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2015年9月30日水曜日

ヨセフスの宗教性の欠如 Momigliano, "An Apology of Judaism"

  • Arnaldo Momigliano, "An Apology of Judaism: The Against Apion by Flavius Josephus," in idem, Essays on Ancient and Modern Judaism, ed. Silvia Berti (trans. Maura Masella-Gayley; Chicago: The University of Chicago Press, 1994), pp. 58-66.
Essays on Ancient and Modern Judaism (Series; 1)Essays on Ancient and Modern Judaism (Series; 1)
Arnaldo Momigliano Silvia Berti

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ユダヤ教の護教論にとって、最も重要な時代は、ヘレニズム・ローマ時代である。ギリシア的なメンタリティーに巻き込まれて、ユダヤ教は何らかの変化を被らずにはいられなかった。ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ教は、ギリシア性に対する賛成と反対との間を行きつ戻りつしていた。

ユダヤ教の本質は、教義ではなく、律法の日常的な実践にこそある。それゆえに、ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ教の護教家たちもまた、信仰の態度といったような観念的なものではなく、日常の詳細な規範を守ろうとしていた。それゆえに、彼らにとって危機的なのは、律法を過度に抽象化して形而上的な概念にしてしまい、そこにある実例としての教訓を見失ってしまうことだった。そのような抽象化の結果として、哲学論文や注解書などが書かれるに至った。

しかしながら、ヨセフスはユダヤ教を律法そのものとして提示し、決して律法の理論にはしなかった。ヨセフスはモーセがギリシアの法学者たち――ミノス、ザレウコス、ソロンら――に先行する者であるとしている。そして、ユダヤ教の護教論にはよくあることだが、これらのギリシアの法学者たちがモーセに依拠したのだと指摘している。さらに、ヨセフスによれば、神がモーセを通してイスラエルに律法を課したのではなく、モーセが律法を通して神にイスラエルを課したのであり、その状態をテオクラシーと呼ぶのだという。いうなれば、ヨセフスには、神とモーセとの間にあった関係が、預言者的な霊感を通じたものだというような感覚がまったくないのである。それゆえに、フィロンがモーセを、王、律法制定者、祭司、預言者などとして描くのに対し、ヨセフスはあくまで律法制定者としてのみ描いている。

ヨセフスにとってのモーセ像は、ユダヤ教の文脈ではなく、むしろヘレニズムのメンタリティーの文脈から見るとよく理解できる。神の霊感という感覚は、異教世界にもあったが、それは口寄せ、命令、外的な推進力によって表現されるのであって、ユダヤ教の預言のように、神の意志と人間の行動との直接的な接触によってではなかった。ヨセフスの場合、モーセの霊感は、ヘレニズム的な意味での、律法制定者としてのモーセとして表現されている。

こうしたことは、ヨセフスの宗教性の欠如であるといえる。宗教性を持った他のユダヤ人たちは、その宗教的情熱にかられてローマとの最終決戦へと突入していったわけだが、ヨセフスにはその情熱がなく、ローマとの戦いが不毛であることを見抜いていた。彼の態度は、ユダヤ教への正統的な忠誠心があるにもかかわらず、自分の民族の魂から離れていたことを示している。ヨセフスのパリサイ派主義は、豊かな宗教性といったかたちではなく、彼の規範主義の中にその表現を見つけたのである。彼にとってユダヤ教はあくまで律法そのものである。

『アピオーンへの反論』の中には、ユダヤ教に通常見られる、罪に対するあがき、完全な正義への熱望、神の国の祈念、イスラエルの悲劇的運命への傷心といったものが見られない。ヨセフスによっては、神すらも、モーセの律法の一側面にすぎないのである。神への献身は、律法の主たる動力ではなく、律法そのもののあとに来るものである。律法という概念が神の概念を持っているのであって、神の概念が律法の概念を持っているのではない。『アピオーンへの反論』の中に見られるのは、信仰そのものではなく、信仰の対象の描写のみである。なぜならヨセフスにはユダヤ的な宗教性がなく、ユダヤ教をヘレニズム的なメンタリティーで解釈しているからである。

2015年9月25日金曜日

Kamimura (ed.), The Theory and Practice of the Scriptural Exegesis in Augustine (2014)

