは、救済史的な観点から、雅歌のメタファーを終末の日の祈りと出来事とに関係付けることだった。とはいえ、それには段階があり、まずヘブライ語をまったく逐語的にアラビア語訳した上で、字義通りの意味(al-zahir)を確認し、最後に寓意的な解釈(ta'wil)に取り掛かるのである。ときにラビ的解釈を援用することもあったが(1:9を出エジプトに重ね合わせるなど)、それは自身の終末論的解釈を補うときのみに限られた。彼の注解の中には、ラビ・ユダヤ教に対する論争の様子が数多く残されている。特に、暦、祭りの遵守、食餌規定などといったハラハーに関する事柄に関して激しい論争が繰り広げられた。

ラビたちの雅歌解釈は、自らの権威を称揚しつつ、神とイスラエルの民との歴史的な関係をテクストに読み込んでいくものだったが、カライ派の雅歌解釈は、このラビたちの解釈を部分的に受け入れつつも、それを終末論をはじめとする自らの共同体の歴史理解に当てはめていくものだった。彼らの聖書解釈はラビたちによっては無視されたが、中世に百花繚乱の様相を呈することになる、個人名義で注解を書いた聖書注解者たちのモデルになったのである。

2014年10月7日火曜日

雅歌タルグムの歴史理解 Menn, "Targum of the Song of Songs"

  • Esther M. Menn, "Targum of the Song of Songs and the Dynamics of Historical Allegory," in The Interpretation of Scripture in Early Judaism and Christianity: Studies in Language and Tradition, ed. Craig A. Evans (Sheffield: Sheffield Academic Press, 2000), 423-45.
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5世紀から8世紀にかけて成立したとされる雅歌タルグムは、単なる翻訳ではなく、雅歌全体を出エジプトからメシアの時代までの歴史として解釈したものである。雅歌ラバーやアガダット・シール・ハシリームなど、雅歌に関するラビ文学も、雅歌をイスラエルと神との歴史として見なしてはいるが、雅歌タルグムのみがそれをひとつながりのものとして提示している。

男女の愛を描き、神の名が出てこない雅歌は、他の聖書文書と軌を一にしていないと見なされることがあった。そこで雅歌タルグムは雅歌を神とイスラエルとの関係のメタファーとして解釈することで、他の文書との不協和音を解消しようとしたのである。これは、ギリシア神話の非倫理的なエピソードをアレゴリカルに解釈しようとした運動と似ている。しかし、こうした通常の寓意的解釈が、具体的なエピソードを一般化していく(particular → universal)のに対し、雅歌タルグムの寓意的解釈は、男女の愛という一般的なテーマを神とイスラエルの親密さへと具体化している(universal → particular)。そういった意味で、雅歌タルグムの寓意的解釈は、フィロンのようなヘレニズム・ユダヤ文学におけるそれとも異なっている。

イスラエルの歴史観は直線的で不可逆なものとされることが多いが、雅歌タルグムの歴史理解はむしろ、罪と悔い改めの反復に基づいている。雅歌タルグムは歴史を網羅的に描くことを目的としているわけではなく、特定の目的のためである。Mennによると、雅歌タルグムがこのような歴史理解をするのには、次の3つの目的があるという。
  1. 正典的(canonical purpose)
  2. 実践的(practical purpose)
  3. 遂行的(performative purpose)
正典的目的。雅歌タルグムは、聖書の中での雅歌の役割を周辺的なものではなく、むしろすべての文書をつなぐような核にするために、雅歌を神とイスラエルの歴史として解釈している。雅歌タルグムは、雅歌は世俗的な愛の歌ではなく、霊感を受けた聖なる書物であると考えている。いうなれば、雅歌を預言書ジャンルにあるものと見なしているのである。高度にシンボリックなため一見分かりづらい点、あるいは神とイスラエルとが男女に喩えられている点などは、共に預言書の特徴でもある。

実践的目的。雅歌タルグムは、外国人の支配を受ける中でユダヤ人がユダヤ的生活を守っていくために、雅歌を神とイスラエルの歴史として解釈している。バビロン捕囚を含意しつつも、雅歌タルグムはローマやイスラーム支配下のユダヤ人を対象としている。雅歌タルグムが、そうした捕囚・離散にあって最も重要だと考えたのは、ラビ的な価値観(rabbinic value)であった。すなわち、宗教的態度、祈り、シナゴーグへの出席、学塾などを維持していくことである。そのため、雅歌タルグムはモーセのような預言者を賛美はするが、それと同時にイスラエルの民をも賛美している。これはすなわち、待っていれば預言が向こうからやってきた時代は終わり、自らトーラーを学んで神の声を聞かなければならなくなったことを表している。

遂行的目的。雅歌タルグムは、のちの者たちが最終的な贖いを得ることができるために、雅歌を神とイスラエルの歴史として解釈している。雅歌タルグムは、イスラエルの人々は救いを経験するたびに神を賛美する歌を歌ってきており、全部で十歌あると考えている(第一にアダムが罪を見逃されたとき、第二にモーセが海を渡ったとき、第三にモーセが砂漠で水を得たとき、第四にモーセがこの世を去るとき、など)。雅歌はそのうち第九番目であって、第十歌は贖いのときに歌われる。ユダヤ人はこの第十歌を歌うことができるまで、イスラエルを存続させなければならないのである。

2014年10月5日日曜日

聖書解釈者としてのイブン・エズラ Sarna, "Abraham Ibn Ezra as an Exegate"

  • Nahum M. Sarna, "Abraham Ibn Ezra as an Exegate," in Rabbi Abraham Ibn Ezra: Studies in the Writings of a Twelfth-Century Jewish Polymath, ed. Isadore Twersky and Jay M. Harris (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1993), 1-27.
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日本ではスピノザ『神学・政治論』の「ネタ元」として知られているアブラハム・イブン・エズラ(1092-1167)は、ミクラオット・グドロットではおそらくラッシーの次によく参照される聖書解釈者である。スペインにおいて、「星の巡り合わせの悪いとき」に生まれた彼は、パトロンの庇護を受けて生活していたため、次々と新しいスポンサーを求めて諸国を遍歴することになった。しかしそうした遍歴生活によって、さまざまな知識を得ることができたともいえる。またイスラーム・スペインからローマをはじめとするキリスト教諸国へ移動したために、彼はアラビア語ではなくヘブライ語で著作を残した。これが現在でも彼の著作がよく読まれている一つの要因といえる。

驚くべきことに、彼が著作活動を始めたのは50歳になったときだった。なぜ50歳から書き始めたのかは明らかではないが、その少し前に病気をしたから、あるいはローマで異端として告発されたので異端ではないことを証明したかったから、などさまざまな理由が考えられる。彼が残した注解は聖書すべてをカバーするものではない。現存するのは五書、イザヤ書、十二小預言書、詩篇、ヨブ記、メギロット(エステル記、コヘレト書、雅歌、哀歌、ルツ記)のみである。しかし彼は他にもヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記、エレミヤ書、エゼキエル書、箴言、エズラ・ネヘミヤ記、そして歴代誌の注解も書いたと述べている。

