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2014年9月27日土曜日

野町「ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ思想」

  • 野町啓「ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ思想」、岩波講座『東洋思想第1巻:ユダヤ思想1』、岩波書店、1988年、187-228頁。
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長尾 雅人

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歴史学における「ヘレニズム時代」の区分は、主として前323年アレクサンドロスの死から、前30年アウグストゥスによってローマに元首制が確立するまでとされる。しかし、ことにヘレニズム時代のユダヤ思想を俎上にのせる場合は、時代の下限として、後70年のティトゥスによる第二神殿破壊までを含める。というのも、そうしなければ、いくつかの聖書の外典・偽典をはじめ、フィロンやヨセフスといった重要な思想家の著作が範囲に入らなくなるからである。

この時代の大きな出来事としてまず言及しなければならないのは、七十人訳の完成である。この訳業によって、ギリシア的な存在論を聖書の神に援用する可能性と根拠が与えられた。

「ヘレニズム」という用語を作ったのはG.ドロイセンだが、そのもとである「ヘレニスモス」という言葉は、もともとは「ギリシア語を異国語の用法や破格を含むことなく正しく話すこと」を意味した。しかし、今日のヘレニズムという用語が持つ「ギリシア化」という意味でこの言葉を最初に用いたのは、第二マカバイ記4:13であった。同書2:21, 8:1には「ユダイスモス」という言葉が「ユダヤ教」の意味で出てきている。つまり、「ヘレニスモス」という言葉は最初から対「ユダイスモス」という意味合いの言葉なのである。ただし、ドロイセンは「ヘレニスモス→ヘレニズム」という言葉を、キリスト教につながる肯定的な意味合いで用いているが、マカバイ記におけるそれは、ユダヤ教の信仰を脅かすような否定的な意味合いでしかない。

ヘレニズム期において、ユダヤ人について言及している非ユダヤ人の著作家として、アブデラのヘカタイオスがいるが、彼自身の著作は現存しない。ただし、ヨセフスとディオドロス(をさらに引用するフォティオス)による引用が残っている。しかし、ヨセフスの伝承するヘカタイオスと、ディオドロスが伝承するヘカタイオスとには齟齬が見られる。前者がユダヤ人とアレクサンドロスとの関係に重点を置き、異民族の侵略下にあっても律法を遵守したユダヤ人の姿を描くのに対し、後者は出エジプトを中心にモーセやユダヤ教について言及し、ユダヤ人が異民族との交わりにおいて律法を変更したという点を指摘する。これを研究者たちは、同じ著者の二面性ではなく、二人の著者がいたことから説明し、ヨセフスが伝承するヘカタイオスを「偽ヘカタイオス」と呼んだ。

野町は、この偽ヘカタイオスをはじめ、アレクサンドル・ポリュヒストル、クレオデモス・マルコス、アルタパノス、エウポレモスといったユダヤ人作家の著作を挙げつつ、それをヘレニズム時代の尚古主義(classicism)と結びつける。すなわち、ヘレニズム時代の東西の諸民族は、自分たちの卓越性を誇示するために、「起源上の年代の古さや文化上の重要な発明・発見の創始者の出自」を自民族に帰そうとしていたのである。そこで、上の作家たちもまたユダヤ民族の卓越性を証明するために、アブラハムやモーセにさまざまな偉業を帰すという、「アレタロギア」という手法を取った。そこから、アリストブロスを嚆矢とする「ギリシア思想の聖書起源・依拠説」が生まれてきた。

アリストブロスは、ギリシアの哲学者たちや詩人たちは、皆モーセの律法を知っており、そこから学んだという説を唱えた。その際、聖書に出てくる神の神人同型論は神の実態ではなく神の力(デュナミス)であるため、字義通りにとってはならないとした。これは、ストア派がホメロスの神話を読むときの用法である「アレゴリア」を含意する考え方である。また彼はモーセを哲学者と見なすことで、ユダヤ教をひとつの哲学として提示することに成功している。自己の立場を哲学として提示する傾向は、『アリステアスの手紙』を含め、当時のユダヤ人に見られるものだった。