少し前にご恵投いただいた本をご紹介しておきます。

Kamimura, N. (ed.), Research Report Grant-in-Aid for Scientific Research (C) 23520098: The Theory and Practice of the Scriptural Exegesis in Augustine (Tokyo, 2014).
http://kmmrnk.com/research/2011-2013gasr/2011-2013gasr_publications/

  1. N. Kamimura, ‘Introduction’, 1-11
  2. N. Kamimura, ‘The Exegesis of Genesis in the Early Works of Augustine’, 13-24
  3. M. Sato, ‘The Role of Eve in Salvation in Augustine’s Interpretation of Genesis’, 25-32
  4. M. Sato, ‘The Word and Our Words: Augustine’s View of Words Based on John 1:3’, 33-39
  5. N. Kamimura, ‘Augustine’s Quest for Perfection and the Encounter with theVita Antonii’, 41-52
  6. N. Kamimura, ‘The Interpretation of a Passage from Romans in the Early Works of Augustine’, 53-62
  7. N. Kamimura, ‘Augustine’s Evolving Commentaries on the Pauline Epistles’, 63-72
Bibliography 75
Index locorum 85

Patristica Supplementary Volume IV (2014)

教父研究会が刊行している欧文雑誌Patristica Supplementary Volume IVを、少し前に頂いたので、目次をご紹介しておきます。研究会のHPは以下になります。

https://jpnpatristics.wordpress.com/about_jpn/

Patristica Supplementary Volume IV, ed. Naoki Kamimura (Tokyo: Japanese Society for Patristic Studies, 2014).

  • Satoshi Toda, ‘Some Observations on Bohairic Literature: The Case of Vat. Copt. 57, No. 2’, pp. 1-26.
  • Satoshi Ohtani, ‘An Interpretation of Canons pertaining to Epistles from Confessors: Relationship between Confessors and Bishops’, pp. 27-41.
  • Naoki Kamimura, ‘Scriptural Narratives and Divine Providence: Spiritual Training in Augustine’s City of God‘, pp. 43-58.
  • Naoki Kamimura, ‘On the Japanese Society for patristic Studies and the Patristica’, pp. 59-62.
  • Indices, pp. 63-67.

ヨセフス『アピオーンへの反論』における歴史学 Cohen, "History and Historiography in the Against Apion of Josephus"

  • Shaye J.D. Cohen, "History and Historiography in the Against Apion of Josephus," in Essays in Jewish Historiography, ed. Ada Rapoport-Albert (History and Theory, Studies in the Philosophy of History 27: Wesleyan University, 1988), pp. 1-11.
Essays in Jewish Historiography (South Florida Studies in the History of Judaism)Essays in Jewish Historiography (South Florida Studies in the History of Judaism)
Ada Rapoport-Albert

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ヨセフスはさまざまな著作を残しているが、論文著者によると、『アピオーンへの反論』(以下『反論』)こそに、ヨセフスの歴史家としての方法論が明らかにされているのだという。『反論』は護教的著作であると共に、歴史記述や歴史批判に関するエッセイにもなっている。

『反論』は、ギリシアの歴史家たちがユダヤ人は新しい民族であると言ってユダヤ人の歴史に言及しないことに対し、むしろギリシア人たちこそがオリエントの諸民族に比べれば新しい民族であり、またその歴史も信頼できないものだという反論で始まる。著者は、『反論』とプルタルコス『ヘロドトスの悪意について』との類似性を指摘する。両者は共に、歴史家がバイアスや詐欺によって記録を意図的に歪めることを批判しているのである。

ただし、ヨセフスがこうした歴史批判の姿勢を学んだのは、彼のユダヤ的な背景からではなく、ギリシアの歴史家たちだった。聖書の歴史家たちは互いを批判せず、また決して表に出てこようとしなかったが、ギリシアの歴史家たちは自分の正体を明かし、他の歴史家の誤りを批判した。すなわち、ヨセフスはギリシアの歴史学の信頼性・統一性を批判しているのだが、その歴史批判のアイデアとテクニックは、当のギリシアの歴史家たちから学んだものだったのだ。

ヨセフスにとって、ギリシア人とは分裂と不安定の象徴であり、一方でユダヤ人は調和と安定を示している。ヨセフスはこの対比を、歴史正典、そして共同体という観点から説明している。すなわち、歴史に関して言えば、ユダヤ人はモーセによって定められた不変の律法を守っているが、ギリシア人は自分たちの法を軽視している。正典に関して言えば、ユダヤ人の歴史的文書は数として少ないが、ギリシア人たちは数多の歴史書を書いており、しかも互いに矛盾している。そして共同体に関して言えば、ユダヤ人はどんな場所でも同じように律法を守るという調和を美徳としているが、ギリシア人はばらばらである。