彼は他の中世聖書注解者の誰よりも聖書解釈の歴史に対する知識が深かったといわれる。彼はトーラー注解の序文において、彼以前の聖書解釈を批判的に4つのタイプに分けている。
  1. ゲオニーム:世俗の科学の成果を過剰に含んでいる。
  2. 異端カライ派:伝承と口伝律法を否定し、恣意的な解釈をしている。
  3. キリスト者:聖書にエゾテリックな意味を求め、主観的・寓意的な解釈をしている。
  4. キリスト教世界におけるユダヤ聖書解釈:タルムード賢者たちの説教を字義的に取り、ヘブライ語文法を無視している。
彼自身の聖書解釈の方針は、文法的、文献学的、そして文脈に即した研究を基にした(grammatical analysis and intellectual acceptability, p. 6)、テクストのストレートな解釈であった。しかし同時に、トーラーにおけるハラハー上の問題に関しては、賢者たちの解釈の権威を認めていた。当時聖書写本の正確さでずば抜けていたスペインで育ったイブン・エズラは、所与の聖書本文をそのままで解釈することを目指した。そのため、彼は当時すでに写本に記されていた「写字生の修正(ティクネ・ソフェリーム)」を無視することもあった。また彼は、テクストの破損や改訂の必要性を仄めかすヨナ・イブン・ジャナハの「置き換え理論(substitution theory)」にも激しく反対した。むしろ彼は、聖書における語の用法、スタイル、レトリックに注目し、またヘブライ語の文法に依拠することで難局を乗り切ることを目指したのである。彼はヘブライ語や聖書のスタイルとして次のような特徴を指摘している。
  1. 省略(ellipsis):冗長な言葉を省略できる。
  2. 転置・逆転(transposition, invert):語順、節順、エピソード順が逆転する。
  3. 並置(juxtaposition):節と節との並置には何らかの関連した意味がある。
  4. キアスムス(Chiasmus):二つのものが言及されるとき、二度目には二つ目が先に言及される。
  5. 間隔を置いた要約的反復(resumptive repetition following an interval or interruption):ある出来事が言及されたあとに、しばらくして同じ出来事に言及することがある(出14:8,9; Ex 20:15, 18; Num 32:2, 5)。
イブン・エズラは、カライ派を批判していたことからも分かるとおり、口伝律法を重視する立場を取る。特に、聖書におけるハラハー的な箇所については、賢者たちの伝承に依拠している。一方で、ハラハー以外の箇所については賢者たちの解釈に遠慮なく批判を加えた。彼は、代々伝えられてきた伝承(カバラー)と、賢者たち自身がロジックや討論の実践によってテキストから導き出した事柄(セヴァラー)とを厳密に区別していたのである。そして場合によっては、ラビたちの見解をまったく否定することもすらあった。

さらに、彼の傾向として、タルムードより後代のラビ的解釈にはほとんど重きを置かなかった。彼はサアディア・ガオン、ヨナ・イブン・ジャナハ、サムエル・ベン・ホフニ、ラッシーをはじめ、40人ほどの先行者たちに言及しているが、そのほとんどを、莫迦にした枕詞をつけて紹介している。特にカライ派と、ヒッウィー・アル・バルヒ(9世紀)と某イツハキに対しては容赦がない。ただ彼がこうした聖書解釈者たちを単に捨て置かず、いちいち名を挙げて批判しているのは、裏返せば彼らの著作がイブン・エズラ当時よく読まれていたことの証左でもある。スピノザへとつながっていく彼の「本文批評」の意識は、こうした「文壇」事情に促されるかたちで形成されていったともいえる。

そうした「本文批評」の意識の中で、イブン・エズラは聖書中のアナクロニズムに注目した。申命記32章はモーセを三人称で描いているが、これは、五書の著者はモーセだとする当時の見解に矛盾する。彼はこの箇所を後代の付加だと見なしている。これは、なるべく聖書本文をそのままのかたちで意味が通るように解釈するという彼の基本方針に反するようにも思える。実際Sarnaも、「It is hard to establish the criterion by which Ibn Ezra differentiated acceptable from inadmissible anachronisms, p. 19」と述べている。彼はまた、モーシェ・ハコーヘン・イブン・チキティラ(1080年没)の影響下で、イザヤ書の複数著者説に言及している。

最後に、イブン・エズラの聖書解釈の特徴として、注解することで自身の哲学を開陳しているということが挙げられる。彼は晩年に哲学に特化した小品をものしてはいるが、彼の哲学はむしろ注解の中から導き出される。それによると、彼はソロモン・イブン・ガビロールに影響を受けた新プラトン主義者というのが定説になっている。

2014年10月4日土曜日

第四マカバイ記、ガレノス、ポセイドニオス Renehan, "The Greek Philosophic Background of 4th Maccabees"

第四マカバイ記の著者の思想的背景について、しばしば次のような2つの疑問が投げかけられている。
  1. 著者はきちんとギリシア哲学の学習をしたのか?表面的に哲学的彩色を施しているだけなのではないか?
  2. もし哲学的素養があるのだとすれば、いったいどの学派に属しているのか?
第一の疑問に対し、Heinemannは四マカ著者の哲学的素養は聞きかじりにすぎないとする一方で、Pfeifferはフィロン以外では最もギリシア哲学に詳しいヘレニズム・ユダヤ文学であるとする。また第二の疑問に対し、Pfeifferはストア派と見るのに対し、Wolfsonはストア派というよりユダヤ色がを強調する。さらにHadasに至ってはプラトン哲学からの直接的な影響を指摘する(同時にストア的記述には誤りが多いと述べる)。すなわち、四マカ著者の哲学的背景については、議論百出の状態である。しかし本論文の著者Renehanは大筋で四マカ著者をストア派と認めている。

多くの研究者たちが四マカ著者の哲学的背景がストア派とはいえないと考えるのは、四マカにおける特徴的な情念論のためである。すなわち、正統的なストア派は情念を完全に根絶できるものと考えるのに対し、四マカ著者は情念を支配することはできるが根絶はできないと述べる。しかしストア派といっても一枚岩ではない。中期ストア派のポセイドニオスはプラトンの思想に回帰しつつ、情念の根絶でなく支配を説いたことが知られている(ポセイドニオス自身の『情念について』は現存しないが、後代の医学者ガレノスの著作から彼の思想を知ることができる)。ゆえに、Renehanによれば、ポセイドニオスがストア派といえるのであれば、四マカ著者もストア派といえるという。彼らのような、正統的な哲学の学派に創意を加えた折衷的な立場を、Festugiereは「philosophic koine」と呼んだ。

