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2011年10月30日日曜日

伊波普猷の墓など

今日は午前中がフリーだったので、浦添城跡と首里城に行ってきました。浦添城は琉球王国が統一されて首里城が王府となる前まで、中山王たちの居城だった城です。下は浦添ようどれの英祖王陵です。

2011年10月28日金曜日

沖縄出張

出張で明後日まで沖縄にいます。朝に京都を出たときは肌寒かったので上着が必要でしたが、那覇では気温が27度ほどもあり、早くも上着を持ってきたことを後悔しています。やはり沖縄は暖かいですね。また空港のアナウンスによると、今日だけでも修学旅行生が5000人以上沖縄に来ているそうで、確かにこんなに暖かければ観光するにはいいでしょうね。

2011年10月26日水曜日

ラテン語訳聖書

  • H. F. D. Sparks, "The Latin Bible," in The Bible in Its Ancient and English Versions, ed. H. W. Robinson (Oxford: Clarendon, 1940), 100-27.

Bible in Its Ancient and English VersionBible in Its Ancient and English Version
H. W. Robinson

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このSparksという人は、どうやら旧約聖書外典の英訳のエディターとして知られている聖書学者のようで(The Apocryphal Old Testament, Oxford 1984)、ドイツ聖書協会版のウルガータ(Biblia Sacra iuxta Vulgatam Versionem)の編集協力者にも名前を連ねています。

この論文では、ラテン語訳聖書の歴史を、(1)ヒエロニュムス以前、(2)ヒエロニュムスのラテン語訳、(3)ヒエロニュムス以後に分けて概観し、(4)最後に本文批評の分野などでラテン語訳聖書をいかに活用するかについて書かれています。正直なところ、(2)にはさほど目新しいことは書いてなかったのですが、(1)と(3)をおもしろく読みました。(1)では古ラテン語訳が扱われており、2世紀のキリスト教徒による訳業であること、原テクストの複数説と単数説があることなどが説明されます。そしてこの翻訳がなされた場所として、シリア、アフリカ、ローマを挙げたうえで、Sparksはアフリカ説を取っています。また古ラテン語訳はあくまで「翻訳」なので権威がなく、改訂も躊躇なくされていたというのは大事な指摘だと思います。

(3)では古代末期から中世にかけてウルガータがどのように受容されていったか、そしてそのとき古ラテン語訳はどのように扱われていたかといったことが説明されます。中でも少し調べなければならないのは、ウルガータを最初に校訂したカッシオドルスの役割です。カトリックの聖書の現在の姿を作ったのはこの人といっても過言ではないほどの人物のようですが、いかんせん私に知識がありませんので、いずれ調べてみたいと思います。カッシオドルスは、北イタリア版および南イタリア版の二つの写本群が一致した読みのみをテクストに採用するなど、かなりの文献学的な客観性を持った人物であったようです。

(4)では、Sparksは、ウルガータが底本としたヘブライ語テクストは、結局七十人訳よりも新しいものなので、原テクスト復元のツールとしては七十人訳の方が上であること、それゆえにウルガータの役割は、シリア語訳やタルグムなどと同様に、マソラーと七十人訳とが一致しないところのチェック用にしかならないことなどを述べています。とはいえ彼は、古ラテン語訳が七十人訳および新約聖書の本文批評に役立つことを高く評価しており、いくつか具体例を挙げて説明しています。こうしてみると、やはりウルガータは本文批評に適さないというのが大方の見解であるようです。先日読んだKedar-Kopfsteinなどは、こうした通説に対して反論しようとしていたのだと思われます。

ちなみにSparksの論文で他に読んだことがあるものとしては、次の一作があります。少し古いですが、必要な情報がバランスよく含まれた論文だと思います。

  • H. F. D. Sparks, "Jerome as Biblical Scholar," in The Cambridge History of the Bible: From the Beginnings to Jerome, vol. 1, ed. P. R. Ackroyd and C. F. Evans (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 510-41.

The Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to JeromeThe Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to Jerome
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2011年10月24日月曜日

西洋翻訳論:ヘロドトスからニーチェまで


  • D. Robinson, Western Translation Theory: From Herodotus to Nietzsche (Manchester: St. Jerome Publishing, 2002).

