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2019年11月24日日曜日

パウラの墓碑銘 Cain, Jerome's Epitaph on Paula

  • Andrew Cain, Jerome's Epitaph on Paula: A Commentary on the Epitaphium Sanctae Paulae (Oxford Early Christian Texts; Oxford: Oxford University Press, 2013), 1-39.

本書は、長年のパートナーだったパウラの死を悼んでヒエロニュムスが書いたテクストの解説とコメンタリーである。パウラは347年5月5日にローマで生まれた。母親ブレシラはスキピオーとグラックス兄弟の子孫であり、父親ロガトゥスはアガメムノンを先祖に持つ高貴なギリシア系の家系に連なる者だった。パウラはユリウス・トクソティウスというあまり冴えない元老院議員と結婚し、ブレシラ、パウリナ、エウストキウム、ルフィナ、トクソティウスの5人の子供を産んだ。381年に夫と死別すると、パウラはその後の人生を修道に捧げ、寡婦として過ごした。

382年のサラミスのエピファニオスとアンティオキアのパウリノスのローマ訪問に際し、ラテン語通訳として同行したヒエロニュムスは、2人を客人として受け入れたパウラと知り合った。それ以降ヒエロニュムスとパウラは、404年のパウラの死が二人を分かつまで、長い時間を共に過ごすことになる。『聖パウラの墓碑銘』あるいは『書簡108』(以下『聖パウラ』)はパウラの死後数ヶ月経ってから書かれた。これは歴史的なパウラの生涯を再構成する際の主要な一次資料である。それと同時に、女性の霊性に関する核心的なテクストでもある。このテクストについては、Susan Weingartenなどの先行研究があるが、鍵となる文学性、プロパガンダ性、そして祭儀性といった側面が等閑視されてきた。

文学的系譜。『聖パウラ』は前もってよく考え抜かれた著作である。その底部にはきわめて高度な質の文学的技術が横たわっている。ジャンルとしては、演示弁論の一形態である追悼演説(エピタフィオス・ロゴス)と考えられる。これはデモステネスの注解者として知られるラオディキアのメナンドロスによって論じられているもので、彼によると、追悼演説は、家族(ゲノス)、生まれ(ゲネシス)、性質(フュシス)、生い立ち(アナトロフェー)、教育(パイデイア)、そして品行(エピテーデウマタ)に応じて、内的に整理されたものであるという。結部には何らかの慰めの言葉があることが多い。『聖パウラ』はこの枠組みによく馴染むが、はみ出しているところもある。ヒエロニュムスのような技術のある作家は、修辞学者が決めたルールを創造的に曲げ、自分の腕前を示すからである。

ヒエロニュムスは、自分の作品を追悼演説として書きつつ、伝記的要素もかなり入れたが、他の文学形式のセレクションも組み合わせている。たとえば、旅行記(iter/itinerarium)、聖書注解、論争的な補遺、神学的な論争書(altercatio)、修道院法規(regula)、叙事詩、追悼詩などである。ヒエロニュムスはこれらの要素をシームレスに混ぜ合わせて、散文、詩文、悲歌、聖書へと分類するスキルを示したのだった。

ヒエロニュムスは、パウラの死による痛手がいかに大きいものだったかを、パウラの娘のエウストキウムに書き送っている。休むことを知らない多産なヒエロニュムスが研究できない状態にあるということは、その悲しみの大きさを物語っている。『聖パウラ』を書いたのも、パウラを賞賛し、エウストキウムを慰めることで、実際には自分自身にセラピー的に貢献したかったからである。またヒエロニュムスは、キリスト教世界を通じて『聖パウラ』が回覧され、多くの人々に読まれることを期待していた。

ヒエロニュムスとパウラが住んだベツレヘムは二様に有名だった。第一に、ダビデの町であること、そして第二に、ベツレヘム周辺の洞窟でイエスが生まれたとされていることゆえにである。福音書には書かれていないが、2世紀の後半までにはイエスが洞窟で生まれたという逸話が流布していた(ユスティノス、オリゲネス、ヨアンネス・カッシアウヌス)。327年にはコンスタンティヌス帝がこの洞窟を正式に聖なるものとし、その上に聖誕教会を作った。エルサレムから歩いて1時間20分ほどのところにあるベツレヘムは、巡礼者たちが引きも切らず訪れる場所となった。ヒエロニュムスが住むより前には、すでに2つの修道共同体があった。

4世紀にはエルサレムが最も聖なる場所とされることがしばしばあったが(『タンフマ』、エルサレムのキュリロス)、ヒエロニュムスはエルサレムよりもベツレヘムを高く評価した。F.-M. Abelはこの理由を、ヒエロニュムスがオリゲネス主義論争で仲たがいしたルフィヌスがエルサレムにいたためだと指摘しており、多くの研究者も同意している。ベツレヘムへの特別視はパウラも受け入れていた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』でのローマからベツレヘム定住までのパウラをアブラハムになぞらえ、巡礼者たちの旅行ガイドブックとしても役に立つようにしている。