このうち、特に正典と共同体の議論においては、ギリシアにおける「普遍的な合意(universal consensus)」という考え方が重要である。ギリシアには、より多くの人々に受け入れられていることの方が、より少ない人々に受け入れられていることよりも良いという考え方があった。すなわち、正典の議論では、ユダヤ教の文書が数は少なくとも一致しているがゆえに正しく、また共同体の議論では、ユダヤ人が皆一致してモーセの律法を守っているがゆえに正しいということになるのである。

ただし、この合意の考え方を用いるあまり、『反論』においてヨセフスはトーラーが神の啓示であるというポイントを逸している。『古代誌』においてはそうした指摘をしているにも関わらず、ヨセフスは『反論』においてこの議論をしていない。むしろ、聖書が歴史書として正しいのは、神の霊感に満ちているからだという説明を正しいと思っていない節さえある。いうなれば、説明の順序が逆になっている。『反論』においてヨセフスは、トーラーが完全であるがゆえに、トーラーは神的であると説明しているのに対し、『古代誌』(およびラビ文学とキリスト教文学)では、トーラーは神的であるがゆえに完全であると説明している。

ヨセフスは「合意」の考え方を推し進める。ギリシアの歴史家が議論百出しつつも、トライ・アンド・エラーで少しずつ議論を洗練させていくことをよしとしたのに対し、ヨセフスは歴史的真実は人間によって発見されるような類いのものではなく、「客観的」な「事実」なのであるから、意見が一致していることこそが真実の証であると考えた。それゆえに、ユダヤ教の派閥を説明するときも(調和を旨とするユダヤ人になぜ派閥があるかは説明しない)、師からの教えを記憶して改変しないパリサイ派の美徳がユダヤ教の美徳であるとし、創造性の余地のあるサドカイ派を批判する。ただし、モーセの律法から変わることのないユダヤ教という不変性の主張に関しては、オリエントの歴史家たちからの影響も見られる。

ようするに、ヨセフスによるユダヤ教養護とヘレニズム攻撃とは、まったく公平なものではないのである。『反論』には、歴史と歴史記述に対するヨセフスの考え方が最もよく表れている。ヨセフスは、オリエントの歴史家たちのように、ギリシアの歴史記述を批判するが、その歴史批判の精神はギリシアから学んだものである。彼はギリシア的な「合意」の考え方に依拠して議論するが、その使い方は、不変をよしとする非ギリシア的な姿勢に基づいている。「客観的な真実」としての歴史という考え方は聖書に見られるものである。

2015年9月24日木曜日

柳沼「ヒストリアはいつから歴史になったか」

  • 柳沼重剛「ヒストリアはいつから歴史になったか」『語学者の散歩道』岩波現代文庫、2008(1991)年、94-107頁。
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今学期は大学でヘロドトス『歴史』とヨセフス『アピオーンへの反論』の講読の授業に出ているので、「ヒストリア」について書かれたエッセイを読んだ。本書に収められた文章は皆、書き流したようなエッセイ風の筆致だが、さすがに碩学の文章は説得力があり、なおかつ滋味に富んでいる。

ギリシア語の「ヒストリア」は、もともとは現在の「歴史」という意味では使われていなかった。ヘロドトス『歴史』の冒頭では、「歴史」に当たりそうな語である「人間界の出来事」は「タ・ゲノメナ」であり、「ヒストリア」は「研究調査」という意味である。他の作家の用法でも同様で、プラトン、アリストテレスのほとんど、イソクラテスなども皆、「研究」「調査」「探求」を意味している。

ただし、アリストテレス『詩学』に出てくる2箇所は、しばしば「歴史」という意味で読まれてきた。第9章(1451b4以下)では、ヒストリアを書く人と詩人とが対比され、前者は個々の「実際に起こったこと(タ・ゲノメナ)」を書くが、後者は普遍的な「起こるであろうこと」を書くとしている。つまりアリストテレスは、ここでヒストリアという語を、「普遍的でない実際に起こったこと」を書くこととしているので、むしろ「歴史」というよりは「年代記」という例外的な意味合いで使っているように思われるという。