また、四マカ著者に対しては、ユダヤ教的背景に関する検証が必要である。たとえば、多くの研究者たちは、四マカ5.19-21における、倫理的な罪に軽重があることを伺わせるようなエレアザルの台詞をユダヤ教的発想にもストア派的発想にもない、著者独自の見解と考えた。つまり、ここから四マカ著者は哲学的にはストア派ではないという結論が導かれる。しかしRenehanは同箇所の文脈から、これはエレアザルが相手の考え方を先取りして述べているだけであって、実際ここでのエレアザル=四マカ著者の考え方はむしろ言われていることの間逆であると主張する。すなわち、四マカ著者はユダヤ教的・ストア派的見解とを統合して、罪に軽重はなく、いかなる罪も罪であると考えているのである。ところで、この場合はユダヤ教的見解とストア派的見解とが相反さなかったために問題はなかったが、四マカ著者は、基本的には(中期)ストア哲学に依拠していながらも、ある哲学的見解がユダヤ思想とぶつかる場合、躊躇なくストアを捨てるユダヤ人であった。つまり、彼の思想においてストア哲学と異なる点があっても、それがユダヤ思想に由来するものである限り、彼のストア性を否定する証拠にはならないということである。

Renehanは、さらに四マカ著者のストア哲学的背景を検証していく。四マカ第3章の冒頭には、理性による情念の支配に関する記述があるが、それと酷似した表現がガレノスの著作にもある。Renehanは、内容以外にも、両者共にτις οὐという極めて珍しい表現(οὐδείςの意。τίς οὐではない)がδύναταιに付随して現れていることを指摘する。そうしたさまざまな証拠から、四マカ著者とガレノスとは同じソースを持っていたといえる(The uncommon phrase would have been converted to commoner coin, p. 238)。そしてガレノスのソースは、ポセイドニオスであったことが相当程度証明できるため、四マカ著者のソースもまたポセイドニオスであったといえるのである。四マカ著者の特徴である、1)ストア派的な記述と、2)情念は支配できるが根絶できないという主張とは、共にポセイドニオスの特徴でもあった。

2014年10月1日水曜日

ヒエロニュムス研究の最前線 Kamesar, "Jerome"

  • Adam Kamesar, "Jerome," in The New Cambridge History of the Bible, ed. James Carleton Paget and Joachim Schaper (4 vols; Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 1: 653-75.
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本論文が収録された『新ケンブリッジ版聖書の歴史(The New Cambridge History of the Bible)』全4巻(既刊2巻)には、旧版として『ケンブリッジ版聖書の歴史(The Cambridge History of the Bible)』全3巻がある。後者は、1970年前後の聖書学の最新の成果を反映させた集大成として出版されたものである。そこでは、E.F. SutcliffeとH.F.D. Sparksの二人がヒエロニュムス関連の項目を執筆している。
  • H.F.D. Sparks, "Jerome as Biblical Scholar," in Cambridge History of the Bible, ed. P.R. Ackroyd and C.F. Evans (3 vols; Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 1: 510-541.
The Cambridge History of the Bible: From the Beginnings to Jerome v.1The Cambridge History of the Bible: From the Beginnings to Jerome v.1
C.F. Evans Peter R. Ackroyd

Cambridge University Press 1975-07-24
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  • E.F. Sutcliffe, "Jerome," in Cambridge History of the Bible, ed. G.W.H. Lampe (3 vols; Cambridge: Cambridge University Press, 1969), 2: 80-101.
The Cambridge History of the Bible: Volume 2, The West from the Fathers to the ReformationThe Cambridge History of the Bible: Volume 2, The West from the Fathers to the Reformation
G. W. H. Lampe

Cambridge University Press 1975-10-31
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今回取り上げる論文は、このシリーズの新しい集大成として2013年に出版された、『新ケンブリッジ版聖書の歴史』の第1巻に収録されており、ヒエロニュムス研究の2013年時点での最新の成果であるといっていい。

著者は、本論文の中で当然ながらヒエロニュムスの伝記的側面にも触れるが、あくまでヒエロニュムスが当時の聖書研究に対し、どのような貢献をしたかを中心に語っている。内容としては、生涯と著作、聖書の版と正典観、文学的評価と翻訳、注解の4つに大別される。以下、興味を持った点を挙げていく。

生涯と著作。ヒエロニュムスがローマ遊学時に文法学者アエリウス・ドナトゥスに師事したことは、重要なポイントである。彼がそこで学んだ文法学(グラマティケー)とは、いわゆる「文法」だけでなく、文学テクストのシステマティックな学習をも含む、より広い意味での文法学を指している。ドナトゥスの影響は、後年の聖書研究にも大いに生かされることになる。またヒエロニュムスは、アウグスタ・トレウェロルムにおいてポワティエのヒラリウス『詩篇論』を読むことで、聖書の文学的分析の方法、翻訳論、ユダヤ人教師の有用性などを学んだ。彼の著作は4種類:
  1. 聖書の改訂と翻訳
  2. ギリシア語の聖書解釈作品の翻訳と翻案
  3. 注解
  4. 説教
ヒエロニュムスはこれらを彼のパトロンや文通者の求めに応じて書いていたので、順番や時系列に体系性はあまりない。

聖書の版と正典観。ヒエロニュムスは、ローマで教皇ダマススの求めによって古ラテン語訳の福音書と詩篇を改訂するが、彼はこれをemendatioと呼んでいる。これは、ワッローによって定められたギリシア・ラテン文法学上のタームとして捉えるべきである。福音書以外の新約聖書の改訂は彼の弟子であるシリア人ルフィヌスによってなされた。パレスチナに行ったあとに、彼はヘクサプラの七十人訳に照らして古ラテン語訳の改訂をするが、聖書のすべての文書を改訂したわけではない。さらにそのすぐあとの391年頃にヘブライ語からの翻訳を始めたため、彼のヘブライ語への目覚めはこの頃のことされることが多い。しかし、ヘブライ語の重要視自体は彼のキャリアのもっと早い時代、ローマ時代からの特徴である。またヘクサプラによる改訂を、彼はのちのちまでひとつの作品として誇りとしており、ヘブライ語に目覚めたから途中でやめたとはいえない。七十人訳理解に関して、ヒラリウス、エピファニオス、アウグスティヌスがそれを唯一無二と考え、またエメサのエウセビオス、タルソスのディオドロス、モプスエスティアのテオドロスらアンティオキア学派がそれは唯一の聖書ではないが最重要視されるべきと考えたのに対し、ヘブライ語の原典に戻るべきというヒエロニュムスの考えは極めてラディカルなものだった。彼はラテン語読者にとってのラテン語訳聖書が、ギリシア語読者にとってのヘクサプラのような存在になることを願っていた。

