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2019年12月20日金曜日

ヒエロニュムスの聖地巡礼観 Bitton-Ashkelony, "Jerome's Position on Pilgrimage"

  • Brouria Bitton-Ashkelony, Encountering the Sacred: The Debate on Christian Pilgrimage in Late Antiquity (Berkeley: University of California Press, 2005), 65-105.


385年の冬に、ヒエロニュムスはローマを離れてパレスチナの地に到着した。ローマをあとにした理由は完全には分からないが、パウラとの関係を怪しまれて教会で弁明しなければならなかったことや、教皇ダマススの死などによって、ローマでの立場が危うくなったのであろう。自身はこの移動を、バビロン捕囚から逃れてエルサレムに帰還する、と表現している。ヒエロニュムスは最初から巡礼するだけではなく移住するつもりだったが、巡礼者としての情熱も併せ持っていた。

ヒエロニュムスの巡礼のメイン・ソースは、パウラの死を嘆くエウストキウムを慰めるために404年に書いた『書簡108』である。ここでは、キリスト教信仰のために、遺跡に実際に行くことが重要だと説いている。『ルフィヌス駁論』第3巻にもローマ出発の経緯や巡礼のあらまし、そしてベツレヘム定住までの状況が描かれている。他にも、聖地巡礼の重要性については、エウセビオス『オノマスティコン』翻訳、『書簡46』、『書簡76』、『歴代誌(七十人訳)序文』、『書簡46』などに言及がある。ところが、ヒエロニュムスはニュッサのグレゴリオスがそうであるように、『書簡58』では聖地巡礼を批判してもいる。本論文では、聖地巡礼を勧める『書簡46』と、それを批判する『書簡58』を中心的に論じている。さらに殉教者を祭る祭儀について『ウィギランティウス駁論』が取り上げられる。

『書簡46』は386年にマルケラ宛に書かれ、マルケラにベツレヘムや聖地に来るよう招く護教的な内容になっている。ここには明らかにヒエロニュムスの聖地巡礼に対する肯定的な態度を見ることができる。それは自分自身の聖地巡礼を正当化するためでもあった。ヒエロニュムスは、新約聖書の出来事が起き、預言者や聖人の誕生の地であり、またイエスが復活した地である(マタ27:52-53)エルサレムに特別な地位を与えている。すなわち、エルサレムのキュリロス同様に、地上のエルサレムに価値を見出している。これは、天上のエルサレムにしか価値を認めないオリゲネスやエウセビオスとは大きく異なる点である。『書簡47』でも「主の足がかつて立った場所で礼拝するのは信仰の一部」だと主張している。

ヒエロニュムスはこの自説に対する仮定の疑問を投げかける。エルサレムは選ばれた都市ではあるが、その特別な地位はイエスがその破滅を預言したことで失われたのではないか、と。これに対しヒエロニュムスはシンプルに、イエスが本当にエルサレムを愛していなかったら、その陥落を嘆いたりはしなかったろうと答えた。さらに、罪があるのは住人であって都市そのものではないというロジックも使った。

イエスの墓という特定の場所を訪れることはがキリスト者にとって宗教的な義務であるという、新約聖書に基づかない考え方は、他に類を見ないヒエロニュムスの発明といえる。これは天上のエルサレムこそが至上であると考えるパウロ書簡とは大きく対立するものである。ただし、彼は、全能であるはずの神の存在が、ある特定の場所にしか存在しないと言おうとしているのではない。このロジックはニュッサのグレゴリオスが巡礼を否定するときに用いたものである。ヒエロニュムスによれば、エルサレムは修道的な中心地であり、修道士の質も高いので、巡礼する価値があるという。

ベツレヘムに住んでしばらくすると、ヒエロニュムスの巡礼に対する情熱は弱まった。ノラのパウリヌスに宛てて395年に書かれた『書簡58』では、エルサレムを見たことがないからといって信仰が欠けているなどと思うべきではないと主張した。『書簡46』と『書簡58』に見られる相矛盾した見解について、J. Prawerは、大衆的な宗教の表現と正統派キリスト教の展望から説明している。F. Cardmanは、『書簡58』を巡礼に反対するキリスト教神学者の典型的な修辞法だと考えている。ただし、PrawerもCardmanもヒエロニュムスの見解が鍛えられた歴史的なコンテクストを論じておらず、非歴史的なアプローチに終始している。

これに対し、F.M. AbelやMaravalらはヒエロニュムスの当時の人間関係を考慮に入れている。『書簡58』は彼がオリゲネス主義論争に巻き込まれ、エルサレムのヨアンネスとの関係が悪化していた時期の著作である。ヒエロニュムスは自分が破門されていたエルサレム教会をパウリヌスに訪れてほしくなかった。そこで聖地巡礼の宗教的な重要性を最小化しなければならなかったのである。アントニオスやヒラリオンなど有名な修道士たちがエルサレムを特別視しなかったように、修道的生活を送っている者は聖地を訪れる必要がないのである(とはいえ、グレゴリオスのように、聖地巡礼によって霊的なダメージを受けるとまでは主張していない)。こうしたロジックは『書簡46』において自ら否定していたものであった。伝統的見解にオリジナルな議論で反論していた『書簡46』に対し、『書簡58』ではむしろそうした非オリジナルな教会の公式見解をただ代表している。すなわち、キリスト教の福音は全世界に知らされているので、イエスが生きた場所にこだわる必要はないし、そうした特別な場所は心の中に持てばよいという考え方である。

むろん、自分自身がすでに聖地を巡礼し、聖地のそばに住んでしまっているという矛盾にヒエロニュムスは自覚的であった。しかし、聖地巡礼を支持するにしても、修道士にとっては不必要だと主張するにしても、ある場所が聖なる場所であることと神的存在が特定の場所に限定されることとは無関係だと主張したのである。聖地巡礼を否定しようとしているわけではないが、積極的に支持しているわけでもない。『書簡58』の目的は、聖地巡礼を否定することでも、『書簡46』の立場を取り消すことでも、地上のエルサレムと天上のエルサレムに関する神学的議論を展開することでもなかった。修道士にとって修道的生活を追及するにはどのような場所がよいか、というのが論点であった。『書簡46』では、聖地としてのエルサレムはその目的に適しているとされていたが、『書簡58』では、エルサレムの教会との関係悪化もあり、エルサレムに巡礼する必要はないと主張したのである(ただし、『書簡58』で否定的に論じられているのはエルサレムについてのみで、ベツレヘムは依然として最も尊い場所とされている)。

エルサレム教会との確執が終わると、ヒエロニュムスはまた巡礼を推奨している(『書簡68』『書簡71』『書簡76』『書簡145』『書簡122』)。それが最もはっきりと現れているのがパウラの聖地巡礼を描いた『書簡108』である。このときには聖地巡礼はすでにノスタルジーになっていた。しかし、ここでもオリーブ山については言及を避けようとしている様子が見られる。ヒエロニュムスの中で、エルサレム教会との確執は許されてはいたが、決して忘れられてはいなかったのであろう。

殉教者の墓を詣でるについて、ヒエロニュムスは若い頃から積極的だった。特にローマでは、殉教者の墓参りは祭儀と密接に関係しており、4世紀の後半には幅広い地域で行われる習慣になっていた。このことについて、ヒエロニュムスは最も手ごわい敵対者の一人であったスペインのウィギランティウスと激しい議論を交わしている(ウィギランティウスは395年と396年にパレスチナを訪れ、ヒエロニュムスやルフィヌスに面会している)。その記録である『ウィギランティウス駁論』は神学的な議論というより、主として悪口雑言のよせあつめで、教父文学において最も生々しく攻撃的な文書である。

『ウィギランティウス駁論』を通じて知られる彼の主張は、殉教者の魂は墓に留まり、神には届かないので、殉教者が信仰者のための仲介者になることは不可能である、というものだった。そして殉教者の遺跡は不浄で無価値なものなので、それを崇拝することは偶像崇拝に等しいと言うのである。これに対し、ヒエロニュムスは「崇拝する(adorare)」ことと「尊敬する(honorare)」ことを区別した上で、殉教者の墓参りでは後者を行うのだと主張した。殉教者を崇拝するのではなく尊敬することは、偶像崇拝には当たらない。これはアウグスティヌスものちに用いたロジックである。

キリスト教徒の中には、殉教者の墓参りが異郷の祭儀と似ていることに危惧を覚える者がいたが、ヒエロニュムスはむしろそこにこそ護られるべきローマの伝統を見て取った。祭儀に関する異教的なコノテーションを恐れないというところに、ヒエロニュムスの特徴がある。死んだ人間である殉教者が信仰者を助けないという議論については、ヒエロニュムスは、殉教者は死んでいるのではなく眠っているのだと反論した。殉教者の墓が不浄であるという点については、多くの尊敬される人々を引き合いに出し、彼らが不浄なのかと問うた。ヒエロニュムスは純粋に神学的な議論をしているわけではないので、殉教者の墓参りに権威を付与できれば何でもよかったのである。

このように見てくると、ヒエロニュムスによるキリスト教的聖地に関する見解は、これまで考えられてきたよりも一貫している。

2019年12月18日水曜日

エルサレム、ベツレヘム、オリーブ山のイメージ Aist, "St Jerome's Images of Jerusalem, Bethlehem and the Mount of Olives"

  • Rodney Aist, "St Jerome's Images of Jerusalem, Bethlehem and the Mount of Olives: A Critical Investigation of Epistula 108," Holy Land Studies 4 (2005): 41-54.

メラニアとルフィヌスは370年代からオリーブ山で修道院を営んでいた。386年にはヒエロニュムスとパウラがベツレヘムで修道院を始めた。4人とも知り合いだったので、ヒエロニュムスたちがパレスチナにやってきたときには旧交を温めるような会談があったと思われるが、オリゲネス主義論争によって両陣営は敵対する。404年のパウラの死後、ヒエロニュムスは『書簡108』を著して彼女の死を悼んだが、その中で385年に聖地を旅したことに触れている。注目すべきは、エルサレム、ベツレヘム、オリーブ山についての記述で、特にオリーブ山の説明には歪曲が見られる。本論文はその理由を、ルフィヌスとメラニアとの関係の悪化からの影響だと主張している。

『書簡108』は、ヒエロニュムスが唯一本当に愛情を感じていたと思われるパウラの死を悼むもので、丸二晩の口述によって著されたという。この中での聖地巡礼の場面にヒエロニュムス自身は登場しないが、おそらく実体験を書いているものと思われる。ただし、この書簡が書かれたのは実際の巡礼から20年も経ってからなので、その後得た知識も反映している可能性には注意を払う必要がある。とはいえ、一旦住み着いてからのヒエロニュムスはほとんど巡礼らしいことはしていない。

エルサレムにおいて、パウラはさまざまな場所を訪れたはずだが、『書簡108』では、イエスが十字架に架けられたところ、復活した墓所、シオンの古代の砦にしか触れていない。パウラは聖書の出来事を想像しながら、狂信的なといってもいいほどの情熱をもってエルサレム各地を巡礼した。ヒエロニュムスのエルサレム描写は、町全体が聖なるものというより、個々の聖なる場所からなる町というイメージになっている。町自体に聖性が宿るとは考えていないようである。また他の巡礼記と比べると、聖なる場所への言及が少ない。またオリーブ山がエルサレムから切り離されていることも特徴的である。

ベツレヘムは、ヒエロニュムスが特にお気に入りの場所であり、多くの言葉が費やされている。パウラはベツレヘムで幻を見たようである。それは、マタイとルカによるイエス聖誕の合成であり、ベツレヘムを見下ろせるような場所からの記述であり、また聖書の記述における時間の流れを濃縮したものであった。ヒエロニュムスはベツレヘムが出てくる聖書箇所を数多く引いて、モザイクのように組み合わせている。ただし、そのチョイスは多くの場合、オリゲネスとエウセビオスからの影響を強く受けている。ベツレヘムに関する記述は、聖書的ヴィジョン、聖書引用、そしてパウラとヒエロニュムスの個人的な敬虔さに溢れている。

オリーブ山は、パウラが一度パレスチナ南部を巡礼した帰りの道行きで登場する。つまり、エルサレムの記述とは分離している。しかし、最初にエルサレムを巡礼したときにオリーブ山に行かなかったとは考えがたい。南からオリーブ山に近づくことで、エルサレムよりもテコアとの関連が強調されている。キリスト者はオリーブ山に対し、肯定的な見方と否定的な見方をしていた。なぜなら、新約聖書中のオリーブ山のシーンには、差し迫った磔刑へのダーク・ドラマと勝利の昇天とが共に描かれているからである。しかし、4世紀までには年毎のエルサレムでの礼拝にオリーブ山も組み込まれていた。ヒエロニュムスは、民19:1やエゼ11:23などに出てくるオリーブ山については論じているが、共感福音書中のイエスの黙示的な記述やゲッセマネの挿話などについては触れていない。オリーブ山に関する記述ではヒエロニュムスが一人称で語っている部分もあり、そこは実際の巡礼というよりは聖地のヴィジュアル・ツアーといった呈をなしている。

『書簡108』はヒエロニュムスとパウラのベツレヘムへの深い愛情を表現している。エルサレムについてもそのユニークな地位を認めている。一方で、オリーブ山は地理的・聖書解釈的な歪みを持っており、エルサレムからも分離して描かれている。論文著者によれば、ルフィヌスやメラニアに対するヒエロニュムスの喧嘩が、彼のオリーブ山理解に影響しているという。

2019年12月5日木曜日

エチオピア語訳『エノク書』について Knibb, The Ethiopic Book of Enoch

  • Michael A. Knibb in consultation with Edward Ullendorff, The Ethiopic Book of Enoch: A New Edition in the Light of the Aramaic Dead Sea Fragments, II (Oxford: Clarendon Press, 1978), 1-47.

『エノク書』が近代ヨーロッパに本格的に紹介されたのは、1773年にJames Bruceがエチオピアから3写本(Bodl 4, Bodl 5, Paris 32)を持ち帰ってきたときのことであった。このうちBodl 4に基づいて、R. Laurenceが1821年に英訳を、1838年に最初にテクストを出版した。さらに多くの写本がヨーロッパにもたらされてから、1851年には5つの写本を校合してA. Dillmannが最初の校訂テクストを出版した。

1886/7年には、アクミームで『エノク書』1-32章のギリシア語訳を含む写本が発見された。R.H. Charlesは、このアクミームのギリシア語訳も利用しつつ、Dillmannが用いたエチオピア語訳写本に新たに9本の写本を加えた上で(とりわけBM 485を重視)、1893年に英訳を出版した。1912年には第二版が出ている。G. Beerは1900年にドイツ語訳、F. Martinは1906年にフランス語訳を出版した。

エチオピア語訳の校訂本で重要なのは、1902年のJ. Flemmingのものと、1906年のCharlesのものが特筆に価する。Flemmingは、エチオピア語訳が2つのグループに分かれると指摘した。グループⅠはより古いテクスト、グループⅡは他のテクストである。彼もまたCharlesと同じくBM 485が最も重要な写本であると考えた。

Charlesのグループ分けもFlemmingとまったく同じだが、グループ・アルファとベータと呼んでいる。彼によると、エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳であり、シュンケッロスの抜粋テクストはアクミーム写本よりもオリジナルに近いという。Charlesの校訂版が出た1906年から彼の英訳の第二版が出た1912年は、『エノク書』研究のターニング・ポイントであった。Charlesは彼以前の研究をよくまとめあげていたので、同時代の研究者たちは多くの場合彼の見解を受け入れた。一方で、異読として挙げているのは正字法に関わることばかりであり、示される情報も過剰であった。

Charles以降は校訂本も翻訳も出なかったが、どちらも新版が必要である。なぜなら、第一に、クムランでのアラム語断片の発見とギリシア語訳を含むチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスの発見があったからである。第二に、そうした発見がなくともCharlesの見解には修正が必要だからである。そこで本書は、アラム語とギリシア語の新発見を加味しつつ、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)に依拠した新しい校訂版と英訳を提供している。

アラム語断片。『エノク書』がヘブライ語とアラム語のどちらで書かれたのか、ずっと問われてきたが、1952年のクムランでのアラム語断片の発見によって、おそらくアラム語こそが原典の言語であったと考えられている。ただし、クムランで発見されていない「たとえの書」については、今もなお何が原語であるかは謎である。写本の出版を託されたのはJ.T. Milikで、彼は1958年に雑誌論文のかたちで一部出版したが、全体の出版は遅れ、1976年にようやく出版された。

クムランからは11の写本が出て、そのうち7本からは「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」に対応する部分が、4本からは「天文の書」に対応する部分が見つかった。「たとえの書」に当たるテクストを含む写本は見つかっていない。クムランでは、「天文の書」は独立して読まれ、他の文書はエノクの名の下にまとめられていたと考えられる。Milikは「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」がクムランではまとまって独立していたと考える。

アラム語断片を見ると、かなりの部分が残っているように見えるが、実際にはエチオピア語訳の1062節中の196節、つまり5分の1も残っていない。さらに多くの写本が劣悪な状態かつ断片的である。アラム語断片は一般的にギリシア語訳やエチオピア語訳と一致しているが、本質的でない小さな異読はある。「天文の書」に関しては、エチオピア語訳はアラム語よりも短く、本文の順序などの本質的な違いも見て取れる。

ギリシア語訳。アラム語からギリシア語に訳されたときの状況についてはほとんど分かっていない。ギリシア語訳には4種類ある。シュンケッロスの抜粋、アクミーム写本(Codex Panopolitanus)、ヴァチカン写本(Gr. 1809)、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスである。これらは、シュンケッロスのグループと、アクミーム、ヴァチカン、チェスター・ビーティのグループに分けられる。シュンケッロスのテクストは他と大きく異なっている。Charlesはそれゆえに、シュンケッロスのテクストがよりオリジナルに近いと考えた。シュンケッロスは『エノク書』を直接用いたのではなく、他の初期ビザンツ歴史家の抜粋に依拠した。これら4種類の他にも、ギリシア語訳、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳などがあるという。

エチオピア語訳。エチオピアにキリスト教が紹介されたのは4世紀のことで、そのとき以降に『エノク書』も含め、聖書文書がエチオピア語訳された。翻訳者たちがギリシア語訳を用いたことは明らかであるが、アラム語断片も間違いなく用いていた。著者は編集と翻訳に当たり、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)を中心に据えた。

Charlesはエチオピア語訳写本をEthⅠとEthⅡの2つのグループに分けた。エチオピア語への翻訳自体は4~6世紀の出来事だが、最も古い写本はほぼ1000年後の15世紀のものである。EthⅠはより古いテクスト群で、大衆的なテクストを代表するEthⅡよりもギリシア語訳と一致する。ただし、その価値を過大評価はできない。確かにEthⅠは多くの価値ある読みを保存しているが、欠落や付加、ミススペリングや不注意なども多く含んでいる。Charlesは真のエチオピア語訳はEthⅠグループの写本からのみ見つかると考えていた。しかしながら、著者が採用したRylはEthⅡグループの写本である。EthⅡに対するEthⅠの過大評価を是正する意図がある。

エチオピア語訳の底本。エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳だと一般に見なされており、SchmidtやUllendorffらからの抵抗以外には、ほとんど疑問視されていない。Ullendorffによると、『エノク書』はアラム語から直接エチオピア語訳に翻訳されたのだという。むろんギリシア語訳を参照はしたと考えられる。この問題を考えるに当たって、アラム語とギリシア語訳だけ一致する場合と、アラム語とエチオピア語訳だけ一致する場合は、それぞれ興味深い。とりわけ、アラム語とエチオピア語訳だけが一致するならば、翻訳がギリシア語経由でないことが明らかになる。ただし、翻訳者がどの程度アラム語テクストを使ったのかは不明である。

『エノク書』のエチオピア語訳の起源と歴史は、聖書のエチオピア語訳のそれと比較できる。

2019年11月24日日曜日

パウラの墓碑銘 Cain, Jerome's Epitaph on Paula

  • Andrew Cain, Jerome's Epitaph on Paula: A Commentary on the Epitaphium Sanctae Paulae (Oxford Early Christian Texts; Oxford: Oxford University Press, 2013), 1-39.

