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2014年1月31日金曜日

ミドラッシュとは何か?その2 Alexander, "Midrash"

  • Philip A. Alexander, "Midrash," in A Dictionary of Biblical Interpretation (London: SCM Press, 1990), pp. 452-59.
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ミドラッシュの概説を読みました。Alexanderは、ミドラッシュ文学を以下の4種類に分けています。
  1. ハラハー的ミドラッシュ:『メヒルタ・デ・ラビ・イシュマエル(出)』『スィフラ(レビ)』『民スィフレ』『申スィフレ』。別名タナイーム的ミドラッシュとも呼ばれる。これらの四書をさらに、学派の違いによって、①ラビ・イシュマエル学派の『メヒルタ』『民スィフレ』、②ラビ・アキバ学派の『スィフラ』『申スィフレ』に分けられる。
  2. 釈義的ミドラッシュ:『創世記ラバー』『哀歌ラバー』。現在の区分とは異なったパラシャーを持ち、プティハーと呼ばれる形式が取られている。
  3. 説教的ミドラッシュ:形式により、さらに3種類に分けられる。①『レビ記ラバー』、②『プスィクタ・デ・ラブ・カハナ』『プスィクタ・ラバティ』、③『タンフーマ・イェラムデーヌ』。
  4. アンソロジー、集成:形式により、さらに2種類に分けられる。①『ヤルクート・シムオニ』『ミドラッシュ・ハガドール』、②『ミドラッシュ・ラバー』(五書、5つのメギロット)。
こうしたミドラッシュは、ダルシャニームと呼ばれるラビたちによって、ミドラッシュの学院であるベート・ミドラッシュやシナゴーグで生み出されていきました。といっても、自らの独創性を誇るのではなく、むしろ自分たちが受け取ったものを正確に次の世代に伝えることを使命としていたようです。つまり、ミドラッシュの権威とは、個人がいかに独創的な新解釈を生み出したかではなく、モーセ以来の口伝律法の伝達の中で、いかに正統な賢者たちの連なりの中にあるかがカギなのです。

ミドラッシュをどう読むか、ということについては、「原子論的(atomistic)」と「全体論的(holistic)」や読み方があります。前者は、聖書の引用+解釈をひとつのユニットと見たときに、それぞれのユニットがバラバラだと考えるもので、いわば聖書引用を中心とした読み方といえます。一方後者は、それぞれのユニットの配置には一貫した意図があり、解釈の中に聖書の引用があると捉えます。後者の代表がJ. Neusnerで、特に『創世記ラバー』を分析した結果、解釈ユニットの背後に一貫している意図とは、4世紀におけるローマ帝国のキリスト教化に対するラビたちの対抗意識だと結論付けました。これに対して反論している研究者たちは、もし本当に首尾一貫した意図があるのなら、なぜ『創世記ラバー』の写本テクストに異動が多いのかと疑義を呈しています(正確な本文が保存されていないのに、なぜ背後の意図などを引き出せるのか、ということ)。現在では、やはりミドラッシュの連なりは「原子論的」であるという意見の方が強いようです。著者としては、両方の見方を弁証法的に用いるのが最も健全と述べています。

ミドラッシュ集成の成立時期は特定するのがほぼ不可能ですが、ひとつだけ言えるのは、すべてミシュナー以降のものだということです。すべてのテクストに、ミシュナーの存在を前提としている様子が伺われます。また個々の伝承の年代を特定するのはさらに難しいですが、少なくともある時期までにある伝承が存在したかどうかを調べることはできます。信頼できる外部資料に似たような解釈があるかを探せばよいのです。その対象となるのは、フィロン、ヨセフス、新約聖書などになります。こうした方法はR. Blochによってはじめられ、その後G. Vermesによって続けられています。