フィロンは、上のような単純なアレタロギアの手法は取らない。むしろ聖書の登場人物たちは近隣のオリエント諸国の学問を身につけた人物であるとした上で、それをアレゴリアによって解釈することによって、ユダヤ民族の卓越性を証明していく。たとえば、アブラハムのカルデアからカナンへの移住は、可感的世界から可知的世界および神的世界へと上昇する遍歴の物語と捉える。そうすることで、聖書の記述の普遍化・現在化を図り、ギリシア的世界観が支配する当時の世界にそれを理解・受容可能なものとして提示するのである。さらに、予備的教養、哲学、モーセの律法を階層化し、ギリシア世界の学術は畢竟、モーセの律法を理解するための補助手段でしかないと位置づけた。

2014年9月26日金曜日

ピーター・ブラウンの評価 戸田「ピーター・ブラウンの古代末期理解をめぐって」

  • 戸田聡「ピーター・ブラウンの古代末期理解をめぐって」、ピーター・ブラウン(戸田聡訳)『貧者を愛する者:古代末期におけるキリスト教的慈善の誕生』、慶應義塾大学出版会、2012年、253-84頁。
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P.ブラウンは、ローマのいわゆる没落史観に対する批判から、「古代末期(Late Antiquity)」という時代区分を提唱し、その時代をむしろ多様性の時代と捉えようとしたことで知られている。本論文はそのブラウンの史観に対する戸田のするどい再批判である。

ブラウンの主著のひとつである『古代末期の成立』と『貧者を愛する者』とを比較しつつ、戸田はブラウンの議論の変化を3点挙げている。
  1. 古典期の帝国社会と古代末期との相違点を、社会現実の次元ではなく社会的想像力の次元において求めるようになった。
  2. ブラウンの古代末期像の中で主役を演じる者として、当初は広い意味での「聖人」に注目していたのに対し、より具体的に「司教」に注目するようになった。
  3. 当初はキリスト教に限定されないかたちで全体像を語っていたのに対し、しだいに古代末期の世界におけるキリスト教の重要性を指摘するようになった。
つまり、ブラウンの「古代末期」理解とは、首尾一貫したものではなく、多分に試論的なものであると戸田は指摘する。

こうしたブラウンの歴史観に対し、戸田は3点の評価を与えている。
  1. ブラウンの主張は厳密に資料に即したものというよりも、最近の研究動向に乗っかるかたちで進められる「歴史語り(narrative)」である。
  2. ブラウンは、H.ピレンヌのテーゼに即しつつ、古代末期社会を東と西とで区別せず、全体として扱うが、考古学的知見によって西ローマ帝国の没落は明らかであり、地中海世界の一体性を語ることは難しい。この点、ブラウンは西方の没落について巧妙に説明を避けている。
  3. ブラウンは、古代末期の社会を東と西とで区別せずに語ることのできる理由として、双方でキリスト教が普及したことを論拠としている。その議論の是非はともかく、古代末期の社会の特徴をキリスト教に求めることについては同意できる。

2014年9月18日木曜日

古代末期におけるラビの学塾 Rubenstein, "Social and Institutional Settings of Rabbinic Literature"

  • Jeffrey L. Rubenstein, "Social and Institutional Settings of Rabbinic Literature," in The Cambridge Companion to The Talmud and Rabbinic Literature, ed. Charlotte Elisheva Fonrobert and Martin S. Jaffe (Cambridge: Cambridge University Press, 2007), pp. 58-74.
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古代末期におけるラビの学校の様子については不明な点が多い。これまでは、ゲオニーム期の学塾の様子をアナクロニスティックに反映させた理解に留まるものが多かった。本論文ではなるべく同時代の資料に依拠しながら、タナイーム期、アモライーム期(パレスチナとバビロニア)、サヴォライーム=スタマイーム期のそれぞれの学校の様子を描いている。