本書は、長年のパートナーだったパウラの死を悼んでヒエロニュムスが書いたテクストの解説とコメンタリーである。パウラは347年5月5日にローマで生まれた。母親ブレシラはスキピオーとグラックス兄弟の子孫であり、父親ロガトゥスはアガメムノンを先祖に持つ高貴なギリシア系の家系に連なる者だった。パウラはユリウス・トクソティウスというあまり冴えない元老院議員と結婚し、ブレシラ、パウリナ、エウストキウム、ルフィナ、トクソティウスの5人の子供を産んだ。381年に夫と死別すると、パウラはその後の人生を修道に捧げ、寡婦として過ごした。

382年のサラミスのエピファニオスとアンティオキアのパウリノスのローマ訪問に際し、ラテン語通訳として同行したヒエロニュムスは、2人を客人として受け入れたパウラと知り合った。それ以降ヒエロニュムスとパウラは、404年のパウラの死が二人を分かつまで、長い時間を共に過ごすことになる。『聖パウラの墓碑銘』あるいは『書簡108』(以下『聖パウラ』)はパウラの死後数ヶ月経ってから書かれた。これは歴史的なパウラの生涯を再構成する際の主要な一次資料である。それと同時に、女性の霊性に関する核心的なテクストでもある。このテクストについては、Susan Weingartenなどの先行研究があるが、鍵となる文学性、プロパガンダ性、そして祭儀性といった側面が等閑視されてきた。

文学的系譜。『聖パウラ』は前もってよく考え抜かれた著作である。その底部にはきわめて高度な質の文学的技術が横たわっている。ジャンルとしては、演示弁論の一形態である追悼演説(エピタフィオス・ロゴス)と考えられる。これはデモステネスの注解者として知られるラオディキアのメナンドロスによって論じられているもので、彼によると、追悼演説は、家族(ゲノス)、生まれ(ゲネシス)、性質(フュシス)、生い立ち(アナトロフェー)、教育(パイデイア)、そして品行(エピテーデウマタ)に応じて、内的に整理されたものであるという。結部には何らかの慰めの言葉があることが多い。『聖パウラ』はこの枠組みによく馴染むが、はみ出しているところもある。ヒエロニュムスのような技術のある作家は、修辞学者が決めたルールを創造的に曲げ、自分の腕前を示すからである。

ヒエロニュムスは、自分の作品を追悼演説として書きつつ、伝記的要素もかなり入れたが、他の文学形式のセレクションも組み合わせている。たとえば、旅行記(iter/itinerarium)、聖書注解、論争的な補遺、神学的な論争書(altercatio)、修道院法規(regula)、叙事詩、追悼詩などである。ヒエロニュムスはこれらの要素をシームレスに混ぜ合わせて、散文、詩文、悲歌、聖書へと分類するスキルを示したのだった。

ヒエロニュムスは、パウラの死による痛手がいかに大きいものだったかを、パウラの娘のエウストキウムに書き送っている。休むことを知らない多産なヒエロニュムスが研究できない状態にあるということは、その悲しみの大きさを物語っている。『聖パウラ』を書いたのも、パウラを賞賛し、エウストキウムを慰めることで、実際には自分自身にセラピー的に貢献したかったからである。またヒエロニュムスは、キリスト教世界を通じて『聖パウラ』が回覧され、多くの人々に読まれることを期待していた。

ヒエロニュムスとパウラが住んだベツレヘムは二様に有名だった。第一に、ダビデの町であること、そして第二に、ベツレヘム周辺の洞窟でイエスが生まれたとされていることゆえにである。福音書には書かれていないが、2世紀の後半までにはイエスが洞窟で生まれたという逸話が流布していた(ユスティノス、オリゲネス、ヨアンネス・カッシアウヌス)。327年にはコンスタンティヌス帝がこの洞窟を正式に聖なるものとし、その上に聖誕教会を作った。エルサレムから歩いて1時間20分ほどのところにあるベツレヘムは、巡礼者たちが引きも切らず訪れる場所となった。ヒエロニュムスが住むより前には、すでに2つの修道共同体があった。

4世紀にはエルサレムが最も聖なる場所とされることがしばしばあったが(『タンフマ』、エルサレムのキュリロス)、ヒエロニュムスはエルサレムよりもベツレヘムを高く評価した。F.-M. Abelはこの理由を、ヒエロニュムスがオリゲネス主義論争で仲たがいしたルフィヌスがエルサレムにいたためだと指摘しており、多くの研究者も同意している。ベツレヘムへの特別視はパウラも受け入れていた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』でのローマからベツレヘム定住までのパウラをアブラハムになぞらえ、巡礼者たちの旅行ガイドブックとしても役に立つようにしている。

15-26章は特に、パウラの聖性を強調している。これは、パウラを聖書的な敬虔さのモデルとすることで、その指導者であるヒエロニュムス自身の修道的、神学的、学者的な関心の典型にしようとしたのである。修道的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの修道的原理を体現し、莫大な財産を惜しげもなく貧者に施している。このことを強調するために、ヒエロニュムスは『聖パウラ』における彼らのローマでの最後の3年間の時系列を変え、自分たちが聖書的原理に従って行動していたように描いている。

聖書の学者的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの聖書研究を代表する女性である。『聖パウラ』の中でパウラが何かを語るたび、彼はそこに聖書の一節を入れ、彼女が聖書を暗記していることを強調した。パウラはその死に際しても聖書を口の端に上している。つまり、「三言語の男」たるヒエロニュムスの女性版として理想化されているのである。それゆえに、パウラはラテン語なまりのないヘブライ語で詩篇を朗誦することができたと描写される。それだけでなく、そうした知識を用いて適切な聖書解釈を展開することさえできたという。聖パウラを通して、ヒエロニュムスはヘブライ語の学習が修道的敬虔さといったキリスト教徒としての原理に即することを示そうとした。

神学的な観点から見ると、ヒエロニュムスはパウラがオリゲネス主義をはじめとする異端に嫌悪感を抱いているさまを描いている。オリゲネス主義論争において特に役割を持っていたわけではないが、パウラは論争におけるヒエロニュムスの「勝利」を喜んだ。聖性を帯びたパウラが嫌っているということは、敵対者たちへの攻撃のよい口実になった。

古代には葬礼でのスピーチを洗練させた聖者伝がしばしば書かれた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』を聖人伝として書くことで、それが「聖パウラの祭り」の土台となるはずだと考えていた。初期キリスト教会では、殉教者たちが霊的完成を体現しているとされていたが、ヒエロニュムスの時代には、血を流さない殉教者として修道者がその代わりを努めるようになった。そして殉教者が教会で祭られているように、修道者であるパウラもまた祭られるべきと考えたのだった。ただし当時からすでに、殉教者を祭ることは一種の偶像崇拝であるとして、この見解を批判するウィギランティウスのような人物もいた。これに対しヒエロニュムスは反論し、殉教者を賛美することは、彼らが仕えていた神を賛美することだと主張した。そのためにヒエロニュムスはパウラの墓の場所を正確に記し、彼女への祭儀(蝋燭を灯し、一晩中その火を守る)の焦点とした。『聖パウラ』に付された2つのヘクサメトロス形式の墓碑銘も、読者がベツレヘムに来るための手引きの役割を持っている。またパウラとイエスが同じ聖なる場所を共有しているほど近い関係であることも強調した。

ヒエロニュムスはパウラがいかに愛される存在だったかを描いている。そのため、彼女の葬礼のために多くの人が集まったことを紹介している。そして教会の聖餐式で他の殉教者たちと共に名前が呼ばれるように、殉教者名簿に載せられるべき聖人であることを強調した。その甲斐あって、最初の普遍的な教会祭儀のカレンダーであるMartyrologium Hieronymianumでは1月26日が聖パウラの日とされている。この殉教者名簿の作成者は、明らかにヒエロニュムスの『聖パウラ』をソースとしている。このほかにも、ベーダ、フロルス、アドー、ウスアルドらがパウラについて書くときは、『聖パウラ』に依拠している。

結論としては、『聖パウラ』はヒエロニュムスの作品のうちでも最上のもののひとつである。エウストキウムを慰め、また生涯の友人を記念するという個人的な理由のほかにも、霊的な成功をおさめたパウラを自分の指導の成果として描くことで、彼女を自分の修道思想のアイコンにするという理由もあった。パウラは日々語学の研鑽を欠かさず、語る言葉も聖書からのものばかりだった。ここでも、ヒエロニュムスは自分の聖書研究を受け継ぐ者として彼女を描いている。パウラのパトロネジ活動もまた彼女の聖性を証している。『ヨシュア記序文』では、「彼女の生涯は徳の模範である(vita virtutis exemplum est)」と現在形を使うことで、パウラの生涯が単に賞賛の対象であるだけでなく、いつの時代も模範とされるべきものだと示した。ヒエロニュムスはベツレヘム、そしてパウラの墓を、パウラを祭るための地理的な焦点とした。そしてパウラの祭儀を赤子としてのキリストの祭儀と関係付けた。パウラがのちに教会で祭儀の対象となったのは、ヒエロニュムスの『聖パウラ』に拠っている。

2019年11月15日金曜日

ヘクサプラ第5欄の目的 Schaper, "The Origin and Purpose of the Fifth Column"

  • Joachim Schaper, "The Origin and Purpose of the Fifth Column of the Hexapla," in Origen's Hexapla and Fragments: Papers Presented at the Rich Seminar on the Hexapla, Oxford Centre for Hebrew and Jewish Studies, 25th July-3rd August 1994, ed. Alison Salvesen (Texte und Studien zum Antiken Judentum 58; Tubingen: Mohr Siebeck, 1998), 3-15.

本論文はヘクサプラの第5欄のテクストの起源と、オリゲネスがこれを編纂した目的を明らかにするものである。ヘクサプラの実際のテクストに関する信頼できる証言というものは存在しないが、近年ではオリゲネスの注解やその他の著作のキーパッセージをより正しく理解できるようになってきたために、1875年にFieldがヘクサプラ校訂版を出版した時代よりは有利である。

ヘクサプラについてのオリゲネス自身の証言として重要なのが、『マタイ福音書注解』15.14、『アフリカヌスへの手紙』2-4、『ホセア書注解』(『フィロカリア』52-54所収)である。『マタ注解』によると、オリゲネスは旧約聖書のアンティグラファ間の「不協和音」を「癒す」ことを目指したという。ここでの「アンティグラファ」は、基本的にギリシア語訳聖書の諸版のことを指しているが、オリゲネスは校訂記号を用いてギリシア語とヘブライ語の両テクストの違いにも言及しているので、アンティグラファも両者を指すことがあるといえる。

ただし、オリゲネスはあくまでもギリシア語テクストに重きを置いており、その目的も究極的には教会の伝統的な七十人訳に基づいた信頼できるギリシア語テクストを作成することだった。ヘブライ語テクストは、テクスト批判の最後にギリシア語テクストに関する議論を裏付けるために参照するわけである。その意味で、オリゲネスはキリスト教伝統に忠実であると同時に、文献学への厳格な要求を持った人物だった。

『マタ注解』で論じられているのはヘクサプラの第5欄作成の方法論についてなのか、それともテクストとして分離した七十人訳についてなのか、これまで議論されてきた。後者を採る見解の依拠する理由としては、第一に、エウセビオスが第5欄における校訂記号の使用に言及していないから、第二に、現存するヘクサプラの写本には校訂記号が書かれていないから、第三に、ヘクサプラに校訂記号が書かれていたというエピファニオスの証言は信憑性が低いから、第四に、R. DevreesseやS. Jellicoeがまた違った角度から第5欄における校訂記号の使用を否定しているから、そして第五に、ヘクサプラのテクストがオリゲネスの改訂を反映しているのかパンフィロスとエウセビオスのそれを反映しているのかはっきりしないから、である。それゆえに、研究者たちはオリジナルのヘクサプラの第5欄は校訂記号を含んでいなかったし、またオリゲネスが『マタ注解』で言及しているのは切り離された七十人訳の改訂版だと主張した(Kahle, Barthelemy, Devreesse, Neuschaeferなど)。

ところがP. Nautinは上の説に反対し、第5欄のことが論じられていると考えた。なぜなら第一に、シロ・ヘクサプラには校訂記号があるから。第二に、ヒエロニュムスが『歴代誌序文』で用いているeditio Septuagintaという語は、分離された七十人訳の「エディション」と考えるべきではなく、むしろ単純に七十人訳の「ヴァージョン」と考えるべきだから、である。こう考えると、現存する写本に校訂記号がないことは「沈黙からの議論」にすぎないといえるし、またエピファニオスの主張の信憑性も回復する。さらに、ヘクサプラの現存する断片がそもそもオリゲネスによる第5欄に関するものなのか、それともパンフィロスやエウセビオスによる後代の改訂が入ったものなのかが、オープンクエスチョンになる。

Nautin説を参照しながら、論文著者は、オリゲネスが言及しているのは分離されたものではなく第5欄のことであり、オリゲネスはヘブライ語が初級レベルであるがヘブライ語写本をも参照しており、また結局のところヘブライ語写本よりもギリシア語写本を重く見ている、と説明する。ではオリゲネスは第5欄にどのような目的をあてがったのだろうか。Nautinによれば、ヘクサプラそのものにギリシア語テクストに対する本文批評的な理由は見出せず、むしろそれはヘブライ語原典を再構成するための個人的な批判的ツールだったという。しかし、Kamesarはこの見解に反対する。校訂記号は、読者を想定していたことを示している。

他には、第5欄は「学問的」なものなのか「論争的」なものなのか、という議論がある。つまり、第5欄が歴史的・文献学的に正確なテクストを作ろうとする学問的関心による産物なのか、それともキリスト教的護教論の要請に動機付けられたものだったのか、という問いである。「学問的」である証拠としては、第一に、聖書諸写本間の不協和音を「癒す」努力をしており、第二に、オリゲネスは聖書に登場するさまざまな名前をヘブライ語の形式に合わせて正しており、第三に、七十人訳の語順をテクスト破損の結果だと考えており、そして第四に、アステリスコス記号のもとにある(=七十人訳にはないがrecentioresにはある)箇所にコメントをしていることなどから、明らかである。

一方で、『アフリカヌスへの手紙』によれば、オリゲネスはその学問的な関心にもかかわらず、護教論に突き進んだ敬虔なキリスト者であり、第5欄もユダヤ教に対する論争における有用な武器だった、という解釈もある。さらに、護教的な理由から、本来であればヘブライ語テクストを中心にしたいという本心を持っていたが、それを隠していたという解釈も導かれる(N. de Lange)。しかし、Kamesarは、オリゲネスの究極的な関心は七十人訳であることから、この解釈を否定する。オリゲネスの聖書解釈には、翻訳には何らかの神的導きがあると信じる「オイコノミア」の考えに基づいているので、『エレミヤ書説教』15.5にもあるように、ヘブライ語の読みもギリシア語の読みも解釈の対象となるのである。Kamesarによれば、オリゲネスは七十人訳の逸脱も含む全体を肯定的に捉える一方で、ヘブライ語テクストに基づいてそれを正そうともしており、この両方の見解が自己矛盾していないのである。それゆえに、オリゲネスの意図を「学問的」か「論争的」かと対立的に考えることはできない。

2019年11月10日日曜日

第七洞窟のギリシア語断片 Muro, "The Greek Fragments of Enoch from Qumran Cave 7"

  • Ernest A. Muro, Jr., "The Greek Fragments of Enoch from Qumran Cave 7 (7Q4, 7Q8 & 7Q12 = 7QEn gr = Enoch 103:3-4, 7-8)," Revue de Qumran 18.2 (1997): 307-12.