文学的評価と翻訳。ヒエロニュムスの大きな特徴のひとつは、聖書に対する文学的評価の繊細さである。当時、教養ある層の人々の多くは、聖書が文学としては劣ったものだという見解を持っていた。これに対する反論としては、次の二通りが挙げられる:
  1. 聖書のよさは文学的な形式ではなく内容である。
  2. 聖書は実は文学的にも優れている(2-1:翻訳では劣っているが原語では優れている、2-2:翻訳だがそれでも文学的に優れている)。
アウグスティヌスら多くの者は一点目のような説明をしたが、ヒエロニュムスは一点目に加えて、「2-1:原語ではすぐれている」という議論を展開した(つまり「2-2:翻訳だがそれでも文学的に優れている」という見解は取らない)。こうした見解をもとに、ヒエロニュムスはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルのヘブライ語での文体を、それぞれ、「都会風」「田舎風」「その中間」と評価している。異なる文学スタイルを三つ挙げて比較することは(三人の著者の場合もあれば、一人の著者の三作品の場合もある)、ギリシア・ラテン文学においてよく用いられる比較法だった。また「都会風」「田舎風」という評価基準は、ラビ文学と異教文学の注解に見られる。すなわち、ヒエロニュムスは聖書の読みに関してユダヤ人教師に依拠していたが、それを解釈するに際し、かつて学んだ文法学と修辞学を用いた古典的解釈法を聖書に当てはめたのである。彼のラテン文学伝統への依拠は、二つにまとめられる:
  1. 文学スタイルへの注目
  2. 翻訳それ自体を芸術と捉える観点
一点目に関して、ヒエロニュムスは、文学スタイルに注目することで、七十人訳が原典の風味を維持していないことを指摘し、それゆえに新訳が必要だと論ずる。二点目に関して、ヒエロニュムスは翻訳論を語る。Ep. 57において、ヒエロニュムスは聖書に関しては逐語訳を旨としたと語っているが、一方で、Ep. 112では意訳をしたとも語っている。Kamesarによれば、ヒエロニュムスはEp. 57においては、聖書翻訳は逐語訳すべきと言っているのではなく、自分より以前の聖書翻訳の伝統(アクィラ訳、古ラテン語訳など)は逐語訳だったと説明しているのだという。その上で、あくまで自身はラテン語としてのエレガンスに拘り、聖書の文学スタイルを維持しようとしたのである。

注解。彼の注解は、世俗のラテン文学の伝統とギリシア教父文学の伝統とが根幹となっている(ラテン教父文学からの影響はわずか)。パウロ書簡の注解はオリゲネスなどギリシア教父文学からの影響が強い。しかし、パウロのヘブライ的背景を理解するにはヘブライ語が必要と考えた。またそれによってオリゲネスの仕事を超えることを目指した。ヒエロニュムスは、そうした目標をもとにコヘレト書注解を書いた。この注解ではヘブライ語に関する事柄にかなり触れており、またユダヤの聖書解釈を取り入れている。さらに創世記問答においては、彼の文献学的な方法論を具体例によって正当化するという試みをしている。エメサのエウセビオスも同様に創世記の注解をものしているが、彼がシリア語とタルグムの解釈をベースにしたのに対し、ヒエロニュムスはヘブライ語とヘクサプラをベースにし、かつユダヤの聖書解釈の伝統を盛り込んだ。すなわち、前者はアンティオキア学派として非ヘクサプラ的アプローチを取ったのに対し、後者はアレクサンドリア学派としてヘクサプラ的アプローチを取ったといえる。アンティオキア学派はシリア語によってヘクサプラを超えることを目指したが、ヒエロニュムスはヘクサプラをより洗練された方法で活用したのである。預言書の注解では、アレクサンドリアの解釈伝統である、字義的解釈と寓意的解釈の両輪による解釈を展開した。そのとき、ヘブライ的伝統を字義的解釈の方法論とし、ギリシア教父の伝統を後者の方法とした。そして、聖書の一節を引くときには、ヘブライ語からの訳と七十人役からの訳とを併記するようになった。これを一貫性がないと批判するエクラヌムのユリアヌスのような者もいれば、うまくやっていると評価するカッシオドルスのような者もいた。

ヒエロニュムスは神学者ではなく、編集者、翻訳者、そして文献学者であった。ラテン世界で生きたことが幸いし、ギリシア語一辺倒だったギリシア教父たちを相対化することができ、ヘブライ語に注目することができた。同時に優れたラテン作家として、文学的なスタイルに対する感覚の繊細さも持ち合わせていた。そして注解ではギリシアとヘブライの伝統を併せ持つ作品を残すことができた。

さらなる参考文献。
  • Adam Kamesar, "S. Gerolamo, la valutazione stilistica dei profeti maggiori et i genera dicendi," Adamantius 11 (2005): 179-83. 
  • L. Fladerer, "Übersetzung," Der Neue Pauly 12.2 (2002), cols. 1186-7.
  • S. Brock, "Aspects of Translation Technique in Antiquity," GRBS 20 (1979): 69-87.

2014年9月27日土曜日

野町「ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ思想」

  • 野町啓「ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ思想」、岩波講座『東洋思想第1巻:ユダヤ思想1』、岩波書店、1988年、187-228頁。
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歴史学における「ヘレニズム時代」の区分は、主として前323年アレクサンドロスの死から、前30年アウグストゥスによってローマに元首制が確立するまでとされる。しかし、ことにヘレニズム時代のユダヤ思想を俎上にのせる場合は、時代の下限として、後70年のティトゥスによる第二神殿破壊までを含める。というのも、そうしなければ、いくつかの聖書の外典・偽典をはじめ、フィロンやヨセフスといった重要な思想家の著作が範囲に入らなくなるからである。

この時代の大きな出来事としてまず言及しなければならないのは、七十人訳の完成である。この訳業によって、ギリシア的な存在論を聖書の神に援用する可能性と根拠が与えられた。

「ヘレニズム」という用語を作ったのはG.ドロイセンだが、そのもとである「ヘレニスモス」という言葉は、もともとは「ギリシア語を異国語の用法や破格を含むことなく正しく話すこと」を意味した。しかし、今日のヘレニズムという用語が持つ「ギリシア化」という意味でこの言葉を最初に用いたのは、第二マカバイ記4:13であった。同書2:21, 8:1には「ユダイスモス」という言葉が「ユダヤ教」の意味で出てきている。つまり、「ヘレニスモス」という言葉は最初から対「ユダイスモス」という意味合いの言葉なのである。ただし、ドロイセンは「ヘレニスモス→ヘレニズム」という言葉を、キリスト教につながる肯定的な意味合いで用いているが、マカバイ記におけるそれは、ユダヤ教の信仰を脅かすような否定的な意味合いでしかない。