ヒストリアがまぎれもなく「歴史」という意味で使われたのはいつか。前1世紀のディオドロスやハリカルナッソスのディオニュシオスらの用法はすでに「歴史」の意味である。前2世紀のポリュビオスは、多くは「歴史」だが、やはり「研究」の意味でも用いている。そうしたことから、著者は次のように仮説を立てる:
本来「探究」を意味し、探究のために「問うこと」を意味し、さらにその結果得られる「知識」を意味していたヒストリアという語が、アリストテレスの頃から次第に「歴史上の出来事に関する探究や知識」をおもに意味するようになり、この「歴史」と「探究あるいは知識」との間でしばらく綱引きが行われていたが、前一世紀になってようやく、単なる知識ではなくて「歴史の知識」「歴史を書くこと」へと全面的に変わった。これが私の仮説である。(101頁)
また著者はヘロドトスの重要性にも着目している。ヘロドトス以前の歴史家の用法は、神々の系譜や地誌に関する探究を意味していたが、ヘロドトスは(おそらく初めて)それを「人間界の出来事」を対象とした探究という意味で用いたのである。
つまりヘロドトスによって、ヒストリアが歴史の領分に踏み込んだということだが、同時に、彼が「タ・ゲノメナ」を研究調査する時、その調査は、系譜や地誌の研究をする伝統的なヒストリアの延長線上にあったということでもある。(102-3頁)
なおかつ、ヘロドトスの「探究」のソースには信頼性の高さの度合いがあるという。最も確かなのは、「自分の目で見たこと」であり、二番目が、「見ただけでは納得いかないが、こちらから尋ねて得た答え」であり、そして三番目が、「自分から聞いたわけではなく、おのずと聞こえてきたこと」である。そしてこのうち二番目の「尋ねる」というときに彼が使っている言葉がヒストレインなのである。いうなれば、ヒストリアとは、自分で現場へ出かけて行って、自分の目で確かめようのないことに関して、しかるべき相手に問うて答えを得ることだということである。

一方で、興味深いことに、プラトンが「探究」という語を使うときのギリシア語は、必ず「ゼーテイン/ゼーテーシス」という言葉だった。これはヘロドトスやアリストテレスとは異なっている。著者によれば、前者が「~とは何か」「何が~なのか」という探究であったのに対し、後者は「いかに」「どうして」という探究であったのだと説明している。

また、「人間界の出来事」にヒストリアを拡大したヘロドトスの後に出てきたトゥキュディデスは、明らかにへロドトスを意識しつつも、ヒストリアという語を一度も用いなかった。つまり、彼はヘロドトス型のヒストリアではないかたちでの「人間界の出来事」の探究をしたかったのだと思われる。しかし、後代になって、「タ・ゲノメナ」を語ることが「ヒストリア」と呼ばれるようになって、両方とも「歴史」と見なされるようになったのだと思われる。

2015年9月10日木曜日

ヘレニズム期の東と西 Jonas, "East and West in Hellenism"

  • H. Jonas, The Gnostic Religion (2nd ed.; Boston: Beacon Press, 1962), 3-27.
The Gnostic ReligionThe Gnostic Religion
Hans Jonas

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本書のイントロダクションはヘレニズム期の精神史を扱っている。興味を持ったところを抜き書き風にまとめておく。アレクサンドロス大王の東方遠征の際には、西はギリシアであり、東はオリエントであったが、ローマ帝国が台頭してからは、西はローマであり、東はオリエントを含むギリシアとなった。

西側におけるヘレニズムは、ポリスというローカルでナショナルな状況を、人間一般というコンセプトを獲得することで、コスモポリタンな状況へと変えていった。ロゴスに代表される理性主義は普遍主義へとつながるのである。この普遍性は、ギリシア人というものを、生まれや血筋ではなく、教育によって定義されるものに変えていった。ストア派の始祖ゼノンはフェニキア・キプロスの生まれであったが、ギリシア語を学んでその思想を形成した。コロニーでは文化的・言語的な同化がすすんだ。その後次第に、ヘレニズム的世俗文化は、内的な要求と同時にキリスト教への対抗として、異教的な宗教文化へと傾斜していった。プロティノス、ユリアノス、新プラトン主義、ミトラ教などである。こうした考察を受けて、Jonasはギリシア文化を4つに分ける。第一に、アレクサンドロス以前、第二に、アレクサンドロス以後(コスモポリタンな世俗文化の時代)、第三に、後期ヘレニズム(異教的な宗教文化)、そして第四に、ビザンツ期(ギリシアのキリスト教文化)である。