1900650371Western Translation Theory: From Herodotus to Nietzsche
Douglas Robinson
St Jerome Pub 2001-04
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西洋の翻訳論について、90人の著者の124編の文章を編んだアンソロジーです。出版社はその名も「St. Jerome Publishing」。この出版社はどうやら翻訳学関係の出版を主にしているようで、「The Translator」という学術誌も発行しているようです。いい会社名ですね。

本書は、見たところ類書に比べて古代・中世の翻訳論が充実しており、英訳だけですがなかなか読みごたえがありそうです。古代の著者としては、ヘロドトス、キケロー、フィロン、ホラーティウス、パウロ、セネカ、小プリーニウス、クインティリアヌス、ゲッリウス、サラミスのエピファニオス、ヒエロニュムス、アウグスティヌス、ボエティウスなど、中世以降の著者としては、トマス・アクィナス、ロジャー・ベイコン、ダンテ、ウィリアム・キャクストン、エラスムス、ルター、トマス・モア、ティンダル、エチエンヌ・ドレ、エチエンヌ・パスキエ、モンテーニュなどが収録されています(もちろん他にもドライデンや、ゲーテ、シュライエルマッハーなど近世の翻訳論も多数ありますが、多すぎるのでここでは割愛)。

翻訳学関係の入門書を読むと、だいたいキケローとヒエロニュムスが翻訳学の祖であるとされているようで、それは確かにそのとおりだと思うのですが、本書では彼らの周辺の翻訳論にまで目が向けられているので、注意深く読めばキケローやヒエロニュムスがどのような点で独自のものを持っていたか、またどのような点で時代のコンテクストに沿っていたのかを知ることができるでしょう。キケローとヒエロニュムスの翻訳論における先進性については、他の本ですが、たとえば次のように書かれています。

  • ミカエル・ウスティノフ(服部雄一郎訳)『翻訳:その歴史・理論・展望』、白水社文庫クセジュ、2008年。

翻訳—その歴史・理論・展望 (文庫クセジュ)翻訳—その歴史・理論・展望 (文庫クセジュ)
ミカエル・ウスティノフ 服部 雄一郎

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西洋の伝統では、一般的に翻訳の諸問題には二つの起源が見出され、そのどちらもがラテン語というただひとつの言語を通して具現化している。一方は宗教書、とりわけ聖書の翻訳であり、聖ヒエロニムスをその守護神とする。もう一方は古代ローマの文学テクストの翻訳であり、『最高の種類の弁論家について』(紀元前46年)におけるキケロの厳命が想起される。(30-31頁) 


  • ジェレミー・マンデイ(鳥飼玖美子監訳)『翻訳学入門』、みすず書房、2009年。

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20世紀後半まで、西洋の翻訳理論はGeorge Steinerが言うところの「直訳(literal)」、「自由訳(free)」、「忠実な訳(faithful)」という「三つ巴」の関係をめぐる「不毛な」議論で行き詰っていたようだ。「逐語訳」(つまり「直訳」)と「意味対応訳」(つまり「自由訳」)の区別はキケロと聖ヒエロニムスに遡り、現代に至る何世紀にもわたって翻訳に関する重要な文献の基礎を成している。(28-29頁)

いろいろ調べてみると、翻訳学の視点から、ラテン世界の翻訳論についてある程度扱ったものとしては、次の本が詳しいようです(入手済みだが未読)。

  • L. Kelly, The True Interpreter: A History of Translation Theory and Practice in the West (New York: St. Martin's Press, 1979).

0312820577The True Interpreter: A History of Translation Theory and Practice in the West
Louis G. Kelly
Palgrave Macmillan 1979-11
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またRobinsonのアンソロジーの範囲よりあとの、20世紀の翻訳論を中心的に扱ったアンソロジーとしては、自身も理論家として有名なVenutiが編んだ次のようなものがあります。

  • L. Venuti (ed.), The Translation Studies Reader (2nd ed.; New York: Routledge, 2004).

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2011年10月23日日曜日

翻訳としての七十人訳


  • E. J. Bickerman, "The Septuagint as a Translation," Proceedings of the American Academy for Jewish Research 28 (1959): 1-39.

