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2020年11月15日日曜日

聖書の校訂記号 Stein, "Kritische Zeichen"

  • Markus Stein, "Kritische Zeichen," in Reallexikon für Antike und Christentum 22 (Stuttgart: Anton Hiersemann, 2008), 133-63.

校訂記号とは、古代の編集者や釈義家たちによって単独あるいは組み合わせて用いられた線、点、文字のことで、通常は左の欄外の行の前に置かれた。記号は読者にテクストの本質やその理解、確かな特徴、内容の質などに関するヒントを与えるためのものだった。古代の文献学におけるδιόρθωσις, κρίσιςなどの領域で用いられた。

著者はこうした記号の非キリスト教的用法とキリスト教的用法を共に紹介する。そもそも校訂記号はキリスト教成立以前である前3世紀初頭に、アレクサンドリア文献学のホメロス解釈の伝統の中で生まれてきた。アレクサンドリア図書館の最初の館長エフェソスのゼノドトスはオベロス記号を発明し、彼が本物かどうか疑っている箇所に付した。疑わしい箇所を単に取り除くのではなくオベロス記号を付すことで、読者が自分で決定する可能性を奪うことなく校訂者が自分の決定を明らかにできる。続いてアリストファネスとアリスタルコスが新しい記号を発明し、校訂システムを修正・拡大した。ゼノドトスとアリストファネスは欄外の印をつけただけだったが、アリスタルコスは別個の注解に自分の見解を書き残した。アリスタルコスにとって校訂記号は、本文と注解を繋ぐものだった。

オベロス記号(−)は、真正性が疑われるテクストの目印のためにゼノドトスが開発した。アステリスコス記号(※)は、繰り返されている部分を示すためにアリストファネスが作った。アステリスコス記号はそのときどきの文脈で適切と思われる箇所にも使われ、一方で適切でない箇所にはオベロス付アステリスコス記号(※−)が付された。アステリスコス記号は他にも、Venetus Aにおいて神々や王たちに関する比喩や発言などの内容を特徴付けたり、叙情詩においては詩の終わりや始まりや、韻律の変化などを示したり、ヘルクラネウムのパピルスでは段落を終わりを指したり、プラトンのテクストではその教えの内的な一致を証明したりするためにも用いられた。

シグマ記号(Ϲ)は同じ内容を持つもともと連続する一節に、アンチシグマ記号(Ͻ)は節が置き換えられているところに、付点アンチシグマ記号(Ͽ)は疑わしい一節に付された。とはいえアリスタルコスをはじめ多くの場合、これらの記号について一貫した方法論は確立されていなかったようである。ホメロスや叙情詩の写本ではアンチシグマ記号は欄外に示された異読や本文に関するコメントを導入するために使われることが多く、節の置き換えを示すためにはめったに使われない。アンチシグマ記号と付点アンチシグマ記号の区別も明確でない。

ディプレー記号(>)はアリスタルコスが自身のホメロス注解で言語的・内容的なタイプをさまざまに解説するヒントとして役立った。とはいえ叙情詩や劇のテクストでは韻律の変化や段落の冒頭などを示すためにも用いられた。オベロス付ディプレー記号(>−)はテクストの内容の区分を示した。プラトンのテクストではディプレー記号がつくことで、それがプラトンの教説であることが分かるようになっている。付点ディプレー記号(>:)は、ゼノドトスが取り除くべきと判断したがアリスタリコスは別の判断を下した箇所に付された。また付点オベロス記号(÷)は先行者の恣意的な削除の批判を意味した。

めったに使われない記号としてケラウニオン記号がある。これはアリストファネスによる登場人物の倫理的評価を示すものではないかと考えられている。少なくともテクストの質や構造ではなく、物語の内容に関する記号と思われる。キー記号および付点キー記号は、ホメロス文献について口頭や注解で与えられる言語的・内容的なタイプの説明のためにアリストファネスが用いたが、のちの時代には完全に失われた。ホメロスのテクスト以外でも、さまざまな注解メモへの参照表示として用いられることがあった。プラトンのテクストでは、プラトンのスタイルの真正性をキー記号が、スタイル上の彩りを付点キー記号が示した。

パラグラフォス記号とコローニス記号は、詩や散文での段落を表し、とりわけ対話篇では話者の交代を示した。コローニス記号はより強い境界区分のために用いられた。斜線は、間違い、脱落、変化、補足、段落分けなどのヒントになり、付点斜線は斜線に比べてめったに出てこないが、本文と注解の間の参照表示として役立つ。アンコラ記号は抜かされた一節を指摘し、ページの欄外で情報を捕捉することもあった。他にも、アロゴス(文章が壊れて回復不能な部分を示す)や句読点、また組み合わせである文字クレーシモン(読者に読む価値のあるところを示す)、ホーライオン(法的文書において注意を喚起する記号)、ゼーテイ(テクストの質への問いを指す記号)、グラフェタイ(別の写本での異読を指す記号)などがある。

ユダヤ的用法では、削除記号としてアンチシグマ記号とシグマ記号が使われている。これらは間違って配列された一節や欄外に付加された一節を指した。アンチシグマ記号はのちに「逆転のヌン」と間違われた。パラグラフォス記号は大イザヤ写本などの段落の冒頭に置かれている。