ミドラッシュを現代の視点から見るのと、ラビたち自身の視点から見るのとでは、その評価は大きく異なります。現代の視点から見れば、ミドラッシュとは聖書にもともとないアイデアを用いるので、聖書を都合よく使っているように思えますが、ラビたちの視点から見れば、ミドラッシュとは、聖書に潜在しているさまざまな意味を汲み出す方法だといえます。そうしたラビたちの視点から見ると、聖書とミドラッシュにまつわる大きな二つの原則が見えてきます。第一に、聖書は神の言葉である、という意識です。神の言葉である聖書には、汲めども尽きせぬ真理が隠されているので、聖書にはいくつもの読みがあり得ます。ラビたちには、唯一の正しい聖書の意味という発想はありません。一方で聖書は一貫しているともいえます。一見矛盾しているように見える箇所も、ラビたちに言わせれば、それは人間という限界のある存在が読んでいるからそうなるだけであって、神にとってはそれは矛盾でもなんでもないのです。ゆえに聖書に誤りはなく、また冗長さもないといえます。第二の原則は、神が与えた律法は、成文律法である聖書のみならず、口伝律法もあるということです。つまり、閉じた聖典としての聖書だけではなく、開かれた口伝律法の、つまりミドラッシュの世界が広がっているという捉え方になります。一方で、その口伝律法には、賢者たちによる伝統があります。この伝統こそが、あまりにも突飛な解釈などを防ぎ、聖書解釈にある種の規範を与えることにもなりました。

2014年1月24日金曜日

ミドラッシュとは何か? Stern, "Midrash"

  • David Stern, "Midrash," in Contemporary Jewish Religious Thought, ed. A.A. Cohen and P. Mendes-Flohr (New York: Free Press, 1987), pp. 613-20.
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ミドラッシュに関する概論を読みました。ミドラッシュとは、後1世紀のパレスティナにおいて、ラビたちによって鍛えられ、実践された聖書解釈の活動のことです。意味の広がりとしては、1)ラビたちによる聖書解釈法それ自体、2)聖書の節や語に関する個々の解釈、3)そうした解釈の集成としての文学、の3つが挙げられます。

聖書を解釈するという行為は、後代に書かれた聖書文書の中で、すでにあった文書に関して解釈することからすでに始まっていました。聖書コーパスがだいたい固まった後には、その翻訳(タルグム)、聖書物語の語り直し(偽フィロン)、そして黙示的な注解(死海文書)が続き、新約聖書の中ではイエス自身の生が、ある意味では旧約聖書のひとつの解釈として展開されました。ラビたちがミドラッシュの中で用いた解釈原理は「ミドット」と呼ばれ、Saul Liebermanはここにギリシア・ローマにおける法解釈の反映を見ています。

Sternによると、ミドラッシュの大きな特徴として4つ挙げられるそうです。
  1. ミドラッシュには一定のシステムはなく、論争的・護教論的な性質を持つ。
  2. ミドラッシュは聖書の大きなコンテクストではなく、ひとつの語、フレーズ、節といった小さな部分に注目する。J. Kugelはこうした性質を「The verse-centeredness of midrash」と呼んだ。このように聖書を断片化することで、それぞれまったく別の箇所から意外な繋がりを発見することができる。
  3. ミドラッシュは聖書中の問題ある箇所に注目する。語彙上の問題、物語の矛盾、不明な土地の名前や同定できない人物、シンタックスのぎこちなさなど、すべての問題がラビたちの関心事となる。同じ個所に関して複数の解釈がある場合、どの問題に着目するかによって、それぞれの解釈が矛盾し合うことすらある。
  4. ミドラッシュは極めて観念的(ideological)である。ラビたちは聖書に関する伝統的な解釈を大事にしながらも、躊躇なく自分たちの現実をそこに読み込んでいる。
さて、こうした特徴を持つミドラッシュは、主にラビたちが教えていた学院やシナゴーグで生み出されていき、次第に文書化されていきました。タナイーム集成(tannaitic collections)は、70年から220年までのラビたちの解釈を、3世紀後半から4世紀後半にかけて編纂していったものです。これは主に聖書の法的部分に関する解釈の集成です。一方、つづくアモライーム集成(midrashic collections of the amoraim)は、220年から5世紀末までのラビたちの解釈を、5世紀から8世紀にかけて編纂していったもので、内容的に、アガダー色が濃いものとなっています。アモライーム集成に納められたミドラッシュの方法はいわば古典的ともいえるもので、典型的な例としては、パラシャーの最初の節を次々と別の箇所とつなげていく「ペティフタ」と呼ばれる方法などがあります。しかしこうしたミドラッシュの隆盛も、11世紀のプシャット(聖書の字義通りの解釈)の台頭や、12~13世紀にかけてのカバラー運動の高まりによって、次第に衰退していきました。