1955年に発見された第七洞窟から24の巻物が発見された。すべてパピルスに書かれたギリシア語写本である。1972年にO'Callaghanは7Q4 1&2をテモテⅠ3:16-4:3、また7Q8をヤコブ1:23-24だと同定した。これに対し、1988年にNebeは、7Q4 1が『エノク書』103:3-4、7Q4 2が同98:11、そして7Q8が同103:7-8であると同定した。O'Callaghanを支持するThiedeはNebeの説に反対したが、PuechがNebeを擁護した。

これらの説はどれも決定的ではないが、7Q4, 7Q8, 7Q12を個別の写本として検証している点では共通している。これに対し論文著者は、3断片を同じ写本に由来するものとして統一的に検証することが必要と主張した。そうすることで、論文著者はNebeのエノク書説を支持しようとしている。

写本に書かれた方眼や繊維の方向、あるいはパピルスの端の曲がり方といった物的な証拠から、3断片は同じ写本に由来するだけでなく、もともとひとつながりであったことが分かる。文字の形や内容などのテクスト的な証拠からは、このテクストが『エノク書』からのものだということが分かる。

物的な証拠とテクスト的な証拠から、7Q4, 7Q8, 7Q12はひとまとまりであり、『エノク書』103章のギリシア語テクストであることが判明した。ゆえにNebeの同定は正しい。7QEn grのような新しい表記法が必要である。

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フィロンにおける自由学芸 Mendelson, "Encyclical Studies in Philo"

  • Alan Mendelson, Secular Education in Philo of Alexandria (Cincinnati: Hebrew Union College Press, 1982), xvii-xxv, 1-24.

Secular Education in Philo of Alexandria
Alan Mendelson
Hebrew Union College Pr
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導入

ヨセフスが伝えているソロイのクレアルコスによるアリストテレスとユダヤ人との邂逅譚からも分かるように、ギリシア文化はユダヤ人にも浸透していた。しかしそれはパレスチナにおいてよりも、アレクサンドリアにおいて顕著であった。中でもフィロンはギリシア語訳聖書を用いて悪びれず、むしろヘブライ語テクストと同等の価値を認めた。さらにフィロンは、トーラーの問題を解決するためにギリシア哲学から本質的な点を借用した。すなわち、フィロンのギリシア哲学への依拠は単に便利さの問題ではなく信念の問題だったのである。フィロンやその読者にとって、ギリシア哲学は聖書を新しい意味で満たすものであった。これは非常に深いユダヤ教とヘレニズムのフュージョンといえる。

一方で、フィロンはユダヤ教徒としての意識も強く持っており、哲学はあくまで聖書の侍女であり、聖書こそがフィロンの思想を規定していた。それゆえに、フィロンはプラトンからの強い影響を受けていたにもかかわらず、ギリシア文化の理想としての同性愛には強く反対していた。なぜなら同性愛はレビ記などで否定されているからである。フィロンはギリシア文化とユダヤ教との間に線を引いていたのである。

こうした観点から、本書はフィロンがギリシアの世俗の教育、いわゆる自由学芸についてどのように適切に用い、また拒絶したのかを明らかにするものである。当時のユダヤ人がギリシア的教育に対して取った態度には、パレスチナで見られたように完全に拒否する者もいれば、フィロンの甥のティベリウス・ユリウス・アレクサンデルのように無批判に完全に受け入れた者もいた。ギリシア的教育に対するフィロンの態度を知るには、『予備教育』を検証する必要がある。

自由学芸の問題は研究に値する。というのも、2つの特異点、すなわち宗教的な点と哲学的な点が認められるからである。第一に、宗教的な特異点としては、伝統的な宗教と世俗の教育が出くわした際に起こる聖性と冒涜との緊張である。その例としては、ラビ・ユダヤ教とギリシア的知恵(ホフマー・ヤヴァニット)との邂逅がある。バビロニアでもパレスチナでも、ラビたちはギリシア的知恵を異端に近いものと見なしていた。霊的な価値を持たない世俗的な体系を聖書の聖なる教えとどのように折衷させるか、という問題はラビとフィロンに共通のものであった。

第二に、哲学的な特異点としては、キオスのアリストンが述べるように、自由学芸や科学はそれ自体を学ぶのではなく、哲学というより高次の知識の予備的な教育として学ぶ必要があるという考え方があった。自由学芸を意味する「エンキュクリオス・パイデイア」という用語自体はシケリアのディオドロスやハリカルナッソスのディオニュシオスより前には見られないが、同様の見解はプラトンやクセノフォンからセネカにまで見られる。哲学と自由学芸の関係は、ペーネロペーとその侍女の関係に対比されたが、フィロンはこれをサラとハガルの関係で説明した。ただし、フィロンはさらにそこから一歩進み、自由学芸にも固有の霊的価値があると理解している点で異なっている。フィロンの教育論に関する先行研究は、Colson, Marcus, Alexandreらのものしかない。


第1章:フィロンにおける自由学芸

「パイデイア」(教育)という言葉は、教育の過程を指す場合と、教育の結果を指す場合がある。フィロンも両方の意味でこの語を用いている。またパイデイアの欠如は、訓練されていない、規律がない、文明的でない、などといった状態であると見なされた。

「エンキュクリオス・パイデイア」は、フィロンにおいて、自由学芸および科学の教育のこと指している。最近までエンキュクリオス・パイデイアは「エンキュクリオス」という語から、「すべての人が享受可能な、毎日するような通常の教育」の意味だと捉えられてきた(H.I. Marrou)。しかしM. AlexantreやL.M. de Rijkらは、「エンキュクリオス」がもともと音楽用語であること、また音楽や文化一般が人間に教え込むべき調和というところからより広い教育的な意味を持つことを指摘している。フィロンにおいても、エンキュクリオス・パイデイアは普通の日常のトレーニングではなく、調和における教育を意味している。フィロンは同義語として、メセー・パイデイア、メサイ・エピステーマイ、メサイ・テクナイ、あるいはメサイ・テクナイといった表現を用いている。

自由学芸には七科があることが知られている。三科としては、文法学、修辞学、弁証学があり、四科としては、幾何学、算術、音楽、天文学がある。重要なことに、三科と四科の区別はしていないものの、フィロンはこれらすべての科目に言及している。そして、これら以外の科目には言及していないこともまた重要な点である。自由学芸に言及したテクストには、『予備教育』74-77、『ケルビム』105、『農耕』18、『夢』1.205、『出エジプト記問答』2.103、『予備教育』11, 15-18、『創世記問答』3.21、『モーセ』1.23の8つがある。これらのテクストによると、自由学芸一般の特徴として、国際的な由来を持つこと、また(知的な世界ではなく)感覚的な世界に属することが挙げられる。

文法学。『夢』によると、文法学は初等教育としての読み書きと、より高次の教育としての詩人についての知識や古代の歴史の学習に分かれるという。前者はグランマティスティケー、後者はグランマティケーと呼ばれる。「文学(Letters)」と呼ぶに相応しい後者の文脈では、文学は否定的な例を挙げることで避けるべき振る舞いを示すという役割がある。フィロンにとって肯定的な、模倣するべき徳の源泉は常に聖書であった。こうした「上向きの」学びは、最終的には哲学に行き着くものであった。

修辞学。修辞学を学ぶ者が涵養すべきは、思考(heuresin)、表現(phrasin)、整理(taxin)、取り扱い(oikonomian)、記憶(mnemen)、伝達(hypokrisin)である。修辞学は、言語的な能力が決定的になるような場面において重要になってくる。フィロン自身は修辞学を、アレクサンドリアのソフィストたちとの戦いにおいて自己を防衛するために必要不可欠な武器だと見なしていた。ただし、それだけではなく、修辞学の最終的なゴールは最後まで確実に正しく理解されるようなスピーチをすることでもである。そのために、フィロンはストア派のロゴス論、すなわち心の中にある思考からの動きを促進するロゴス・エンディアテトスと、弁論の中に映されたロゴスであるロゴス・プロフォリコスを取り入れている。ただし、知識の体系というよりもマスターするべき技術である修辞学は直接哲学へと繋がっているわけではない。修辞学自体はソフィストの持っている技術である。

弁証学。フィロンが自由学芸について触れている8つのテクストの中で、弁証学については『予備教育』18でしか言及していない。フィロンは弁証学と修辞学は双子の姉妹であると位置づける一方で、両者を区別してもいる。キティウムのゼノンによれば、修辞学が分かりやすい物語によって述べられたことを上手に説く科学であるのに対し、弁証学は問答によってある主題を正確に論じるものであるという。つまり、修辞学の強調点は形式的な技術ではなく語りの巧みさであるが、弁証学は構造を持つ原理である。弁証学は論理学とも比較できるが、哲学の一分野として抽象的な問題を扱う論理学と異なり、弁証学はより具体的な現実生活を扱う実用的なものである。

幾何学。これは七科のうち、8つのテクストのすべてで言及されている唯一の科目である。幾何学の学習には2つの利点がある。第一に、実用的な点としては、計算を必要とするような事柄において完全な正確性をもたらすことができる。第二に、倫理的な点としては、幾何学が平等と均整を学ぶことを愛する魂を涵養することができる。とりわけ平等は、原理そのものの主要な特徴であると同時に、その学びから得られる望ましい教訓でもある。ただし、幾何学も文法学同様に、突き詰めるとある点から哲学に変わってしまう。

算術。8つのテクストのうち4つで言及されている。算術はものごとにおける完全な正確さを得るためのものである。また数秘術的な伝承を学ぶためのものでもある。「数秘術(arithmetic)」と「数学(arithmology)」の区別はフィロン自身はまったくしておらず、同じものと考えている。フィロンは小数、集合、累乗の定理、比例などを知っていた。フィロンの数に関する説明の多くは、あまり専門的でない算術と伝承の組み合わせといっていい。そしてそれをある種の倫理的価値観でまとめている。

音楽。8つのテクストのうち6つで言及されている。最も詳しい説明をしている『予備教育』76からは、フィロンが音楽の専門用語に通じており、また音楽の学びの範囲が理論に向けられていることが分かる。一方で、理論でない実用的な記述もある。快楽をもたらす芸術である音楽を忌避すべきという見解も持っていた。

天文学。古代において、上のさまざまな科目の掉尾を飾るのが天文学である。科学の女王ともいえるが、フィロンは『予備教育』11でしか触れていない。天文学が科学としての統一性を欠いているからと説明するとする研究者と、天文学が現世的な科学を超越しているからと説明する研究者がいるが、本書の著者はこれらの説明をいずれも退ける。

まず統一性を欠くからと説明するColsonは、天文学は幾何学の一部門と見なすべきというクインティリアヌスの主張を紹介するが、フィロンとクインティリアヌスは目標が異なる。Drummondはフィロンが天文学を過小評価したと主張するが、これはフィロンの記述を表層的にしか読んでいないための結論である。フィロンは現在で言うところの天文学と占星術を曖昧ながらも区別しているので、その天文学に対する態度は複雑である。星の崇拝のようなやり方には攻撃を加えるが、純粋に研究された天文学そのものを過小評価することはない。

現世的な科学を超越しているという説明はBréhierに見られる。彼によれば、天文学は他の諸学芸と共に置かれるべきではなく、知恵への最初の一歩であるという。それどころか、星の神聖視するような記述すらある(「星は神聖な魂である」『巨人』8)。Wolfsonはこの表現はギリシアの大衆的な宗教からの単純な言葉の借用なので、実際に神聖視していたわけではないと説明する。Goodenoughは、フィロンが否定していたのは低級な神々を崇拝することであって、その存在そのものではないと主張することで、フィロンの一身強敵見解と『巨人』での発言を両立させた。しかし、フィロンにとって星を含む天はそもそも現世的な感覚世界の問題である(『予備教育』50)。

天文学astronomiaと占星術astrologiaの用語について、Marrouは、両方ともわれわれが科学と呼ぶものと迷信と呼ぶもの両方を指し得ると説明する。しかし、古代人が天文学において彼らが科学的と考える部分と迷信的と考える部分を区別していたかは分からない。フィロンはastrologiaという語はまったく用いていないがastronomiaは頻繁に使っている。似た用語として、meteorologia、meteorologikos、chakdaikosなどは肯定的にも否定的にも用いられていることから、その使用は体系的でない。フィロンは今では占星術の一種と呼ぶべき兆しやお告げも重要視している。星座の理解も天文学を学ぶ者が重視すべきことと考えている。ただし、星座そのものを崇拝することは禁止する。天文学のリミットを知らない者は星の決定論や唯物論や汎神論のような異端的な考え方に至ってしまうので、注意が必要である。

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2019年11月3日日曜日

『エノク書』コメンタリー書評 Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch" Collins, "Review"

  • Annette Yoshiko Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch: Reflections on George Nickelsburg's Commentary on 1 Enoch 1-36, 81-108," Archiv für Religionsgeschichte 5 (2003): 279-96.

本論文はGeorge Nickelsburgの『エノク書』コメンタリーの書評論文である。西洋近代における『エノク書』の研究のはじまりは、翻訳と注解の作成が中心だった。1773年にJames Bruceがゲエズ語写本を欧州に持ち込むと、研究者たちは同書と、新約聖書のユダの手紙、テルトゥリアヌス『女性のファッションについて』、ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記抜粋』での言及や引用とのつながりに気づいた。当時のプロテスタント聖書学に基づき、ソース・クリティカルな方法論が適用された。

20世紀初頭になると、新しいギリシア語訳断片が発見されたことでさらなる研究が続いた。R.H. Charlesはそのテクスト、文学構造、さらにはゲエズ語訳やギリシア語訳のもとになったセム語原典を探求した。その意味では、この時代の研究は文学的な分析よりも『エノク書』の編集過程の理論に偏っていた。そうした文献学的な研究は、プロテスタント聖書学のソース・クリティシズムへの盲信に基づいていたといえる。とはいえ、『エノク書』がより以前のユダヤ起源の5つの文書から成っていることがコンセンサスとなるだけの効果はあった。

ここまでを『エノク書』研究の第一のルネッサンスだとすると、第二はクムランでのアラム語断片の発見とJ.T. Milikによるその出版である。Nickelsburgはこの第二期の重要人物である。彼は折衷的なベーステクストを再構成してそこから翻訳している(Knibbの校訂本はdiplomatic)。書評対象のコメンタリーでは、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」および、「天文の書」の一部とされる81-82章を扱っているが、これは『エノク書』の核となる文学的ユニットが、1-36 + 81:1-82:4c + 91:1-10, 18-19 + 93:1-10; 91:11-17 + 93:11-94:5 + 104:10-105:2という構成の「エノクの遺訓(Enochic testament)」であるというNickelsburgの見解に基づく。

『エノク書』の編纂過程を再構成するために、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」をすべて含む4QEn(c)は、鍵となる証言である。Milikはこの写本に基づき、クムラン共同体は「エノク五書」を所有していたと考えた。すなわち、上の3書と「巨人の書」が合わさった巻と、個別の「天文の書」の巻の2巻本である。Milikは4QGiants(a)は4QEn(c)の一部だったと考えている。さらに彼は「たとえの書」はキリスト教徒によって後3世紀に書かれ、のちに4世紀に「巨人の書」と入れ替わったのだと主張している。Milikのこの「エノク五書」理論はJonas GreenfieldとMichael E. Stoneによって、証拠不十分として否定されている。

Nickelsburgの見解は、4QEn(c)を出発点として用いるという点でMilikに従っている。ただし、Milikがそれを初期のエノク選集の証拠と考えるのに対し、Nickelsburgはそれを、遺訓構造によって統一された新しいエノク・テクストの成長におけるひとつの段階の証拠と考える。彼によれば、「寝ずの番人の書」がエノクの遺訓の核であり、それに他の付加的な材料がくっついたのだという。

Nickelsburgによる『エノク書』の編纂過程は次のようである。前3世紀の第一段階(プロト遺訓期)はもともと、6-36章と81:1-3だけだった。このプロト遺訓は81:5-82:3と91-94, 104-105のような「遺訓的材料」も含んでいたかもしれない。これに1-5があとから付け加わった。

前2世紀の第二段階(遺訓期)には、1-36 + 81:1-82:4 + 91 + 92-105の一部などが結びついた。次に85-90が付け加えられ、さらに92-105が完全になった。前1世紀の中盤にはノアの誕生に関する106-107が最後の部分につけられた。

第三段階(『エノク書』のアラム語アーキタイプ期)にはエチオピア語訳『エノク書』の原型が完成した。1-36のあとには「たとえの書」が挿入され、最後に108が結部に付加された。

論文著者はこうしたNickelsburgの主張はあまりに仮説的であると考える。4QEn(c)に重きを置いているが、この断片は彼の主張のすべてを支持していない。彼の再構成の多くは「物語のロジック(narrative logic)」に基づいている。また彼はこの著作が形式において遺訓的であることを前もって決めてしまっているが、ここでの「遺訓的な」というのはかなりルースな意味でしかない。そして最も問題ある主張は、『エノク書』の「オリジナルの」核が一貫した全体を持っており、それがのちに損なわれていったというものである。これは、論文著者によれば、プロテスタントの聖書学からの悪い影響であるという。J.J.Collinsが主張するように、一貫性という現代のわれわれの概念を『エノク書』に
当てはめるべきではない。Milikと同様に、Nickelsburgも、クムランのエノク資料の選集を『エノク書』のエチオピア語訳と結ぶ単一の発展がある(それゆえにギリシア語訳の証拠能力は低い)という思い込みを持っている。

Nickelsburgは「寝ずの番人の書」におけるエルサレムの中心性や聖性を低く評価している。論文著者によれば、この彼の考え方――エノクは神殿のないエルサレムを好むという考え方――は、同書における天的な神殿への言及はすべて地上の神殿や犠牲の否定を反映しているという問題ある憶測に基づいているという。確かに、「夢幻の書」や「エノク書簡」のような前2世紀の文書には、神殿の祭司から自らを切り離そうとするところが見受けられるが、前3世紀の文書である「寝ずの番人の書」には祭司的な含みがある。「寝ずの番人の書」は祭司制との近い関わりを持つ書記のサークルから生じたものだといえる。

さらにNickelsburgは、「寝ずの番人の書」にはトーラーの権威に対するはっきりとした見解が欠けていることから、この著者らにとってシナイ契約やトーラーは中心的な重要性を持たなかったと結論付けている。冒頭での申命記33章への暗示も、モーセの言葉をエノクに帰すことで、モーセの重要性を下げる試みだと見なしている。しかし論文著者は、これらのエノク文書の最初期の読者である『ヨベル書』の著者は明らかにエノクとモーセの啓示を同時に権威あるものとしている。またNickelsburgが『エノク書』でのトーラーや神殿の軽視をパウロやイエスに、そして初期キリスト教徒につなげて考えていることについては、慎重でなければならない。

Milikの研究が大きく受け入れられてはいないものの、触媒となってさまざまな研究を引き起こしたように、論文著者は、Nickelsburgのコメンタリーも同様の効果を生むことを期待している。このコメンタリーはさまざまな必要性を強調している。たとえば、新しい折衷的な校訂版、ギリシア語訳のさらなる精査、捕囚後のユダヤ教の預言的また知恵的な流れとの関係性の解明、そしてキリスト教の受容史の探求などである。


  • John J. Collins, "Review of Nickelsburg, 1 Enoch 1: A Commentary on the Book of 1 Enoch, Chapters 1-36; 81-108 (Minneapolis: Fortress, 2001)," Dead Sea Discoveries 9 (2002): 265-68.