上の論文を読みました。内容としては、いわば七十人訳の概説で、七十人訳について少し詳しく知りたいときに読むのに適しているように思います。この中でBickermanが何よりも主張したかったのは、「七十人訳の翻訳者たちが、同時代の翻訳作法に従って翻訳を行った」ということで、それを説明するために古代オリエント文学やギリシア・ラテン文学との類似点を豊富に挙げています。以下では、私が興味深く読んだところを備忘録として書いておきます。

成立縁起について(pp. 7-11)。『アリステアスの手紙』によれば、七十人訳はプトレマイオス王が命じて作成させたことになっているが、研究者たちは、そうではなく、ヘブライ語に疎いアレクサンドリアのユダヤ人が自分たちの宗教上の必要性から作成したと考えている。しかしBikermanは次の4点を挙げて、研究者たちの通説に反論。第一に、当時聖書を継続的に朗読するという習慣はなかったこと、第二に、ペルシアやローマでは国家的な翻訳事業が行われていたこと、第三に、プトレマイオス王は書物収集癖があったこと(ゾロアスター教文献など)、第四に、バビロニアやエジプトではギリシア語による史書編纂事業があったこと、の4点。確かこのあたりについて、A. Kamesarの論文にも書いてあったような気がするので、あとで探します。

造語、音訳について(pp.13-23)。そもそも翻訳の技法というのはローマの産物だったので、翻訳で必要となってくる造語なども七十人訳にはほとんど見られない。オリゲネスやヒエロニュムスは、七十人訳には造語がたくさんあると考えていたようだが、それは古ラテン語訳の印象を七十人訳にまで敷衍させていたからであって、アナクロニスティックな意見。また音訳も避ける傾向にあり、音訳している語も、七十人訳より以前にギリシア語化された語であることが多い。

ヘブライズムについて(pp.24-28)。Bickermanは七十人訳の文章をヘブライズムから説明することに批判的。七十人訳はギリシア語文法上の破格はごくわずかであり、同時代のエジプトの農民が書いた文書ですらギリシア語として正確なものがあるのだから、七十人訳者たちもごく普通のギリシア語を書けたはず。それでも散見されるヘブライズムは、状況をドラマタイズするための意図的なバーバリズム。また逐語訳については、同時代の法令文書の翻訳で通常見られたもの(ゆえに、七十人訳の法令部分、および詩的部分には逐語訳が多い)。

ヘブライ語テクストとの違い(pp.29-37)。フィロンは七十人訳はヘブライ語テクストとまったく同じ文言と考えていたが、もちろんそんなことはない。翻訳上の単純なミスもあるが、プトレマイオス王に配慮した意図的な内容の改変もある(ラビ文学、ヒエロニュムス、アウグスティヌスが伝える伝説)。またエジプトのユダヤ人が読んで分かるように、地理、人名などのアップトゥーデイトな改変、神人同型論的な改変、プトレマイオス朝の慣習に合わせた法的部分の改変など。むろん、翻訳のときに被った改変だけでなく、底本としたヘブライ語テクストが現在のマソラーと異なっていることも考えられる。


ちなみにBickerman自身については、ちょうどネット上でも次の文章が読めるのでご参照ください。

  • S. J. D. Cohen, "Elias J. Bickerman: An Appreciation," Journal of the Ancient Near Eastern Society 16-17 (1984-85): 1-3.

http://www.jtsa.edu/Documents/pagedocs/JANES/1984-1985%2016-17/CohenAppreciation16-17.pdf

あるいは日本語でも、次の論文の中で少し触れられています。


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2011年10月20日木曜日

「音訳」が持つ解釈的な要素

今日もB. Kedar-Kopfsteinの論文をひとつ読みました。Kedar-Kopfsteinについては、昨日の記事をご覧ください。

  • B. Kedar-Kopfstein, "The Interpretative Element in Transliteration," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 8 (1973): 55-77.