15-26章は特に、パウラの聖性を強調している。これは、パウラを聖書的な敬虔さのモデルとすることで、その指導者であるヒエロニュムス自身の修道的、神学的、学者的な関心の典型にしようとしたのである。修道的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの修道的原理を体現し、莫大な財産を惜しげもなく貧者に施している。このことを強調するために、ヒエロニュムスは『聖パウラ』における彼らのローマでの最後の3年間の時系列を変え、自分たちが聖書的原理に従って行動していたように描いている。

聖書の学者的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの聖書研究を代表する女性である。『聖パウラ』の中でパウラが何かを語るたび、彼はそこに聖書の一節を入れ、彼女が聖書を暗記していることを強調した。パウラはその死に際しても聖書を口の端に上している。つまり、「三言語の男」たるヒエロニュムスの女性版として理想化されているのである。それゆえに、パウラはラテン語なまりのないヘブライ語で詩篇を朗誦することができたと描写される。それだけでなく、そうした知識を用いて適切な聖書解釈を展開することさえできたという。聖パウラを通して、ヒエロニュムスはヘブライ語の学習が修道的敬虔さといったキリスト教徒としての原理に即することを示そうとした。

神学的な観点から見ると、ヒエロニュムスはパウラがオリゲネス主義をはじめとする異端に嫌悪感を抱いているさまを描いている。オリゲネス主義論争において特に役割を持っていたわけではないが、パウラは論争におけるヒエロニュムスの「勝利」を喜んだ。聖性を帯びたパウラが嫌っているということは、敵対者たちへの攻撃のよい口実になった。

古代には葬礼でのスピーチを洗練させた聖者伝がしばしば書かれた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』を聖人伝として書くことで、それが「聖パウラの祭り」の土台となるはずだと考えていた。初期キリスト教会では、殉教者たちが霊的完成を体現しているとされていたが、ヒエロニュムスの時代には、血を流さない殉教者として修道者がその代わりを努めるようになった。そして殉教者が教会で祭られているように、修道者であるパウラもまた祭られるべきと考えたのだった。ただし当時からすでに、殉教者を祭ることは一種の偶像崇拝であるとして、この見解を批判するウィギランティウスのような人物もいた。これに対しヒエロニュムスは反論し、殉教者を賛美することは、彼らが仕えていた神を賛美することだと主張した。そのためにヒエロニュムスはパウラの墓の場所を正確に記し、彼女への祭儀(蝋燭を灯し、一晩中その火を守る)の焦点とした。『聖パウラ』に付された2つのヘクサメトロス形式の墓碑銘も、読者がベツレヘムに来るための手引きの役割を持っている。またパウラとイエスが同じ聖なる場所を共有しているほど近い関係であることも強調した。

ヒエロニュムスはパウラがいかに愛される存在だったかを描いている。そのため、彼女の葬礼のために多くの人が集まったことを紹介している。そして教会の聖餐式で他の殉教者たちと共に名前が呼ばれるように、殉教者名簿に載せられるべき聖人であることを強調した。その甲斐あって、最初の普遍的な教会祭儀のカレンダーであるMartyrologium Hieronymianumでは1月26日が聖パウラの日とされている。この殉教者名簿の作成者は、明らかにヒエロニュムスの『聖パウラ』をソースとしている。このほかにも、ベーダ、フロルス、アドー、ウスアルドらがパウラについて書くときは、『聖パウラ』に依拠している。

結論としては、『聖パウラ』はヒエロニュムスの作品のうちでも最上のもののひとつである。エウストキウムを慰め、また生涯の友人を記念するという個人的な理由のほかにも、霊的な成功をおさめたパウラを自分の指導の成果として描くことで、彼女を自分の修道思想のアイコンにするという理由もあった。パウラは日々語学の研鑽を欠かさず、語る言葉も聖書からのものばかりだった。ここでも、ヒエロニュムスは自分の聖書研究を受け継ぐ者として彼女を描いている。パウラのパトロネジ活動もまた彼女の聖性を証している。『ヨシュア記序文』では、「彼女の生涯は徳の模範である(vita virtutis exemplum est)」と現在形を使うことで、パウラの生涯が単に賞賛の対象であるだけでなく、いつの時代も模範とされるべきものだと示した。ヒエロニュムスはベツレヘム、そしてパウラの墓を、パウラを祭るための地理的な焦点とした。そしてパウラの祭儀を赤子としてのキリストの祭儀と関係付けた。パウラがのちに教会で祭儀の対象となったのは、ヒエロニュムスの『聖パウラ』に拠っている。

2019年11月15日金曜日

ヘクサプラ第5欄の目的 Schaper, "The Origin and Purpose of the Fifth Column"

  • Joachim Schaper, "The Origin and Purpose of the Fifth Column of the Hexapla," in Origen's Hexapla and Fragments: Papers Presented at the Rich Seminar on the Hexapla, Oxford Centre for Hebrew and Jewish Studies, 25th July-3rd August 1994, ed. Alison Salvesen (Texte und Studien zum Antiken Judentum 58; Tubingen: Mohr Siebeck, 1998), 3-15.