ミドラッシュとは、いうなればラビたちの努力によって徐々に固まっていったプロセスそのものなのですが、近現代の研究史では、その背後にあるロジックを捉えようとする試みがなされてきました(Zeeb Wolf Einhorn, Leopold Zunz, Isaak Heinemann)。しかし、デリダのような思想家は、テクストの背後にある意味を探ろうとするような、ギリシア・キリスト教由来の西洋思想の解釈原理と異なり、ミドラッシュは、意味の可能性や複数性を含めて、テクストの言語の中にある意味をそのまま見ようとする、いわば西洋の論理へのオルタナティブだと再評価したのです。しかしはたして、こうしたミドラッシュの特徴とは、ミドラッシュそれ自体が持っている特徴なのか、それとも解釈対象である聖書の神聖性によって引き出された特徴なのかという問題が生じます。Sternとしては、どうやらその両方が共に正しいという結論に持っていっているように思えます。

2014年1月22日水曜日

書簡とは何か?その2 Gibson and Morrison, "What is a Letter?"

  • Roy K. Gibson and A.D. Morrison, "Introduction: What is a Letter?" in Ancient Letters: Classical and Late Antique Epistolography, ed. Ruth Morello and A.D. Morrison (Oxford: Oxford University Press, 2007), pp. 1-16.
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Ruth Morello

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古代の書簡のアンソロジーのイントロを読みました。著者は、書簡とは何かを考えるにあたり、文学のジャンルを定義づけることの難しさについて述べています。たとえば、「教訓詩」とは、たいていの場合、(1)単独の著者から誰かに向けて書かれたもの、(2)本格的な文学的形式を取っているもの、(3)主題としては、単に奨励的というより、教育的なもの、(4)多くの場合、極めて技巧的であり、かつ詳細なもの、(5)物語の中に組み込まれるかたちで、神話などに主題を取った説明的なシーンがあるもの、(6)叙事詩の韻律であるヘクサメーターが使われているもの、などを挙げることができます。しかし、こうした特徴のリストが明らかにしている特徴とは、実際には、それによってある詩の区分けを「教訓詩」とするような特徴でしかありません。つまり、先にある詩が教訓詩であると決めてかかってから、定義を引き出していることになります。こうした問題は書簡の定義の場合も同様です。著者はここで、Trappによる定義を引合いに出しています:
  1. ある人から別の人(あるいは人々)へと書かれたメッセージ。
  2. 何らかの触ることのできる媒体に書きとめられたもの。
  3. 送り主から受取人へと物理的に送られるもの。
  4. 送り主と受取人の取引を明記するような定型の挨拶文が冒頭と結びにあるもの。
  5. 送り主と受取人とが互いに離れたところにいて、直接会うことができないときのためのもの。
  6. ある程度の長さでまとまっているもの。
これもやはり、(Trapp自身も指摘していたように)定義の堂々巡りになってしまいます。こうした問題を解決するために、著者は書簡と書簡でないものとの境界線に位置するもの、つまり、かつては書簡と考えられていたが、現在ではそうではないと考えられているものについて考察することにしました。その例として挙げているのが、ピンダロス『ピュティア』『イストミア』などのギリシアの書簡詩(Greek verse epistles)と、キケローの『義務について』です。前者のピンダロスを見ていくと、冒頭と結びの挨拶こそないもの、離れた場所にいる送り主と受取人がいることなど、上の定義と一致するようなさまざまな特徴がみられます。しかし、これもやはりピンダロスの書いたものを書簡と決めてかかった上で定義に当てはめたがゆえに、書簡に見えていることは否めません。なぜなら、こうした(書簡の特徴と思われていた)特徴は、実は「祝勝歌(epinician poetry)」の特徴だったからです。