この論文では、聖書における「音訳」(transliteration、あるいは「字訳」でもいいですがここでは「音訳」で統一します)に現れる翻訳者の解釈が論じられています。そもそも、「翻訳」(translation)は避けがたく解釈を含みこむものですが、最も単純な翻訳的行為である「音訳」ですら、それを逃れることはできません。しかし翻訳の本来の目的である、意味を伝える、という点に至ることのない音訳をあえてするのはなぜなのか。Kedar-Kopfsteinはその理由を3つ挙げています。(1)原文の雰囲気を残すため、(2)目標言語に同じ意味を持つ語がないため、(3)固有名詞であるため、の3つです。この論文では、3つめの固有名詞の音訳が議論の対象となっています。

つづいて、固有名詞の特徴について述べられています。Kedar-Kopfsteinによれば、固有名詞は意味の幅が最も狭いゆえに、最も有意味な品詞であることになります。であるならば、他言語において同じ意味領域をまったくカバーすることなど不可能なので、これを翻訳する必要はないし、またすることはできません。しかし固有名詞、あるいは名前にはさまざまな情報(性別、時代、場所など)が含まれていることもまた確かですので、音訳するだけでは目標言語の読者はそうした情報を得ることはできません。むしろ音訳はそうした情報を消し去ってしまうとさえいえます。

そこで、古代から現代に至る聖書の翻訳者たちはさまざまな試行錯誤をしているわけですが、Kedar-Kopfsteinは固有名詞の1)形態論的側面、2)意味論的側面、3)機能の両義性の3つを取り上げ、具体的な例を示しながら論じていきます。特に興味深かったのは3つ目の両義的側面についてで、これはつまり、普通名詞とも固有名詞ともなる語のことですが、Kedar-Kopfsteinはここで「アダム」を例に引いています。ヘブライ語において「アダム」は、「アダムとエバ」のような固有名詞としての意味と、「人間」という普通名詞としての意味を両方持っています。たとえば創5:3のアダムはすべての翻訳聖書で音訳されており、創6:5ではすべて翻訳されています。これは、翻訳者たちが前者を固有名詞、後者を普通名詞ととらえたからです。ここでは、ヘブライ語の定冠詞である「ハ」の有無が重要なカギを握っているのですが、このあたりについては、次の手島勲矢氏の論文(普通名詞と固有名詞だけでなく、〈個〉有名詞という新たなコンセプトが提示されています)が参考になると思われます。

  • 手島勲矢「ユダヤ思想と二種類の名前:イブン・エズラの『名詞論』から」『宗教哲学研究』28号(2011年)、1-15頁。

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Kedar-Kopfsteinはこの他にも、「サタン」、「バアル」、「ベリアル」、「ベヘモット」などの例を挙げ、それぞれの語を翻訳者たちが固有名詞としてとらえたとき、また普通名詞としてとらえたときの問題を検討しています。

結論としては、翻訳が避けがたく解釈を含んでしまうのと同様に、音訳もまたある解釈を採用していることに他ならないと述べられています。それにしても、この人の論文は、序盤から中盤にかけての具体例の処理は見事なのですが、結論が何とも簡単なことが多いですね。しかし、ウルガータを翻訳学(Translation Studies)の観点からとらえているのは慧眼だと思います。このあたりは、言語学で博士号を取ったKedar-Kopfsteinの腕の見せ所で、他のヒエロニュムス研究者と一味違うところではないでしょうか。

2011年10月19日水曜日

公開講演会「レヴィナスの作品におけるナアセー・ヴェニシュマー〔われわれは行い、聴く〕」

レヴィナス『全体性と無限』刊行50周年を記念して、11月15日(火)12:30より、京都大学でジェラール・ベンスーサン氏(ストラスブール大学)の公開講演会が催されます。

ベンスーサン氏は、ハイデッガーやシェリングなど、ドイツ哲学の専門家でもありますが、同時にモーゼス・ヘス、マルクス、ローゼンツヴァイク、レヴィナスなどユダヤ思想の研究者でもあるそうです。詳しくはこちらから


レヴィナス『全体性と無限』刊行50周年記念
ジェラール・ベンスーサン(Gérard Bensussan)教授公開講演会

ストラスブール大学ジェラール・ベンスーサン教授の講演会についてご案内申し上げます。
フランス語による講演〔通訳付〕です。ご来聴を歓迎します。

■主 催:京都大学GCOE「心が活きる教育のための国際的拠点」京都ユダヤ思想学会
■日 時:2011年11月15日(火)午後12時30分~16時00分 
■場 所:京都大学大学院文学研究科 新館第3講義室 
    http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/about/access/ 

■講演者:Prof. Gérard Bensussan(ストラスブール大学哲学部教授) 
■講演題目:» Naasé venichmah dans l’œuvre de Levinas « 
     「レヴィナスの作品におけるナアセー・ヴェニシュマー〔われわれは行い、聴く〕」