この巻では『エノク書』を構成する諸文書のうち、「たとえの書」と「天文の書」以外の文書が扱われている。正典外文書に対してこのような詳細なコメンタリーが出版されることはめずらしい。本文のテクストに関して、Nickelsburgは基本的にアラム語とギリシア語から折衷的なテクストを作り、英訳を作成しているが、それはアラム語とギリシア語がある場合、またギリシア語がエチオピア語訳よりも優れている場合である。この英訳は、M.A. KnibbやE. Isaacらのように単一の写本にのみ依拠したものよりも優れているといえる。Nickelsburgの英訳はこれからのスタンダードになるだろう。

文学作品としての『エノク書』の扱いについてが、本書が最も議論を呼ぶ点である。Nickelsburgによると、エチオピア語訳に照らした4QEn(c)の読みから分かるのは、『エノク書』の基本的な内容と文学的な形成は、「エノクの遺訓(Enochic testament)」として構成された文書群に由来しているという。Nickelsburgが考える仮説的な「遺訓」は、「寝ずの番人の書」、『エノク書』81:1-82:4、「夢幻の書」、「エノク書簡」から成っており、初期には「夢幻の書」と「エノク書簡」を欠いたものもあったとする。つまり、「巨人の書」はこの「遺訓」には入らない。

こうした説明は、すべてNickelsburgの想像である。『エノク書』1-36章にはわずかにモーセの祝福の暗示という遺訓的な部分があるが、ジャンルを確立するには至らないほどの量である。「書簡」や91章などは遺訓と見なすことができる。Nickelsburgは黙示的な特徴についてはあまり語らない。

Nickelsburgは、『エノク書』のユダヤ教史における重要性のひとつは、モーセのトーラーの中心的な権威を反映していないことである。その点では、4QInstructionに比すべきである。『エノク書』には前編に亘ってトーラーが暗示的に反映しているのだ、という説明も可能だが、はっきりと触れていない点が重要である。そもそもモーセではなくエノクを主人公にしていることがすでに特徴的である。「寝ずの番人の書」と、イスラエルの歴史を扱うマカベア期の黙示文学(「動物の黙示録」や「週の黙示録」)とは区別されるべきである。

エノク文学の社会状況について、Nickelsburgは、とりわけ堕天使が登場する6-11章からヘレニズム文化への反感を読み取っている。また成立した場所として、12-16章の記述からガリラヤ北部を想定しているが、これは議論の余地がある。

受容史については、『第三エノク書』、時系列の歴史家、アウグスティヌス、エチオピア教会などを詳しく取り上げている。近代の研究史は3期に分けている。第一に、R.H. Charlesが活躍した19世紀、第二に、死海文書の発見以降、そして第三に、1976年にJ.T. Milikがアラム語断片を出版して以降である。

まとめると、このコメンタリーの最大の貢献は、『エノク書』がモーセのトーラーを中心としたヘレニズム期におけるユダヤ教のかたちへの証言であると認めたことであり、一方で最大の問題は、テクストの文学史に関する極めて推測的な仮説を提示したことである。

2019年10月26日土曜日

「たとえの書」とクムラン党派テクスト Dimant, "The Book of Parables and the Qumran Community Worldview"

  • Devorah Dimant, "The Book of Parables (1 Enoch 37-71) and the Qumran Community Worldview," in eadem, From Enoch to Tobit: Collected Studies in Ancient Jewish Literature (Forschungen zum Alten Testament 114; Tübingen: Mohr Siebeck, 2017), 139-55.

「たとえの書」は唯一クムランから出てきていないエノク文書である。同書はメシア的存在に関する描写や「人の子」表現など、他のエノク文書と異なっている。これらは福音書のイエスの表現に近いので、初期キリスト教の研究者からの注目を引いてきた。Jozef Milikは「たとえの書」がキリスト教由来であると主張したが、それは研究者たちからは受け入れられず、今日では一般にユダヤ教由来であると見なされている。またもともとセム語で書かれていたことも明らかである。Nathaniel SchmidtやEdward Ullendorffらは、セム語原典が直接エチオピア語に訳されたと主張するが、多くの研究者はセム語原典からギリシア語に訳され、それからエチオピア語に訳されたと考えている。

「たとえの書」がユダヤ教由来であるとすると、それはイエスが「人の子」と見なされるようになる前に書かれたと考えるのが自然である。「人の子」概念がすでにキリスト教化されていたら、ユダヤ教作家はそうした表現を避けたはずだからである。同時に、エルサレム神殿の崩壊にまったく言及していないことから、同書はそれより前に書かれたとも考えられる。それゆえに、後1世紀の前半に書かれたと考えるのが適当である。さらに、56:5-7におけるパルティア人の侵攻と67:5-13のヘロデ王の湯治に関する記述にも基づくと、「たとえの書」は紀元後すぐか少しあとに書かれたといえる。ユダヤ教黙示文学やエノク諸書との近さから、同書はイスラエルの地で書かれた。

Jonas Greenfieldは、「たとえの書」が太陽と月を同価値と見なしていることや、太陽暦との不調和から、同書とクムラン共同体との関係の可能性を除外した。しかし、死海文書研究が進み、クムランの暦がさらに出版されると、クムラン共同体が月の重要性も認め、1年を364日とする太陰太陽暦にも従っていることが明らかになった(Jonathan Ben-Dov)。それゆえに、「たとえの書」とクムラン共同体との関係性を否定する必要はない。

「たとえの書」がクムランから発見されないことの理由は、共同体の文学活動の最盛期が前2世紀から前1世紀であるため、後1世紀に書かれた同書が筆写されなかったのだろうと考えられる。しかしながら、「たとえの書」の著者が党派的な世界観や文学に精通していたことははっきりしている。それはたとえば、「たとえの書」に頻出する「諸霊の神(エル・ハルホット)」という表現と、「すべての霊の主(アドーン・レコール・ルーアハ)」(感謝の詩篇)や「諸霊(ルホット)」という表現の類似から見て取れる。メシアたる「人の子」という像も「たとえの書」の独創ではなく、第二神殿時代のユダヤ文学に根ざしたものである(「ベラホット」、「メルキツェデク・ペシェル」、「メシア的黙示」など)。

論文著者は、こうした成果を受けて、さらに「たとえの書」と死海文書を詳細に比較する。たとえば、エノクの祈り(39:10-13)を他のエノク文書や、『ダマスコ文書』、『感謝の詩篇』などの定式と比較する。すると、エノクの祈りでは、神の全知全能が空間的なものでなく、時間的なものとして描かれていることが分かる。またエノクの祈りでは神の予定説的な計画ははっきりとは表現されていないが、その概念は神の根源的かつ包括的な知識という観念にすでに埋め込まれている。

また神への賛美の祈りは、寝ずの番人たる天使によって述べられるケドゥシャーの祈りで締めくくられる。エノクのケドゥシャーはイザ6:3の「聖なる、聖なる、聖なるかな」の呼びかけを含むが、のちにヨツェルの祝祷やアミダーの祈りに組み込まれるユダヤ祈祷の一部分であるエゼ3:12による応答は欠いている。またヨツェルの祝祷にある朝の光とのつながりはなく、アミダーの祈りにおける日課にもなっていない。それゆえに、エノクの祈りは「たとえの書」が書かれたときのユダヤ祈祷にケドゥシャーが使われていたことの証拠を提供するわけではない。とはいえ、エノクの祈りと党派的な祈りの形式は第二神殿時代の共通の伝承の反映であって、前者の後者への依拠を示さない。しかし、類似点は確かに見受けられる。

義人の未来(58:2-6)についての記述は、永遠の生、永遠の光の中での存在、神の前での義といった要素を含む。義人への報いとしての永遠の生の概念は、ダニ12:2や『共同体の規則』などにも見られるこの時代の一般的なものである。義人には未来における至福が待っているという概念も、ダニエル書や『ソロモンの知恵』などに見られる。ただし、「たとえの書」は光に対して闇の存在を対置させているところに特徴がある。悪と善の時代、闇と光における実現といった対比がはっきりと打ち出されている。乾いた土地に朝の光が昇り、闇を取り去るという類比も多用されている。また「真実(エメト)」こそが光の子らを特徴付けるというのも、クムラン共同体と似た点である。

「たとえの書」にはクムランの用語はまったく見られないが、さまざまな点で近い関係にあることが明らかになった。それゆえに、「たとえの書」はクムラン共同体とは異なるが近いサークルによって作られたものと見なすべきである。

2019年10月24日木曜日

「たとえの書」の成立時期 Knibb, "The Date of the Parables of Enoch"

  • Michael A. Knibb, "The Date of the Parables of Enoch: A Critical Review," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 143-60.

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J.T. Milikが提起した諸問題のうち、「たとえの書」の成立時期に関するものは最も重要なもののひとつである。多くの研究者は「たとえの書」を後70年以前のユダヤ教由来の文書と考えるが、Milikはそれをキリスト教由来でありかつ後270年の成立と考える。

この主張の根拠には否定的な側面と肯定的な側面がある。否定的な側面としては、クムランから「たとえの書」が発見されなかったのはキリスト教時代より前には存在しなかったから、とMilikは考えた。またMilikによれば、1世紀から4世紀のキリスト教作家が「たとえの書」をまったく引用していないのは、それがキリスト教初期の作品ではないからだという。ここからMilikは、5世紀にはギリシア語訳のエノク伝承はクムランと同じように2巻本として回覧されていたが、「たとえの書」ではなく「巨人の書」が入っていたと主張する(「巨人の書」はビザンツ歴史家シュンケッロスのソースも持っていた)。

しかし、論文著者によれば、ギリシア語訳のエノク伝承がクムランでのように2巻本で読まれていたというMilikの主張の証拠は弱い。また5世紀に「天文の書」が独立した文書として存在したかどうかについては、シュンケッロスの暗示的記述とオクシュリンコス・パピルスの断片が証拠として挙げられるが、確実でない。言い換えると、われわれは『エノク書』がどのようにして現在のエチオピア語訳のような形式を獲得したのかも、いつ「たとえの書」が挿入されたのかもよく分からない。また「たとえの書」がエッセネ派文書ではなさそうであるからといって、それがキリスト教文書であると結論付けることはできない。

一方で、Milikによる肯定的な側面からの説明としては、「たとえの書」の文学形式がキリスト教文書である『シビュラの託宣』に極めて近いことが明らかである。Milikは2つの類似点を挙げる。第一に、『エノク書』61:6は『シビュラ』2.233-7に依拠している。第二に、『シビュラ』5.104-10は「たとえの書」56:5-7について論者に影響を及ぼした。後者の箇所については、「パルティア人とメディア人」に関する記述は、Milikによると、実は260-70年に起こったパルティア人対ローマ人の戦争のことを示しているのだという。ここから「たとえの書」の成立もその頃とMilikは考えた。

ところが、論文著者はこれらの肯定的な側面からの証拠も確かではないと述べる。『エノク書』と『シビュラ』の間に存在する類似点は、前者が後者に依拠していることを示すために十分なものではない。そもそも論文著者は両者が文学的ジャンルにおいて近いということすら認めていない。そして「パルティア人とメディア人」の記述についても、まったく別の解釈が可能だと論じている。たとえば、『エノク書』56:7にある「右」という記述をMilikは「西」と読み、それゆえにこれはパルミラ人を指すと解釈するが、一般的な理解では「右」は「南」と読み替えるべきである(サム上23:19)。

以上から、「たとえの書」が270年頃に成立したキリスト教文書であるというMilikの主張は説得的であるとはいえない。キリスト教文書であるなら、キリストへの言及がないのは理解しがたい。むしろ同書ははっきりとユダヤ文書だと考えられる。その理由は、第一に、「たとえの書」はヘブライ語であるかアラム語であるかはともかく、はっきりとセム語で書かれている特徴があるからである(たとえば45:3、52:9)。そして第二に、内容的にユダヤ的な特徴があるからである。J. Theisohnによる「人の子」伝承に関する研究によると、この表現はイザ11:1や詩110など旧約聖書に基づくものであり、「たとえの書」もその延長線上にある。

上でも触れた『エノク書』56:5-8の「パルティア人とメディア人」への言及は、年代特定のために重要なものだが、これを基にして算定される「たとえの書」の成立は、Robert H. Charlesによると前64年以前、Erik Sjoebergによると前40-37年以前、そしてMilikによると後3世紀であるという。さらに、論文著者が長く紹介しているJohn C. Hindleyによると、113-17年のトラヤヌス帝のパルティア人遠征を指しているという。論文著者はHindleyの年代特定には同意しているが、その議論はあまり説得的でないと感じている。というのも、Hindleyが年代を特定する際に依拠している『シビュラ』の年代が不明だからである。しかし、それが間違っていると証明することもできない。すなわち、「たとえの書」の年代特定のために56:5-8の記述を用いることがそもそも間違っているのである。

研究者の中には、新約聖書の多くの表現が「たとえの書」に直接依拠したものだと考える者がいるが、論文著者はこのアプローチにも懐疑的である。Charlesはそうした影響関係のリストを作成しているが、思想や言語の一般的な類似がほとんどである。論じるに値するのは黙6:15-16(と『エノク書』62:3-5)である。両者は共通のテーマを持っているように見えるが、本当の接触があるとは言いがたい。Theisohnのように、直接的な影響関係を論じるのではなく、別の伝承の層を別々に検証するべきである。Theisohnはさらに、マタ19:28(と『エノク書』9:4)とマタ13:40-43(と『エノク書』54:6, 39:7, 58:3)などを比較している。しかし、論文著者はいずれも「たとえの書」との特定の影響関係を見出していない。

こうした議論をまとめたあと、論文著者は、「たとえの書」の成立時期を本当の意味で特定することは不可能だが、バランスを取って考えると、後1世紀の終わり頃と考えることができると主張する。第一に、Sjoebergのように、エルサレム陥落がその中に書かれていないから「たとえの書」は70年以前に成立したに違いないという主張は受け入れがたい。一方で、クムランから出てきていないという事実からは、「たとえの書」はクムランが放棄されたあとに書かれた可能性が高いといえる。第二に、「人の子」表現は後1世紀の終わり頃に用いられたと考えるのが自然である。それは、その頃に成立したことが分かっている『第二エズラ記』や『第二バルク書』から分かる。つまり、「たとえの書」はユダヤ戦争へのリアクションとして書かれたが、成立はそれよりあとのことだったということである。

2019年10月22日火曜日

エノク文学からエノク派ユダヤ教へ Boccaccini, "Introduction"

  • Gabriele Boccaccini, "Introduction: From the Enoch Literature to Enochic Judaism," in Enoch and Qumran Origins: New Light on a Forgotten Connection, ed. Gabriele Boccaccini (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2005), 1-14.