キリスト教的用法も、異教のそれと同様にテクストの解明と保全が出発点である。オリゲネスのヘクサプラの目的は、七十人訳や諸訳を比較することで可能な限り確実なテクストを手に入れるという文献学的意図によるものとされているが、ユダヤ・キリスト教双方が受入可能なテクストを作り論争に役立てるという護教的意図によるものでもあった。オリゲネスは七十人訳がヘブライ語テクストに対して余剰を示すときにオベロス記号をつけ、一方で七十人訳で単語が文章が欠けているときにはその部分を別の訳で埋めた上でアステリスコス記号を付し、両者の量的違いを表した。オリゲネスは記号の使用に関して異教の文献学に依拠したことを認めている(Ep. 1.7)。テクストに直接干渉せずに自分の批判的見解を明らかにできるこの方法はオリゲネスの意図にかなっていた。オリゲネスのオベロス記号は写本によって変化するが(−, ~, ÷, ⨪)、機能は同じである。

エピファニオスはおそらくヘクサプラそのものを見たことはないが、記号について報告している。エピファニオスによると、アステリスコス記号とは、繰り返しを避けるために七十人訳者によって言語的・スタイル的観点から抜き取られた言葉を指すという。彼はこれを星のイメージを使って説明している。一方でオベロス記号とは、七十人訳者がギリシア語文としてより明晰にするために付加した箇所を指す(そこに神の霊感が現れる)。エピファニオスは普段はオリゲネスの激しい敵だったが、これらの記号の使用については賞賛している。

エピファニオスは、オベロス記号やアステリスコス記号が付された箇所の終わりの印としてメトベロス記号ついても説明している。また七十人訳においてヘブライ語テクストや諸訳と異なる順序で言葉が並べられているとき、オベロス付アステリスコス記号が付されるという。エピファニオス(とエルサレムのヘシュキオス)はさらにレムニスコス記号(÷)とヒュポレムニスコス記号(⨪)をオリゲネスに帰している。エピファニオスによれば、レムニスコス記号は、聖書を互いに独立して訳した36の翻訳ペアのうち2つが大多数とは異なる表現を選んだところに付けられる(÷の真中の線が行を、また2つの点が二人の翻訳ペアを示す)。ヒュポレムニスコス記号はひとつのペアだけが異なるときに使われる。この報告はエピファニオスのでっち上げであるという解釈が支配的だが、Fieldらはこれが正しい可能性を排除しない立場を取る。実際はこれらの記号はオリゲネスには由来しない。

10世紀のCodex Patmiacus 270には、ポントスのエウァグリオスの著作に対するスコリアがあり、その冒頭には記号についての説明に3章が割かれている。第1章ではオベロス記号とアステリスコス記号について、ヘブライ語テクストに対する量的な違いの観点から説明される。さらにテクストの順序の相違を表すために両記号が一緒に用いられることも指摘される。第2章のその例を挙げる。第3章は写本の欄外にあった4種の書き込みについて説明される。第一は、エウァグリオスのスコリア。第二は、オリゲネスのスコリア。第三は、七十人訳と諸訳の異読を扱うスコリア。第四は、七十人訳テクストで欠けている言葉や異読。

オベロス記号とアステリスコス記号はヘクサプラ版七十人訳写本の外でも使われることがある。たとえばルキアノス改訂版写本である。ここではオベロス記号はルキアノスによる付加を表す可能性があるが、記号の付け方はしばしば完全に恣意的になっているので確証はない。たとえばアステリスコス記号の代わりにオベロス記号が付けられたり、逆のことが起こったりしている。

ヒエロニュムスは聖書テクストに関する著作の中で、しばしばオリゲネスの記号について言及している。さらにはこれらの記号を同じように自分の聖書翻訳(七十人訳に基づく)でも利用している。エピファニオス同様に、記号の説明に星の比喩も使っている。これに対し、アウグスティヌスはヒエロニュムスの方法を理解せず、記号が示すのは非ヘクサプラ版の七十人訳テクストに対し、ヘクサプラ版七十人訳に基づくヒエロニュムスのラテン語訳(ヨブ記)の違いだと考えた(Ep. 28.2)。ヒエロニュムスはこのアウグスティヌスの誤解を正している(Ep. 112.19.1)。中世になると、オベロス記号とアステリスコス記号はガリア詩篇の写本において、ヘブライ語詩篇との相違を表すためにも用いられるようになった。

以上のような文献学的な問題だけでなく、神学的・釈義的ヒントとして記号が使われることもあった。エピファニオスは、聖書の預言書において預言が成立する10種の条件を示す記号や、そのときどきの預言のテーマを読者に示す記号を説明している。またカッシオドルスは、教父の著作中の異端的思想にアルケーシモン記号を、また正統的思想にクレーシモン記号を付した。カッシオドルスはこの方法を他の修道士たちにも薦めつつ、自身の『詩篇注解』などでも一貫して使用している。こうした著作の冒頭では13種の記号のリストが与えられており、その意味や先行者が説明されている。ときに、すでに知られていた記号に新しい意味が与えられる場合もあった。たとえばアステリスコス記号は注解の中で天文学的なテーマが扱われている箇所を示すために用いられた。カッシオドルスのこうした努力は、教義学、倫理学、文法学を用いて聖書を注解するためのみならず、神学的学問や世俗的学問においてテクストを通して聖書を覚えていくような教科書を作ろうとしたためだった。

ナジアンゾスのグレゴリオスの説教へのスコリアと共に、一連の写本には欄外の記号がある。この記号はおそらく6世紀前半のスコリア作者に由来するものと考えられる。このスコリアはグレゴリオスの説教の教義上の内容説明やそうした箇所へのヒントを通して、異端者による利用から守るためのものだった。たとえばグレゴリオスが神について取り扱っているところにはヘーリアコン・セーメイオン記号が付された。アステリスコス記号は新しい意味を得て、キリストの受肉やそれと結びついた救済計画について論じていることを示した。組み合わせ文字のホーライオン記号はスタイル的・思想的に優れた箇所を、セーメイオーサイ記号は読者に内容的にも言語的にも何か奇妙なところを指す。オベロス記号は、テクスト削除という伝統的な用法を応用し、削除されるべき異端者の意見に付された。ディプレー記号は聖書からの引用を意味した。

他にも、ギリシア語やコプト語やシリア語の聖書写本およびパピルスでの用法についても触れられている。

2020年8月25日火曜日

ラテン語訳聖書概説 Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 505-26.