タナイーム期(70-220年)。まだ制度としての学校はなく、むしろ小さな町や村に点在する、「師匠を囲む弟子たちのサークル(disciple circle)」と呼ぶべき状態だった。場所も、師匠の家であったり、個人宅を間借りしたりしていた。徒弟制度であり、弟子は師匠と生活を共にした。タームとしては、「ベート・ミドラッシュ」という言葉があったが、これはまさに師匠の家や勉強用の場所のことを指すものだった。たくさん人が集まるときは、富裕な人の家の二階を借りることもあった(ミシュナー、アボット1.4)。この時期に、ベート・ヒレルおよびベート・シャマイという「学派」があったが、これももとは単に「家」を意味していたと思われる。ラビはしばしば裁判官の役割も担ったが、司法制度はローマが握っていたため、彼らが扱った案件はあくまで宗教上のQ&Aについてだった。

アモライーム期(パレスチナ、220-425年)。ラビの教育はベート・ミドラッシュで行なわれた。これ以外の用語として、「ベート・ヴァアッド(集会所)」と「スダル(ホール)」がある。共にイルシャルミに出てくる言葉である。この期の特徴としては、ラビたちがシナゴーグにいるようになったことである。それまでシナゴーグは、あくまで普通のユダヤ人の祈りの場所であり、指導者は地元の富裕な名士などであった。一方で、ベート・ミドラッシュはラビや弟子たちが集まる学習の場所であった。ところが、ラビたちがユダヤ教の宗教生活の中で次第に影響力を増してきたため、シナゴーグでも必要とされるようになったのである。ラビたちは、裁判官、徴税人、共同体の長などの役割も担った。4世紀の終わりから5世紀の終わりにかけて、次第に小さなアカデミーが形成されていった。

アモライーム期(バビロニア、200-550年)。ラビの教育の場所は、パレスチナでの様子とほぼ同じだが、学習の場所はバブリにおいては、「ベ・ラヴ」と呼ばれている。弟子たちは比較的自由に、ある師匠のもとから別の師匠のもとへと移っていった。師匠もそうした行動を奇異なものとは受け取らなかった。シナゴーグとラビのつながりは、パレスチナと比べると、より薄いものだった。バビロニアでは、ラビたちが一般人に教える場として、「ピルカ」と呼ばれる場所があった。対象が一般人であるため、ピルカでは教えていいことと悪いことがあった。あるラビがピルカで講演するときに、別のラビが出席して講演を聞いてくれることは名誉なことであった。

サヴォライーム=スタマイーム期(550-800年)。ラビたちの常設の学塾として、「イェシバー」が制度化された。イェシバーの長はローシュ・イェシバーと呼ばれた。ババ・カマ117a-bによると、イェシバーは階層化されており、優れた者が前の列に座り、たくさん座布団を敷いていたが、ある議題についての問答で回答に失敗すると、後ろの列へと下がっていき、座布団も取られていってしまうのだった。イェシバーでの場所取りは熾烈な争いだったという。別々の離れたところにあるイェシバーの者たちが年毎にひとところに集まって、ある議題について共に学びあう、「カラー」という集会が設けられていた。ケトゥボット106aによると、ここでの講演者が喋るときには、横に13人の者が並び、講演者がしゃべったことを一斉に繰り返し、人間拡声器となったという。

雅歌解釈をめぐるオリゲネスとユダヤ人 Clark, "Origen, the Jews, and the Song of Songs"

  • Elizabeth A. Clark, "Origen, the Jews, and the Song of Songs: Allegory and Polemic in Christian Antiquity," in Perspectives on the Song of Songs (Berlin: Walter de Gruyter, 2005), pp. 274-93.
Perspectives on the Song of Songs: Perspektiven Der Hohelidauslegung (Beihefte Zur Zeitschrift Fur Die Alttestamentliche Wissenschaft)Perspectives on the Song of Songs: Perspektiven Der Hohelidauslegung (Beihefte Zur Zeitschrift Fur Die Alttestamentliche Wissenschaft)
Anselm C. Hagedorn

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本論文は、オリゲネスの『雅歌説教』と『雅歌注解』をもとに、彼の雅歌理解を検証している。オリゲネスに2つの雅歌解釈がある:第一に、ロマ書9-11章におけるパウロの議論をもとに、ユダヤ人と異教徒とがキリスト教において一つになることを表している。第二に、教会および個人の魂のキリストとの関係性を表している。こちらでは、第一の解釈にあったユダヤ教徒と異教徒との問題は不明瞭になっている。