ヘレニズム期において、ユダヤ人について言及している非ユダヤ人の著作家として、アブデラのヘカタイオスがいるが、彼自身の著作は現存しない。ただし、ヨセフスとディオドロス(をさらに引用するフォティオス)による引用が残っている。しかし、ヨセフスの伝承するヘカタイオスと、ディオドロスが伝承するヘカタイオスとには齟齬が見られる。前者がユダヤ人とアレクサンドロスとの関係に重点を置き、異民族の侵略下にあっても律法を遵守したユダヤ人の姿を描くのに対し、後者は出エジプトを中心にモーセやユダヤ教について言及し、ユダヤ人が異民族との交わりにおいて律法を変更したという点を指摘する。これを研究者たちは、同じ著者の二面性ではなく、二人の著者がいたことから説明し、ヨセフスが伝承するヘカタイオスを「偽ヘカタイオス」と呼んだ。

野町は、この偽ヘカタイオスをはじめ、アレクサンドル・ポリュヒストル、クレオデモス・マルコス、アルタパノス、エウポレモスといったユダヤ人作家の著作を挙げつつ、それをヘレニズム時代の尚古主義(classicism)と結びつける。すなわち、ヘレニズム時代の東西の諸民族は、自分たちの卓越性を誇示するために、「起源上の年代の古さや文化上の重要な発明・発見の創始者の出自」を自民族に帰そうとしていたのである。そこで、上の作家たちもまたユダヤ民族の卓越性を証明するために、アブラハムやモーセにさまざまな偉業を帰すという、「アレタロギア」という手法を取った。そこから、アリストブロスを嚆矢とする「ギリシア思想の聖書起源・依拠説」が生まれてきた。

アリストブロスは、ギリシアの哲学者たちや詩人たちは、皆モーセの律法を知っており、そこから学んだという説を唱えた。その際、聖書に出てくる神の神人同型論は神の実態ではなく神の力(デュナミス)であるため、字義通りにとってはならないとした。これは、ストア派がホメロスの神話を読むときの用法である「アレゴリア」を含意する考え方である。また彼はモーセを哲学者と見なすことで、ユダヤ教をひとつの哲学として提示することに成功している。自己の立場を哲学として提示する傾向は、『アリステアスの手紙』を含め、当時のユダヤ人に見られるものだった。

フィロンは、上のような単純なアレタロギアの手法は取らない。むしろ聖書の登場人物たちは近隣のオリエント諸国の学問を身につけた人物であるとした上で、それをアレゴリアによって解釈することによって、ユダヤ民族の卓越性を証明していく。たとえば、アブラハムのカルデアからカナンへの移住は、可感的世界から可知的世界および神的世界へと上昇する遍歴の物語と捉える。そうすることで、聖書の記述の普遍化・現在化を図り、ギリシア的世界観が支配する当時の世界にそれを理解・受容可能なものとして提示するのである。さらに、予備的教養、哲学、モーセの律法を階層化し、ギリシア世界の学術は畢竟、モーセの律法を理解するための補助手段でしかないと位置づけた。

2014年9月26日金曜日

ピーター・ブラウンの評価 戸田「ピーター・ブラウンの古代末期理解をめぐって」

  • 戸田聡「ピーター・ブラウンの古代末期理解をめぐって」、ピーター・ブラウン(戸田聡訳)『貧者を愛する者:古代末期におけるキリスト教的慈善の誕生』、慶應義塾大学出版会、2012年、253-84頁。
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ピーター ブラウン Peter Brown

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P.ブラウンは、ローマのいわゆる没落史観に対する批判から、「古代末期(Late Antiquity)」という時代区分を提唱し、その時代をむしろ多様性の時代と捉えようとしたことで知られている。本論文はそのブラウンの史観に対する戸田のするどい再批判である。

ブラウンの主著のひとつである『古代末期の成立』と『貧者を愛する者』とを比較しつつ、戸田はブラウンの議論の変化を3点挙げている。
  1. 古典期の帝国社会と古代末期との相違点を、社会現実の次元ではなく社会的想像力の次元において求めるようになった。
  2. ブラウンの古代末期像の中で主役を演じる者として、当初は広い意味での「聖人」に注目していたのに対し、より具体的に「司教」に注目するようになった。
  3. 当初はキリスト教に限定されないかたちで全体像を語っていたのに対し、しだいに古代末期の世界におけるキリスト教の重要性を指摘するようになった。
つまり、ブラウンの「古代末期」理解とは、首尾一貫したものではなく、多分に試論的なものであると戸田は指摘する。

こうしたブラウンの歴史観に対し、戸田は3点の評価を与えている。
  1. ブラウンの主張は厳密に資料に即したものというよりも、最近の研究動向に乗っかるかたちで進められる「歴史語り(narrative)」である。
  2. ブラウンは、H.ピレンヌのテーゼに即しつつ、古代末期社会を東と西とで区別せず、全体として扱うが、考古学的知見によって西ローマ帝国の没落は明らかであり、地中海世界の一体性を語ることは難しい。この点、ブラウンは西方の没落について巧妙に説明を避けている。
  3. ブラウンは、古代末期の社会を東と西とで区別せずに語ることのできる理由として、双方でキリスト教が普及したことを論拠としている。その議論の是非はともかく、古代末期の社会の特徴をキリスト教に求めることについては同意できる。

2014年9月18日木曜日

古代末期におけるラビの学塾 Rubenstein, "Social and Institutional Settings of Rabbinic Literature"

  • Jeffrey L. Rubenstein, "Social and Institutional Settings of Rabbinic Literature," in The Cambridge Companion to The Talmud and Rabbinic Literature, ed. Charlotte Elisheva Fonrobert and Martin S. Jaffe (Cambridge: Cambridge University Press, 2007), pp. 58-74.
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古代末期におけるラビの学校の様子については不明な点が多い。これまでは、ゲオニーム期の学塾の様子をアナクロニスティックに反映させた理解に留まるものが多かった。本論文ではなるべく同時代の資料に依拠しながら、タナイーム期、アモライーム期(パレスチナとバビロニア)、サヴォライーム=スタマイーム期のそれぞれの学校の様子を描いている。

タナイーム期(70-220年)。まだ制度としての学校はなく、むしろ小さな町や村に点在する、「師匠を囲む弟子たちのサークル(disciple circle)」と呼ぶべき状態だった。場所も、師匠の家であったり、個人宅を間借りしたりしていた。徒弟制度であり、弟子は師匠と生活を共にした。タームとしては、「ベート・ミドラッシュ」という言葉があったが、これはまさに師匠の家や勉強用の場所のことを指すものだった。たくさん人が集まるときは、富裕な人の家の二階を借りることもあった(ミシュナー、アボット1.4)。この時期に、ベート・ヒレルおよびベート・シャマイという「学派」があったが、これももとは単に「家」を意味していたと思われる。ラビはしばしば裁判官の役割も担ったが、司法制度はローマが握っていたため、彼らが扱った案件はあくまで宗教上のQ&Aについてだった。