キケロー『義務について』は、息子に宛てて書かれた、哲学的な内容を持った書簡のかたちを取っています。上の定義を当てはめてみると、ほぼきれいに当てはまっていきます。最後の長さだけは少し問題で、『義務について』は書簡と言うには少々長いかもしれません。しかし、それ以上に『義務について』を書簡と考えることができない理由としては、キケロー自身がこれを書簡と考えていなかったことが挙げられます。彼は『義務について』を、とあるコメンタリーの中に配置されるべき三巻本であると述べています。するとやはりここでも、ある書き物が書簡の特徴を備えていても、そこから外れる特徴も持っているときに、それをどう定義すればよいかは難しい問題となります。

そこで、著者はウィトゲンシュタインの「家族的特徴(family-resemblance concept)」を用いて、文学のジャンル分けをすることを提言しています。「家族的特徴」とは、あるものと別のあるものとが、必要十分条件ではなく、部分的に共通する特徴によってゆるく繋がっている状態を指しています。つまり、ウェルギリウス『牧歌』とルクレティウス『物の本質について』とは同じ韻律と言語を共通して持っており、ヘシオドス『仕事と日』はそれらと同じ韻律を持っているだけですが、それらは一つでも共通点を持っているということから、皆同じジャンルに分けられるのだということです。こうした考え方をすると、完全に書簡とはいえなくても、書簡の特徴を部分的に持ったものはたくさんあることが分かってきますし、そこから、そういうテクストが書簡を想起させることによる文学的効果についても思いが及びます。書簡の定義を定めるということは、書簡でないものを締め出すということです。著者は、そのような定義は無駄なのでするべきではないと述べています。

それなりに面白く読んだことは読んだのですが、何となく疑問なのは、せっかく古代の著者たち自身による文学ジャンルの定義の試みに少し触れたのですから、最後までそのラインで話をすべきではなかったのではないかということです。ウィトゲンシュタインもいいですが、やはりキケローが語っていることをもう少し掘り下げてほしいと思いました。

2014年1月21日火曜日

フィロン『予備教育』:校訂版と関連書籍

フィロン『予備教育との交わり(De congressu eruditionis gratia)』の校訂版には、以下の2種類があります。
  • L. Cohn and P. Wendland (eds.), Philonis Alexandrini Opera quae supersunt, III (Berlin, 1898).
Philonis Alexandrini Opera Quae Supersunt, Volume 3Philonis Alexandrini Opera Quae Supersunt, Volume 3
Paul Wendland Leopold Cohn Charles Duke Philo

Nabu Press 2010-03-07
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本書は、いわゆるCohn & Wendland版フィロン全集全6巻のうちの第3巻に当たります。グーグルブックスで閲覧可能。

  • F.H. Colson and G.H. Whitaker (eds.), Philo, IV (Cambridge, MA, 1932 = LCL Philo IV).
On the Confusion of Tongues. On the Migration of Abraham. Who Is the Heir of Divine Things? On Mating with the Preliminary Studies (Loeb Classical Library)On the Confusion of Tongues. On the Migration of Abraham. Who Is the Heir of Divine Things? On Mating with the Preliminary Studies (Loeb Classical Library)
Philo F. H. Colson

Harvard University Press 1932-01-01
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これはLoeb Classical Libraryのフィロン校訂版全10巻+補遺2巻のうちの第4巻に当たります。簡単なイントロと英訳がついているので助かります。

『予備教育』に関しては、まだブリル書店のフィロン注解シリーズが出版されていないため、いわゆるコメンタリーはありません。関連書籍・論文としては、たとえば以下があります。
  • A. Mendelson, Secular Education in Philo of Alexandria (Cincinnati: Hebrew Union College Press, 1982).
0878204067Secular Education in Philo of Alexandria
Alan Mendelson
Hebrew Union College Pr 1982-06by G-Tools
  • A. Kamesar, "Philo, Grammatike and the Narrative Aggada," in Pursuing the Text: Studies in Honor of Ben Zion Wacholder on the Occasion of his Seventieth Birthday, eds. J.C. Reeves and J. Kampen (Sheffield: Sheffield Academic Press, 1994), pp. 216-42.