1773年、スコットランド人冒険家James Bruceが『エノク書』を再発見してから、研究者たちはその校訂版と近代語訳の出版に心血を注いできた。Richard Laurence, August Dillmann, Johannes Flemmingら19世紀の文献学者の仕事である。20世紀になると、Robert Henry Charlesが『エノク書』をより広いユダヤ黙示文学の文脈に位置づけた。外典・偽典に関心を持ったのが主としてキリスト教学者であったことから、『エノク書』研究も反ユダヤ主義や反セム主義に晒されたが、1947年にクムランで死海文書が発見されると、イエス運動がいかに第二神殿時代のユダヤ教に深く根付いたものだったかが認識されるようになった。

そして、死海文書中の『エノク書』断片を校訂したJosef Milikは、同書が複数の資料に基づく合成文書であり、また第二神殿時代のユダヤ教テクストと密接な関わりを持つことを強調した。これに触発されて、『エノク書』はたてつづけにイタリア語、スペイン語、ドイツ語、英語、フランス語に訳された。さらにJames VanderKamやJohn Collinsらの目視文学研究が発表された。

ここ20年ほどの間に起こった最も重要な発展は、『エノク書』研究がテクストそのものの分析から、テクストの背後のグループの知的・社会学的な特徴の分析へと強調点が移ったことである。『エノク書』は第二神殿時代における独特の思想運動の核となるテクストであることが明らかになった。こうした議論で特に重要な功績を挙げたのが、Paolo SacchiとGeorge Nickelsburgである。

Sacchiは『エノク書』が黙示文学ジャンルの原型であるばかりかユダヤ教の独特の多様性の核でもあることを指摘した。そしてエノク派運動を、第二神殿時代のユダヤ教や古代のユダヤ黙示主義というより広い文脈の中にある独特の黙示主義的な一派として描くという最初の試みをした。その際に、そうした知的運動のエッセンスが独特の悪の概念であると指摘したのもSacchiである。

Nickelsburgによれば、エノク派運動とはモーセのトーラーがまだ普遍的な規範ではなかったユダヤ教の一形態であるという。またエノク派的な思考システムでは、一方では、罪や悪の起源は、天上の争いの結果であり、人間はその犠牲者であるという完全な決定論に基づいたものであり(human victimization)、他方では、神の法を侵した人間にその原因があるという完全な非決定論に基づいたものでもある(human responsibility)という相矛盾した考え方が採られていた。Sacchiが知的な問題だけを取り上げていたのに対し、Nickelsburgはエノク派グループの社会学的な問題にも触れている。

我々はこのグループが実際にはどう呼ばれ、また自分たちをどう呼んでいたのか知らないが、エノク神話に関わる運動であることから、「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」と呼ぶのが適切であろう。Nickelsburgはこの伝統は上ガリラヤを起源とし、エルサレムの祭司制に不満を抱く集団だったと考えている。非協調主義、反ツァドク派、反祭司的などを特徴とする。

エノク派ユダヤ教は自律的であったが、一方で広い影響も及ぼしている。その影響は、特に『ヨベル書』『十二族長の遺訓』『アダムとエバの生』『第二エノク書』『アブラハムの黙示録』『第四エズラ記』などに見られる。そしてもちろん新興のキリスト教をかたちづくるためにも大きなインパクトを与えた。同時にラビ的教師やその共同体とは相容れないものでもあった。このエノク派ユダヤ教の再発見こそが疑いもなく現代の研究の最大の功績のひとつである。

2019年10月21日月曜日

『エノク書』の文学的分析 Dimant, "The Biography of Enoch"

  • Devorah Dimant, "The Biography of Enoch and the Books of Enoch," in eadem, From Enoch to Tobit: Collected Studies in Ancient Jewish Literature (Forschungen zum Alten Testament 114; Tübingen: Mohr Siebeck, 2017), 59-72.

『エノク書』研究はクムランにおけるアラム語断片の発見によって飛躍的に進展した。研究史の初期に、G.H. Dixはエチオピア語訳の『エノク書』は五つの文書からなるが、それらをひとつのコーパスとして見ることの重要性を訴えた。そしてエノク五書をトーラーの五書に関連付け、それらの似ている点を主張した。

クムラン断片の校訂者であるJozef MilikはこのDixの見解を取り入れ、エチオピア語訳のみならず、前100年頃のクムランでも五書形式のエノク文書が存在していたと主張した。この見解については、論文著者の博士論文をはじめ、Jonas C. Greenfield & Michael E. StoneやMichael A. Knibbらが反論を加えている(また「たとえの書」がキリスト教由来の3世紀後期の作であるというMilikの主張も同じ者らによって反論されている)。

Milikは、アラム語写本4Q204が「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」や「ノアに関する付加」までも含んでいることから、当時エノク文書を集める習慣があったことを論じている。さらに、クムランでは「たとえの書」の代わりに「巨人の書」が収録されたとMilikは主張する(「巨人の書」が書かれている4Q203はもともと4Q204の一部だったと彼は考えているが、この説はのちにLoren Stuckenbruckによって覆された)。ただし「天文の書」だけは長すぎるので別の写本に写されたという。論文著者はこうしたMilikの説には懐疑的である。五書形式に固執するあまり、「巨人の書」にその一翼を担わせるのは強引な説明である。『エノク書』のようなあまりに断片的な保存状態の作品を写本の形式からのみ語ることは不適切である。

そこで論文著者は、「『エノク書』とは似たような文書のよせあつめなのか、それとも確かなプランに基づいて集められ並べられたものなのか」という最も基本的な問いを立て、それを文学的な分析に基づいて検証している。そして結論を先取りするならば、『エノク書』とは、エノクの伝記という確かなテーマのために構築された統一的なコーパスであるという。

論文著者の文学的な分析の対象は、主に『ヨベル書』4:16-25と『エノク書』それ自体である。後者ではエノクについての記述がある。『ヨベル書』の記述は、創世記5:21-24においてエノクの生涯が三分割されていることに従っているが、エノクが彼の知恵や知識を書きとめ、それを伝えたという付加的な説明を加えている。また『ヨベル書』の記述は「天文の書」からの記述を含む4Q277と同じ伝承を保存している(これは『エノク書』と『ヨベル書』の文学的な依存関係を示しているわけではない)。

一方で『エノク書』それ自体の分析によると、「寝ずの番人の書」中の6-11章は残りの章とスタイルや意図があまりに違い、むしろ非偽典的な『創世記アポクリュフォン』『ヨベル書』『聖書古代誌』などに類似していることから、別の起源に由来するという。「天文の書」はエノクの旅からはじまって、彼の最終的な消失前の最後の行いまでを取り上げているので、「寝ずの番人の書」の次に来るべき内容を持っているといえる。「夢幻の書」は『ヨベル書』と同様に、父親から息子へと伝えられた過去の経験に基づく知恵と教えといった遺訓的な内容を持っている。「エノク書簡」も古典的な遺訓の形式を備えている。「ノアに関する補遺」は、エノクの地上での晩年から死後のことに言及している『ヨベル書』4:23-26に対応する内容を持っている。エノク文書の基礎的な選集はここまでで、エノクの行いと教えのあらすじを物語っていた。

「たとえの書」は他の文書に現れているようなエノクの伝記的パターンに従わない特徴を持っている。「たとえの書」が焦点を当てる2つのトピックは、第一に、擬人には褒美を、悪人には罰を与える裁きの日、そして第二に、天使たちとの旅においてエノクに明らかにされた場所の描写である。「たとえの書」に特徴的なのは、他のエノク文書であれば個別に扱われるトピックをつなげるという傾向である。他のエノク文書と違い、「たとえの書」は限定的な時代や単独のトピックに集中せず、エノクの生の完全な概観を目指している。こうした諸特徴は「たとえの書」の成立が比較的後代であったことを示している。「たとえの書」がクムランで発見されなかったことも考え合わせると、同書はアラム語原典コーパスにもともとあったものではなく、後から付加されたのだろう。

以上より、『エノク書』は確たるテーマと構造を持っていたといえる。それはエノクの行為や知恵の包括的な証言を伝えることである。構造的には、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」および「補遺」が元来のかたちであり、「たとえの書」はのちに付加された。

2019年10月18日金曜日

J.T. Milikへの反論 Greenfield and Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes"

  • Jonas C. Greenfield and Michael E. Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes," Harvard Theological Review 70 (1977): 51-65.

本論文は、『エノク書』のアラム語断片の校訂者であるJ.T. Milikの主張に対して反論するものである。論点はMilikの次の2つの主張である。第一に、クムランには五書形式の『エノク書』があった。第二に、「たとえの書」は後代のキリスト教文書である。論文著者らはこのいずれの点にも同意しない。

五書形式について。Milikによれば、4QEn(c)は「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書間」を含んでいるが、それに加えておそらく「巨人の書」を含んでいたはずだという(4QEn(d)と4QEn(e)も同様)。そして、この4書と、別の写本に書かれた「天文の書」とが一緒になって、クムランのアラム語エノク五書を形成していたのだという。さらに後400年までにはギリシア語訳のエノク五書が発展し、のちのエチオピア語訳のかたちにつながっていく。アラム語版とギリシア語訳は次の3つの点で異なる。第一に、「天文の書」が第三部に移動し、第二に、「巨人の書」の代わりに「たとえの書」が入り、そして第三に、第108章が全体の最後に入った。

ただし、論文著者が言うように、これはあくまでMilikの仮説である。アラム語の段階でもギリシア語訳の段階でも五書形式であった証拠はない。そもそもアラム語の段階で「巨人の書」が「たとえの書」のようにエノク五書の一角を担っていたかどうかは分からない。上の4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)といった断片に「巨人の書」が含まれていたわけではないのである。また1Q19、いわゆる「ノアの書」も『エノク書』に入っていた可能性がある。それゆえに、クムランにあった『エノク書』が「五書」だったと証明することはできない。

論文著者が考えるには、より古い写本である4QEn(a), 4QEn(b), 4QEn(g)はひとつの書のみを持っており、前1世紀の中ごろまでに4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)では2つか3つの書が写された(後者のグループでは「巨人の書」の写本も写されたが、同じ写本にではなかった)。そしてクムラン居住期の最後のころには「天文の書」と「巨人の書」のみが写されていたという。

そもそも『エノク書』が五書であったという主張は1926年のG.H. Dixにさかのぼる。彼はエノク五書のそれぞれの文書がモーセ五書のそれぞれに対応していると示そうとした。ただし、第一に、そうした対応関係のほとんどはこじつけであり、第二に、Dixの議論は「たとえの書」を想定しているのでクムランの写本状況とは相容れず、第三に、歴史的現実を反映していない。

「たとえの書」について。Milikは「たとえの書」のクムランにおける欠如をもって、同書が後代の作であると主張するが、それは必ずしも自明でない。エステル記もクムランからは見つかっていないが、その理由にはさまざまな可能性がある。第一に、クムランでは知られていなかったから、第二に、正典として受け入れられていなかったから、第三に、クムランでは学ぶ価値がないと見なされていたから、第四に、純粋に偶然なかったから、などである。クムランにないからといって、その時代にエステル記や「たとえの書」が存在していなかったとは言えない。

David Flusserは、41章で太陽と月が同等に扱われていることから、仮に「たとえの書」があってもクムランでは受け入れられなかったはずと主張するが、論文著者はこれにも反論する。むしろ「たとえの書」で使われている用語にはある種の党派性が見られるという。ルーアハとその派生形、ブヒール、ゴレル、破壊の天使などがそうである。ここから、「たとえの書」はクムランではないにしても、似たような党派性を持つ集団で同時期に書かれたものと考えられる。

Milikは「たとえの書」で使われている「人の子」という表現を新約聖書への依拠のしるしと見なすが、これは『第四エズラ記』などにも見られるユダヤ的表現である。そもそも第71章で「人の子」はエノクであると同定されているが、本当にキリスト教文書であるならばこれはありそうにないことである。

「たとえの書」の成立年代については議論があるが、論文著者は同書の中に2箇所、同時代の歴史を反映しているところがあると主張する。第一に、56:5-7は、前40年のパルティア人によるパレスチナ侵攻を現している。J.C. Hindleyはこれに反対するが、論文著者はそこに妥当性を認めない。Milikは同箇所を、260年のペルシアによるウァレリアヌス帝の捕囚を表していると考えているが、論文著者はこの説を「純粋なフィクション」と切り捨てる。第二の箇所として67:8-9では、善人が水を浴びれば癒されるが悪人には逆効果になるというカリロエーの泉でヘロデが水浴びしたことが示されているという。これはヨセフスの記録にも見られるものである。これら2つの言及から、論文著者は「たとえの書」の成立は後1世紀、すなわちクムランのテクストと同時期であると主張する。

さらにMilikは、ビザンツ作家が「たとえの書」をまったく引用していないことを、同書の後代の成立の証拠とするが、論文著者は、その事実はむしろギリシア語訳が存在しなかったことを示すかもしれないと述べる。Nathaniel SchmidtやEdward Ullendorffらは、「たとえの書」のエチオピア語訳はアラム語から直接なされたものであると考えている。Matthew Blackはこの説に反対しているが、論文著者が見る限り反論に成功していない。

Milikは「たとえの書」が「巨人の書」に取って代わったと主張するが、この点についても論文著者は慎重である。論文著者は、「巨人の書」が含まれないものと含まれるものがさまざまにあったと考える。ケルンで発見されたマニ・コーデックスは「エノクの黙示録」なる文書からの抜粋を含んでいる。この抜粋は内容的に『エノク書』のさまざまな箇所との類似を示している。むろん完全にエチオピア語訳の『エノク書』そのものではないが、エノク文書コーパスの中に位置していることは明らかである。

2019年10月15日火曜日

『予備教育』に見るフィロンのユダヤ・アイデンティティ Berkowitz, "Allegory and Ambiguity"

  • Beth A. Berkowitz, "Allegory and Ambiguity: Jewish Identity in Philo's De Congressu," Journal of Jewish Studies 61 (2010): 1-17.

近年では、ローマ帝国におけるユダヤ人の少数派としてのアイデンティティの文脈からフィロンを論じる研究者がいる(Koen Goudriaan, Katell Berthelot, Maren Niehoff, Ellen Birnbaum, Sarah J.K. Pearceなど)。そのときに問題となるのは、フィロンが民族的な問題について語っているのが哲学的あるいは釈義的著作においてであるため、そこに出てくる民族描写が聖書によるものと、フィロン自身の時代によるものの両方になってしまっているということである。論文著者はそれでもなお、フィロンの釈義はアイデンティティの思想について実際に役に立つと考えている。

レビ18:1-5では、神がモーセに対し、イスラエルの人々はエジプトやカナンの風習に倣ってはならず、「私の法を行い、私の掟に従って」歩むように教えよと語っている。この箇所がフィロン『予備教育』85-88において、創世記16:3との関わりの中で解釈されている。創世記の同箇所では、サライがアブラムにハガルを側女として与えたのはカナンの地に住んで10年経ってからとされているが、それはフィロンによれば、生まれたての魂は情念に支配されており、それが青年期になって徳と悪徳を知るが、そこから徳を選ぶまでに10年かかることを示しているのだという。そしてフィロンはレビ記のエジプトが情念の子ども時代を、カナンが悪徳の青年時代を表していると説明する。フィロンはエジプトからカナンへという時系列の流れを、人間の魂の発展の時系列になぞらえている。彼はエジプトやカナンを否定しているのではく、それぞれを魂の感情的、倫理的、知的、霊的な発展のフェーズだと考えている。

レビ記を通して創世記を解釈するというのは興味深いが、ではレビ記にもともと書かれている社会的な分離主義についてはどうだろうか。結局のところ、十全に発展した魂とはユダヤ教の聖書を信奉する者(=ユダヤ人)のことで、未発達の魂とはそうではない者(=他の皆)のことなのか。この箇所は文献学的にも曖昧な点がある。校訂テクストはエジプトやカナンの「習慣(エセー)」を憎むと読むが、他の写本には「民族(エスネー)」を憎むと読むものがあり、その場合は特定の民族が情念と悪徳に染まっているためにその民族と関係を持ってはならないという文脈になる。つまり、フィロンがここで倫理的なエリートと烏合の衆を区別するための純粋に哲学的なディスコース(philosophical elitism)を展開しているのか、イスラエルと他の諸民族を区別するための聖書的なディスコース(Jewish elitism)を展開しているのか、あるいはその両方なのか、不明瞭である。

David Winstonは、フィロンの論述に曖昧な点があるとき、それは彼の思想に何らかの緊張関係があることを示すことがあると指摘している。Steven Weitzmanが言うように、曖昧な証拠は必ずしも証拠の曖昧さではないのである。『予備教育』における緊張関係は、ギリシア文化の核であるパイデイアをユダヤ教聖書のために必要なものであると説く、ということであった。ギリシア的教養はアレクサンドリアのユダヤ人が社会に参入するために必要なものであったが、フィロンはそれだけでなく、ギリシア的教養とはユダヤ教の神を賛美するための自制心を涵養する哲学に至るために必要なものだと考えた。いわばギリシア的教養をユダヤ化・スピリチュアル化したのである。

そのためにギリシア的教養をハガルに重ねることで、その外部性を強調した。ただし、フィロンは、こうした解釈の下敷きにしている「ペネロペーとそのメイド」(『オデュッセイア』)のギリシア的寓意をより洗練させている。つまりフィロンはギリシアの古典的な物語を聖書の寓意的解釈に用いることで、ギリシア的教養が聖書の教えに必要なものであると説明している。しかもギリシア的習慣をユダヤ的生活に統合するための鍵となるのは、レビ記という五書の中でも最も分離主義的な記述なのである。フィロンはギリシア文化を覆そうとしているとも取れるし、認めているとも取れる。

他の緊張関係としては、聖書のエジプトとフィロン自身のエジプトが挙げられる。フィロンはしばしばエジプトを肉体や情念の象徴と捉える。それゆえに出エジプトとは不完全な知から完全な知への魂による旅ということになる。しかし、フィロンはエジプト出身でもある。彼は同時代のエジプト人を知っており、彼らを、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人とは異なる土着の民族グループと考えている。それだけでなく、無神論者、欺瞞的、好色、反逆的、非宥和的など、深刻な政治的な敵として描くこともある。ただし、このレビ記の解釈においては、同時代の民族的次元は哲学的な次元の背景に退き、表面には出てこない。またフィロンによるエジプトの寓意的な解釈は聖書のみならず、ギリシア・ラテン文学に由来する場合もある。

アレクサンドリアのユダヤ人は、自らの神理解、律法遵守、共同体の感覚を、この都市の文化への参加へと統合してきた。そういう観点から、フィロンのエジプト人の扱い方(の悪さ)は、アレクサンドリアのユダヤ人を特権的なギリシア・ローマ市民に連ならせ、一方でエジプト人の下層階級から引き離そうとするものだったといえる。一方で、レビ記18章に見られる、ユダヤ人とその他との境界線も、当時のアレクサンドリアの脆弱な政治状況から鑑みれば重要なものだった。

初期のフィロン研究者はフィロンをめぐって、ギリシア的価値対ユダヤ的価値の二項対立に落とし込むことが多かった(Heinrich Graetz, Harry Wolfsonら)。近年の研究者は、普遍主義(universalism)対党派主義(particularism)にした上で、フィロンの思想は両方のコンビネーションだと論じる(Samuel Sandmel, Koen Goudriaan, Ellen Birnbaum, Peder Borgenら)。

フィロンが寓意を使うのは、寓意的解釈のみに権威を持たせるためではなく、他の可能性のある読みの地位を隠すための曖昧な動きなのである。レビ記の分離主義的な意味合いは、アレクサンドリアのユダヤ人を政治的に脅かすものであるため、思想的に彼の好みではなかった。しかし、それを曖昧に寓意的に解釈することで、厳格なユダヤ人読者には、社会的な分離主義という聖書の遺産を護持しつつも文化的な統合を促進しているように見える。一方で、より厳格でないユダヤ人や異教徒の読者には、民族的な排外主義をスキップして潜在的に包括的な哲学的観点を与えることができるのである。

2019年10月11日金曜日

エノク=エッセネ派仮説の提唱 Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis #1

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 1-17.