アモライーム期(パレスチナ、220-425年)。ラビの教育はベート・ミドラッシュで行なわれた。これ以外の用語として、「ベート・ヴァアッド(集会所)」と「スダル(ホール)」がある。共にイルシャルミに出てくる言葉である。この期の特徴としては、ラビたちがシナゴーグにいるようになったことである。それまでシナゴーグは、あくまで普通のユダヤ人の祈りの場所であり、指導者は地元の富裕な名士などであった。一方で、ベート・ミドラッシュはラビや弟子たちが集まる学習の場所であった。ところが、ラビたちがユダヤ教の宗教生活の中で次第に影響力を増してきたため、シナゴーグでも必要とされるようになったのである。ラビたちは、裁判官、徴税人、共同体の長などの役割も担った。4世紀の終わりから5世紀の終わりにかけて、次第に小さなアカデミーが形成されていった。

アモライーム期(バビロニア、200-550年)。ラビの教育の場所は、パレスチナでの様子とほぼ同じだが、学習の場所はバブリにおいては、「ベ・ラヴ」と呼ばれている。弟子たちは比較的自由に、ある師匠のもとから別の師匠のもとへと移っていった。師匠もそうした行動を奇異なものとは受け取らなかった。シナゴーグとラビのつながりは、パレスチナと比べると、より薄いものだった。バビロニアでは、ラビたちが一般人に教える場として、「ピルカ」と呼ばれる場所があった。対象が一般人であるため、ピルカでは教えていいことと悪いことがあった。あるラビがピルカで講演するときに、別のラビが出席して講演を聞いてくれることは名誉なことであった。

サヴォライーム=スタマイーム期(550-800年)。ラビたちの常設の学塾として、「イェシバー」が制度化された。イェシバーの長はローシュ・イェシバーと呼ばれた。ババ・カマ117a-bによると、イェシバーは階層化されており、優れた者が前の列に座り、たくさん座布団を敷いていたが、ある議題についての問答で回答に失敗すると、後ろの列へと下がっていき、座布団も取られていってしまうのだった。イェシバーでの場所取りは熾烈な争いだったという。別々の離れたところにあるイェシバーの者たちが年毎にひとところに集まって、ある議題について共に学びあう、「カラー」という集会が設けられていた。ケトゥボット106aによると、ここでの講演者が喋るときには、横に13人の者が並び、講演者がしゃべったことを一斉に繰り返し、人間拡声器となったという。

雅歌解釈をめぐるオリゲネスとユダヤ人 Clark, "Origen, the Jews, and the Song of Songs"

  • Elizabeth A. Clark, "Origen, the Jews, and the Song of Songs: Allegory and Polemic in Christian Antiquity," in Perspectives on the Song of Songs (Berlin: Walter de Gruyter, 2005), pp. 274-93.
Perspectives on the Song of Songs: Perspektiven Der Hohelidauslegung (Beihefte Zur Zeitschrift Fur Die Alttestamentliche Wissenschaft)Perspectives on the Song of Songs: Perspektiven Der Hohelidauslegung (Beihefte Zur Zeitschrift Fur Die Alttestamentliche Wissenschaft)
Anselm C. Hagedorn

Walter De Gruyter Inc 2005-08-30
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本論文は、オリゲネスの『雅歌説教』と『雅歌注解』をもとに、彼の雅歌理解を検証している。オリゲネスに2つの雅歌解釈がある:第一に、ロマ書9-11章におけるパウロの議論をもとに、ユダヤ人と異教徒とがキリスト教において一つになることを表している。第二に、教会および個人の魂のキリストとの関係性を表している。こちらでは、第一の解釈にあったユダヤ教徒と異教徒との問題は不明瞭になっている。

オリゲネスの聖書解釈。基本的なオリゲネスの聖書解釈は、3つのレベルに分かれている。すなわち、肉的=字義的、魂的=倫理的、霊的=寓意的な解釈である。聖書のすべての節にこの3つのレベルがそれぞれあるわけではなく、ある節には肉的解釈はなく、魂的・霊的解釈しかできない場合もある。また説教か注解かによって扱う解釈法も変わる。説教の場合は倫理的側面を重視するのに対し、注解では3種それぞれを用いている。ところで、寓意的解釈の理解について、D. Dawsonは新たな見解を披瀝している。彼によると、寓意的解釈とは、従来の理解のように、テクストの表面上の意味をより高次の意味に置き換えることといった受動的な解釈法ではなく、自文化にとってショッキングなテクストの内容をキリスト教的に適切なものに「飼いならす(domesticate)」するような、権力と結びついた解釈法であるという。

オリゲネスの雅歌理解。オリゲネスは、雅歌のような問題のある書物に関するユダヤ人の教授法について言及している。それによると、人は成熟した年齢になるまで、4つの書物の学習は控えるべきだという。すなわち、創世記の冒頭、エゼキエル書の最初の数章、同書の終わり部分、そして雅歌である。またオリゲネスは、ソロモンの書の学習には段階があり、まず倫理を教える箴言を、自然科学を教えるコヘレト書を、そして最後に神的な事柄への黙想を教える雅歌を学ぶべきだとしている。

雅歌に関するオリゲネスの著作。239-242年にカイサリアにおいて書かれた『雅歌説教』と、245-247年にアテーナイおよびカイサリアにおいて書かれた『雅歌注解』がある。オリゲネスの著作の中でも評価の高い両者は、前者が初心者向け、後者が上級者向けに書かれた。彼は七十人訳の雅歌を読んだため、この書を対話編のようなドラマと理解していた。どちらもギリシア語のオリジナルでは現存しておらず、『説教』はヒエロニュムス訳、『注解』はルフィヌス訳のラテン語テクストが残っている。

オリゲネスによる雅歌解釈。オリゲネスは、若者(婿)の父親が神、若者が神の子(イエス)、そして乙女(花嫁)がユダヤ人(あるいは古代イスラエル人)および異邦人と解釈した。若者による乙女への球根は、ユダヤ人および異教徒をキリスト教において一つにすることを意味する。そしてさまざまな箇所をこの三者に見立て、律法と預言者(旧約聖書)も重要であるが、キリストの知恵(新約聖書)がそれを上回るという立論をしていく。あるいは、乙女を異教徒、コーラスであるエルサレムの乙女たちをユダヤ人と見なすこともある。この場合、「エルサレムの乙女たちよ、私は黒いけれども愛らしい」(1:5)という乙女の台詞は、異教徒が旧約の父祖たちのことすら知らない(=黒い)ことを、ユダヤ人が軽蔑していることになる。しかしながら、別の場所ではそのエルサレムの乙女たちもまた非難の対象となっている。