紀元600年までのラテン語聖書の歴史は、第一に、ギリシア語から翻訳された古ラテン語訳、第二に、ヘクサプラ的ギリシア語およびヘブライ語から翻訳されたヒエロニュムスの訳、そして第三に、初期の翻訳と新しい翻訳との合流に分けられる。

古ラテン語訳は、詳しいことはほとんど分かっていないが、2世紀の終わり頃にローマ属州アフリカで作られたと考えられる。最初のラテン語訳がイタリアではなくアフリカでできたことはやや驚きだが、当時の北アフリカにおけるラテン語のキリスト教文学の興隆(テルトゥリアヌスやキュプリアヌスら)を物語っている。北アフリカにはラテン語を話すユダヤ人共同体もあったので、彼らの助言があった可能性もある。

ギリシア語聖書のラテン語訳の歴史は、ギリシア語テクストと一致させるための改訂と、ラテン語テクストそのものの改訂から成っている。古ラテン語訳に関する我々の知識の源は、第一に、教父や中世文学の引用(場所と時代が特定しやすいが、問題としては、ウルガータに合わせた標準化、注解中の聖書引用は後代の付加、校訂者による聖書引用の誤同定の可能性がある)、第二に、古ラテン語訳が使われていた当時の写本(場所と時代は特定しやすいが、断片やパリンプセストのことが多い)、第三に、カロリング期あるいは中世の写本、第四に、ヒエロニュムス訳への付加、第五に、礼拝の式文、第六に、文中の短いタイトル(tituli)などに由来する。

古ラテン語訳は教父時代には独立した権威を持っておらず、あくまで霊感のある七十人訳に付随するものだったが、七十人訳の歴史に関する重要な証言でもある。テクストの種類としては、古アフリカ型(K)、アフリカ型(C)、古ヨーロッパ型(D)、イタリア型(I, J)、スペイン型(S)、ミラノ型(M)などがある。他の記号としては、ヘクサプラに基づくヒエロニュムスの翻訳(O)、ヘブライ語に基づく翻訳(H)、ウルガータになる型(V)がある。

ラテン語訳聖書あるいはラテン文学全般は巻物に書かれることはなく、いつもコーデックスに書かれた。4世紀前半になると、ギリシア語聖書は旧約と新約が一つの大きなコーデックスに写されるようになった(シナイ写本、ヴァチカン写本)。ラテン語聖書については、カッシオドルスがこうしたコーデックス聖書を「法典(pandect)」と呼ぶようになった。

教父たちにとっては、「ウルガータ」という名称はギリシア語聖書あるいはそのラテン語訳のことを指すものだった。アウグスティヌスは古ラテン語訳のイタリア形式を表すために「イタラ」という用語を使っている。「古ラテン語訳」とは、ヒエロニュムスの翻訳以外のラテン語訳聖書で、ギリシア語を底本としているものを表すための今日的な名称である。その古ラテン語訳の個々の文書は章(capitula)に分けられ、数字とタイトル(brevis, titulus)が振られている。タイトルは赤文字(rubric)で書かれることが多い。このシステムはヒエロニュムスは採用しなかった。福音書とパウロ書簡の古ラテン語訳には序文が付されていた。福音書は反マルキオン主義の序文やモナルキア主義の序文、パウロ書簡はマルキオン主義の序文に依拠していた。

福音書の順序はヒエロニュムスの改訂が受け入れられるまでさほど広まっていなかった。北イタリアではマタ・ヨハ・ルカ・マコ、5世紀の偽テオフィロスの福音書注解ではマタ・マコ・ヨハ・ルカ、クラロモンタヌス写本ではマタ・ヨハ・マコ・ルカ、何人かの教父たち(アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アウグスティヌスら)はマタ・ルカ・マタ・ヨハ、初期の教父たち(テルトゥリアヌス、ペタウのウィクトリヌス)はヨハ・マタ・ルカ・マコという順番があった。

ヒエロニュムスは注解や翻訳をするたびに序文を書いて、自分の翻訳方法などの情報を提供している。翻訳の順番としては、まず福音書の改訂から始めた。このとき参照したギリシア語写本は有力大文字写本ではなく、アンティオキアのコイネー版だった。底本としたラテン語訳写本はイタリアのb ff2 qグループであった。次に詩篇を手がけたが、ローマ詩篇については何も分かっていない。ヘクサプラ改訂版に基づくギリシア語からのラテン語訳詩篇は、校訂記号が付されている。このときはソロモンの書、ヨブ記、歴代誌も手がけた。その後のヘブライ語からの翻訳は、預言書とヨブ記から始めた。ヒエロニュムス自身は自分の翻訳をまとまったかたちで発表することはなかった。文書ごとに個別のコーデックスのかたちで回覧されていた。