■通 訳:西山達也(東京大学UTCP) 
■コメンテーター:合田正人(明治大学)・杉村靖彦(京都大学) 
■司 会:小野文生(京都大学) 

■連絡先:小野文生 ono[アットマーク]educ.kyoto-u.ac.jp 
 

ヒエロニュムスのイザヤ書におけるヘブライ語の読みの逸脱

今日はウルガータによるヘブライ語聖書の本文批評に関する論文を2本読みました。


  • B. Kedar-Kopfstein, "A Note on Isaiah XIV, 31," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 2 (1962): 143-45.
  • Idem, "Divergent Hebrew Readings in Jerome's Isaiah," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 4 (1964): 176-210.

Benjamin Kedar-Kopfsteinは、1968年にエルサレム・ヘブライ大学の言語学科でPhDを取得しています。ヘブライ大学図書館のカタログによると、指導教授はなんとH. J. PolotskyとC. Rabinの二人だったようです。C. Rabinは来日した際に聖書学研究所で講演をしたのですが、確かにそのときに自分が指導している学生としてKedar-Kopfsteinについて少し触れています。

  • ハイム・ラビン(関根正雄訳)「翻訳としての七十人訳:日本聖書学研究所における講義(’67.3.7)」『聖書学論集』第5号(1967年)、7-21頁。

ヘブライ語からラテン語への翻訳技術の発達経過はJeromeの訳業を見れば跡づけられる。この問題については私の所にいる学生、Benjamin Kedarが学位論文にしており、近いうちに出版されるはずである。(17頁)

その博士論文は残念ながら実際には出版されませんでしたが、ウルガータ研究では今でもしばしば引用されているものです(未見)。

  • B. Kedar-Kopfstein, "The Vulgate as a Translation : Some Semantic and Syntactical Aspects of Jerome’s Version of the Hebrew Bible," (PhD. diss., Hebrew University of Jerusalem, 1968), xv+307pp. 


今日読んだ論文の2本目、"Divergent Hebrew Readings in Jerome's Isaiah"の方は、かなり勉強になるものだったので、少しまとめておきます。まずKedar-Kopfsteinは、多くの学者がウルガータをヘブライ語聖書の本文批評(ここではUrtextの復元の意)に使うことに否定的である旨を紹介しています。ウルガータがヘブライ語の本文批評に使えない理由は主に2点で、第1に、ヒエロニュムスはヘブライ語ではなくてギリシア語写本(七十人訳)を底本にしていたに違いないから、第2に、ウルガータは後代の成立なので、底本となったかもしれないヘブライ語写本もマソラー本文に近いものだった(ゆえに七十人訳の方がUrtextに近い)と考えられるから、というものです。この2つの見解は当然ながら両立しないのですが、とにかくこれまでのウルガータ研究史の中ではこう考えられてきました。

しかしKedar-Kopfsteinは、第1の見解に対しては、ギリシア語に引きずられた訳が見られることはあっても、ヘブライ語写本がベースであると考えるべき証拠がなくなるわけではないこと、ヒエロニュムスが先行教父(オリゲネス、エウセビオス等)やユダヤ人教師から情報を得たり、諸々のギリシア語訳を見ていたのは、現在でいえばコンコーダンスや辞書を使うようなもので、あくまでヘブライ語を原典と考えていたこと、そして第2の見解に対しては、確かにウルガータのテクストは七十人訳よりは確定的だが、マソラー本文よりは流動的な性格を持っていたこと、などから反論していきます。

そしてこの論文では、ウルガータのイザヤ書と、『イザヤ書注解』にあるラテン語訳とが読みにおいて異なる箇所を取り上げ、当時のさまざまな読みの伝承を検証していきます。検証に際しては、マソラー本文、七十人訳、タルグム、ペシッタ、クムラン出土のイザヤ書(ヘブライ語)を比較しています。その結果マソラーに対してウルガータは次のような違いを持っていることが分かりました。分類すると、(1)母音の読み替え、(2)単語の分かち書きの分け方の違い、(3)子音テキストの読み替え、(4)単数複数の違い、(5)人称の違い、(6)文法構造の違い、(7)人称接尾辞の省略、(8)前置詞の変化、(9)単語の置き換え、(10)単語の省略、(11)ウルガータ写本内の異読、となります。こうした具体例はどれも興味深いものばかりで、論旨と関係なく読んでいるだけでかなり面白いものでした。とはいえ、ウルガータや『イザヤ書注解』の読みは、マソラー本文と同じものもあれば、クムラン・イザヤ書の読みと同じものもあるので、結論としては、当時のヘブライ語写本にはかなり多様性があった、ということ以上の結論は言っていないように思われます。まあこの論文は、ウルガータの訳の面白さを具体例に即して紹介することに意義があるのでしょう。

