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2019年3月17日日曜日

ヒエロニュムスとギリシア教父 Courcelle, "Christian Hellenism: St. Jerome #3: Jerome and Greek Patristics"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 90-127.

Late Latin Writers and Their Greek Sources
Pierre Courcelle
Harvard University Press
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ヒエロニュムスのギリシア異教文化の知識の特徴は、それを彼が教会作家を通じて得たことである。伝統的にヒエロニュムスはギリシアについて深い知識を持っているとされてきたが、St. SychowskiやC.A. Bernoulliらによると、『著名者列伝』における記述の多くがエウセビオス『教会史』や『年代記』に依拠しているという。A.von Harnack曰く、エウセビオスがカイサリアの図書館を使うように、ヒエロニュムスはエウセビオスの『教会史』を使ったわけである。

著者はこうした評価を正当ではないと主張する。なぜなら、ヒエロニュムスは確かに『著名者列伝』でエウセビオスに頼ってはいるが、彼自身フィロンのいくつかの論文やヨセフスの全著作を読んだからである。また『著名者列伝』を書いてからさらに28年間執筆活動を続けた人物を、その著作だけで評価するのは公平でない。よりバランスの取れた評価をするために、ヒエロニュムスのすべてのアウトプットを調べなければならない。

使徒教父についてヒエロニュムスはあまりよく知らず、彼らに関する『著名者列伝』の記述はエウセビオスに拠っている。イグナティオスとポリュカルポスを知っていると述べているが、前者については誤った情報を紹介しているし、後者については著作の中で一度も引用していない。ローマのクレメンスの著作は、既存のラテン語訳には従っていないため、ギリシア語で読んだと考えられる。『ヘルマスの牧者』についても原典を読んだわけではなく、オリゲネスの影響でこれを批判することもあれば、エウセビオスに従ってこれを賞賛することもあった。以上から分かるように、2世紀のキリスト教文学についてのヒエロニュムスの知識は不十分であり、エウセビオスに拠らなければ、オリゲネス以前のキリスト教作家についてはほとんど知らなかった。

ユスティノスアンティオキアのクレメンスついてもエウセビオス経由のわずかな知識しなかった。同じくエウセビオスに依拠しつつも、エイレナイオスについてはもう少し詳しく知っていた。エピファニオスからの引用も読んでいた形跡がある。最初の2世紀の教父たちについて、ヒエロニュムスは散漫な知識しか持っていなかった。

オリゲネスの著作は実際に読み、利用していた。F. Cavalleraによれば、ヒエロニュムスがオリゲネスについて最も辛辣だったオリゲネス主義論争の前、その最中、そしてその後も、ヒエロニュムスはオリゲネスの聖書解釈者としての科学的な価値に一片の疑問も持たなかったという。しかし、ヒエロニュムスはオリゲネスのすべての著作に等しく関心を持っていたわけではない。オリゲネスの著作群は、ヒエロニュムスによれば、スコリア(excerpta, enchiridion, scholia, semeioseis)、ホミリア(homilia)、トモイ(volumina, tomoi)の3つに分けられる。ヒエロニュムスはオリゲネスの著作の翻訳をたびたび依頼され、一時は全著作を訳すことを約束したこともあったが、結局は聖書の翻訳など他の仕事が忙しくなり、それは果たされなかった。そこで、オリゲネスの翻訳については、もっぱらホミリアを扱ったのである。オリゲネス主義論争に巻き込まれてから、ヒエロニュムスは、ホミリアは訳しても、教義的な内容を含むトモイは訳さなかったとして、自らを正当化した。しかしオリゲネスの聖書解釈はずっと読み続け、それを自らの注解の中でも採用していた。それは、E. Klostermannによれば、最後の注解作品である『エレミヤ書注解』でも同じだった。しばしばヒエロニュムスはオリゲネスに一字一句従うあまり、オリゲネスがヘブライ人教師から聞いた見解を自分自身の教師から聞いたかのように引用している。

ヒエロニュムスの『書簡33』には、オリゲネスの著作カタログが収録されている。もともと彼の全著作はカイサリア図書館に収蔵され、パンフィロスによってカタログ化されていた。そのカタログはエウセビオス『パンフィロス伝』の第3巻に収録されていたようだが、現在では失われている。パンフィロスおよびエウセビオスのカタログではオリゲネスの著作は2000巻あったとヒエロニュムスが報告しているが、彼自身のカタログには800巻しか載っていないし、収録順にもやや違和感がある。おそらく当時すでにオリゲネスの多くの著作は、アカキオスやエウゾイオスによる写本保存よりも前に、散逸してしまっていたために、ヒエロニュムスは入手できた作品だけを挙げているのだろう。ヒエロニュムスは、説教、教義的著作、注解、往復書簡など幅広く読んでいる。少なくともカタログに挙げている著作はすべて目を通しているし、それ以外にも『ケルソス駁論』、『ヘブライ語の名前について』、『マタイ福音書スコリア』、『ガラテヤ書スコリア』なども読んだ。