オリゲネスの聖書解釈。基本的なオリゲネスの聖書解釈は、3つのレベルに分かれている。すなわち、肉的=字義的、魂的=倫理的、霊的=寓意的な解釈である。聖書のすべての節にこの3つのレベルがそれぞれあるわけではなく、ある節には肉的解釈はなく、魂的・霊的解釈しかできない場合もある。また説教か注解かによって扱う解釈法も変わる。説教の場合は倫理的側面を重視するのに対し、注解では3種それぞれを用いている。ところで、寓意的解釈の理解について、D. Dawsonは新たな見解を披瀝している。彼によると、寓意的解釈とは、従来の理解のように、テクストの表面上の意味をより高次の意味に置き換えることといった受動的な解釈法ではなく、自文化にとってショッキングなテクストの内容をキリスト教的に適切なものに「飼いならす(domesticate)」するような、権力と結びついた解釈法であるという。

オリゲネスの雅歌理解。オリゲネスは、雅歌のような問題のある書物に関するユダヤ人の教授法について言及している。それによると、人は成熟した年齢になるまで、4つの書物の学習は控えるべきだという。すなわち、創世記の冒頭、エゼキエル書の最初の数章、同書の終わり部分、そして雅歌である。またオリゲネスは、ソロモンの書の学習には段階があり、まず倫理を教える箴言を、自然科学を教えるコヘレト書を、そして最後に神的な事柄への黙想を教える雅歌を学ぶべきだとしている。

雅歌に関するオリゲネスの著作。239-242年にカイサリアにおいて書かれた『雅歌説教』と、245-247年にアテーナイおよびカイサリアにおいて書かれた『雅歌注解』がある。オリゲネスの著作の中でも評価の高い両者は、前者が初心者向け、後者が上級者向けに書かれた。彼は七十人訳の雅歌を読んだため、この書を対話編のようなドラマと理解していた。どちらもギリシア語のオリジナルでは現存しておらず、『説教』はヒエロニュムス訳、『注解』はルフィヌス訳のラテン語テクストが残っている。

オリゲネスによる雅歌解釈。オリゲネスは、若者(婿)の父親が神、若者が神の子(イエス)、そして乙女(花嫁)がユダヤ人(あるいは古代イスラエル人)および異邦人と解釈した。若者による乙女への球根は、ユダヤ人および異教徒をキリスト教において一つにすることを意味する。そしてさまざまな箇所をこの三者に見立て、律法と預言者(旧約聖書)も重要であるが、キリストの知恵(新約聖書)がそれを上回るという立論をしていく。あるいは、乙女を異教徒、コーラスであるエルサレムの乙女たちをユダヤ人と見なすこともある。この場合、「エルサレムの乙女たちよ、私は黒いけれども愛らしい」(1:5)という乙女の台詞は、異教徒が旧約の父祖たちのことすら知らない(=黒い)ことを、ユダヤ人が軽蔑していることになる。しかしながら、別の場所ではそのエルサレムの乙女たちもまた非難の対象となっている。

オリゲネス『ロマ書注解』におけるユダヤ人・異邦人理解。雅歌に関するオリゲネスの見解は、『ロマ書注解』にも多く現れている。この注解は『雅歌説教』『雅歌注解』とほぼ同時期に書かれている。ロマ書3章および11章に出てくる、ユダヤ人と異教徒とがキリスト教において一つになるというパウロの見解を、オリゲネスは自身の雅歌に関する寓意的解釈に結び付けているのである。この注解もルフィヌスによるラテン語訳しか残っていない。ところで、この注解では、ロマ書におけるパウロによるユダヤ人批判があまり明確に押し出されていない。この理由を、C.H. Bammelは、オリゲネスはパウロ同様ユダヤ人批判をしていたが、それは訳者ルフィヌスの関心ではなかったため、ルフィヌスが改変したと考えた。一方、J. McGuckinは、オリゲネス自身がパウロのユダヤ人批判に対し批判的だったため、オリゲネスがパウロの論旨を改変したと考えた。つまり、ルフィヌスによる改変かオリゲネスによる改変かが議論されているわけだが、原典が存在しないので確認はできない。