本論文はヘクサプラの第5欄のテクストの起源と、オリゲネスがこれを編纂した目的を明らかにするものである。ヘクサプラの実際のテクストに関する信頼できる証言というものは存在しないが、近年ではオリゲネスの注解やその他の著作のキーパッセージをより正しく理解できるようになってきたために、1875年にFieldがヘクサプラ校訂版を出版した時代よりは有利である。

ヘクサプラについてのオリゲネス自身の証言として重要なのが、『マタイ福音書注解』15.14、『アフリカヌスへの手紙』2-4、『ホセア書注解』(『フィロカリア』52-54所収)である。『マタ注解』によると、オリゲネスは旧約聖書のアンティグラファ間の「不協和音」を「癒す」ことを目指したという。ここでの「アンティグラファ」は、基本的にギリシア語訳聖書の諸版のことを指しているが、オリゲネスは校訂記号を用いてギリシア語とヘブライ語の両テクストの違いにも言及しているので、アンティグラファも両者を指すことがあるといえる。

ただし、オリゲネスはあくまでもギリシア語テクストに重きを置いており、その目的も究極的には教会の伝統的な七十人訳に基づいた信頼できるギリシア語テクストを作成することだった。ヘブライ語テクストは、テクスト批判の最後にギリシア語テクストに関する議論を裏付けるために参照するわけである。その意味で、オリゲネスはキリスト教伝統に忠実であると同時に、文献学への厳格な要求を持った人物だった。

『マタ注解』で論じられているのはヘクサプラの第5欄作成の方法論についてなのか、それともテクストとして分離した七十人訳についてなのか、これまで議論されてきた。後者を採る見解の依拠する理由としては、第一に、エウセビオスが第5欄における校訂記号の使用に言及していないから、第二に、現存するヘクサプラの写本には校訂記号が書かれていないから、第三に、ヘクサプラに校訂記号が書かれていたというエピファニオスの証言は信憑性が低いから、第四に、R. DevreesseやS. Jellicoeがまた違った角度から第5欄における校訂記号の使用を否定しているから、そして第五に、ヘクサプラのテクストがオリゲネスの改訂を反映しているのかパンフィロスとエウセビオスのそれを反映しているのかはっきりしないから、である。それゆえに、研究者たちはオリジナルのヘクサプラの第5欄は校訂記号を含んでいなかったし、またオリゲネスが『マタ注解』で言及しているのは切り離された七十人訳の改訂版だと主張した(Kahle, Barthelemy, Devreesse, Neuschaeferなど)。

ところがP. Nautinは上の説に反対し、第5欄のことが論じられていると考えた。なぜなら第一に、シロ・ヘクサプラには校訂記号があるから。第二に、ヒエロニュムスが『歴代誌序文』で用いているeditio Septuagintaという語は、分離された七十人訳の「エディション」と考えるべきではなく、むしろ単純に七十人訳の「ヴァージョン」と考えるべきだから、である。こう考えると、現存する写本に校訂記号がないことは「沈黙からの議論」にすぎないといえるし、またエピファニオスの主張の信憑性も回復する。さらに、ヘクサプラの現存する断片がそもそもオリゲネスによる第5欄に関するものなのか、それともパンフィロスやエウセビオスによる後代の改訂が入ったものなのかが、オープンクエスチョンになる。

Nautin説を参照しながら、論文著者は、オリゲネスが言及しているのは分離されたものではなく第5欄のことであり、オリゲネスはヘブライ語が初級レベルであるがヘブライ語写本をも参照しており、また結局のところヘブライ語写本よりもギリシア語写本を重く見ている、と説明する。ではオリゲネスは第5欄にどのような目的をあてがったのだろうか。Nautinによれば、ヘクサプラそのものにギリシア語テクストに対する本文批評的な理由は見出せず、むしろそれはヘブライ語原典を再構成するための個人的な批判的ツールだったという。しかし、Kamesarはこの見解に反対する。校訂記号は、読者を想定していたことを示している。

他には、第5欄は「学問的」なものなのか「論争的」なものなのか、という議論がある。つまり、第5欄が歴史的・文献学的に正確なテクストを作ろうとする学問的関心による産物なのか、それともキリスト教的護教論の要請に動機付けられたものだったのか、という問いである。「学問的」である証拠としては、第一に、聖書諸写本間の不協和音を「癒す」努力をしており、第二に、オリゲネスは聖書に登場するさまざまな名前をヘブライ語の形式に合わせて正しており、第三に、七十人訳の語順をテクスト破損の結果だと考えており、そして第四に、アステリスコス記号のもとにある(=七十人訳にはないがrecentioresにはある)箇所にコメントをしていることなどから、明らかである。