翻訳方法としては、アクィラやシュンマコスのギリシア語訳を非常にしばしば参照し、キケロー的散文と古ラテン語訳的逐語訳の中間の文体を作った。ヘブライ語聖書に伝わっておらずギリシア語聖書にしかない文書は翻訳対象としなかった。福音書の改訂は教皇ダマススに捧げられているため、ヒエロニュムス自身も大きな権威と持つようになった。ヒエロニュムスの福音書にはエウセビオスの対観表も付されていて便利なので、彼の生前からよく写されるようになった。写本はイタリアからアルプスを越えて、イングランドにまで広まった。

ヒエロニュムスは新約聖書全体を翻訳したと3箇所で述べているが、疑わしい。というのも、福音書以外の文書への序文を書いていないから、自分自身の改訂・翻訳を引用していないから、そして福音書以外の文書の特徴が福音書と異なるからである。少なくともパウロ書簡の改訂とその序文については、シリア人ルフィヌス(ヒエロニュムスの弟子の一人だったが、ローマのペラギウス派の有力者でもあった)の手になるものと考えられる。序文がない使徒行伝、公同書簡、黙示録についてもルフィヌスに帰することができるかもしれない。しかしながら、最終的には新約聖書すべてが大きな権威を持つヒエロニュムスのものと考えられるようになった。旧約新約共にヒエロニュムスのものとされるようになった最初の証拠は、サン=ジェルマン=デ=プレ聖書の署名欄に見られる。

ヒエロニュムスのヘブライ語に基づく旧約翻訳は重視されるようになったが、ヨブ記、ソロモンの書、詩篇などについては、ヘクサプラのギリシア語テクストからの訳がアフリカやガリア南部などで、主に礼拝の場で広く用いられ続けた。

ヘブライ語からの翻訳が古ラテン語訳と混合することがあった。そもそもヒエロニュムス自身がエステル記のヘブライ語からの翻訳にオベロス記号を付し、そこにギリシア語からの翻訳を加えている(逆にルフィヌスが古ラテン語訳にヘブライ語から文章を付加したものもあった)。七十人訳の方がヘブライ語より長いサムエル記のヒエロニュムスの翻訳にも、古ラテン語訳からの付加が見られる。箴言については、ペレグリヌスなる人物がヒエロニュムスのヘクサプラ改訂版に古ラテン語訳の訳文を付け加えたことが知られている。

5~6世紀になると、詩篇や雅歌といったテクストは礼拝に重要なものとなった。詩篇については、ヘブライ語からの翻訳ではなく、ヘクサプラ校訂版に基づくガリア詩篇が礼拝で用いられた。600年以前の詩篇写本としては、サン=ジェルマン詩篇、エジプト出土のパピルス、リヨン詩篇などがある。古ラテン語訳には詩篇151篇が含まれていたが、ヒエロニュムスのヘブライ語詩篇にはなかった。

ギリシア語とラテン語のバイリンガル聖書も作られた。有名なベザ写本をはじめ、クラロモンタヌス写本(5世紀後半、イタリア南部)、エジプト・アンティノオポリスの断片、リベル・コンモネイ(6世紀半ば)、ヴェローナ詩篇(7世紀、イタリア北部)などがそうである。福音書とパウロ書簡については、ゴート語とラテン語のバイリンガル聖書も5世紀末から6世紀にかけて作られた。

アウグスティヌスが使った聖書としては、詩篇とパウロ書簡についてはイタリアから持ってきたイタラ訳だったことが分かっている。ヒッポを出てどこかで説教をするときには、その土地土地の聖書を用いた。ヒエロニュムスの仕事については次第に知るようになった。とりわけ、ヘブライ語に基づく翻訳よりも、七十人訳に基づく改訂を称賛し、すべてを所有しようとヒエロニュムスに書簡を送った。

その後の重要な証言としては、ギルダスによる引用がある。ギルダスは旧約についてはヒエロニュムスの新訳を重視したが、いくつかの旧約文書や新約文書については古ラテン語訳を使い続けた。カッシオドルスはヒエロニュムスの翻訳が一冊のpandectに写されるように依頼しつつ、「アウグスティヌスによる」聖書と彼が呼ぶ古ラテン語訳も用いた。

ギリシア語聖書の歴史は、このように、ラテン語訳聖書の歴史を知らずしては語れない。古ラテン語訳はラテン教父たちにとっては聖書そのものだった。彼らの聖書注解を正確に理解するためには、我々はヘブライ語から得た読みをときに忘れなければならない。600年頃の時代には、ヒエロニュムスの翻訳は完全な権威を持っていたわけではないが、その重要性は明らかなものだった。

2019年1月21日月曜日

オリゲネス『エレミヤ書説教』の写本 Klostermann, "Einleitung" #1

  • Erich Klostermann, Jeremiahomilien, Klageliederkommentar, Erklärung der Samuel- und Königsbücher (GCS 6 = Origenes Werke 3; Leipzig: J.C. Hinrichs'sche Buchhandlung, 1901), IX-XVI.