オリゲネスと当時のユダヤ人との関係。オリゲネスは注解をする際に七十人訳を用いている。彼はユダヤ人との接触を持っていたが(Hiullusというユダヤ人教師がいた)、それをあまりいい関係でなかったと見る学者と、いい関係だったと見る学者とがいる。彼のユダヤの聖書解釈に関する知識についても判断が分かれている。彼のヘブライ語能力に関しては、多くの学者が低かったと見ている。著者は、少なくとも雅歌に関しては、当時のカイサリアのユダヤ人の解釈がオリゲネスに影響していると考えた(ラビ・アキバの解釈のパラフレーズなどが見つかっているため)。

グノーシス・マルキオン派との関係。オリゲネスの時代には、聖書のグノーシス的、マルキオン派的な解釈は、教会の「正統派」にとって大きな脅威であった。こうした異端のひとつの特徴としては、旧約聖書軽視と、それに伴う新約聖書偏重とがある。彼らは旧約に出てくる登場人物たちの「ふさわしくない」振る舞いや、神の擬人化などを排除しようとしていた。しかしオリゲネスはこうした理解を批判し、旧約の重要性を訴えた。オリゲネスによれば、こうした異端とユダヤ人とは、共に聖書の読み方が「字義的」すぎるのだった。聖書の「霊的」な意味に気づけば、「旧約」もまた新たな意味を獲得し、旧新約聖書のいずれもが「新約」になるとオリゲネスは考えた(『民数記説教』9.4)。

行為から意図へ Avery-Peck, "Ch. 15 Conclusions"

  • Alan J. Avery-Peck, "Chapter 15: Conclusions," in Mishnah's Division of Agriculture: A History and Theology of Seder Zeraim (Brown Judaic Studies 79; Chico, California: Scholars Press, 1985), pp. 397-411.
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著者は本書での結論を6点挙げている。
  1. ミシュナーのラビたちが第二神殿時代の文学から法制度や法概念をある程度受け継いでいるにせよ、ミシュナーの法概念は新しい独自のものであり、創造的なものである。従って、ゼライーム篇もまた、ラビたちが古代の法を単に集めてきたものではなく、最初の数世紀の間になされた創造である。
  2. 検証の結果、匿名の法は名前付きの法に依拠していることが分かったため、通常考えられているように匿名の法はラビの名前付きの法より古いのではなく、逆に、名前付きの法が匿名の法より古いものである
  3. ゼライーム篇のそれぞれの項はランダムに並んでいるのではなく、トピックや事実に従って組織的な編成になっている
  4. 70年から135年までサンヘドリンがヤブネに存在したヤブネ期と、それ以降のウーシャ期とで分けて考えると、ヤブネ期が法における行為自体を問題にするのに対し、ウーシャ期は法を守るときの人の意図や状況を勘案するようになった
  5. ミシュナーが特に独自なものとなったのは、バル・コフバの乱以降、すなわちウーシャ期になってからである。ウーシャ期のラビたちは聖書のイデオロジーを超えて、ミシュナー独自の聖俗の区別の概念を定式化した
  6. 神殿の崩壊後のユダヤ教の発展にとって、70年の神殿崩壊そのものよりも、135年のバル・コフバの乱が与えた影響が極めて強い。70年に確かに神殿は崩壊したが、まだローマによる規制が甘かったのに対し、135年の反乱以降はローマによるエルサレムの解体が進み、ユダヤ教の制度の大幅な改編が迫られた。
著者はこの章において、特に第四点目についてさらに説明を加えている。ヤブネ期の賢者たちは基礎的な質問や法定義について関心を集中させている。彼らは、人々が法を守るときの動機付けや意図には興味を持たず、ひたすら法の定義を議論している。彼らは世界にはあらかじめ決められた秩序があると考えていたのである。これに対し、ウーシャ期の賢者たちはすべての行為をそれをなした人の意図に照らして判断している。それゆえに、ある法の規定を破ってしまっても、それがよい意図に従ってなされたのであれば許されるのである。ヤブネ期の賢者たちと異なり、ウーシャ期の賢者たちは、イスラエル人に課された秩序以外、世界には秩序はない(それゆえに、法の遵守においても意図せざる乱れが生じる可能性がある)と考えていたといえる。