東側におけるヘレニズムでは、オリエントの役割が考察されるべきが、Jonasはオリエントを扱う困難さを説明する。第一に、ユダヤ文学以外の資料の不足、第二に、文化的な統一がされていないこと、そして第三に、汎ヘレニズム的な事柄とオリエントに特有の事柄との判別しがたさである。

アレクサンドロス以前のオリエントは、政治的な無感動と文化的な停滞(エジプトを除く)という特徴がある。これは、アッシリアやバビロニアによる、被征服民の移植などによって引き起こされた。ただし、そうしてさまざまな障害が取り除かれたことにより、宗教的なシンクレティズムが始まった。土着の宗教が抽象化され、神々が併合され、持ち運びのできるコスモポリタンな教えになっていった。このようにして、政治的な役割から分けられたことにより、ユダヤ的な一神教、バビロニア的な占星術、ペルシア的二元論のように、宗教における精神的・神学的な分野が発達した。

セレウコス朝およびプトレマイオス朝時代のオリエントは、雌伏の時代であった。オリエントそのものの声はあまり聞こえてこず、聞こえてくるとしたらギリシアを通した声のみであった。ヘレニズム化できるものは、コスモポリタン文化の上層面へと通過することができたが、それ以外のものは排除され、地下に潜伏していったのである。この潜伏には、ギリシア的価値観の専制による圧迫と、ギリシア的な概念を獲得して新たな表現を可能にした解放という、両方の意味があった。

この雌伏の時代を過ぎて、オリエントが再び表舞台に登場してくる。これには、オリエント自体の成熟と、西側が宗教的な変化の準備が整ったこととが関係している。オリエントの神話と、聖書的なアイデアと、ギリシア哲学の教えや用語とが混然一体となっていったのである。ヘレニズム・ユダヤ教の興隆、バビロニア占星術や魔術、そして秘儀的な儀式の流布、キリスト教の勃興、進ピタゴラス主義や新プラトン主義、そしてグノーシス運動の開花は皆、互いに関係している。特にグノーシスはこれらすべてのものに現れてくるのである。

2015年9月3日木曜日

ギリシア語訳・ラテン語訳聖書の成立 Kamesar, "The Bible Comes to the West"

  • Adam Kamesar, "The Bible Comes to the West: The Text and Interpretation of the Bible in Its Greek and Latin Forms," in Living Traditions of the Bible: Scripture in Jewish, Christian, and Muslim Practice, ed. James E. Bowley (St. Louis: Chalice Press, 1999), pp. 35-61.
Living Traditions of the Bible: Scripture in Jewish, Christian, and Muslim PracticeLiving Traditions of the Bible: Scripture in Jewish, Christian, and Muslim Practice
James E. Bowley

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本論文は、ギリシア語訳・ラテン語訳聖書の成立についてと、ギリシア世界での聖書解釈の歴史を概観したものだが、今回は前半分(pp. 35-50)を読んだ。著者は、まず前500年を起点として、ギリシア世界、ユダヤ世界、ローマ世界の三者の関係がどのように発展していったかを説明する。最初は三者は関わりあうことのないままそれぞれの歴史を作っていたが、前4世紀のアレクサンドロス大王の征服によって、まずギリシア世界とユダヤ世界とが接触した。この征服は軍事的のみならず文化的なものでもあった。そして前30年にはクレオパトラの死によって、ローマ世界がギリシア世界とユダヤ世界を飲み込んだが、この征服はアレクサンドロス大王と異なり、あくまで軍事的なものであって、文化的にはローマはギリシア文化に依存していた。

ギリシア語訳聖書とラテン語訳聖書とはこうした歴史的な背景の中で制作されたものであるが、著者はその流れをSeptuagintal-traditionとnon-Septuagintal traditionとに分けている。七十人訳が作られた時代は、偉大な古典期はすでに終わってしまったという感覚が支配的だった。そこでそうした遺産を整理し、保存しようという試みが始まったのである。同時に、プラトン的な哲学から、アリストテレス的な経験的・組織的なアプローチの学問が発達していった。この二つの傾向をもとに考えると、『アリステアスの手紙』も違った風に読めてくる。多くの研究者は、アレクサンドリアの図書館がユダヤ人の律法に興味を持って、わざわざ翻訳してまでそれを手に入れようとしたという逸話を作り話と考え、七十人訳はヘブライ語を忘れた離散のユダヤ人によって作られたものだと説明してきたが、アリストテレス的な保存・収集の学問的傾向が律法に対する興味を生んだとも考えられるのである。