『エレミヤ書説教』の作成時期と成立場所について、確たる情報はない。オリゲネスの他の著作や説教自体の短い一節を頼りにしつつ、基準となる絶対的年代と比較して、著作の順番の中の位置を決めなければならない。当時すでにかなり有名な司祭だったことが分かっている。場所はおそらくカイサリアで、エゼキエル書、ヨシュア記、詩篇、レビ記に対する説教よりあと、すなわち244年以降の作と考えられる。

『エレミヤ書説教』を構成する説教の数はヒエロニュムス『書簡33』では14篇となっているが、これは全体ではなくラテン語訳された説教の数である。『フィロカリア』には、「第38篇」というタイトルのついた説教断片が保存されている。カッシオドルスやラバヌス・マウルスは、全体は45篇で、そのうち14篇がラテン語訳されたと報告している。

唯一の独立したギリシア語写本としては、スコリアレンシス写本(S写本)がある。これは全部で344葉ある写本だが、277葉目にページ数が書かれていないので、数字上は345葉まである。最後のページ以外は読みやすい写本である。少なくとも同時代の3人の手によって書かれた。写本の中には、著者不明の『イザヤ書注解』、『ダニエル書注解』、『エゼキエル書注解』、(オリゲネス)『エレミヤ書説教』、アレクサンドリアのクレメンス『救われる富者』が含まれている。現在はスペインのエスコリアルにある。もともとはDon Diego Hurtado de Mendozaがヴェネツィア滞在中に購入したものと考えられる。この写本に含まれる『エレミヤ書説教』には著者名が書いていなかったため、オリゲネスが異端者として断罪されたあともギリシア語本文が残った。とはいえ、さほど状態がいいわけではない。単純な誤りや言葉の脱落などが見られる。第3篇の終わりと、第18篇と19篇の間には、別の説教があったかもしれない。また第17篇の冒頭にあったはずの数葉が抜け落ちている。こうした欠損はラテン語訳に残っていることもある。

もうひとつの写本としては、ヴァティカヌス写本(V写本)がある。これは少し前までは独立した写本と考えられていたが、現在ではS写本のコピー以上の価値を持たないと見なされている。クレメンス著作の部分は純粋なコピーであり、『エレミヤ書説教』についても、第3篇と第18篇の終わり、第17篇の始まり、第19篇と第20篇の内部に、同じ欠落や余白が見られる。一方で、V写本は独自の、ときにS写本よりも正しい読みを持っている場合もある。これはとくに正書法において顕著である。こうした点が、S写本とV写本のvorlageを意図的に改変したものであることは確かである。さらに、S写本と比べて正しい読みの情報を持っていたが、それらを本文ではなくアパラトゥスについでのように残す場合もある。こうした推測の部分は、明らかに写字生の手になることもある。しかしながら、こうしたS写本と比べて(文法的に)正しい修正の大部分は、とあるギリシア語に堪能な人物がヴェネツィアでS写本をコピーしたときに行ったものと仮定するのが妥当である。ゆえに、V写本をS写本から独立した別物と見なすことはできない。

2018年12月24日月曜日

オリゲネス『エレミヤ書説教』のラテン語訳 Nautin, "Introduction: Chapitre 1: Histoire de texte" #2

  • Pierre Nautin (ed. and trans.), Origène: Homélies sur Jérémie (Sources Chrétiennes 232; Paris: Cerf, 1976), 1:33-46.


『エレミヤ書説教』の3つの間接証言の3つ目は、ヒエロニュムスによるラテン語訳である(あと2つは古代の引用とカテーナ)。ヒエロニュムスは14の説教を訳したが、そのうち12はギリシア語原文も残っている(I, II, IV, VIII, IX, X, XI, XII, XIII, XIV, XVI, XVII。ラテン語訳しかないのはL. IとL. IIと呼ばれる)。著者はこれらの翻訳は、ヒエロニュムスがカルキス砂漠に出発する前にアンティオキアで作成したと主張する(374年頃か。通常は380年頃、コンスタンティノポリスでの作品とされる)。ヒエロニュムスが用いた写本は、8世紀のS写本よりは古いものなので、S写本の誤りを正すことが期待される。

著者は、第一に、ヒエロニュムスの翻訳がどのような状態で現存しているのか、第二に、ヒエロニュムスによって用いられたギリシア語写本の価値はどのくらいか、第三に、ヒエロニュムスはどのような基準で翻訳をしたのかを論じる。

第一に、ラテン語訳写本の状態については、W.A. Baehrensの研究がある。『エレミヤ書説教』のラテン語訳を含む写本は、ひとつの例外を除いて、AとBの二つのクラスに分けることができる。クラスAは9世紀以降のいくつかの写本で、ミーニュ版もこちらを採録している。クラスBは13世紀以降の写本である。AもBも9世紀頃のひとつの写本に依拠していると考えられる。この他には、9世紀のラバヌス・マウルスが『エレミヤ書注解』でヒエロニュムスの翻訳の半分を引用している。この引用は信頼性が高い。

第二に、ヒエロニュムスが利用したギリシア語写本の価値については、S写本の誤りすべてではないにせよ、いくつか共通する誤りを持っているといえる。文脈から、ヒエロニュムスとS写本のテクストとは異なった文法形式でオリゲネスが述べたに違いない箇所が見つかっている。またS写本が誤っている箇所では、ヒエロニュムスは文章を飛ばすことがある。ヒエロニュムスは、ギリシア語テクストが損なわれているところだけを飛ばし、その前後は正確に訳す。S写本とヒエロニュムスに見られる誤りが、カテーナの引用元となったギリシア語写本に影響を与えたケースもある。

ヒエロニュムスの翻訳の特色として、説教の順番が、S写本のように聖書どおりになっていないことが挙げられる。これが偶然ではないことは、ウィンケンティヌス宛書簡でのヒエロニュムスの暗示によって明らかである。ただし、これはヒエロニュムスのせいではない。古代の説教は、エレミヤ書に関する説教がひとつにまとめられていたのではなく、説教ごとに個別の写本に書かれていた。ヒエロニュムスが持っていたのも、こうしたバラバラの写本だったので、S写本とは異なる順番になったと考えられる。