著者は、この行為そのものから意図を重視する姿勢を、中世ヨーロッパにおける法の発展や、心理学における子供の倫理観の発展などとの対比から説明していく。つまり著者は、社会的・政治的な倫理観の発展を、その中にいる個人の倫理観の発展の類比から理解しているのである。

2014年9月12日金曜日

ミシュナー・ゼライームに見るラビ・ユダヤ教の農業観 Avery-Peck, "Ch. 1: The Mishnaic Division of Agriculture"

  • Alan J. Avery-Peck, "Chapter One: The Mishnaic Division of Agriculture," in Mishnah's Division of Agriculture: A History and Theology of Seder Zeraim (Brown Judaic Studies 79; Chico, California: Scholars Press, 1985), pp. 13-32.
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イスラエルでは古代より人々に十分の一税が課せられてきた。これは収穫の十分の一を税として神殿に収めるというものである。聖書における十分の一税の現代的な理解としては、貧者や祭司およびレビ人の生活を維持するためのものだったのだろうと考えられている。ではラビ・ユダヤ教ではどうだったのだろうか。ミシュナーの中でこの問題を扱っているのはゼライーム篇だが、Avery-Peckによれば、神殿祭儀がなくなったあとの世界に生きていたミシュナーのラビたちは、現代の経済的な観点からまったく離れ、独自の理解をしているという。

農業に関して、ミシュナーのラビたちにとって最も重要な概念は、すべての土地は神の所有であり、人間はそれを使わせてもらっているだけということであった。それゆえに、農業をするときには、神の土地にふさわしい仕方でしなければならない。そしてひとたび収穫があれば、十分の一税を支払って、いわばその収穫についている「神の抵当権」を放棄してもらうのである。つまり、ラビたちにとって十分の一税とは単なる神殿祭儀の一環ではなく、神による創造に相応しい仕方で農業をすることで、神とイスラエルとの特別な関係を維持していく手段だったのである。

ところで、特に第二神殿時代のユダヤ教文学には、農業に関する記述があまり多くない。そこで、ミシュナーが成立していった時代の比較対象としては、ギリシア・ラテン文学が適切である。具体的には、テオフラストス、クセノフォン、ワッロ、コルメッラ、大プリニウスなどが挙げられる。Avery-Peckによると、ギリシア・ラテン文学における農業観は、「経済」と「科学」が主眼だったという。つまり、農業を営むに際し、彼らの焦点は、商業的な意味でいかに農作物から利益を得るかということと、それを遂行するためにどのよな科学的な方法があるかということだったのである。これに対し、ラビ・ユダヤ教にとっては、経済も科学も農業をする際の主眼ではなかった。むろんラビたちもギリシア・ラテン文学における農業と同じように、取れ高の向上を願ったが、その同じ目的を達成するために、ギリシア・ラテン文学が科学的なアプローチを取ったのに対し、ラビ・ユダヤ教は律法遵守を主眼に置いた。すなわち、土地は神のものなのだから、神の法を遵守すれば取れ高も増えると考えたのである。

ではミシュナーは農業に関して聖書に完全に依拠しているのであろうか。むろん両者には基本的な部分で大きな連続性が認められるが、一方で、先に述べたように、神殿祭儀の有無により、ミシュナーは農業を律法に則って行なうことにより、神との関係性を維持していくことを目的としていた。いうなれば、聖書が貧者や神殿祭儀を見据えていたのに対し、ミシュナーは個人個人の生活を基にしているのである。