オリゲネス『ロマ書注解』におけるユダヤ人・異邦人理解。雅歌に関するオリゲネスの見解は、『ロマ書注解』にも多く現れている。この注解は『雅歌説教』『雅歌注解』とほぼ同時期に書かれている。ロマ書3章および11章に出てくる、ユダヤ人と異教徒とがキリスト教において一つになるというパウロの見解を、オリゲネスは自身の雅歌に関する寓意的解釈に結び付けているのである。この注解もルフィヌスによるラテン語訳しか残っていない。ところで、この注解では、ロマ書におけるパウロによるユダヤ人批判があまり明確に押し出されていない。この理由を、C.H. Bammelは、オリゲネスはパウロ同様ユダヤ人批判をしていたが、それは訳者ルフィヌスの関心ではなかったため、ルフィヌスが改変したと考えた。一方、J. McGuckinは、オリゲネス自身がパウロのユダヤ人批判に対し批判的だったため、オリゲネスがパウロの論旨を改変したと考えた。つまり、ルフィヌスによる改変かオリゲネスによる改変かが議論されているわけだが、原典が存在しないので確認はできない。

オリゲネスと当時のユダヤ人との関係。オリゲネスは注解をする際に七十人訳を用いている。彼はユダヤ人との接触を持っていたが(Hiullusというユダヤ人教師がいた)、それをあまりいい関係でなかったと見る学者と、いい関係だったと見る学者とがいる。彼のユダヤの聖書解釈に関する知識についても判断が分かれている。彼のヘブライ語能力に関しては、多くの学者が低かったと見ている。著者は、少なくとも雅歌に関しては、当時のカイサリアのユダヤ人の解釈がオリゲネスに影響していると考えた(ラビ・アキバの解釈のパラフレーズなどが見つかっているため)。

グノーシス・マルキオン派との関係。オリゲネスの時代には、聖書のグノーシス的、マルキオン派的な解釈は、教会の「正統派」にとって大きな脅威であった。こうした異端のひとつの特徴としては、旧約聖書軽視と、それに伴う新約聖書偏重とがある。彼らは旧約に出てくる登場人物たちの「ふさわしくない」振る舞いや、神の擬人化などを排除しようとしていた。しかしオリゲネスはこうした理解を批判し、旧約の重要性を訴えた。オリゲネスによれば、こうした異端とユダヤ人とは、共に聖書の読み方が「字義的」すぎるのだった。聖書の「霊的」な意味に気づけば、「旧約」もまた新たな意味を獲得し、旧新約聖書のいずれもが「新約」になるとオリゲネスは考えた(『民数記説教』9.4)。

行為から意図へ Avery-Peck, "Ch. 15 Conclusions"

  • Alan J. Avery-Peck, "Chapter 15: Conclusions," in Mishnah's Division of Agriculture: A History and Theology of Seder Zeraim (Brown Judaic Studies 79; Chico, California: Scholars Press, 1985), pp. 397-411.
Mishnah's Division of Agriculture: A History and Theology of Seder Zeraim (Brown Judaic Studies)Mishnah's Division of Agriculture: A History and Theology of Seder Zeraim (Brown Judaic Studies)
Alan J. Avery-Peck

Scholars Pr 1985
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著者は本書での結論を6点挙げている。
  1. ミシュナーのラビたちが第二神殿時代の文学から法制度や法概念をある程度受け継いでいるにせよ、ミシュナーの法概念は新しい独自のものであり、創造的なものである。従って、ゼライーム篇もまた、ラビたちが古代の法を単に集めてきたものではなく、最初の数世紀の間になされた創造である。
  2. 検証の結果、匿名の法は名前付きの法に依拠していることが分かったため、通常考えられているように匿名の法はラビの名前付きの法より古いのではなく、逆に、名前付きの法が匿名の法より古いものである
  3. ゼライーム篇のそれぞれの項はランダムに並んでいるのではなく、トピックや事実に従って組織的な編成になっている
  4. 70年から135年までサンヘドリンがヤブネに存在したヤブネ期と、それ以降のウーシャ期とで分けて考えると、ヤブネ期が法における行為自体を問題にするのに対し、ウーシャ期は法を守るときの人の意図や状況を勘案するようになった
  5. ミシュナーが特に独自なものとなったのは、バル・コフバの乱以降、すなわちウーシャ期になってからである。ウーシャ期のラビたちは聖書のイデオロジーを超えて、ミシュナー独自の聖俗の区別の概念を定式化した
  6. 神殿の崩壊後のユダヤ教の発展にとって、70年の神殿崩壊そのものよりも、135年のバル・コフバの乱が与えた影響が極めて強い。70年に確かに神殿は崩壊したが、まだローマによる規制が甘かったのに対し、135年の反乱以降はローマによるエルサレムの解体が進み、ユダヤ教の制度の大幅な改編が迫られた。
著者はこの章において、特に第四点目についてさらに説明を加えている。ヤブネ期の賢者たちは基礎的な質問や法定義について関心を集中させている。彼らは、人々が法を守るときの動機付けや意図には興味を持たず、ひたすら法の定義を議論している。彼らは世界にはあらかじめ決められた秩序があると考えていたのである。これに対し、ウーシャ期の賢者たちはすべての行為をそれをなした人の意図に照らして判断している。それゆえに、ある法の規定を破ってしまっても、それがよい意図に従ってなされたのであれば許されるのである。ヤブネ期の賢者たちと異なり、ウーシャ期の賢者たちは、イスラエル人に課された秩序以外、世界には秩序はない(それゆえに、法の遵守においても意図せざる乱れが生じる可能性がある)と考えていたといえる。

著者は、この行為そのものから意図を重視する姿勢を、中世ヨーロッパにおける法の発展や、心理学における子供の倫理観の発展などとの対比から説明していく。つまり著者は、社会的・政治的な倫理観の発展を、その中にいる個人の倫理観の発展の類比から理解しているのである。

2014年9月12日金曜日

ミシュナー・ゼライームに見るラビ・ユダヤ教の農業観 Avery-Peck, "Ch. 1: The Mishnaic Division of Agriculture"

  • Alan J. Avery-Peck, "Chapter One: The Mishnaic Division of Agriculture," in Mishnah's Division of Agriculture: A History and Theology of Seder Zeraim (Brown Judaic Studies 79; Chico, California: Scholars Press, 1985), pp. 13-32.
Mishnah's Division of Agriculture: A History and Theology of Seder Zeraim (Brown Judaic Studies)Mishnah's Division of Agriculture: A History and Theology of Seder Zeraim (Brown Judaic Studies)
Alan J. Avery-Peck