第三に、ヒエロニュムスの翻訳の忠実さについて。ヒエロニュムスはルフィヌスによる『諸原理について』の翻訳が自由すぎると批判していたが、これに対し、ルフィヌスはヒエロニュムスの翻訳も自由すぎるところがあると批判した。たとえば、三位一体のような信仰に関わる部分で文章を飛ばしているという。さらに『エレミヤ書説教』でオリゲネスはあまり三位一体について取り組んでいないが、その欠落こそがヒエロニュムスによる修正のあとだとまで主張した(『ヒエロニュムス駁論』2.31.15)。

しかしながら、KlostermannやM. Vittorio Periら、ギリシア語原文とラテン語訳テクストとを綿密に比較した現代の研究者によれば、教義に関わる部分において、ヒエロニュムスはわずかな修正もしていないという。ヒエロニュムスが何らかの修正を加えるのは、自分で省略した一節における思想を明らかにするためや、スタイルを装飾するためのことが多い。より問題視されるのは「付加」だが、ときに「除去」や「改変」も見られる。

ヒエロニュムスはウィンケンティヌス宛書簡において、自身の翻訳方針について次のように述べている。すなわち、作者の特性とスタイルの素朴さに注意を払うこと(教会に有用なので)、そして修辞の華々しさに重きを置かないこと、である。しかしながら、彼はこの自身の方針には従っていない。それゆえに、ヒエロニュムスの翻訳を利用するには慎重さが必要である。S写本にない箇所がヒエロニュムスのラテン語訳に見つかるからといって、それはS写本の欠落とは限らないのである。明らかにS写本における欠落とわかる箇所については、ヒエロニュムスの訳は内容を知るための助けになる。

ちなみに、オリゲネスの『エレミヤ書説教』を利用した著作家には、エウセビオス、ヨアンネス・クリュソストモスとオリュンピオドロス、アンブロシウス、そしてヒエロニュムス(『エレミヤ書注解』)などがいる。

説教の数。『エレミヤ書説教』の数については、ヒエロニュムス『書簡33』に、エウセビオスが『パンフィロス伝』で書いたカイサリア図書館の作品リストのラテン語訳があるが、写本によって14とも24とも伝えられている。しかし、『フィロカリア』に残された断片が説教39なので、どちらもおかしい。もともとヒエロニュムスは24と書いたのを、写字生が現存するラテン語訳の数である14に書き改めたのであろう。カッシオドルスは『聖俗学術綱要』で45と伝える。『フィロカリア』断片の説教39がエレミヤ書の最終章である52章(21節)に関するものなので、残り6つの説教すべてでさらに52章について論じているとは考えにくい。おそらくエレミヤ書のみならず、エレミヤの手になるバルク書や哀歌についても論じていたのだろう。説教の数が45だとすると、20しかないS写本は全体の半分も知らなかったことになる。あるときから『エレミヤ書説教』は二つに分けられて、S写本はその片方しか知らなかったのであろう。それにしても、52章あるエレミヤ書を45の説教カバーするというのも妙である。カイサリア教会ではオリゲネス以外の人も説教したので、彼が担当しなかった箇所があるのかもしれない。説教の数について、これ以上は詳しくは分からない。

2016年11月23日水曜日

5-6世紀の聖書解釈 Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church #5

  • Manlio Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis (trans. John A. Hughes; Edinburgh: T&T Clark,1994 [1981]), pp. 110-20.
Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic ExegesisBiblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis
Manlio Simonetti Anders Bergquist

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隆盛を誇ったアレクサンドリアの伝統も、4世紀の終わりから5世紀の始めにかけて、次第に衰退していった。それは、第一に、オリゲネス論争の影響ゆえであり、第二に、アンティオキア学派の来襲ゆえであった。すなわち、アレクサンドリア学派の没落は、アンティオキア学派の興隆と軌を一にしていたわけだが、5世紀中葉になると、もはや両学派とも往時の勢いを失っていた。学問の中心も、それに伴って、エデッサ、ニシビス、そしてガザに移っていったが、それらは皆かつてのアレクサンドリアやアンティオキアには匹敵しないものだった。

6世紀後半のアグリゲントゥムのグレゴリオスは、表面的な聖書解釈を乳に、またより深い聖書解釈をバターになぞらえつつ、寓意的解釈を行なった。ただし、予型論的解釈や、ときには字義的解釈をも用いたこともあった。

この時期になると、ギリシア語による黙示録注解が初めて書かれるようになった。6世紀から7世紀にかけて活躍したオイクメニトスは、極めて寓意的に黙示録を解釈した。彼はオリゲネスの強い影響下で、黙示録を単に終末論的にだけではなく、より広く教会的に解釈した。同時期のカイサリアのアンドレアスは、黙示録の権威を高めるために、アジア派的な千年王国論を強調した。

6世紀のガザのプロコピオスは、東方における聖書解釈の形式に関して、ターニング・ポイントとなった。彼は、聖書解釈において独自性を打ち出すことをやめ、一節毎に、多くの異なった既存の聖書解釈を抜粋することにしたのである。そうすることによって、読者は教父の聖書解釈を統合的に読むことができるようになった。こうした形式は、カテーナと呼ばれた。通常、カテーナにおいては、ページの中心にある聖書のテクストの周りの欄に、いくつかの聖書解釈が配置され、冒頭には属格でその解釈の著者の名前が書かれている(ただし、その著者名はしばしば間違えていることがある)。抜粋は文字通りの場合もあれば、要約されている場合もある。ディオドロスのように、カテーナでしか読むことのできない著者の作品があるので、現代の研究者にとってカテーナは重要なソースである。ただし、こうした形式が増えたために、きちんとした注解が廃れたことも否めない。