一方で、『アフリカヌスへの手紙』によれば、オリゲネスはその学問的な関心にもかかわらず、護教論に突き進んだ敬虔なキリスト者であり、第5欄もユダヤ教に対する論争における有用な武器だった、という解釈もある。さらに、護教的な理由から、本来であればヘブライ語テクストを中心にしたいという本心を持っていたが、それを隠していたという解釈も導かれる(N. de Lange)。しかし、Kamesarは、オリゲネスの究極的な関心は七十人訳であることから、この解釈を否定する。オリゲネスの聖書解釈には、翻訳には何らかの神的導きがあると信じる「オイコノミア」の考えに基づいているので、『エレミヤ書説教』15.5にもあるように、ヘブライ語の読みもギリシア語の読みも解釈の対象となるのである。Kamesarによれば、オリゲネスは七十人訳の逸脱も含む全体を肯定的に捉える一方で、ヘブライ語テクストに基づいてそれを正そうともしており、この両方の見解が自己矛盾していないのである。それゆえに、オリゲネスの意図を「学問的」か「論争的」かと対立的に考えることはできない。

2019年11月10日日曜日

第七洞窟のギリシア語断片 Muro, "The Greek Fragments of Enoch from Qumran Cave 7"

  • Ernest A. Muro, Jr., "The Greek Fragments of Enoch from Qumran Cave 7 (7Q4, 7Q8 & 7Q12 = 7QEn gr = Enoch 103:3-4, 7-8)," Revue de Qumran 18.2 (1997): 307-12.

1955年に発見された第七洞窟から24の巻物が発見された。すべてパピルスに書かれたギリシア語写本である。1972年にO'Callaghanは7Q4 1&2をテモテⅠ3:16-4:3、また7Q8をヤコブ1:23-24だと同定した。これに対し、1988年にNebeは、7Q4 1が『エノク書』103:3-4、7Q4 2が同98:11、そして7Q8が同103:7-8であると同定した。O'Callaghanを支持するThiedeはNebeの説に反対したが、PuechがNebeを擁護した。

これらの説はどれも決定的ではないが、7Q4, 7Q8, 7Q12を個別の写本として検証している点では共通している。これに対し論文著者は、3断片を同じ写本に由来するものとして統一的に検証することが必要と主張した。そうすることで、論文著者はNebeのエノク書説を支持しようとしている。

写本に書かれた方眼や繊維の方向、あるいはパピルスの端の曲がり方といった物的な証拠から、3断片は同じ写本に由来するだけでなく、もともとひとつながりであったことが分かる。文字の形や内容などのテクスト的な証拠からは、このテクストが『エノク書』からのものだということが分かる。

物的な証拠とテクスト的な証拠から、7Q4, 7Q8, 7Q12はひとまとまりであり、『エノク書』103章のギリシア語テクストであることが判明した。ゆえにNebeの同定は正しい。7QEn grのような新しい表記法が必要である。

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フィロンにおける自由学芸 Mendelson, "Encyclical Studies in Philo"

  • Alan Mendelson, Secular Education in Philo of Alexandria (Cincinnati: Hebrew Union College Press, 1982), xvii-xxv, 1-24.

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導入

ヨセフスが伝えているソロイのクレアルコスによるアリストテレスとユダヤ人との邂逅譚からも分かるように、ギリシア文化はユダヤ人にも浸透していた。しかしそれはパレスチナにおいてよりも、アレクサンドリアにおいて顕著であった。中でもフィロンはギリシア語訳聖書を用いて悪びれず、むしろヘブライ語テクストと同等の価値を認めた。さらにフィロンは、トーラーの問題を解決するためにギリシア哲学から本質的な点を借用した。すなわち、フィロンのギリシア哲学への依拠は単に便利さの問題ではなく信念の問題だったのである。フィロンやその読者にとって、ギリシア哲学は聖書を新しい意味で満たすものであった。これは非常に深いユダヤ教とヘレニズムのフュージョンといえる。

一方で、フィロンはユダヤ教徒としての意識も強く持っており、哲学はあくまで聖書の侍女であり、聖書こそがフィロンの思想を規定していた。それゆえに、フィロンはプラトンからの強い影響を受けていたにもかかわらず、ギリシア文化の理想としての同性愛には強く反対していた。なぜなら同性愛はレビ記などで否定されているからである。フィロンはギリシア文化とユダヤ教との間に線を引いていたのである。

こうした観点から、本書はフィロンがギリシアの世俗の教育、いわゆる自由学芸についてどのように適切に用い、また拒絶したのかを明らかにするものである。当時のユダヤ人がギリシア的教育に対して取った態度には、パレスチナで見られたように完全に拒否する者もいれば、フィロンの甥のティベリウス・ユリウス・アレクサンデルのように無批判に完全に受け入れた者もいた。ギリシア的教育に対するフィロンの態度を知るには、『予備教育』を検証する必要がある。