こうしたミシュナー・ゼライーム篇の特徴を示すために、Avery-Peckはトピックに従って各項を並べている。

1.作物の生産過程について
  • シェビイット(安息年)項:土地は神のものなので、創造のときに神が7日目に休んだように、7年ごとに土地を休ませなければならない。
  • キルアイム(混合の禁止)項:神が創造のときに定めた種の違いを維持するために、違う作物を一緒に育ててはならない。
2.作物を捧げ物として聖別する条件について
  • マアセロット(十分の一税)項:どのような作物が十分の一税を課されるべきものかについて。ここでは、支払う者の意図も重要である。つまり捨ててもいいようなものではなく、実際本人が食べようと思い、実際自分の食事に供するつもりのものを税として支払わなければならない。
  • ハラー(麦粉の初物)項:民15:17-21参照。しかし聖書と異なり、麦粉の初物で作ったすべてのパン生地が捧げ物になるわけではなく、特定の材料および方法でできたものでなければならない。この項はマアセロットを補完するものである。
3.捧げ物が捧げられるための条件について
  • テルモット(挙祭、祭司の取り分)項1.1-4.6:捧げ物が有効なものとなるための、捧げる本人の意図について。つまり、取り分けておいた作物も、捧げる本人がそれを捧げ物として聖なるものと見なければ、それは捧げ物にはならないのである。
  • ペアー(隅の刈り残し)項:テルモットと関連して、収穫の十分の一を貧者のために取り分けることについて。貧者への施しも、規定に則って行なわれなければならない。
  • ビクリーム(初物)項:申26:1-11、レビ23:9参照。作物の初物はエルサレムに捧げ物として収めなければならない。この項では、捧げ物を捧げる際のさまざまな要件について説明しつつ、テルモットの議論である捧げる本人の意図を問題とする。
4.捧げ物の取り扱いについて
  • テルモット項4.7-10.12:捧げ物をするときに不適切な条件について。捧げ物が単品で条件を満たしていても、聖別されていないものと混ざってしまったり、祭司以外に食べられてしまってはならない。しかし、テルモット1.1-4.6で示されているとおり、捧げ物をする者の意図もまた重要な条件となる。
  • マアセル・シェニー(第二の十分の一税)項:申14:22-26参照。エルサレムの神殿に十分の一税を支払うときに、作物そのものを持っていくのではなく、それを売って金にし、その金を持ってエルサレムに行き、現地で作物を買いなおすことがよいかについて。
5.作物や捧げ物の食べ方について
  • デマイ(十分の一税に認められにくいもの)項:この項の主要な問題は、きちんと十分の一税を守る人が、どうしたら守らない人の巻き添えを食わないかということである。自分が作物の十分の一税を支払っていても、人の家や公共の場所で食べたものが十分の一税をきちんと支払ったものかどうかは分からない。もしこれを食べると、律法違反に加担したことになってしまう。それを防ぐためには、自分の所有を離れたものは必ず十分の一税を払うようにすればよいという(自分が所有するものは確実に支払っているので)。
  • オルラー(捨てるべき初物)項:すべての初物を捧げるわけではなく、たとえば木の実は、木に実がなるようになってから3年経ってからでなければ捧げ物にしてはならない(レビ19:23参照)。こうした、初物は初物でも捧げることのできないものを分類している。
  • テルモット項11.1-10:捧げ物は、いったん聖別されて捧げられると、祭司によってしか消費されてはならない。仮にいくつか条件を満たさなくても、まだ捧げ物として有効なうちは祭司のみが扱える。
こうした分類を経て、Avery-Peckはゼライーム篇の重要なポイントを2点指摘している。第一に、それぞれの項は一貫した関心によって繋がれている。第二に、聖書でもともと問題とされていた側面とは別の側面に光が当たることが多い。ラビたちは、神殿を失ったイスラエルの人々が守るべき農業の決まりを定めることで、イスラエルの個人個人を祭司のいる王国へと変えようとしたのである。

さらに、ゼライーム篇には当時の歴史的なコンテクストに対する感心な薄いという特徴がある。これは、当時ローマによって支配されていたユダヤ人は、自分たちの弱さをあらわす歴史そのものに関心を持てなかったからと考えられる。むしろ、律法を遵守することで神の創造した世界を完全なものにする使命を与えられていると考えていた彼らは、農業をするときにも、その使命を遂行することを第一義に考えていたのであった。

2014年9月11日木曜日

手を汚すことおよび聖書の正典化について Broyde, "Defilement of the Hands, Canonization of the Bible"

  • Michael J. Broyde, "Defilement of the Hands, Canonization of the Bible, and the Special Status of Esther, Ecclesiastes, and Song of Songs," Judaism 44,1 (1995): 65-79.