6世紀前半のハドリアノスは、聖書中のさまざまな非合理的な描写を正当化しようとした。たとえば、神人同型説は読者の便宜を図ったのである。

西方においては、蛮族の侵入によって、統一されたローマはなくなり、ローマ文化と蛮族文化とがさまざまに混ざり合う状況を呈していた。そこで、聖書解釈においても、いきなりヒエロニュムスやアウグスティヌスの注解に当たるというよりは、要約を読む方が好まれるようになった。たとえば、5世紀のリヨン司教エウケリウスは、寓意的解釈に基づく短い注解や、問答形式の注解を残している。

ヴァンダル族の支配下にあったアフリカにおいては、アリウス主義との神学的な戦いが行われていた。カルタゴ司教クオドウルトデウスは、倫理的な寓意的かつ予型論的な注解を残している。6世紀初頭のウェレクンドゥス・ユンケンシスもまた、アリウス主義の蛮族の排斥を意図した注解を残している。

西ゴート族支配下のスペインにおいては、セビーリャのイシドルスやユリアヌスのように、編集を伴うコンピレーション形式の注解が流行した。6世紀中葉のウルジェイのユストゥスや、ベージャのアプリンギウスは、キリスト論的かつ教会的な解釈を展開した。

ガリアにおいては、4世紀の終わりから5世紀のはじめにかけて、ポワティエのヒラリウスに代表される聖書解釈の隆盛は最高潮を迎えたが、その後は衰えた。アクィタニアのプロスペルの聖書解釈は、師であるアウグスティヌスの要約だったし、サロニウスのそれは、ヒエロニュムス、アウグスティヌスらの聖書解釈を問答形式に再編集したものに過ぎなかった。問答形式への再編集は、ヴィエンヌのアヴィトゥスの注解にも見られる。アルルのカエサリウスは説教で有名だが、彼の説教は、教育を受けていない人々が分かるように、あえて低俗に書かれ、予型論的であれ倫理的であれ、寓意的な彩色が施されている。

ゴート族支配下のローマでは、まだある程度の聖書解釈の伝統が命脈を守っていた。ヴィヴァリウムの修道院にいたカッシオドルスは、アウグスティヌスを中心に、オリゲネス、ヒエロニュムス、そしてアレクサンドリアのキュリロスらの聖書解釈をソースとして用いた大部の要約聖書解釈を著した。その多くは寓意的なものであったが、しばしば字義的解釈が横に並べられることもあった。この注解は、テーマを共通させつつ統合的であり、なおかつ文法的な解説をも含んでいた。

この時期における聖書解釈上の大きな進展は、5世紀に南仏で活躍したヨハネス・カッシアヌスによる、聖書解釈の四区分である。オリゲネスは、字義的・霊的・倫理的という聖書の三重の意味について言及したが、カッシアヌスはこの「霊的」解釈を「予型的」解釈と「神秘主義的」解釈とに分けることによって、聖書には四重の意味――字義的(historia)、倫理的(tropologia)、予型論的(allegoria)、神秘主義的(anagoge)――があることを示したのである。この四区分は中世に広く普及することになる。

2016年3月23日水曜日

ヒエロニュムス概論 Sparks, "Jerome as Biblical Scholar"

  • H.F.D. Sparks, "Jerome as Biblical Scholar," in The Cambridge History of the Bible, Vol. 1, From the Beginnings to Jerome, ed. P.R. Ackroyd and C.F. Evans (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), pp. 510-41.
The Cambridge History of the Bible: From the Beginnings to Jerome v.1The Cambridge History of the Bible: From the Beginnings to Jerome v.1
C.F. Evans Peter R. Ackroyd

Cambridge University Press 1975-07-24
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本論文は、1970年時点でのヒエロニュムス研究の成果をまとめたものである。再読なので、興味を引かれた部分だけを抜き出しておきたい。

ヒエロニュムスの処女作は、彼がアクィレイアにいた頃に書いたとされる『オバデヤ書注解』であった。これはオバデヤ書に対し、歴史的解釈ではなく寓意的解釈を施した作品であり、後年(403年)に再び取り組んだ『オバデヤ書注解』の序文において、自身でも若書きであることを認めて恥じていた。この処女作は、ヒエロニュムスの希望通り現存しない。

ヒエロニュムスは385年に、後ろ盾だった教皇ダマススが崩御し、シリキウスが次の教皇になると、ローマを離れてパレスチナへと向かったが、その前にエジプトのアレクサンドリアに立ち寄り、盲目のデュデュモスのもとで聖書解釈について学んだ。

ヒエロニュムスの晩年の410年に、西ゴート族のアラリックによってローマが陥落し、ヒエロニュムスも多くの友人を亡くしたが、そのことについては、『エゼキエル書注解』第1巻序文に詳しい。

ヒエロニュムスは新約聖書に関しては、教皇ダマススの指示によって、改訂版を作成したことが知られているが、それは新約聖書全体ではなく、福音書のみと考えられている。その理由は、第一に、アウグスティヌスがヒエロニュムスの福音書にのみ言及していること、そして第二に、ラテン語の使徒行伝、書簡、黙示録は、ヒエロニュムスの翻訳スタイルには似つかわしくないことが挙げられる。