自由学芸の問題は研究に値する。というのも、2つの特異点、すなわち宗教的な点と哲学的な点が認められるからである。第一に、宗教的な特異点としては、伝統的な宗教と世俗の教育が出くわした際に起こる聖性と冒涜との緊張である。その例としては、ラビ・ユダヤ教とギリシア的知恵(ホフマー・ヤヴァニット)との邂逅がある。バビロニアでもパレスチナでも、ラビたちはギリシア的知恵を異端に近いものと見なしていた。霊的な価値を持たない世俗的な体系を聖書の聖なる教えとどのように折衷させるか、という問題はラビとフィロンに共通のものであった。

第二に、哲学的な特異点としては、キオスのアリストンが述べるように、自由学芸や科学はそれ自体を学ぶのではなく、哲学というより高次の知識の予備的な教育として学ぶ必要があるという考え方があった。自由学芸を意味する「エンキュクリオス・パイデイア」という用語自体はシケリアのディオドロスやハリカルナッソスのディオニュシオスより前には見られないが、同様の見解はプラトンやクセノフォンからセネカにまで見られる。哲学と自由学芸の関係は、ペーネロペーとその侍女の関係に対比されたが、フィロンはこれをサラとハガルの関係で説明した。ただし、フィロンはさらにそこから一歩進み、自由学芸にも固有の霊的価値があると理解している点で異なっている。フィロンの教育論に関する先行研究は、Colson, Marcus, Alexandreらのものしかない。


第1章:フィロンにおける自由学芸

「パイデイア」(教育)という言葉は、教育の過程を指す場合と、教育の結果を指す場合がある。フィロンも両方の意味でこの語を用いている。またパイデイアの欠如は、訓練されていない、規律がない、文明的でない、などといった状態であると見なされた。

「エンキュクリオス・パイデイア」は、フィロンにおいて、自由学芸および科学の教育のこと指している。最近までエンキュクリオス・パイデイアは「エンキュクリオス」という語から、「すべての人が享受可能な、毎日するような通常の教育」の意味だと捉えられてきた(H.I. Marrou)。しかしM. AlexantreやL.M. de Rijkらは、「エンキュクリオス」がもともと音楽用語であること、また音楽や文化一般が人間に教え込むべき調和というところからより広い教育的な意味を持つことを指摘している。フィロンにおいても、エンキュクリオス・パイデイアは普通の日常のトレーニングではなく、調和における教育を意味している。フィロンは同義語として、メセー・パイデイア、メサイ・エピステーマイ、メサイ・テクナイ、あるいはメサイ・テクナイといった表現を用いている。

自由学芸には七科があることが知られている。三科としては、文法学、修辞学、弁証学があり、四科としては、幾何学、算術、音楽、天文学がある。重要なことに、三科と四科の区別はしていないものの、フィロンはこれらすべての科目に言及している。そして、これら以外の科目には言及していないこともまた重要な点である。自由学芸に言及したテクストには、『予備教育』74-77、『ケルビム』105、『農耕』18、『夢』1.205、『出エジプト記問答』2.103、『予備教育』11, 15-18、『創世記問答』3.21、『モーセ』1.23の8つがある。これらのテクストによると、自由学芸一般の特徴として、国際的な由来を持つこと、また(知的な世界ではなく)感覚的な世界に属することが挙げられる。

文法学。『夢』によると、文法学は初等教育としての読み書きと、より高次の教育としての詩人についての知識や古代の歴史の学習に分かれるという。前者はグランマティスティケー、後者はグランマティケーと呼ばれる。「文学(Letters)」と呼ぶに相応しい後者の文脈では、文学は否定的な例を挙げることで避けるべき振る舞いを示すという役割がある。フィロンにとって肯定的な、模倣するべき徳の源泉は常に聖書であった。こうした「上向きの」学びは、最終的には哲学に行き着くものであった。

修辞学。修辞学を学ぶ者が涵養すべきは、思考(heuresin)、表現(phrasin)、整理(taxin)、取り扱い(oikonomian)、記憶(mnemen)、伝達(hypokrisin)である。修辞学は、言語的な能力が決定的になるような場面において重要になってくる。フィロン自身は修辞学を、アレクサンドリアのソフィストたちとの戦いにおいて自己を防衛するために必要不可欠な武器だと見なしていた。ただし、それだけではなく、修辞学の最終的なゴールは最後まで確実に正しく理解されるようなスピーチをすることでもである。そのために、フィロンはストア派のロゴス論、すなわち心の中にある思考からの動きを促進するロゴス・エンディアテトスと、弁論の中に映されたロゴスであるロゴス・プロフォリコスを取り入れている。ただし、知識の体系というよりもマスターするべき技術である修辞学は直接哲学へと繋がっているわけではない。修辞学自体はソフィストの持っている技術である。