ここから、ヒエロニュムスのオリゲネス読書経験は広範囲であり、その知識は我々よりも深い。ヒエロニュムスにとって彼は情報の宝庫だった。ヒエロニュムスは、ある聖書文書やある一節について注解を書くとき、それに対応するオリゲネスの説教を探した。そうした説教が見つからないときには、文中でその旨を断り、その消失を惜しんだ。オリゲネスがたまたまその文書や箇所に関する注解を書いていないことが明らかなとき(たとえばダニエル書の注解はない)、ヒエロニュムスは、オリゲネスの他の著作に該当箇所への説明がないか探した。敵対者たちは、ヒエロニュムスが単にオリゲネス著作をまとめているとして批判したが、彼自身はそれを否定しないばかりか、むしろ誇っていた。

ヒエロニュムスは西方世界でヒッポリュトスを読んでいた唯一の人物でもあった。彼は、当時知られていた19作品すべてではなく、釈義的な作品のみに関心を持っていた。

オリゲネスの論敵たち、たとえば、アレクサンドリアのディオニュシオスオリュンピアのメトディオスの著作にはあまり通じていなかった。

エウセビオスからの影響は極めて大きい。特に『著名者列伝』では、『教会史』、『年代記』、『ヘブライ語の場所の名前について』などへの依拠がはなはだしい。おそらくヒエロニュムスはエウセビオスの全著作を所有していた。エウセビオスはヒエロニュムスにとって、ラテン世界において欠くことのできない情報源だった。ただし、歴史的な情報についてはエウセビオスに負っていても、エウセビオスがひとたび事実関係の記述から外れると、まるで彼を信用していなかった。エウセビオスからの強い影響は、ヒエロニュムスがカイサリアの図書館と密接に結びついていたことを示している。

ラオディケアのアポリナリオスは、ヒエロニュムスが最も読んだ同時代人の一人である。彼の名前を挙げることは稀だが、ヒエロニュムスは彼を最も有益な聖書注解者であると見なし、頻繁に用いている。注解書以外では、『ポルフュリオス駁論』をよく読んでいる。アンティオキアにおいてアポリナリオスを通じて、ヒエロニュムスは、エウスタティオス、エメサのエウセビオス、タルソスのディオドロス、ヨアンネス・クリュソストモス、ヘラクレアのテオドロスなどに親しんだ。

コンスタンティノポリスでは、ナジアンゾスのグレゴリオスをはじめとするカッパドキア教父(ニュッサのグレゴリオス、バシレイオス、イコニオンのアンフィロキオスら)と親交を結んだ。

アレクサンドリアのディデュモスからは三位一体論、特に聖霊論について多くを学んだ。また彼の著作を翻訳することで、アンブロシウスの盗作を暴こうとした。彼の元には一月ほどしか滞在しなかったにもかかわらず、ヒエロニュムスは彼を師と呼んで慕った。一方で、ルフィヌスとの論争が始まると、そのオリゲネスを重んじる姿勢を非難した。

ギリシア文化についてヒエロニュムスが学んだのは、コンスタンティノポリス、アンティオキア、アレクサンドリア、カイサリアにおいてだったが、例外がキプロスのエピファニオスからの影響である。ベツレヘムでも、エルサレムのキュリロスソフロニオスからの影響を受けた。