2014年1月19日日曜日

書簡とは何か? Trapp, "What is a Letter?"

  • Michael Trapp, "What is a Letter?" in Greek and Latin Letters: An Anthology, with Translation, ed. M. Trapp (Cambridge: Cambridge University Press, 2003), pp. 1-5.
Greek and Latin Letters: An Anthology with Translation (Cambridge Greek and Latin Classics)Greek and Latin Letters: An Anthology with Translation (Cambridge Greek and Latin Classics)
Michael Trapp

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ギリシア・ラテン文学の書簡アンソロジーのイントロを読みました。著者のTrappは、書簡をゆるやかに定義する説明として、以下の6点を挙げています。すなわち書簡とは:
  1. ある人から別の人(あるいは人々)へと書かれたメッセージ。
  2. 何らかの触ることのできる媒体に書きとめられたもの。
  3. 送り主から受取人へと物理的に送られるもの。
  4. 送り主と受取人の取引を明記するような、定型の挨拶文が冒頭と結びにあるもの。
  5. 送り主と受取人とが互いに離れたところにいて、直接会うことができないときのためのもの。
  6. ある程度の長さでまとまっているもの。
また書簡の種類としては、(1)パピルス、木、鉛などに書かれたオリジナルが実際に残っているもの、(2)オリジナルは失われたが、石などに碑文として残されて、広い読者に読まれ得るもの、(3)オリジナルは失われたが、より広い読者層のために写本で伝承され、書物のかたちを取っているもの(古代末期から中世およびルネサンスに至るまで)、があるとしてます。さらに、書簡の持っている特徴を、その真正性と虚構性を軸に、以下の5種類に分けています:
  1. 歴史的な個人によって、誰かに送るために書かれたが、その後、編纂された集成のかたちでは出されなかったもの。
  2. 歴史的な個人によって、誰かに送るために書かれたが、その後、より広い読者層のために編纂された集成として出版され、なおかつ何らかの改善も施されたもの(例:キケロー、ヨハネの手紙のヨハネ、プリーニウス、フロントー、ユリアノス、リバニウス、バシレイオス、グレゴリオス、ヒエロニュムス、アウグスティヌスなど)。
  3. 歴史的な個人によって、誰か別の歴史的な個人へと書かれた書簡だが、実際にはその個人あてのものとしては送付されず、むしろ最初からより広い読者層に読まれることを想定して書かれたもの(例:セネカ、ホラーティウス、オウィディウス、さらにはマールティアーリスやユリオス・ポリュデウケスなど)。
  4. あたかも歴史的な個人によって、誰か別の歴史的な個人へと書かれたように見せかけて、実は偽作者によって、広い読者層に読まれることを想定して書かれたもの(「偽典」、例:キオーン、アイスキネース、ディオゲネース、クラテース、ファラリスなど)。
  5. 創案された人物によって、創案された人物へと書かれたもの。そこでの人物たちは、著者自身によって創案される場合と、先行する文学から取られる場合とがある(プラウトゥス、ペトローニウス、ゲメッルス、アルキフローン、フィロストラトスなど)。
Trappは、確かにさまざまな書簡を、虚構性の度合い(degree of fictionalizing)をもとに分けることは可能だが、あまりそれを推し進めすぎてもいけないと述べています。なぜなら、実際にはいかなる書簡もその両方の性質を兼ね備えているからです。歴史的な出来事を主題としたものでも、その内容は著者によって、意識的・無意識的かを問わず、何らかの選定をされていますし(personalized version of the reality)、さらには著者が誰に対して書いているかによって、著者が想定している読者からの印象も変わってくるからです(persona)。いずれにせよ、書簡とは、書き物のうちでも、かなり多様な性質を持っているといえます。