このTextusという雑誌にKedar-Kopfsteinはあと3本論文を載せているので、これも続けて読みたいと思います。

  • B. Kedar-Kopfstein, "Textual Gleanings from the Vulgate to Jeremiah," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 7 (1969): 36-58.
  • Idem, "The Interpretative Element in Transliteration," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 8 (1973): 55-77.
  • Idem, "The Hebrew Text of Joel as Reflected in the Vulgate," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 9 (1981): 16-35.


ちなみに、Kedar-Kopfsteinの書籍所収論文としては次のようなものがあります。特に1つ目の論文はよくまとまっており、私も繰り返し読んだことを覚えています。


  • B. Kedar, "The Latin Translations," in Mikra: Text, Translation, Reading, and Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism and Early Christianity, ed. M. J. Mulder and H. Sysling (Philadelphia: Fortress, 1988), 299-338.

0801047234Mikra: Text, Translation, Reading, & Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism & Early Christianity
Martin Jan Mulder
Baker Academic 2004-03

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  • B. Kedar-Kopfstein, "Jewish Traditions in the Writings of Jerome," in The Aramaic Bible: Targums in their Historical Context, ed. D. R. G. Beattie and M. J. McNamara (Sheffield: Sheffield Academic Press, 1994), 420-30.

1850754543Aramaic Bible: Targums in Their Historical Context (Journal for the Study of the Old Testament. Supplement Series, 166)
Royal Irish Academy
Sheffield Academic Pr 1994-04
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2011年10月13日木曜日

日本旧約学会(2011年度秋期大会)

11月3日(木)に、青山学院大学で日本旧約学会の秋期大会が開催されます。午後は公開シンポジウムとなるので、どなたでもご参加できるようです。以下にプログラムを書いておきます。

日本旧約学会(2011年度秋期大会)
日時:11月3日(木)10:00~16:30
場所:青山学院大学(青山キャンパス)総研ビル3階、第10会議室

2011年10月12日水曜日

辻圭秋「イスラームから見たキリスト教」

友人の辻圭秋さん(同志社大学大学院)がアウトリーチ活動の一環で講演会をすることになったので、お知らせします。

日程:10月16日(日) 午後2時より
場所:日本基督教団 姫路五軒邸教会(〒670-0854 姫路市五軒邸3-34)
タイトル:「イスラームから見たキリスト教」(仮)


「アジアンサンデー集会」という企画で、定期的に日曜にアジア関係の講演会が催されているとのことです。
なお、辻さんの業績としては、次の論文があります。

「S. D. Goiteinのイスラーイーリーヤート理解:一神教研究の観点から」『一神教世界』第1号、同志社大学一神教学際研究センター、2009年、15-26頁。
http://www.cismor.jp/jp/publication/monotheistic/documents/WMR1jp_Tsuji.pdf

合わせてご覧ください。

2011年10月9日日曜日

古代・東方キリスト教研究会HP開設

古代・東方キリスト教研究会のホームページが開設されました。

古代・東方キリスト教研究会

この研究会は、高橋英海(東京大学)、筒井賢治(東京大学)、戸田聡(一橋大学)、武藤慎一(大東文化大学)の四氏が主宰している会で、2010年10月23日(土)の第一回会合からはじまって、現時点で6回の研究発表が開かれています。

2011年10月8日土曜日

オーラ・リモール、ピーター・シェーファー講演会(2011年10月29, 30日)

同志社大学神学部・一神教学際研究センター(CISMOR)主催で、10月29日(土)にオーラ・リモール氏(オープン大学)、そして30日(日)にピーター・シェーファー氏(プリンストン大学)の公開講演会が開催されます。

http://shingakubu.exblog.jp/16392039/