ソロモンの書と呼ばれるエステル記、コヘレト書、雅歌は、ヘブライ語聖書の中でも神の名を含まない書物として、ラビ・ユダヤ教において、しばしば他の書物とは異なった扱いを受けてきた。中でも、ミシュナー・キルアイム15.6、同ヤダイム3.5、およびタルムード・メギラー7aにおいて、「すべての聖書の書物は手を汚すが、あるラビによればコヘレトは手を汚さない。また別のラビによれば雅歌は手を汚さない。さらにまた別のラビによればエステルは手を汚さない」といった風に区別をつけられている。

この「聖書が手を汚す」とはどういうことか。タルムード・シャバット14a-bの解釈によると、あるときラビたちは、人々がテルマーと呼ばれる聖なる食物を、聖書の巻物を入れる聖櫃に入れ、「これらは共に聖なるものだ」と言っているのを知った。食べ物を聖書の巻物と共に置いておくと、小動物が来て聖書まで食べてしまうことを恐れたラビたちは、「聖書は手を汚す」という法令を出した。すると、聖書を手で触ってからテルマーに触ると、テルマーは不浄なものになってしまう。逆に、テルマーも触ると手が汚れるので、それに触ってから聖書を触ることも禁じられた。こうしてラビたちは、人々がテルマーを聖書の巻物と共に聖櫃に入れないようにしたのである。

ここから、聖書の書物は手を汚すものだという条件が規定されたのだが、すると、今度はソロモンの書が手を汚さないとはどういうことかという疑問が出てきた。つまり、聖書の書物であれば「手を汚す」のであるから、手を汚さないソロモンの書は正典ではないのではないかという、さらなる解釈が生まれてきたのである。著者はユダヤ教の伝統的な聖書注解者たちの解釈を渉猟した結果、「ソロモンの書が手を汚さない」ことの解釈に関して、二つのグループがいることを示している。

第一は、ソロモンの書は正典には入っていないと考えたグループである。つまり、聖書であれば手を汚すのだから、手を汚さないソロモンの書は正典ではないということである。これはラビ・ヨム・トブ・アシュベッリやラヴ・ハイ・ガオンらの見解である。彼らによれば、エステル記はプリム祭で読まれるほどの、ある種の聖なる書物としての権威を持っているのは確かだが、それは成文律法としての権威ではなく、口伝律法としての権威にすぎないということになる。

一方、第二は、ソロモンの書物は正典には入っているが、霊感を受けて書かれたものではないと考えたグループである。つまり彼らが「ソロモンの書が手を汚さない」というテーマにおいて問題としているのは、正典か否かではなく、霊感の有無である。これは『セフェル・ハエシュコル』の著者、マイモニデス、ラビ・ダヴィッド・イブン・ズィムラらの見解である。イブン・ズィムラは、ソロモンの書はソロモン晩年の作であり、彼は異邦人の妻に言われるまま偶像を崇拝していた頃にそれらを書いたので、聖霊はソロモンから去ってしまっていたのだと説明している。

第二のグループはさらに二つの下位区分に分けられる。両者はソロモンの書の正典性は共に認めた上で、ひとつは、ソロモンの書は霊感を受けたものではないので、他の書物とは区別されるというもの。もうひとつは、ソロモンの書は霊感を受けたものではないが、他の書物と同等に扱われるべきというものである。前者の見解に従って、エステル記を巻物に書く際もその最初と最後のところに(他の書物のように)空欄を作る必要はないし、保存の際も上に布をかける必要はないといった差異化を図ったアシュケナジーのグループがいた。一方、後者の理解としては、ソロモンの書には神の名前が出てこないが、だからといって他の書物と異なった扱いを受けるべきではなく、ソロモンの書は、他の書物の中で神の名前が出てこない一節と同じ価値を持っていると考えた。特に雅歌には、2:7、3:5、8:6において神の名に等しい言葉が出てくるので、雅歌は他の書物のように扱われるべきだとしている。

以下は読後の感想だが、日本人から見ると、自分たちが大切にしている正典を触ると「手が汚れる」という感覚はよく理解できない。しかし、そういう条件が出来上がったとき、それをある書物が正典であるかないか、あるいは正典ではあっても霊感を受けているかいないかを定める基準にしてしまうというのがラビ・ユダヤ教の面白いところだと思った。