クムラン共同体の思想的同定の議論は、依然として「エッセネ派仮説」が有力と見なされている。さまざまな修正案も出されているが、学術的なコンセンサスは得られていない。こうした議論は無駄ではなく、研究者たちがクムラン考古学を虚心坦懐に再考するのに役立っている。

クムラン共同体の起源と思想的なルーツに関して、Ben Zion WacholderやShemaryahu Talmonは反ツァドク派サークルであるとする。一方で、Lawrence H. Schiffmanは、派閥の分裂によって、もともと規範的なツァドク派的だった伝統が党派的な現象に変化したのだと考えた。

いずれにせよ、エッセネ派仮説は、第二神殿時代のユダヤ思想の複数的な発展に照らして、ラディカルな方向転換が図らなければならない。エッセネ派仮説の典型的な欠点は、クムランとエッセネ派を同一視してしまうことである。研究者たちはしばしばエッセネ派的姿勢を描くためにクムランのテクストを使用することがある。しかしクムランは、より大きく複雑なエッセネ派運動の一部に過ぎない。

さらに死海文書研究はコーパスを区切ることでタコツボ化していることも憂慮される。ちょうど新約学者がそうであるように、死海文書のスペシャリストも他の第二神殿時代の文学の研究者から切り離されてしまっている。いわば自己満足の幻想(an illusion of self-sufficiency)に陥っているのである。現代の死海文書研究の問題は方法論の弱さである。

そこで本書の著者は「体系的分析(systemic analysis)」をユダヤ文献に適用する。そうすることで、あるグループの思想的構造を基盤としてその文書を比較することができる。また思想的・時系列的につながった文書の鎖を形成することで、体系的分析は自立的にユダヤ教を特定し描写することができる。ここで重要なのは、体系的分析と「歴史記述的分析(historiographical analysis)」を区別することである。両者は必ずしも同じ分析結果をもたらさないからである。

歴史記述的分析はあるグループに関する後代の記録の歴史的信頼性を判定するもので、体系的分析はあるグループの思想的遺物を研究、分類、区分するものである。具体的に言えば、歴史記述的分析はヨセフスの記述に基づいて、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派などについて分析し、体系的分析は死海文書に基づいてクムラン共同体について分析することである。つまり、歴史記述的分析は、名前が知られているが資料を残していないユダヤ教を特定し、体系的分析は資料を残しているが名前が知られていないユダヤ教を特定するための方法である。古代の歴史記述が述べていることとと、現存する文書が我々に言わせることとは食い違うことがあるが、それが一致するとき、特定のユダヤ教の包括的な議論が可能になる。

このような方法論を用いて、著者は、古代の歴史家が「エッセネ派」と呼ぶものはクムラン共同体のみならず、現代の歴史家が現存する資料に基づいて「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」と呼ぶものをも含むと主張する。そしてこれを「エノク=エッセネ派仮説(Enochic/Essene hypothesis)」と呼ぶ。著者によれば、『エノク書』は第二神殿時代のさまざまな多様性の核にあるという。こうした見解はPaolo Sacchiらの研究によって牽引されてきた。『エノク書』に見られる特異な悪の概念が、第二神殿時代に特定の派閥を作る力となっていた。重要なことは、我々は『エノク書』からこの派閥の存在を知ることができるが、それが古代においてどのように呼ばれていたかは知らないということである。そこで「エノク派ユダヤ教」と暫定的に呼ぶわけである。

エノク派ユダヤ教を扱う際の方法論的注意点は次である。第一に、『エノク書』はエノク派ユダヤ教の主要なソースだが、この派はエノクが出てこない文書も作成したし(『ヨベル書』、『十二族長の遺訓』、『第四エズラ記』など)、エノクが出てきてもこの派の文書ではないものもある(『シラ書』、フィロン、ヨセフスなど)。

第二に、『エノク書』は黙示文学だが、エノク派ユダヤ教の歴史はユダヤ教黙示文学の歴史とは必ずしも一致しない。ユダヤ教黙示文学には、ダニエル書、ヨハネ黙示録、『第二バルク書』なども含まれるが、これはエノク派ユダヤ教の文書ではない。

第三に、『エノク書』は黙示思想の重要な証言だが、エノク派ユダヤ教の歴史はユダヤ教黙示思想の歴史とは必ずしも一致しない。John J. Collinsは世界観としての黙示思想(apocalypticism)と文学形式としての黙示文学(apocalypse)の区別を提案している。黙示思想は黙示文学の世界観として規定できるが、黙示的世界観は黙示文学以外でも表現できるのである。Sacchiはさらに、世界観としての黙示思想(apocalypticism)と思想的派閥としての黙示派(apocalyptic)の区別も提案している。ある二つの文書が同じ黙示思想を共有していても、両者が同じ派閥であるとは限らないのである。

Collinsの考え方だと、『エノク書』とそれに反対するダニエル書やヨハネ黙示録は共にユダヤ教黙示思想の歴史に含まれる。両者は思想的違いにもかかわらず、同じ黙示的世界観を共有していたからである。Sacchiの考え方だと、特定のユダヤ教黙示派(たとえばエノク派ユダヤ教)の歴史にダニエル書やヨハネ黙示録は含まれない。

著者はエノク派ユダヤ教とクムラン共同体の関係性について明確な見解を持っている。彼によれば、エノク派ユダヤ教とは、エッセネ派の主流派の現代的な名前であり、そこからクムラン共同体が過激で反抗的で周辺的な子孫として別れたのだという。しかし、エノク派ユダヤ教はその後クムランのエッセネ派の考え方を拒絶し、むしろ洗礼者ヨハネやイエスの派閥の誕生に貢献したのだった。

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2019年10月10日木曜日

「寝ずの番人の書」受容史の導入 Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity #1

  • Annette Yoshiko Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity: The Reception of Enochic Literature (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 1-23.

本書は『エノク書』のうちでも「寝ずの番人の書」を、そのはじめ(前3世紀)から、ラビ運動による拒絶、初期キリスト教徒による採用、のちの教会による抑圧、そして西方での最終的な喪失まで辿った、いわゆる受容史の研究である。

中世以降『エノク書』はほぼ失われたが、クリスチャン・カバリストは関心を持っていた。ピコ・デラ・ミランドラやジョン・ディーも興味を持っていた。ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記』には抜粋が残されていたので、ヨセフ・スカリゲルが1606年に出版している。エチオピア教会が『マシャファ・ヘノク・ナビイー』として保持していたエチオピア語訳はジェームズ・ブルースが欧州にもたらした。19世紀の終わりにはギリシア語訳も発見された。R.H.チャールズの先駆的な研究により『エノク書』が五部構成であることが明らかになった。死海文書中から発見されたアラム語訳はJ.T.ミリクによって出版された。こうした研究により、「天文の書」と「寝ずの番人の書」は最古の黙示文学にして最古の非聖書的ユダヤ文学だと明らかになった。

Milikは、ユダヤ教とキリスト教における『エノク書』の受容史の全体を研究した数少ない研究者である。多くの研究者はキリスト教の伝統のみか、ユダヤ教を取り上げてもキリスト教以前のユダヤ教のみしか範囲に含めなかった(James VanderKam, William Adler, Birger Pearson, Sebastian Brock)。エチオピア教会における伝統を特に取り上げたものもある(M. Knibb)。一方で、ユダヤ教におけるNachlebenと70年以降のユダヤ教を扱ったものは、Gershom SholemやIthmar Gruenwaldのような例外を除き、ほとんどなかった。初期キリスト教、古代末期キリスト教、ビザンツ期キリスト教における発展が研究されてきたように、第二神殿時代ユダヤ教、ラビ・ユダヤ教、中世初期ユダヤ教における受容史が研究されなければならない。

著者は特に堕天使のテーマを中心的に取り上げる。これは創世記6:1-4に端を発するものであり、「寝ずの番人の書」以外でもしばしば言及されてきたが、同書に特徴的なのは、ここで出てくる罪が天使の教唆によるものだということである。

「寝ずの番人の書」についてわれわれが持っている資料としては、アラム語原典、ギリシア語訳(ユダヤ人によって訳され、キリスト者によって保持された)、エチオピア語訳(ギリシア語訳をベースとしたキリスト者による訳)、ユダヤ・キリスト教文学中の言及やコメントなどがある。

聖書研究やラビ文学をはじめとして、テクストそのものよりも、その背後にある口承に注目する研究は多い。テクストは口承の純粋な神話や物語の不完全な反映でしかないと考えられているのである。しかしながら、最近の聖書研究では本文批判やソース批判の欠点が意識され、文芸批判的な観点からテクストの最終形態が注目され、また文学の成立における編集の役割が重視されるようになってきた。著者によれば、「寝ずの番人の書」の研究においても、テクストの背後にある純粋な口承だけを見るのは不適当であり、まずテクストそのものを見なければならない。古代の文学研究において、口承とテクスト化の活動を別物と捉え、前者による後者への優越を前提とすることを、著者は疑問視している。テクスト伝承に注目することには、現存する証拠の制約を反映するという実利的な目的もある。

これまでの研究は、キリスト教以前のユダヤ教をキリスト教の成立を照らし出すためのものとして扱い、以後のユダヤ教を外界から閉じられた世界として描いた。キリスト教が成立したことで、ユダヤ教とキリスト教の分岐が完成され、以後の相互作用は制限されていたと見なしているのである。しかしながら、実際には2世紀以後にも両者には交流があった。

この前提をもとに、第1章では「寝ずの番人の書」の編集と成立が、第2~3章ではラビ・ユダヤ教以前、キリスト教成立期における受容、第4~5章ではラビ・ユダヤ教による放棄とキリスト教サークルによる保存、とりわけユスティノスによる受容、第6章ではローマ帝国における教会による拒絶とその正当化、そして最終章ではタルムード期以後におけるエノク伝承の復活(ヘイハロット文学)が描かれる。

「寝ずの番人の書」(および「天文の書」)は4QEn(a,b)では独立した作品として回覧されていたが、4QEn(c,d,e)では他のエノク派文学と共に収録されていたことが分かる。Milikは特に後者の証拠を基に、クムランにはエノク五書があり、「天文の書」だけを含む1巻と、他の諸書を含む別の1巻の、2巻構成だったと主張した。そしてMilikによれば、エチオピア語訳に収録されている「たとえの書」はキリスト教徒による著作であって、4世紀以降に「巨人の書」と入れ替えられたのだという。Milikによるアラム語「エノク五書」仮説は、Jonas GreenfieldやMichael E. Stoneらによって否定される。

George Nickelsburgは4QEn(c)を取り上げて、「遺訓」形式で統一されことになる新たなエノク派テクストの広がりにおける一段階だと解釈している。とりわけ「寝ずの番人の書」はエノクの「遺訓」の核心に当たるという。Nickelsburgの仮説は、クムランの『エノク書』素材をエチオピア語訳とつなぐ単一で一直線上の発展があったという観点をMilikと共有している。これはギリシア語訳の価値を引き下げることになっている。Nickelsburgの仮説は、「寝ずの番人の書」が独立した文書ではなく『エノク書』の一部分としてどの程度読まれていたのかという観点を与えてくれる。

印刷術が発明されたあとの書物と同じような感覚で『エノク書』を扱ってはいけない。単一の著者や単一の編集者がいたわけではなく、複数の者たちが関わっているのである。

2019年10月9日水曜日

7Q5論争への新たな試み Spottorno, "Can Methodological Limits Be Set"

  • M Victoria Spottorno, "Can Methodological Limits Be Set in the Debate on the Identification of 7Q5?" Dead Sea Discoveries 6 (1999): 66-77.

本論文は、J. O'Callaghan(およびそのフォロワーであるC.P. Thiede)がパピルス断片の7Q5をマルコ福音書6:52-53だと断定していることに対して反論を試みたものである。もし本当にクムランからキリスト教文書が出てきたのなら、きわめて興味深いが、これはほとんどすべての研究者によって否定されている。しかし、O'Callaghanはインタビューの中で、自分が学術的でない個人攻撃に晒されていると主張している。論文著者によれば、彼は他の研究者たちから投げかけられた疑問や他の可能性の指摘に誠実に答えていない。そこで論文著者は、O'Callachanらよりも妥当性が高い説を提出しようとする。むろん論文著者はそうした自分の説も完全に正しいと証明することはできないことを理解している。

論文著者はまず古文書学的問いと文献学的問いを立てて、7Q5がマルコ福音書の引用ではありえないことを説明する。古文書学的、文献学的、歴史的な理由は、この断片がマルコであることを決して客観的に証明しないのである。

では、マルコ福音書ではないなら何のテクストなのか。論文著者は、まずゼカリヤ書7:3c-5である可能性を指摘する。残っている断片が欄のはじめである場合、欄の中である場合、欄の中央である場合を考慮している。次に『エノク書』15:9d-10である可能性を挙げる。第7洞窟から発見された7Q4と7Q8はすでにギリシア語訳の『エノク書』であると同定されているので、この読みは仮説ではあるが不可能ではない。

7Q5はゼカリヤ書でも『エノク書』でもないかもしれない。しかしマルコ福音書であるよりは蓋然性が高い。ゼカリヤ書であるという同定は、マルコ福音書であるよりもパピルス学的な問題が少ないし、文化的にも時系列的にも実現可能である。『エノク書』である可能性ですら、問題はあるとはいえ、クムランの文化的環境という点からいえばよりフィットする。われわれが利用可能な歴史的証拠や確たる証言を用いて、コントロールを欠いたような学問的創造性には制限をかける必要がある。

「エノク派ユダヤ教」への批判 Reed, "Interrogating 'Enochic Judaism'"

  • Anette Yoshiko Reed, "Interrogating 'Enochic Judaism': 1 Enoch as Evidence for Intellectual History, Social Realities, and Literary Tradition," in Enoch and Qumran Origins: New Light on a Forgotten Connection, ed. Gabriele Boccaccini (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2005), 336-44.

本論文はGabriele Boccacciniの「エッセネ=エノク派仮説」に対する建設的な反論である。第二神殿時代のユダヤ教の多様性の核にあるは『エノク書』である、という理解が、エノク派文学、エッセネ派運動、クムラン共同体の関係性に関するBoccacciniの仮説の中心にある。とりわけ彼は「寝ずの番人の書」に見られる「堕天使が人間の罪と苦しみの原因である」という神話的な理解を重視する。この天使の堕落の神話は、伝統的な聖書の原罪理解からのラディカルな出発であり、ここに「エノク派ユダヤ教」が成立する。

エノク派ユダヤ教は前4~3世紀に祭司たちの中でできあがり、神殿の権威であるいわゆる「ツァドク派ユダヤ教」に相対した。Boccacciniによれば、以後数世紀に亘るユダヤ教の発展史は、このエノク派ユダヤ教とツァドク派ユダヤ教の抗争の物語といえるという。これはマージナルな黙示的思想の一派と一枚岩の主流派ユダヤ教の二項対立という従来の理解とは異なる。むしろエノク派ユダヤ教は祭司内部の反対運動に起因するのである。

方法論としてBoccacciniは、『エノク書』を中心に旧約偽典や死海文書などを渉猟した。これらを用いて悪の概念の発展と多様化を描いてみせたのである。正確には、(1)エノク派ユダヤ教は広くアピールされた運動であり、(2)この運動はエッセネ派に対する古代の言及を支持し、(3)クムラン共同体はこれらエッセネ派/エノク派の過激派であった。いわばエノク派ユダヤ教とはエッセネ派の主流派の現代的な名称であり、そこからラディカルでマージナルな子孫としてクムラン共同体が生まれたのである。

さらにBoccacciniは、過激派としてのクムラン共同体を生んだエノク派ユダヤ教の主流派は、そのままキリスト教のユダヤ的ルーツを構成することになり、同時にツァドク派ユダヤ教の主流派はそのままラビ・ユダヤ教を構成することになったと主張した。

論文著者は、こうしたBoccacciniのアプローチは、第二神殿時代のユダヤ教とラビ・ユダヤ教の関係や、新約聖書と初期キリスト教のユダヤ的背景の研究が大幅に進展する中で、それらのデータを総合的な理解へと統合することに成功していると評価する(一方で、古代のユダヤ教の主流派を理解するための資料としての『エノク書』など非正典テクストの重要性を低めることにつながってしまっていると批判してもいる)。

Boccacciniは『エノク書』に保存されるエノク的なテーマの統一性や思想的連続性を最初に指摘したわけではなく、彼の前にはSacchiやSchwartzらの研究が存在する。Boccacciniに独特なのは、彼の『エノク書』の利用が、思想史から社会史を描きうるという信念に基づいていることである。しかし、論文著者によれば、文学資料における思想的・テーマ的類似から社会史的な現実を再構成しようとする試みには、いくつもの方法論的な問題点があるという。

たとえば、Boccacciniは悪の起源の問題に注目したが、他の問題に注目したら別の結果が出るかもしれない。また「寝ずの番人の書」を検証の対象としたが、『エノク書』はひとつの声だけを持った文書とは到底いえない。悪の超自然的な原因や神義論をエノク派ユダヤ教とその他の諸ユダヤ教を区別するための基準に用いていることは、Boccacciniの議論に疑いを抱かせるものである。『エノク書』は、確かに一定の連続性や共通性を持ってはいるものの、そもそもはさまざまな資料のよせあつめであることを忘れてはならない。また文学的・テーマ的・思想的なつながりから社会史的な現実へと急いで飛び移ることにも注意しなければならない。

Boccacciniは、ツァドク派ユダヤ教から区別されるエノク派ユダヤ教を再構成することで、ラビ・ユダヤ教とキリスト教を共に等しく第二神殿時代のユダヤ教の後継として扱うためのモデルを提供した。しかし、これは第二神殿時代のユダヤ教をプロト・キリスト教的部分とプロト・ラビ的部分に分けることに他ならない。それゆえに、Boccaccini自身はユダヤ教とキリスト教を単一の知的システムに包摂しようとしていたにもかかわらず、実際のところ彼はそうした分岐がイエスの誕生以前からユダヤ教に存在していたことを示してしまっている。

Boccacciniの仮説が成功するか否かは歴史のみぞ知るところであろう。

2019年10月8日火曜日

フィロンの著作 Royse, "The Works of Philo"

  • James R. Royse, "The Works of Philo," in Cambridge Companion to Philo, ed. Adam Kamesar (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 32-64.