こうして出来上がった七十人訳は、フィロンやパウロによって権威あるものと見なされていった。また新約聖書の中でイエスが預言を成就させたことは、ギリシア語の旧約聖書である七十人訳の存在によって証明されるので、その価値はいや増していった。その権威は、ヘブライ語テクストと七十人訳との違いが見つけられていってからも、変わらずに高かった。その代わりに、後2世紀までにギリシア語を話すユダヤ人たちは七十人訳を捨ててしまった。これは一般的にはキリスト教徒の七十人訳利用に対するリアクションとして見られているが、これは必ずしも正しくはない。

というのも、non-Septuagintal traditionの特徴である、ギリシア語訳をヘブライ語に近づけようとする試みの最初期の例は、キリスト教の成立以前のものだからである。それはナハル・ヘヴェルで見つかった十二預言書のギリシア語訳である。すなわち、キリスト教徒が七十人訳を用いるようになる前から、七十人訳ではあきたらず、ヘブライ語に近いギリシア語訳を作ろうという機運がユダヤ人の中にあったのである。

その後、後2世紀になると、"The Three"とも呼ばれるアクィラ、シュンマコス、テオドティオンの訳が現れる。しかしこれら三者の翻訳は、ユダヤ人よりもむしろキリスト教徒に大きな影響を与えるようになった。3世紀のオリゲネスに端を発する、キリスト教聖書研究の始まりである。オリゲネスがヘクサプラを作成したことで、七十人訳がいかにヘブライ語テクストと違うかが一目瞭然となってしまった。と同時に、七十人訳の権威を貶めないままにこの矛盾を説明しようとする、洗練した神学もアウグスティヌスのような人物によって編み出されることになった。

このヘブライ語に近づけようとする傾向が結実したのが、ヒエロニュムスのウルガータ聖書であった。ヒエロニュムスが活躍したのは、オリゲネスの時代から150年ほどもあとのことであったが、これほどまでに時間がかかったのは、ラテン世界における聖書研究が成熟するのにそれだけかかったということであろう。

以上から分かることとしては、次のことが言える:Septuagintal traditionは「キリスト教」の伝統だというわけではないし、non-Septuagintal traditionも「ユダヤ教」の伝統というわけではない。両者は共にギリシア語を話すユダヤ人のもとで始まったものであり、Septuagintal traditionはギリシア語のキリスト教徒の共同体で受け入れられ、non-Septuagintal traditionはラテン語のキリスト教の共同体で受け入れられたのである。

聖書と正典化の問題 Cohen, "Canonization and Its Implications"

  • Shaye J.D. Cohen, "Canonization and Its Implications," in id., From the Maccabees to the Mishnah (Louisville: Westminster John Knox Press, 1987), pp. 174-95.
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本論文には、第二神殿時代にどのように聖書の正典化が起きたかについて書かれている。過去の書物の選別や崇拝はcanonizationと呼ばれる。もともとカノンとは「棒」や「杖」といった意味だったが、それが「規範」や「基準」といった意味になり、さらに4世紀になると権威ある書物の確定されたセレクションという現在の意味に転じた。しかしこのカノンという言葉を古代のユダヤ人は聖書に用いなかった。彼らはただ聖書のことを「Scripture」と呼んだのである。とはいえ、それはそうした言葉を用いなかっただけであって、コンセプト自体を知らなかったわけではない。

ある文書が正典になる基準として、著者は3つの特徴を指摘する:第一に、その文書は古い世代によって作成されたものである。第二に、そのテクストは確定されていて、変化を許さない。そして第三に、それは共同体によって「権威ある」ものと見なされている。これは何もユダヤ教やキリスト教の正典だけの特徴ではなく、さまざまな文化で生み出されてきた正典的な文書にもあてはまる特徴である。

第一の点に関してさらに言うと、こうした権威ある書物は、のちの世代によって学ばれ、模倣され、保存される。ヘレニズム期の特徴としては、ユダヤ人もギリシア人も、自分たちが古典期のあとに生きていて、文学の最盛期はすでに過ぎてしまっているという意識を持っていたことが挙げられる。いうなればこれは時代の特徴であり、聖書のみを規定するそれではない。

