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2017年10月3日火曜日

クムラン共同体の宗教思想 Vermes, "The Religious Ideas of the Community"

  • Geza Vermes, The Complete Dead Sea Scrolls in English (Fiftieth anniversary edition; London: Penguin Books, 2011), pp. 67-90.
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Geza Vermes

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ユダヤ教の信仰や習慣というのは、クムランも含めてシステマティックなものではないので、キリスト教的なドグマをモデルにすると歪んでしまう。それでもユダヤ教において重要なキータームとしては「契約」を挙げることができる。聖書物語というのは、神との契約への継続的な不信仰の物語といえる。イザヤ書やエレミヤ書では、何度悔い改めても契約が守られないので、新しい契約という考え方が示されている。クムランにおいてもこの考え方が踏襲されている。すなわち、改宗の報いとして、義の教師が新しい契約を定めるために送られてきたのであり、義の教師を迎えた共同体のみが新しいイスラエルとなるのである。

第二神殿時代のユダヤ教はさまざまな党派に分かれていたが、律法の遵守を重要視するという点では一致している。というよりも、それぞれの党派は自らの考え方を律法に基づいて正当化しようとする。クムラン共同体に独特な律法解釈としては結婚に関する考え方がある。レビ記18:13において叔母と甥の結婚が禁止されているが、では叔父と姪はどうなのかというと、パリサイ派やラビ・ユダヤ教はこれを許す。なぜなら聖書はこの組み合わせについては沈黙しているからである。しかしながら、クムラン共同体は男性に適用される法は女性にも適用されると考えるために、叔父と姪の結婚は許されない(CD 5.8-11、11QT 66.16-17)。クムラン共同体は律法のみならず預言書もまた重要視している。これは、彼らが終末論的世界観の中で、共同体の賢者のみが預言書を正しく解釈できると信じていたからである。義の教師は、預言者自身も分かっていない預言の内容を正しく解き明かす。

選民思想についても、クムラン共同体は独特の考え方を持っていた。ユダヤ教においては基本的にすべてのユダヤ人が選ばれているとされるが、後代になると善人は選ばれるが悪人は選ばれないと考えるようになった(『パレスチナ・タルムード』「キドゥシン」61c)。これに対しクムランでは、第一の特徴として、個人の選びがある。すなわち、ユダヤ人であれば自動的に選民となるのではなく、大人になる過程で契約に入るプロセスを経て初めて選ばれるのである。第二の特徴は予定説である。すなわち、選ばれるかどうかは最初から決まっているのである。そして第三の特徴としては、善人と悪人との区別がある。

クムラン共同体における祭儀は、独特の暦に基づいている。ユダヤ教の多くの党派では一年を354日とする太陰暦が用いられ、アダル月のあとに閏月を入れていたが、クムランでは一年を364日とする太陽暦が用いられていた。太陽暦を用いることで、必ず同じ曜日に同じ祭りが開催されることになるのである。クムラン共同体が特別な暦を採用したことで、彼らは他の集団とは別の時期に祭りを祝うことになる。これはあえてそうすることで自分たちのアイデンティティを確立することができる。

クムラン共同体は、儀礼的な沐浴、神殿祭儀、そして共食についてしばしば言及する。沐浴は清浄規定と関わる。彼らは、体の外側だけではなく内側もまた清浄な者のみが沐浴をすることを許した(1QS 5.13-14)。神殿祭儀については、むろんエルサレムの神殿ではなく、クムラン共同体という新しい神殿での祭儀が真正だと考えられた。共同体を神殿と同一視する考え方がしばしば見られる(1QpHab 12.3-4)。一般的に、性行為をした者は神殿祭儀に参加することを禁じられたが、共同体でもこの決まりは守られた。共食について、最後の食事は終末のプロトタイプだと考えられた。

クムラン共同体は、特異なメシアニズムを持っていた。ユダヤ教一般と同様に、一人のメシアを語ることもあるが、一方で二人のメシア、そして時には三人のメシアについても語っている。第一のメシアは「王としてのメシア」であり、「ダビデの若枝」、「イスラエルのメシア」、「全会衆の王子」、そして「王笏」などとも呼ばれる。第二のメシアは「祭司としてのメシア」であり、「アロンのメシア」、「祭司」、「律法の解釈者」などと呼ばれる。この祭司としてのメシアは、栄光の前に恥辱を味わうというイメージがある。そして第三のメシアが「預言者としてのメシア」である。クムラン共同体では、この預言者こそがすでに到来している義の教師であると考えた。

死後の世界についてもクムラン共同体は特異な解釈を持っている。聖書時代の死後の世界は、善人も悪人も行く「シェオル」という冥界が少し出てくるくらいだった。すなわち、神が人と関わるのは、人が生きているときだけだった。しかし捕囚後になると、アンティオコス・エピファネスの迫害などで殉教した者たちについて、自発的に神のために死んだ報いとして「復活」の考え方が出てきた。さらには「不死」の考え方も『知恵の書』などで言及されるようになった。ヨセフスによると、エッセネ派は、牢獄としての肉体から魂として永遠の生へと至るという、ヘレニズム的な「不死」の概念を持っていたが、「復活」には言及していない。これと同様に、クムランでも義人の報いとしての「不死」の概念は出てくるが、「復活」はほとんど出てこない(唯一の例外が4Q521)。