フィロンの著作は釈義的著作、護教的・歴史的著作、哲学的著作に大別される。釈義的著作はさらに、問答、寓意的注解、律法注解に区分される。問答と寓意的注解はいわば密教的(esoteric)で、律法注解は顕教的(exoteric)な特徴を持つ。

釈義的著作:問答(Zetemata kai lyseis)とは、ホメロスの詩に見られる神学的・倫理的な「問題」を「解決」するために出てきた解釈方法である。アリストテレス『詩学』25章などにも見られる。この伝統が自然と聖書にも適用されるようになった。フィロンはその最初期の例である。フィロンは字義的解釈から始めて、寓意的解釈を最後に紹介する。解釈の順番は聖書のシークエンスに従う。ギリシア語原典は断片を除いて失われ、不完全なアルメニア語訳で残っている(アルメニア語訳は概して逐語訳)。ラテン語訳にはアルメニア語訳からは抜け落ちているところもあるので有用である。個々の解釈の分け方はシナゴーグの礼拝で読む箇所に対応している。現存する創世記と出エジプト記以外の問答があったとは考えにくい。

寓意的注解。このジャンル分けはエウセビオス『教会史』2.18.1に基づく。創世記の一節(レンマ)ごとに、表層の字義的解釈を超えた倫理的、哲学的、霊的な解釈を論じる。問答での寓意的解釈とまったく異なるわけではない。V. Nikiprowetzkyは寓意的注解は問答の拡大版だと主張したが、現在では多くの研究者たちは寓意的注解がシナゴーグでの説教であった可能性に注目している。主たる聖書箇所のみんらず付加的な箇所や平行箇所にも言及したり、倫理的なテーマをギリシア的なディアトリベーのような修辞技法とつなげたりしている。創世記以外をカバーしたとは考えにくい。

律法注解(the "Exposition of the Law")。五書を広く組織的に扱う。律法注解の構造は五書のジャンル理解に基づいている。すなわち、五書には世界の創造などを扱う「宇宙論的(cosmological)なセクション」、律法を体現する登場人物を扱う「系譜学的・歴史的な(genealogical or historical)セクション」、そして十戒やより具体的な律法を論じる「立法的な(legislative)セクション」がある。フィロンの議論は聖書に関わるが、一節一節を解釈するのではない。むしろ五書の論理的・組織的基盤を絶えず発見しようとしている。たとえば、アブラハム、イサク、ヤコブをギリシア的な教育理論である指導、生得、練習になぞらえたりする方法である。このジャンルに含まれる『世界の創造』は、問答や寓意的注解も含め、フィロンの聖書解釈全体の導入のような存在である。またジャンル分けの難しい『モーセの生涯』は律法注解的な要素も持っている。

護教的・歴史的著作。フィロンがユダヤ教やユダヤ民族の代表として、異教のギリシア人を含めた広い対象に書いたもの。『フラックス』や『ガイウス』などは、ガイウス帝亡きあとのクラウディウス帝および他のローマ人に向けて書いたものと考えられる。エウセビオスによれば、この2書は『徳について』という全5巻の著作に含まれていた。

哲学的著作。聖書やユダヤ教の教えに触れない著作。ディアトリベー、テーシス、対話といったギリシア哲学のジャンルに沿って書かれている。テクスト伝承に難があるのは、これらのジャンルがフィロンのテクストを伝えてきたキリスト教徒にとってあまり興味のないものだったからであろう。

その他の著作。『数論』はピタゴラス主義的な著作である。偽作としては『ヨナについて』、『サムソンについて』、『聖書古代誌』などがある。

著作の執筆順については多くの議論がある。『フラックス』と『ガイウス』については38~39年の一連の事件よりは確実にあとに書かれた。それ以外には、著作中のフィロン地震によるクロス・リファレンスに注目することが重要である。さまざまな説があるが、問答は寓意的注解よりあと、寓意的注解は律法注解に先んじると広く考えられている。すなわち、3種のうち寓意的注解が一番先に書かれ、問答と律法注解はどちらが先とも後とも言えないということである。哲学的著作は晩年に書かれた。

テクストの伝承はある時点からキリスト教徒の手に渡った。アレクサンドリアの教理学校の財産として保存されてきたのである。エウセビオスによる著作リストを見ると、現在の著作群とかなり同じものが揃っている。10から14世紀のギリシア語写本のスコリアも有力な情報源である。直接証言の最古のものとしては、3世紀の二つのパピルスがある。

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2019年10月5日土曜日

ミリク『エノク書』の書評 Barr, Ullendorff/Knibb, and VanderKam

  • James Barr, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4, The Journal of Theological Studies 29 (1978): 517-30.

評者は同書の価値を高く評価しながらも、読者がそれを有効に活用し、適切に評価するためには、諸問題の完全な議論が必要であると述べている。本書の主たる問題は、校訂テクストに印刷されているアラム語テクストが実際には断片にはまるで見出されず、校訂者Milikによって書かれたものであるという点である。

Milikは確かに自分が再構成した部分については括弧に入れてそれと知れるようにしてはいる。しかしながら、読者はきわめて保存状態がいいように見える写本が、実際にはごくわずかな断片しか残していないことに気づいたら、驚くことだろう。再構成自体が問題なのではない。そのスケールがあまりに大きいことが問題なのである。

Milikがほとんど天才といえるほどの器用さと計り知れないほど長い時間をかけてこれを達成したことは疑いない。適当な文章をアラム語で作り上げるその能力は特筆すべきものである。またこうしたことはパピルス学では常套手段だが、問題はわれわれがこの時代のアラム語資料をあまり持っていないということである。

さらにMilikのテクストは、ギリシア語訳やエチオピア語訳からアラム語原典を導き出しているにもかかわらず、一方でギリシア語訳やエチオピア語訳は原典の意味を取り違えていると説明するという「大いなる仮説(gigantic hypothesis)」を表している。いわばわれわれは「純粋なる幻想の世界(the world of pure fantasy)」にいるのである。

論文著者は、Milikは再構成部分を他よりも小さいフォントにしたり、巻末の転写には再構成を加えないようにしたりすれば、まだマシだったと指摘する。Milikはアラム語テクストが「寝ずの番人の書」の50パーセントをカバーしていると主張するが(p. 5)、これは自分で付け加えた再構成テクストを含む数字のようである。

こうしたことから、本書の価値は断片の部分ではなく、きわめて幅広い事柄を論じた導入にある。ただし、ここでの議論もあまり整理されておらず、読者を困惑させるものになってしまっている。バビロニアの世界観とエノクのそれとを比較するなど、『エノク書』の完全なテクストへの導入であればよかったが、アラム語断片の導入としてはふさわしくない。

このような状態であるから、誰か別の人によって『エノク書』の完全な校訂版が出版されることが待たれるし、アラム語テクストに関してはDJDシリーズで出版されるべきである。エチオピア語訳を低く見積もっており、エチオピア語の転写も通常受け入れられているものではない。

またせっかくのアラム語訳の発見を生かしていない点もある。すなわち、ギリシア語訳やエチオピア語訳との比較による翻訳技法の研究である。そもそもこれをやって初めてMilikのように翻訳に基づく原典テクストの再構成という荒業ができるはずであるが、彼はこれをしていない。しかし、少し翻訳技法をチェックするだけでも興味深い結果が得られる。

このような批判的な書評は、本書の価値のなさゆえではなく、批判しないことには読者がきちんとこれを利用することができないからである。

  • Edward Ullendorff and Michael Knibb, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4Bulletin of Oriental and African Studies 40 (1977): 601-2.
評者らは本書の問題点をまず3つ指摘する。第一に、実際に発見されたアラム語断片はとてもわずかだったにもかかわらず、Milikは7文字に対して56文字を付け加えるような大掛かりな再構成をしている。第二に、エチオピア語訳に対して信頼をまるで置いていない。第三に、ゲエズ語の知識が不十分である。

「寝ずの番人の書」のアラム語テクストが全体の50パーセントをカバーするというが、それはMilikが再構成したテクストを含めた数字であって、実態とかけ離れている。

  • James VanderKam, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4Journal of the American Oriental Society 100 (1980): 360-62.
本書では「天文の書」は完全には扱われておらず、「巨人の書」はまだ初歩的な段階である。Milik以前は『エノク書』とは、「寝ずの番人の書」「たとえの書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」から成り、キリスト教以前の成立と考えられていた。しかしMilikはこうした構造はギリシア語訳成立(400 BCE)より後に成立したものであり、「たとえの書」の代わりに「巨人の書」が入っている。

2019年10月3日木曜日

エノク派、都市型エッセネ派、クムラン・エッセネ派 Boccaccini, "Enochians, Urban Essenes, Qumranites"

  • Gabriele Boccaccini, "Enochians, Urban Essenes, Qumranites: Three Social Groups, One Intellectual Movement," in The Early Enoch Literature, ed. Gabriele Boccaccini and John J. Collins (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 121; Leiden: Brill, 2007), 301-27.

論文著者は「エノク派=エッセネ派仮説」を唱えた論者である。これはクムラン共同体のエノク的ルーツという問題と、クムラン派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教の分岐点という問題を再考する機縁となった。

第二神殿時代のユダヤ教の精神史を描写するために2つのアプローチがある。第一に、異なった文書からデータを統合し、ひとつの折衷的な主題(=第二神殿時代のユダヤ教神学)を作り上げるという「公分母型アプローチ」である。実際にそのような単一の主題は存在せず、統一性を乱すような個々の特性も無視することになる。第二に、多様な主題(=第二神殿時代のユダヤ教諸神学)を代表するものとして個々の文書を孤立的に扱う「多様性強調型アプローチ」である。この場合、我々が面しているのは単一の主題の異なった段階ではなく、別の主題ということになる。

後者のように多様性に注目する場合、知的運動(intellectual movements)と社会的グループ(social groups)とを方法論的に区別しなければならない。知的レベルと社会的レベルは同じではない。そこで論文著者が主張しているのは、死海文書の背後には少なくとも、エノク派、エッセネ派、クムラン(・エッセネ)派という3つの社会的グループが存在しているが、それらは1つの知的運動であるということである。

3つの社会的グループは確かにイニシエーション儀式、メンバーシップ規則、礼拝や儀礼、生活様式などを異にしている。J. Murphy-O'ConnorやPhilip Davies, Florentino Garcia Martinez, Adam van der Woudeらによれば、クムラン派とはエッセネ派のうちの過激なグループであるという。また近年ではDavid R. JacksonやGeorge Nickelsburgらが第二神殿時代のユダヤ教にエノク派ユダヤ教と呼ぶべき特定の党派性を持ったグループが存在していたことを明らかにしている。一方で、これらの3グループには思想的に多くのパラレルも認められる。つまり同じ知的運動なのである。

(1)クムランにおける党派的テクストはエノク派とツァドク派の思想の影響を受けている。一般的には、クムラン派が自らを「ツァドクの子」と称しており、モーセ律法を重視していることから、ツァドク派からの影響が指摘されてきた。しかし、もしクムラン派がツァドク派運動だというなら、なぜ彼らは非ツァドク派的、さらには反ツァドク派的な文学も保存しているのだろうか。Lawrence SchiffmanやDaniel Schwartzらは、クムランにおけるエノク派テクストの存在をユダヤ教グループに共通する特徴だと説明するが、論文著者によればこうした説明はエノク派文学の非協調的で革命的な特徴を見落としている。

エノク派の特徴は、「堕天使」を地上における悪と不浄の蔓延の原因とする、悪の起源に関するユニークな考え方である。エノク派によれば、人間は加害者ではなく被害者なのである。また慈愛あふれる神に悪の起源を帰することもない。エノク派の思考システムでは、悪の起源について被害者としての人間と責任ある人間という2つの矛盾する考え方を採用している。言い換えれば、決定論と非決定論である。どちらか一つだけではエノク派のシステムは崩壊する。

論文著者によれば、クムランの予定論的な神学はツァドク派の契約思想ではなく、このエノク派の決定論からの影響であるという。エノク派における決定論(悪の起源は堕天使のせいであって人間のせいではない)と非決定論(人間の自由意志を認める)の緊張関係を、クムラン派は、個々の人間の運命を予め決定しているのは神であるという「個人的な予定論(individual predestination)」として解消している。こうした主張は、Paolo SacchiやEyal Regev、さらにはJohn J. Collinsのような慎重な研究者すら受け入れている。

(2)Collinsは、しかし、クムラン派とエノク派が同じグループとは言えないと主張する。なぜなら、第一に、クムランの党派的テクストが中心的な価値をモーセのトーラーに置いているのに対し、エノク派文学はモーセ伝承を無視したからである。第二に、クムラン派が党派的グループであるのに対し、エノク派は改革運動だからである。論文著者によれば、これほど異なるクムラン派とエノク派を仲介したのが、両者の特徴を併せ持つ『ヨベル書』であったという。『ヨベル書』を書いたのは、フィロンやヨセフスが描くところの都市型エッセネ派と考えられる。

(3)ではクムラン派とエノク派のユダヤ教はどのように分離したのか。クムランでは「たとえの書」がまるで見つかっておらず、おそらくは「エノク書簡」もほとんどなかったと考えられる。これら後期のエノク派文学はクムランが持つ「個人の予定論」と相容れなかったからであろう。「たとえの書」が天の裁きに際して人間の自由と選択を強調するのに対し、クムランでは善悪は神の変わることのない決定に由来していると考える。それゆえにクムランは、『ダマスコ文書』での引用を最後に、エノク派文学への興味を失った。

エノク派運動は、クムランとの接点は失ったが、より大きなエッセネ派運動(都市型エッセネ派を含む)とは密接な関係を保ち続けた。それは次の4点に注目すると分かる。第一に、エノク派ユダヤ教と都市型エッセネ派の類似。第二に、非クムラン的・非エノク的でありながら、エノク派運動にもエッセネ派運動にも共通する特徴を持つ文学があること(『十二族長の遺訓』)。第三に、イエス運動はクムランについて直接的な知識を持たなかったにもかかわらず、エノク派ユダヤ教と非クムラン的エッセネ派の特徴を持っていること。そして第四に、クムラン派は自らを指導的なエリートと考えていたが、決してエッセネ派運動の中心だったわけではないこと、である。エノク派とエッセネ派は2つの異なった社会グループだが、社会的・思想的なつながりがあったのである。

(4)ただし、以上のようなエノク派とエッセネ派との関係について、古代の歴史的なソースが証言しているわけではない。ただ組織的な分析によって、エノク派、エッセネ派、そしてクムラン(・エッセネ)派が異なった社会的グループでありながら同じ知的運動に属することが分かる。さらに言えば、エノク派はクムラン派よりも、主流なエッセネ派に近い立場を取った。

こうしたクムラン派の特殊さゆえに、Sacchiは「エッセネ派」という名称を都市型エッセネ派のみに限定することを提案しているほどである。一方でCollinsは「エッセネ派」をヤハドおよびそれとネットワークを持つ都市型エッセネ派に用い、エノク派を含めた全体を「黙示主義」と呼ぶことを提案しているが、これは大きすぎる名称であろう。Jacksonは逆にエノク派やクムラン派を含む運動全体を「エノク派ユダヤ教」と呼ぶことを提案した。

これらに対して論文著者は、運動全体を「エッセネ派的」と呼ぶことは依然として有効であるが、エッセネ派主義はひとつの社会的グループではなくより大きく多様な知的運動と見なすべきだと主張する。つまり多様な社会的グループをカバーする傘として機能する用語なのである。それゆえに、エノク派はエッセネ派的であると定義できるが、彼らがエッセネ派そのものであるとは言えない。エノク派は都市型エッセネ派の親であり、クムラン派の祖父母である。

エノク派、都市型エッセネ派、クムラン派はみな同じ知的運動に属している。社会的グループとしてはエノク派はクムラン派よりも都市型エッセネ派に近い。クムラン派は根本的にエノク派神学からかけ離れているため、都市型エッセネ派からのクムラン派の分離が考えられる。いずれにせよ、エノク派はエッセネ派とクムラン派の起源において欠くことのできない役割を演じた。

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2019年10月2日水曜日

フィロンの生涯、家族、その時代 Schwartz, "Philo, His Family, and His Times"

  • Daniel R. Schwartz, "Philo, His Family, and His Times," in Cambridge Companion to Philo, ed. Adam Kamesar (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 9-31.