弁証学。フィロンが自由学芸について触れている8つのテクストの中で、弁証学については『予備教育』18でしか言及していない。フィロンは弁証学と修辞学は双子の姉妹であると位置づける一方で、両者を区別してもいる。キティウムのゼノンによれば、修辞学が分かりやすい物語によって述べられたことを上手に説く科学であるのに対し、弁証学は問答によってある主題を正確に論じるものであるという。つまり、修辞学の強調点は形式的な技術ではなく語りの巧みさであるが、弁証学は構造を持つ原理である。弁証学は論理学とも比較できるが、哲学の一分野として抽象的な問題を扱う論理学と異なり、弁証学はより具体的な現実生活を扱う実用的なものである。

幾何学。これは七科のうち、8つのテクストのすべてで言及されている唯一の科目である。幾何学の学習には2つの利点がある。第一に、実用的な点としては、計算を必要とするような事柄において完全な正確性をもたらすことができる。第二に、倫理的な点としては、幾何学が平等と均整を学ぶことを愛する魂を涵養することができる。とりわけ平等は、原理そのものの主要な特徴であると同時に、その学びから得られる望ましい教訓でもある。ただし、幾何学も文法学同様に、突き詰めるとある点から哲学に変わってしまう。

算術。8つのテクストのうち4つで言及されている。算術はものごとにおける完全な正確さを得るためのものである。また数秘術的な伝承を学ぶためのものでもある。「数秘術(arithmetic)」と「数学(arithmology)」の区別はフィロン自身はまったくしておらず、同じものと考えている。フィロンは小数、集合、累乗の定理、比例などを知っていた。フィロンの数に関する説明の多くは、あまり専門的でない算術と伝承の組み合わせといっていい。そしてそれをある種の倫理的価値観でまとめている。

音楽。8つのテクストのうち6つで言及されている。最も詳しい説明をしている『予備教育』76からは、フィロンが音楽の専門用語に通じており、また音楽の学びの範囲が理論に向けられていることが分かる。一方で、理論でない実用的な記述もある。快楽をもたらす芸術である音楽を忌避すべきという見解も持っていた。

天文学。古代において、上のさまざまな科目の掉尾を飾るのが天文学である。科学の女王ともいえるが、フィロンは『予備教育』11でしか触れていない。天文学が科学としての統一性を欠いているからと説明するとする研究者と、天文学が現世的な科学を超越しているからと説明する研究者がいるが、本書の著者はこれらの説明をいずれも退ける。

まず統一性を欠くからと説明するColsonは、天文学は幾何学の一部門と見なすべきというクインティリアヌスの主張を紹介するが、フィロンとクインティリアヌスは目標が異なる。Drummondはフィロンが天文学を過小評価したと主張するが、これはフィロンの記述を表層的にしか読んでいないための結論である。フィロンは現在で言うところの天文学と占星術を曖昧ながらも区別しているので、その天文学に対する態度は複雑である。星の崇拝のようなやり方には攻撃を加えるが、純粋に研究された天文学そのものを過小評価することはない。

現世的な科学を超越しているという説明はBréhierに見られる。彼によれば、天文学は他の諸学芸と共に置かれるべきではなく、知恵への最初の一歩であるという。それどころか、星の神聖視するような記述すらある(「星は神聖な魂である」『巨人』8)。Wolfsonはこの表現はギリシアの大衆的な宗教からの単純な言葉の借用なので、実際に神聖視していたわけではないと説明する。Goodenoughは、フィロンが否定していたのは低級な神々を崇拝することであって、その存在そのものではないと主張することで、フィロンの一身強敵見解と『巨人』での発言を両立させた。しかし、フィロンにとって星を含む天はそもそも現世的な感覚世界の問題である(『予備教育』50)。

天文学astronomiaと占星術astrologiaの用語について、Marrouは、両方ともわれわれが科学と呼ぶものと迷信と呼ぶもの両方を指し得ると説明する。しかし、古代人が天文学において彼らが科学的と考える部分と迷信的と考える部分を区別していたかは分からない。フィロンはastrologiaという語はまったく用いていないがastronomiaは頻繁に使っている。似た用語として、meteorologia、meteorologikos、chakdaikosなどは肯定的にも否定的にも用いられていることから、その使用は体系的でない。フィロンは今では占星術の一種と呼ぶべき兆しやお告げも重要視している。星座の理解も天文学を学ぶ者が重視すべきことと考えている。ただし、星座そのものを崇拝することは禁止する。天文学のリミットを知らない者は星の決定論や唯物論や汎神論のような異端的な考え方に至ってしまうので、注意が必要である。

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2019年11月3日日曜日

『エノク書』コメンタリー書評 Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch" Collins, "Review"

  • Annette Yoshiko Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch: Reflections on George Nickelsburg's Commentary on 1 Enoch 1-36, 81-108," Archiv für Religionsgeschichte 5 (2003): 279-96.