第二の点についてさらに言うと、古代のユダヤ人やキリスト教徒たちは、聖書が権威ある書物なのは、それが神によって啓示され、また霊感を受けているテクストだと考えていたからである。しかしながら、このことは聖書の正典化のみに見られる特徴ではない。ギリシアの詩人たちは、自身の作品がアポロンやムーサによって霊感を得て書かれたものだとよく述べているからである。

ヘブライ語聖書や新約聖書が特別なのは、第三の点、すなわち、信仰の共同体の中で特別な地位を享受していたことがその理由である。いうなれば、聖書は永久に有効で(eternally valid)、実存的な意味を持っている(existentially meaningful)と考えられていたがゆえに、他の正典的な文書とは一味違ったものになっているのである。著者は聖書とその他の正典的な文書とを区別して、biblicalという言葉を用いている。すなわち、ギリシア文学やミシュナーはcanonical/classicalだが、永久に有効なものではないので、権威は持っていてもbiblicalな書物ではないのである。

さて、聖書は五書、預言書、諸書に分かれているわけだが、著者はそれぞれの成立を説明している。五書を意味するトーラーという言葉は、元々は「教え」ほどの意味だったが、ペルシア時代になると、学ぶべきモーセのトーラーという意味になっていく。正典化のはじまりである。ただし、サマリア五書など別の版も存在したので、前2世紀まではトーラー・テクストはまだ確定していなかったと考えられる。まだトーラーの権威も確定していなかったので、『神殿巻物』や『ヨベル書』といった、トーラーに取って代わろうとするような書物も作成されたほどであった。

預言書に関しては、前200年頃のベン・シラが、律法学者は知恵と預言を知らなければならないと書いていることが知られる。しかしこれではまだ預言書の権威が確定していたとはいえない。預言書が正典的と見なされるのは、前2世紀のダニエル書の中で、エレミヤの権威を認める記述まで待たなければならない。同様の読み方は、クムランのペシャリームや新約聖書やラビ文学に引き継がれていく。

こうして預言書も締め切られたときに書かれたダニエル書は、預言書ではなくて諸書に入れられている。諸書まで含めた正典化は、これまでラビたちによるヤブネの「公会議」で決定されたという説明をされてきたが、これは証拠がないので現在は信じられていない。しかしながら、後1世紀以降、新たな文書が聖書に付け加えられることはなかった。

この五書、預言書、諸書の三部構成は、ベン・シラの孫による序文で初めて明示されている。しかしこの三部構成はゆるやかなもので、上でみたように特に諸書はまだ確定されていなかった。三部構成すべてが正典と見なされたのは、後1世紀になってからであり、そのことを示す証言は3つある。第一にフィロン『観想的生活』3.25、第二にルカ24:44、そして第三にヨセフス『アピオーンへの反論』1.8.38-41である。この中で特に重要なのはヨセフスであり、彼によれば、聖書は22書あり、すべて神の霊感を受けたものであり、預言者によって書かれ、祭司によって正確に伝えられてきたという。バビロニア・タルムードや第四エズラ記などは、22書ではなく24書という数え方をしている。三部構成に関する上の三つの証言の他には、七十人訳聖書の写本そのものが三部構成の最大の証拠となっている。

どの文書が正典に入り、どの文書が入らないかについては、分かりやすい決まった基準があったわけではない。同時期に書かれたダニエル書と『ヨベル書』は、前者は正典に入ったが後者はそうではなかった。言えることとしては、セクトやほかのグループの中で所有されていたような謎めいた書物は正典化されることはなかったということである。ユダヤ教においては、共同体全体で所有されていたような「聖なる書物」が正典となっていったのである。

逆説的なようだが、正典が確定し、新しい正典が生まれなくなったあとにこそ、ユダヤ文学は大きな自由を獲得することになった。正典が確定する前には、テクストと解釈との区別もまた不明瞭だったが、依拠するべきテクストが確定したあとには、自由な想像力を広げてそれを解釈していくことができるようになったのである。つまり、第二神殿時代の後半の文学の特徴としては、次の2つの一見矛盾したポイントを挙げることができる。第一に、過去に対する現在の劣等感と従属の感覚。そして第二に、その劣等感がもたらした創造の自由である。