ヒエロニュムスの聖書改訂および翻訳において、彼の存命時から受け入れられていたものは少ない。例外は福音書であるが、それは教皇のコミッションを得たものであること、そして新しい翻訳ではなく既存の翻訳の改訂であったことが理由として考えられる。教会の者たちは、自分たちが読む聖書の好みはいつも保守的であった。ただし、アクイタニアのプロスペル、ヴィエンヌのアウィトゥス、グレゴリオスI世、セビリアのイシドロスらはヒエロニュムスの版を用いた。とりわけ、カッシオドルスは、ヒエロニュムスの翻訳を含んだラテン語聖書の原型を作っており、それはアミアティヌス写本とも密接に関係している。こうして出来上がってきた「ウルガータ聖書」は、次の6要素から成っている:
  1. ヒエロニュムスによるユダヤ教正典の翻訳;
  2. ヒエロニュムスのガリア詩篇;
  3. ヒエロニュムスによるカルデア語からのトビト記とユディト記の翻訳;
  4. 未改訂の知恵の書、シラ書、第一・第二マカベア書、バルク書;
  5. ヒエロニュムスによる福音書の改訂版;
  6. 未詳の編者による使徒行伝、書簡、黙示録の改訂版
ヒエロニュムスは聖書注解者として、注解とはかくあるべきという見解を持っていたが(Apol. 1.16)、ルフィヌスからは、他人の注解と自分の注解とか混ざっていると批判されていた。そのような批判に対し、ヒエロニュムスは、自分があまりに早く口述したために、秘書がそれに追いつかなかったから、そうした混ざり合いが起きたのだと弁解している。ヒエロニュムスは日に1000行は口述したと述べている。

ヒエロニュムスは旧約聖書をキリスト教徒として利用することは憚らなかった。彼は、多くの預言書をキリストやキリスト教の歴史と繋げて読んでいた。ヒエロニュムスの預言書注解は、同時代の誰もが成し遂げることができなかったほどの、彼の業績の中でも特筆すべきものだといえる。

2011年10月26日水曜日

ラテン語訳聖書

  • H. F. D. Sparks, "The Latin Bible," in The Bible in Its Ancient and English Versions, ed. H. W. Robinson (Oxford: Clarendon, 1940), 100-27.

Bible in Its Ancient and English VersionBible in Its Ancient and English Version
H. W. Robinson

Greenwood Pub Group 1970-08
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このSparksという人は、どうやら旧約聖書外典の英訳のエディターとして知られている聖書学者のようで(The Apocryphal Old Testament, Oxford 1984)、ドイツ聖書協会版のウルガータ(Biblia Sacra iuxta Vulgatam Versionem)の編集協力者にも名前を連ねています。

この論文では、ラテン語訳聖書の歴史を、(1)ヒエロニュムス以前、(2)ヒエロニュムスのラテン語訳、(3)ヒエロニュムス以後に分けて概観し、(4)最後に本文批評の分野などでラテン語訳聖書をいかに活用するかについて書かれています。正直なところ、(2)にはさほど目新しいことは書いてなかったのですが、(1)と(3)をおもしろく読みました。(1)では古ラテン語訳が扱われており、2世紀のキリスト教徒による訳業であること、原テクストの複数説と単数説があることなどが説明されます。そしてこの翻訳がなされた場所として、シリア、アフリカ、ローマを挙げたうえで、Sparksはアフリカ説を取っています。また古ラテン語訳はあくまで「翻訳」なので権威がなく、改訂も躊躇なくされていたというのは大事な指摘だと思います。

(3)では古代末期から中世にかけてウルガータがどのように受容されていったか、そしてそのとき古ラテン語訳はどのように扱われていたかといったことが説明されます。中でも少し調べなければならないのは、ウルガータを最初に校訂したカッシオドルスの役割です。カトリックの聖書の現在の姿を作ったのはこの人といっても過言ではないほどの人物のようですが、いかんせん私に知識がありませんので、いずれ調べてみたいと思います。カッシオドルスは、北イタリア版および南イタリア版の二つの写本群が一致した読みのみをテクストに採用するなど、かなりの文献学的な客観性を持った人物であったようです。

(4)では、Sparksは、ウルガータが底本としたヘブライ語テクストは、結局七十人訳よりも新しいものなので、原テクスト復元のツールとしては七十人訳の方が上であること、それゆえにウルガータの役割は、シリア語訳やタルグムなどと同様に、マソラーと七十人訳とが一致しないところのチェック用にしかならないことなどを述べています。とはいえ彼は、古ラテン語訳が七十人訳および新約聖書の本文批評に役立つことを高く評価しており、いくつか具体例を挙げて説明しています。こうしてみると、やはりウルガータは本文批評に適さないというのが大方の見解であるようです。先日読んだKedar-Kopfsteinなどは、こうした通説に対して反論しようとしていたのだと思われます。

ちなみにSparksの論文で他に読んだことがあるものとしては、次の一作があります。少し古いですが、必要な情報がバランスよく含まれた論文だと思います。

  • H. F. D. Sparks, "Jerome as Biblical Scholar," in The Cambridge History of the Bible: From the Beginnings to Jerome, vol. 1, ed. P. R. Ackroyd and C. F. Evans (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 510-41.

The Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to JeromeThe Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to Jerome
P. R. Ackroyd

Cambridge University Press 1975-10-31
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