本論文はGeorge Nickelsburgの『エノク書』コメンタリーの書評論文である。西洋近代における『エノク書』の研究のはじまりは、翻訳と注解の作成が中心だった。1773年にJames Bruceがゲエズ語写本を欧州に持ち込むと、研究者たちは同書と、新約聖書のユダの手紙、テルトゥリアヌス『女性のファッションについて』、ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記抜粋』での言及や引用とのつながりに気づいた。当時のプロテスタント聖書学に基づき、ソース・クリティカルな方法論が適用された。

20世紀初頭になると、新しいギリシア語訳断片が発見されたことでさらなる研究が続いた。R.H. Charlesはそのテクスト、文学構造、さらにはゲエズ語訳やギリシア語訳のもとになったセム語原典を探求した。その意味では、この時代の研究は文学的な分析よりも『エノク書』の編集過程の理論に偏っていた。そうした文献学的な研究は、プロテスタント聖書学のソース・クリティシズムへの盲信に基づいていたといえる。とはいえ、『エノク書』がより以前のユダヤ起源の5つの文書から成っていることがコンセンサスとなるだけの効果はあった。

ここまでを『エノク書』研究の第一のルネッサンスだとすると、第二はクムランでのアラム語断片の発見とJ.T. Milikによるその出版である。Nickelsburgはこの第二期の重要人物である。彼は折衷的なベーステクストを再構成してそこから翻訳している(Knibbの校訂本はdiplomatic)。書評対象のコメンタリーでは、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」および、「天文の書」の一部とされる81-82章を扱っているが、これは『エノク書』の核となる文学的ユニットが、1-36 + 81:1-82:4c + 91:1-10, 18-19 + 93:1-10; 91:11-17 + 93:11-94:5 + 104:10-105:2という構成の「エノクの遺訓(Enochic testament)」であるというNickelsburgの見解に基づく。

『エノク書』の編纂過程を再構成するために、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」をすべて含む4QEn(c)は、鍵となる証言である。Milikはこの写本に基づき、クムラン共同体は「エノク五書」を所有していたと考えた。すなわち、上の3書と「巨人の書」が合わさった巻と、個別の「天文の書」の巻の2巻本である。Milikは4QGiants(a)は4QEn(c)の一部だったと考えている。さらに彼は「たとえの書」はキリスト教徒によって後3世紀に書かれ、のちに4世紀に「巨人の書」と入れ替わったのだと主張している。Milikのこの「エノク五書」理論はJonas GreenfieldとMichael E. Stoneによって、証拠不十分として否定されている。

Nickelsburgの見解は、4QEn(c)を出発点として用いるという点でMilikに従っている。ただし、Milikがそれを初期のエノク選集の証拠と考えるのに対し、Nickelsburgはそれを、遺訓構造によって統一された新しいエノク・テクストの成長におけるひとつの段階の証拠と考える。彼によれば、「寝ずの番人の書」がエノクの遺訓の核であり、それに他の付加的な材料がくっついたのだという。

Nickelsburgによる『エノク書』の編纂過程は次のようである。前3世紀の第一段階(プロト遺訓期)はもともと、6-36章と81:1-3だけだった。このプロト遺訓は81:5-82:3と91-94, 104-105のような「遺訓的材料」も含んでいたかもしれない。これに1-5があとから付け加わった。

前2世紀の第二段階(遺訓期)には、1-36 + 81:1-82:4 + 91 + 92-105の一部などが結びついた。次に85-90が付け加えられ、さらに92-105が完全になった。前1世紀の中盤にはノアの誕生に関する106-107が最後の部分につけられた。

第三段階(『エノク書』のアラム語アーキタイプ期)にはエチオピア語訳『エノク書』の原型が完成した。1-36のあとには「たとえの書」が挿入され、最後に108が結部に付加された。

論文著者はこうしたNickelsburgの主張はあまりに仮説的であると考える。4QEn(c)に重きを置いているが、この断片は彼の主張のすべてを支持していない。彼の再構成の多くは「物語のロジック(narrative logic)」に基づいている。また彼はこの著作が形式において遺訓的であることを前もって決めてしまっているが、ここでの「遺訓的な」というのはかなりルースな意味でしかない。そして最も問題ある主張は、『エノク書』の「オリジナルの」核が一貫した全体を持っており、それがのちに損なわれていったというものである。これは、論文著者によれば、プロテスタントの聖書学からの悪い影響であるという。J.J.Collinsが主張するように、一貫性という現代のわれわれの概念を『エノク書』に
当てはめるべきではない。Milikと同様に、Nickelsburgも、クムランのエノク資料の選集を『エノク書』のエチオピア語訳と結ぶ単一の発展がある(それゆえにギリシア語訳の証拠能力は低い)という思い込みを持っている。