Scholars Pr 1985
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イスラエルでは古代より人々に十分の一税が課せられてきた。これは収穫の十分の一を税として神殿に収めるというものである。聖書における十分の一税の現代的な理解としては、貧者や祭司およびレビ人の生活を維持するためのものだったのだろうと考えられている。ではラビ・ユダヤ教ではどうだったのだろうか。ミシュナーの中でこの問題を扱っているのはゼライーム篇だが、Avery-Peckによれば、神殿祭儀がなくなったあとの世界に生きていたミシュナーのラビたちは、現代の経済的な観点からまったく離れ、独自の理解をしているという。

農業に関して、ミシュナーのラビたちにとって最も重要な概念は、すべての土地は神の所有であり、人間はそれを使わせてもらっているだけということであった。それゆえに、農業をするときには、神の土地にふさわしい仕方でしなければならない。そしてひとたび収穫があれば、十分の一税を支払って、いわばその収穫についている「神の抵当権」を放棄してもらうのである。つまり、ラビたちにとって十分の一税とは単なる神殿祭儀の一環ではなく、神による創造に相応しい仕方で農業をすることで、神とイスラエルとの特別な関係を維持していく手段だったのである。

ところで、特に第二神殿時代のユダヤ教文学には、農業に関する記述があまり多くない。そこで、ミシュナーが成立していった時代の比較対象としては、ギリシア・ラテン文学が適切である。具体的には、テオフラストス、クセノフォン、ワッロ、コルメッラ、大プリニウスなどが挙げられる。Avery-Peckによると、ギリシア・ラテン文学における農業観は、「経済」と「科学」が主眼だったという。つまり、農業を営むに際し、彼らの焦点は、商業的な意味でいかに農作物から利益を得るかということと、それを遂行するためにどのよな科学的な方法があるかということだったのである。これに対し、ラビ・ユダヤ教にとっては、経済も科学も農業をする際の主眼ではなかった。むろんラビたちもギリシア・ラテン文学における農業と同じように、取れ高の向上を願ったが、その同じ目的を達成するために、ギリシア・ラテン文学が科学的なアプローチを取ったのに対し、ラビ・ユダヤ教は律法遵守を主眼に置いた。すなわち、土地は神のものなのだから、神の法を遵守すれば取れ高も増えると考えたのである。

ではミシュナーは農業に関して聖書に完全に依拠しているのであろうか。むろん両者には基本的な部分で大きな連続性が認められるが、一方で、先に述べたように、神殿祭儀の有無により、ミシュナーは農業を律法に則って行なうことにより、神との関係性を維持していくことを目的としていた。いうなれば、聖書が貧者や神殿祭儀を見据えていたのに対し、ミシュナーは個人個人の生活を基にしているのである。

こうしたミシュナー・ゼライーム篇の特徴を示すために、Avery-Peckはトピックに従って各項を並べている。

1.作物の生産過程について
  • シェビイット(安息年)項:土地は神のものなので、創造のときに神が7日目に休んだように、7年ごとに土地を休ませなければならない。
  • キルアイム(混合の禁止)項:神が創造のときに定めた種の違いを維持するために、違う作物を一緒に育ててはならない。
2.作物を捧げ物として聖別する条件について
  • マアセロット(十分の一税)項:どのような作物が十分の一税を課されるべきものかについて。ここでは、支払う者の意図も重要である。つまり捨ててもいいようなものではなく、実際本人が食べようと思い、実際自分の食事に供するつもりのものを税として支払わなければならない。
  • ハラー(麦粉の初物)項:民15:17-21参照。しかし聖書と異なり、麦粉の初物で作ったすべてのパン生地が捧げ物になるわけではなく、特定の材料および方法でできたものでなければならない。この項はマアセロットを補完するものである。
3.捧げ物が捧げられるための条件について
  • テルモット(挙祭、祭司の取り分)項1.1-4.6:捧げ物が有効なものとなるための、捧げる本人の意図について。つまり、取り分けておいた作物も、捧げる本人がそれを捧げ物として聖なるものと見なければ、それは捧げ物にはならないのである。
  • ペアー(隅の刈り残し)項:テルモットと関連して、収穫の十分の一を貧者のために取り分けることについて。貧者への施しも、規定に則って行なわれなければならない。
  • ビクリーム(初物)項:申26:1-11、レビ23:9参照。作物の初物はエルサレムに捧げ物として収めなければならない。この項では、捧げ物を捧げる際のさまざまな要件について説明しつつ、テルモットの議論である捧げる本人の意図を問題とする。
4.捧げ物の取り扱いについて
  • テルモット項4.7-10.12:捧げ物をするときに不適切な条件について。捧げ物が単品で条件を満たしていても、聖別されていないものと混ざってしまったり、祭司以外に食べられてしまってはならない。しかし、テルモット1.1-4.6で示されているとおり、捧げ物をする者の意図もまた重要な条件となる。
  • マアセル・シェニー(第二の十分の一税)項:申14:22-26参照。エルサレムの神殿に十分の一税を支払うときに、作物そのものを持っていくのではなく、それを売って金にし、その金を持ってエルサレムに行き、現地で作物を買いなおすことがよいかについて。
5.作物や捧げ物の食べ方について
  • デマイ(十分の一税に認められにくいもの)項:この項の主要な問題は、きちんと十分の一税を守る人が、どうしたら守らない人の巻き添えを食わないかということである。自分が作物の十分の一税を支払っていても、人の家や公共の場所で食べたものが十分の一税をきちんと支払ったものかどうかは分からない。もしこれを食べると、律法違反に加担したことになってしまう。それを防ぐためには、自分の所有を離れたものは必ず十分の一税を払うようにすればよいという(自分が所有するものは確実に支払っているので)。
  • オルラー(捨てるべき初物)項:すべての初物を捧げるわけではなく、たとえば木の実は、木に実がなるようになってから3年経ってからでなければ捧げ物にしてはならない(レビ19:23参照)。こうした、初物は初物でも捧げることのできないものを分類している。
  • テルモット項11.1-10:捧げ物は、いったん聖別されて捧げられると、祭司によってしか消費されてはならない。仮にいくつか条件を満たさなくても、まだ捧げ物として有効なうちは祭司のみが扱える。
こうした分類を経て、Avery-Peckはゼライーム篇の重要なポイントを2点指摘している。第一に、それぞれの項は一貫した関心によって繋がれている。第二に、聖書でもともと問題とされていた側面とは別の側面に光が当たることが多い。ラビたちは、神殿を失ったイスラエルの人々が守るべき農業の決まりを定めることで、イスラエルの個人個人を祭司のいる王国へと変えようとしたのである。

さらに、ゼライーム篇には当時の歴史的なコンテクストに対する感心な薄いという特徴がある。これは、当時ローマによって支配されていたユダヤ人は、自分たちの弱さをあらわす歴史そのものに関心を持てなかったからと考えられる。むしろ、律法を遵守することで神の創造した世界を完全なものにする使命を与えられていると考えていた彼らは、農業をするときにも、その使命を遂行することを第一義に考えていたのであった。