人生に悲観的な哲学者にありがちなことであるが、フィロンの生涯についてはあまりわからない。彼は自分自身についてはあまり語らないので、ヨセフスや初期教父文学(エウセビオスやヒエロニュムス)らの証言が重要である。ヨセフスはフィロンの弟と甥の名前を伝えている。

フィロンは38/39年にアレクサンドリアのユダヤ人問題を陳情するために使節団を率いて皇帝ガイウス・カリグラに謁見している。そのとき自分のことを「老人」と表現しており、別のところで老人とは57歳以上と述べているので、逆算して前20-10年頃の生まれと考えられる。その死は、クラウディウス帝の催しを暗示していることから41年より前ではない。

ヨセフスと異なり自らの出自については語っていないが、ヒエロニュムスによると祭司の家系であるという。個人的なこともまるでわからない。都市への軽蔑を口にするが、これはおそらく貴族的な特権を持つ者のスノビッシュな発言であろう。

フィロンの弟アレクサンデルは輸入品の関税を徴税する役人であった。彼はその他にも貿易の仕事で成功し、巨額の富を築いた。ヨセフスによれば、アレクサンデルはその富をエルサレム神殿の建設のために寄進したという。皇帝やユダヤの王族の者たちとの関係も深かった。アグリッパの娘はアレクサンデルの息子マルクスと結婚した。アレクサンドリアのユダヤ人迫害のきっかけであるアグリッパ1世の同市訪問の際にはホストを務めた。

アレクサンデルの息子でありフィロンの甥であるティベリウス・ユリウス・アレクサンデルはさらなる有名人だった。ローマ社会で成功するために、彼はユダヤ教的なアイデンティティを捨ててしまった。そのためフィロンは『動物論』などにユリウスを対話相手として登場させ、ユダヤ教への回帰を促した。ユリウスはテーバイ地方総督やユダヤ総督などを努めたあと、ネロ帝のもとではエジプト総督にまで登りつめた。そしてユダヤ戦争の際にはティトゥス帝の腹心としてエルサレム攻略に加担した。

フィロンの時代のユダヤ社会は、プトレマイオス朝期の平穏さからローマ時代の混乱への過渡期を迎えていた。その中でアレクサンドリアのユダヤ社会は繁栄し、市の5区画のうち2区画がユダヤ地区と呼ばれるほどの人口を誇った。ユダヤ人はそこで「ポリテウマ」と呼ばれる自治共同体を作った。そこでは先祖伝来の律法に基づいた生活が許され、ゲルーシアと呼ばれる自治的な議会が存在した。

アレクサンドリアの宗教生活の中心はシナゴーグであり、そこではユダヤ人の子弟に知恵や諸徳を教える教育が施されてもいた。一方で多くのユダヤ人はヘレニズム文化も受け入れていたので、市中のギュムナシオンで体育や教養諸学といった二次的な教育を受けた。フィロンの修辞的能力や運動イメージの好みはここで醸成されたものであろう。

このようにプトレマイオス朝期のアレクサンドリアのユダヤ人は平穏な生活を享受したが、ローマ時代になるとアピオーンのような反ユダヤ文学が書かれるようになり、それが38年の暴力的な事件や66年の反乱へとつながっていく。プトレマイオス朝期にはギリシア人、ユダヤ人、エジプト人という3つの社会的階層が秩序を作り、ユダヤ人は外国からの「客」としてギリシア人から大事にされていたのに対し、ローマ時代にはローマ人の下でその秩序が失われてしまったのである。その結果、ユダヤ人の多くがローマ支配を受け入れると、そのことがギリシア人からの反感を買った。そしてユダヤ人がそうしたギリシア人から守ってもらおうとさらにローマ人に近づくと、ギリシア人のさらなる反感を呼ぶという悪循環となった。

ローマに対するユダヤ人の態度には3つの方法があった。第一に、ローマ支配を受け入れ、同時にユダヤ人としての地位をあきらめるというもの。これはちょうどユリウスの態度である。彼はローマ軍のエルサレム攻略の際に神殿を保存するか破壊するかを投票で決める際に、破壊する方に票を投じたという。第二は、ローマ支配を拒否し、反乱を起こすというもの。しかしアレクサンドリアのユダヤ人がこの方法を採ったという証言は残されていない。第三は、ローマ支配を受け入れ、ユダヤ出身のユダヤ人であることはやめるが、超越的なユダヤ教を信奉するというもの。これは新約聖書やフィロンの立場である。

第三の立場はヘレニズム期のディアスポラのユダヤ人たちの特徴である。ここで重要なのは、ユダヤの地およびエルサレムの神殿の重要性を低く捉えるという視点である。この視点は『第二マカベア書』、『アリステアスの手紙』、偽ヘカタイオス、『ソロモンの知恵』に見られる。ユダヤの重要性が下がれば、ローマに反対する必要がなくなるのである。

ただし、フィロンはユダヤや神殿に対して肯定的に語ることもあれば否定的に語ることもある。結局フィロンの真の立場は、ガイウスが自分の彫像をエルサレム神殿に建立するという決定をあくまでローマ人の視点から冷静にロジカルに語っているところから分かるだろう。彼はこの出来事に対するユダヤ人の反応を正当化しようとはしない。結局のところあまりに多くのユダヤ人が第一の立場を取り、第三の立場のような非一貫した立場を取りたがらなかったばかりに悲劇が起こってしまった。しかしフィロンは「ユダヤ人であること」を場所と関わらせず、心の中の問題にすることで、ローマと生きる方法を模索したのだった。

2019年9月28日土曜日

エノク派とクムラン教団 Collins, "'Enochic Judaism' and the Sect of the Dead Sea Scrolls"

  • John J. Collins, "'Enochic Judaism' and the Sect of the Dead Sea Scrolls," in The Early Enoch Literature, ed. Gabriele Boccaccini and John J. Collins (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 121; Leiden: Brill, 2007), 283-99.

『エノク書』の最古の写本は死海文書中からいくつか発見されている。それどころか初期のエノク的文書はクムランの党派的文書と類似性を持っている。超自然的な力への興味や選ばれたグループの歴史神学については、「週の黙示録」(『エノク書』93:1-10, 91:11-17)や『動物の黙示録』(『エノク書』85-90)に見られるが、これらは『ダマスコ文書』の冒頭と比較できよう。ここから、そしてクムランの党派的文書の著者たちはエノク的文書に親しみ、影響を受けていたと見なされている。Gabriele Boccacciniによれば、エノク派ユダヤ教とはエッセネ派の主流のことであり、クムラン共同体はそこから出た過激派だという。論文著者はこの見解に反対している。

死海文書を書いた集団はエッセネ派だとされてきた。エッセネ派仮説の最も強力な基礎は『共同体の規則』におけるヤハドの描写である。つまりエッセネ派仮説はこのように共同体の構造について語る文書によるものであって、エノク的文書のようにそれをしない文書からの影響は希薄である。またプリニウス、フィロン、ヨセフスらのエッセネ派に関する記述はヘブライ語の規則本と完全な一致を見ない。

死海文書に描かれているのはマカベア諸書に描かれているハシディームであるという説も出てきた。これは党派の起こりがハスモン家による大祭司制に対する反発と関係しているという状況証拠に基づく見解である。そして研究者の中には、ハシディームは『エノク書』の黙示録的部分やダニエル書の著者であると考える者もいる。つまり、エノク文学の伝達者はクムラン共同体の先行者だとする見解である。しかしながら、ハシディームに関する言説は極めて仮説的であり、またマカベア諸書におけるハシディームへの言及が黙示録的アイデアを含んでいない。

Hartmut Stegemanは悪の祭司と偽りの人とを区別し、偽りの人はハシディーム、その支持者はのちのパリサイ派であり、一方で義の教師の支持者はエッセネ派であると主張した。Stegemanによれば、クムラン共同体は義の教師による運動と同一視できず、義の教師が設立した「エッセネ派ユニオン」とでもいうべきもののひとつに過ぎない。Stegemanはエノク派文学については触れていない。

Jerome Murphy-O'Connerは、『ダマスコ文書』の「ダマスコ」は実際のダマスコではなくバビロニアの暗号だと主張したことで知られている。彼は、義の教師の支持者も偽りの人の支持者も共にエッセネ派であるが、前者が砂漠に赴いてクムラン共同体を設立したのに対し、後者は非クムラン的なエッセネ派となった。彼の見解は『共同体の規則』がクムラン共同体だけのものだと無批判に受け入れてしまっている。

Philip Daviesは『ダマスコ文書』はクムラン共同体に先立つエッセネ派共同体だと考える。つまり、エッセネ派をクムラン以前とし、クムランのエッセネ派はエッセネ派の主流派からの派生と捉えるということである。Florentino Garcia MartinezやAdam van der Woudeは、エッセネ派の起源とクムラン共同体の起源を区別する。後者はエッセネ派運動の内部で起きた分派だったというのである。

Gabriele Boccacciniは、エッセネ派はクムラン共同体のみならずエノク派ユダヤ教をも含むと主張した。ここでの「エノク派ユダヤ教」とは、彼の師Paolo Sacchiの言う「黙示録的」とほぼ同義で、悪とは人間の選択能力に先立って自立的にあるものだという「生成的アイデア」によって特徴付けられる。「エノク派ユダヤ教」はエノク文学だけにあるのではなく、エノクが中心的な人物ではない文書、たとえば『ヨベル書』『十二族長の遺訓』『第四エズラ記』にも見られる。一方でダニエル書やヨハネ黙示録などは入らない。「エノク派ユダヤ教」は前4~3世紀におけるユダヤ祭司制の分裂に起因するからである。この分裂はクムラン共同体とエッセネ派の主流派を分け、前者は後者を無視したのだった。フィロンとヨセフスはこのうち主流派について語り、プリニウスはクムランのグループについて語った。Boccacciniが言うように、エッセネ派とクムラン共同体を同一視することができないこと、またエノク派ユダヤ教とヤハドには重大な思想的つながりがあることは正しいが、論文著者によれば、すべての議論を受け入れることはできない。

論文著者の見解では、『共同体の規則』はクムラン共同体だけの規則ではなく、エッセネ派全体のためのものである。ヤハドは単一の共同体ではなくさまざまな共同体に住む人々の連合である。「完全な聖性の人々」の住むクムランはヤハドのうちでもエリートの住むところであった。クムランでは他の定住地と同じ律法と規則が遵守されていたが、より高次の完全さが求められたのである。『共同体の規則』がクムランの規則で、『ダマスコ文書』が非クムランのエッセネ派の規則、といったような区別はなく、どちらも諸共同体のネットワークを前提としていた。ここから、クムランと前クムランや、クムランと非クムランを区別することはあまり意味がないことが分かる。1QS 8にある一節を除いてクムランのみを前提とするような記述はない。

論文著者は、共同体生活の規則を含まない『ヨベル書』のようなエノク派文学に「エッセネ派」というラベルを用いるのは適当ではないと主張する。というのも、『ダマスコ文書』や『共同体の規則』のような規則文書をエッセネ派に結びつける基礎として、ひとつの場所に限られないという特徴がある。エッセネ派運動はひとつ以上の生活スタイルを許容するのである。

エノク派文学も死海文書(『ダマスコ文書』)も、マカベア戦争前夜にある特定のグループができたことを描いている。エノク派文学に見られる黙示的世界観、天使と悪魔の戦い、裁き、性的な関係の存在しない天使的世界ゆえの結婚の否定などといった諸特徴は、死海文書にも見られる。Boccacciniによると、クムランとより大きなエッセネ派運動との違いは、天使や人間の自由意志の否定であるというが、論文著者はそうした黙示的な世界観はダニエル書にも共通することから、両者の違いの決定的なポイントではないと考える。それよりも重大な違いは、カレンダーと律法の問題である。

エノク派文学もクムラン党派的文書も(ダニエル書と異なり)1年を364日とする太陽暦を採用しており、このことは神殿への批判的態度を意味する。この点で両者にはつながりがあるように思えるが、律法への態度が異なる。『ダマスコ文書』も『共同体の規則』もモーセのトーラーをきわめて重視するのに対し、エノク派文学ではモーセではなくエノクガ啓示を伝える者として描かれる。「動物の黙示録」が聖書物語のパラフレーズであることから、エノク派がトーラーを知らないわけではないが、中心的な位置を占めることはない。Boccacciniは『ヨベル書』を引き合いに出すが、同書をエノク派文学に入れることができるかは疑問である。

エノク派ユダヤ教と、死海文書に示される党派的運動とに密接な関係があることは疑いない。しかしながら、エノク派ユダヤ教と『ダマスコ文書』の共同体を単純に同一視することはできないし、エノク派ユダヤ教をエッセネ派と同一視することもできない。しばしば第二神殿時代のユダヤ教をツァドク派対エノク派などの二項対立に落とし込む傾向があるが、歴史的現実は常に、我々が求めるよりもきちんとしてはいない。

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2019年9月25日水曜日

予備教育としてのハガル Bos, "Hagar and the Enkyklios Paideia"

  • Abraham P. Bos, "Hagar and the Enkyklios Paideia in Philo of Alexandria," in Abraham, the Nations, and the Hagarites: Jewish, Christian, and Islamic Perspectives on Kinship with Abraham, ed. Martin Goodman, George H. van Kooten, and J.T.A.G.M. van Ruiten (Themes in Biblical Narrative 13; Leiden: Brill, 2010), 163-75.


『予備教育』は創世記のサラとハガルの物語に関する解釈書である。創世記では、アブラハムの妻サラは子供ができなかったために、ハガルを側室とするようにアブラハムに提案した。これは一見不適切な物語のように見えるが、これをフィロンは逆転の発想で、至高の知恵でもあり神的な取り決めであったと解釈した。

知恵と教養諸学を区別するというフィロンのテーマは他のモチーフと関係を持っている。第一に、アブラハムの移住の解釈である。フィロンはこれを可感的な物質性の世界から神的イデアの非物質的実在性への魂の上昇と捉えた。とりわけアブラハムがアルデア人の地から出ることは、彼がコズミックな神々への礼拝からメタコズミックな超越的な唯一神への崇拝に至るブレイクスルーを与えた。つまり、カルデア人とアブラハムやイスラエルとには、フィジックとメタフィジック、コズミックな神学とメタコズミックな神学という対比がなされている(『世界の創造』冒頭など)。フィロンは、アブラハムと共にカナンの地に行かなかったナホルのことを天文学に囚われたままの人物として描いている。

第二に、名前の変化のモチーフも重要である。「アブラム」と「サライ」は最初、目に見える世界にとらわれていたが、予備教育を学ぶことですべての物事の原因やロゴスのアイデアに気づくことができた。そうした観点の変化と魂の方向転換を経て初めて彼らの名前は「アブラハム」と「サラ」に変わったのである。

こうした解釈は当然聖書そのものからは得られない。フィロン以前からユダヤ人は聖書を寓意的に解釈することはあったが、フィロンのような「哲学的な」寓意はなかった(H. Wolfson)。彼はこれをギリシアの文学伝統から取り入れたのである。前6世紀のランプサコスのメトロドロス以来、この方法はホメロスやヘシオドスのような古典をアップデートする方法として好まれた。

予備的なものとしての教養諸学からより高度な知識へ、というテーマも疑いなくギリシアから来ている。これは数学と論理学を区別したプラトン以降の考え方である。しかし、フィロンは原理を可感的な現実に向けるというより後代の予備的科学を用いている。プラトンにとって可感的世界は科学の対象ではなかった。フィロンのような用い方はストア派にも見られるが、その淵源はアリストテレス『形而上学』である。アリストテレスは哲学を真に自由な科学とし、その他の学問をそれに仕えるものと見なした。

ハガルに代表される予備的科学の学びには、哲学に対して従属的なヒエラルキーがあるものの、決してそれは「奴隷的」な行為ではない。とはいえそれは可視的・物質的世界につながれたままでもある。『巨人』60において、フィロンは人を地上的・星的・神的なものに分けている。地上的人間は快楽を求める者、星的な人間は教養諸学の習得に身をささげる者、そして神的な人間は可視的世界を超越する祭司や預言者である。

教養諸学のギリシア語であるエンキュクリオス・パイデイアについて、De Rijkはそれがピタゴラス主義者の音楽的理想に由来し、歌や合唱を子供たちに指導する習慣と関係していることを明らかにした。他の研究者もさまざまに議論をしているが、みなに共通するのは、エンキュクリオス・パイデイアの概念がストア派の時代を遡らないという認識である。それゆえに、概念の創始をストア派に記する者すらいるが、論文著者はこれを否定する。著者によれば、フィロンの知恵概念などには非ストア派的認識論が見られる。すべてを支配する神と、より低次のロゴスあるいは神の力というグノーシス的区別の最初は、フィロンに帰されるという。

そして、論文著者は以上のような考え方はアリストテレスと完全に合致すると主張する。彼は人間が議論できる現実世界と、それを超える超越的な知識を区別した。魂の関与できる領域と知性の領域を分けているのである。他にもフィロンはアリストテレス同様にホメロスを賞賛し、モナルキア主義を共有している。フィロンは、アリストテレスの失われた対話編から「エンキュクリオス・パイデイア」の概念を借用したに違いない。