Nickelsburgは「寝ずの番人の書」におけるエルサレムの中心性や聖性を低く評価している。論文著者によれば、この彼の考え方――エノクは神殿のないエルサレムを好むという考え方――は、同書における天的な神殿への言及はすべて地上の神殿や犠牲の否定を反映しているという問題ある憶測に基づいているという。確かに、「夢幻の書」や「エノク書簡」のような前2世紀の文書には、神殿の祭司から自らを切り離そうとするところが見受けられるが、前3世紀の文書である「寝ずの番人の書」には祭司的な含みがある。「寝ずの番人の書」は祭司制との近い関わりを持つ書記のサークルから生じたものだといえる。

さらにNickelsburgは、「寝ずの番人の書」にはトーラーの権威に対するはっきりとした見解が欠けていることから、この著者らにとってシナイ契約やトーラーは中心的な重要性を持たなかったと結論付けている。冒頭での申命記33章への暗示も、モーセの言葉をエノクに帰すことで、モーセの重要性を下げる試みだと見なしている。しかし論文著者は、これらのエノク文書の最初期の読者である『ヨベル書』の著者は明らかにエノクとモーセの啓示を同時に権威あるものとしている。またNickelsburgが『エノク書』でのトーラーや神殿の軽視をパウロやイエスに、そして初期キリスト教徒につなげて考えていることについては、慎重でなければならない。

Milikの研究が大きく受け入れられてはいないものの、触媒となってさまざまな研究を引き起こしたように、論文著者は、Nickelsburgのコメンタリーも同様の効果を生むことを期待している。このコメンタリーはさまざまな必要性を強調している。たとえば、新しい折衷的な校訂版、ギリシア語訳のさらなる精査、捕囚後のユダヤ教の預言的また知恵的な流れとの関係性の解明、そしてキリスト教の受容史の探求などである。


  • John J. Collins, "Review of Nickelsburg, 1 Enoch 1: A Commentary on the Book of 1 Enoch, Chapters 1-36; 81-108 (Minneapolis: Fortress, 2001)," Dead Sea Discoveries 9 (2002): 265-68.

この巻では『エノク書』を構成する諸文書のうち、「たとえの書」と「天文の書」以外の文書が扱われている。正典外文書に対してこのような詳細なコメンタリーが出版されることはめずらしい。本文のテクストに関して、Nickelsburgは基本的にアラム語とギリシア語から折衷的なテクストを作り、英訳を作成しているが、それはアラム語とギリシア語がある場合、またギリシア語がエチオピア語訳よりも優れている場合である。この英訳は、M.A. KnibbやE. Isaacらのように単一の写本にのみ依拠したものよりも優れているといえる。Nickelsburgの英訳はこれからのスタンダードになるだろう。

文学作品としての『エノク書』の扱いについてが、本書が最も議論を呼ぶ点である。Nickelsburgによると、エチオピア語訳に照らした4QEn(c)の読みから分かるのは、『エノク書』の基本的な内容と文学的な形成は、「エノクの遺訓(Enochic testament)」として構成された文書群に由来しているという。Nickelsburgが考える仮説的な「遺訓」は、「寝ずの番人の書」、『エノク書』81:1-82:4、「夢幻の書」、「エノク書簡」から成っており、初期には「夢幻の書」と「エノク書簡」を欠いたものもあったとする。つまり、「巨人の書」はこの「遺訓」には入らない。

こうした説明は、すべてNickelsburgの想像である。『エノク書』1-36章にはわずかにモーセの祝福の暗示という遺訓的な部分があるが、ジャンルを確立するには至らないほどの量である。「書簡」や91章などは遺訓と見なすことができる。Nickelsburgは黙示的な特徴についてはあまり語らない。

Nickelsburgは、『エノク書』のユダヤ教史における重要性のひとつは、モーセのトーラーの中心的な権威を反映していないことである。その点では、4QInstructionに比すべきである。『エノク書』には前編に亘ってトーラーが暗示的に反映しているのだ、という説明も可能だが、はっきりと触れていない点が重要である。そもそもモーセではなくエノクを主人公にしていることがすでに特徴的である。「寝ずの番人の書」と、イスラエルの歴史を扱うマカベア期の黙示文学(「動物の黙示録」や「週の黙示録」)とは区別されるべきである。

エノク文学の社会状況について、Nickelsburgは、とりわけ堕天使が登場する6-11章からヘレニズム文化への反感を読み取っている。また成立した場所として、12-16章の記述からガリラヤ北部を想定しているが、これは議論の余地がある。

受容史については、『第三エノク書』、時系列の歴史家、アウグスティヌス、エチオピア教会などを詳しく取り上げている。近代の研究史は3期に分けている。第一に、R.H. Charlesが活躍した19世紀、第二に、死海文書の発見以降、そして第三に、1976年にJ.T. Milikがアラム語断片を出版して以降である。

まとめると、このコメンタリーの最大の貢献は、『エノク書』がモーセのトーラーを中心としたヘレニズム期におけるユダヤ教のかたちへの証言であると認めたことであり、一方で最大の問題は、テクストの文学史に関する極めて推測的な仮説を提示したことである。