西方世界においてヒエロニュムスは偉大なヘレニストだと考えられており、事実彼は東方で長い時間を過ごしたが、彼のギリシア文化の知識にはそれでもなお深刻な欠落がある。彼は古典の異教文学をほとんど読んでいない。古典ギリシア文学への知識は、キケローに代表される西方のギリシア研究を通じたものでしかない。あるいはプルタルコスやポルフュリオスなどを通じた二次的なものである。それも自分の聖書釈義に直接的に有益なものしか読んでいない。しかし、ヒエロニュムス多くの場合自分の情報源を明らかにしていない。キリスト教作家についても、オリゲネス以前の者たちについては、ローマのクレメンスやアレクサンドリアのクレメンスを除いてまるで読んでいない。アポリナリオス、ディデュモス、オリゲネス、エウセビオスからは多大な影響を受けている。ヘレニストとしてのヒエロニュムスの目的は、西方世界にギリシア聖書釈義を知らしめることだった。それゆえに、ギリシア聖書釈義を参照せずに注解を書くラテン釈義家を強く批判した。アウグスティヌスには、ペンを取る前に読むべきギリシア作家をリストアップして送っているほどである。一方で、ヒエロニュムスの弱点は、一部のギリシアの異教文化への侮りとその人間中心的な思想への無関心である。彼はキリスト教思想と相反するような異教ヘレニズム思想を危険視した。それゆえに、聖書釈義については大いに参照していたオリゲネスの哲学には攻撃を仕掛けたのである。ここから分かるように、ヒエロニュムスの異教文学への愛好を批判していたルフィヌスは間違っていたと考えられる。ヒエロニュムスはある種の劣等感から、異教文学に詳しいと見せかけることで、その自分がさらに愛するキリスト教文学の卓越性を示そうとしたのである。異教ヘレニズムとキリスト教ヘレニズムは、ヒエロニュムスにとっては永遠に相互に結び合わないものだった。

2019年3月14日木曜日

ヒエロニュムスとギリシア異教文化 Courcelle, "Christian Hellenism: St. Jerome #2: Jerome and Greek Pagan Culture"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 58-89.

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Pierre Courcelle
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ヒエロニュムスはギリシア文学を翻訳で読んだことを隠していない。特にキケローの翻訳で、彼はプラトン『プロタゴラス』、クセノフォン『オイコノミコス』、デモステネスとアイスキネスの互いへの弁論などを読んだ。

ヒエロニュムスは頻繁にギリシア詩人に言及するがあまり引用はしない。ホメロスについては、必ずしも原典を直接読んだとは限らず、キケロー『老年について』やルクレティウスのラテン語訳などを通して読んでいた。ヘシオドスはアレクサンドリアのクレメンスを通して読んだ。シモニデス、ピンダロス、アルカイオス、ステシコロス、ソフォクレスらについてはその評判しか知らなかった。アラトス、エピメニデス、メナンドロスらについては新約聖書で引用されている箇所にしか触れていない。エウリピデスとアリストファネスについては、プルタルコスやポルフュリオスらから知ったと思われる。

ギリシア弁論家たちについては、名前を知っていたのみで、その著作に通じていたわけではなかった。リュシアス、ヒュペリデス、ペリクレス、デモステネス、アイスキネス、イソクラテス、ポレモンなどに言及している。詩人も弁論家も聖書解釈にはあまり役に立たないので、直接の知識が必要なかったのであろう。

ギリシア哲学については批判的である。なぜなら、彼によれば異端者は皆プラトンとアリストテレスの弟子だからである。ゼノン、クレオンブロテス、カトー、エピクロスについては、すべて読んだと主張しているが、これは修辞的な誇張であることは明らかである。他にもアナクサゴラス、クラントル、ディオゲネス、クリトマコス、カルネアデス、ポセイドニオス、エンペドクレスらを学んだと述べている。ピタゴラスについては、ラテン語訳でのみ読んだことがあると認めている。

プラトンの著作については、ヒエロニュムス自身は原典テクストを所有していたと述べているが、多くはキケローの翻訳などで読んだようである。プラトンの哲学については、かなりいい加減な知識しか持ち合わせなかった。魂の三部分に関する議論についても、オリゲネスやナジアンゾスのグレゴリオスなどに依拠していた。プラトンと新プラトン主義との混同も見られる。

アリストテレスの形而上学的著作については無知だった。ヒエロニュムスにとって、アリストテレスは論理学者であり自然学者であった。アリストテレスの話をするときには、テオフラストスも一緒に遡上に上げることが多い。テオフラストスの情報源は、F. Bockによればテルトゥリアヌスだとされているが、G. GrossgergeとE. Bickelによればセネカ、プルタルコス、ポルフュリオスだとされる。

ポルフュリオスについて、ヒエロニュムスは強い関心を持っていた。彼はポルフュリオスの『エイサゴーゲー』を若い頃からよく読んでいたが、それを情報源にしていることを隠していた。なぜなら、敵対者たちから異教文学に耽溺していることを非難されないようにするためである。しかし、ヒエロニュムスのオルフェウス、ピタゴラス、ソクラテス、アンティステネス、ディオゲネス、サテュロスらについての知識はポルフュリオスに由来する。しかもそれに勝手にキリスト教的なトーンを付加している。

ポルフュリオスの著作でも言及するものとしないものがある。『ピタゴラス伝』と『禁欲について』に言及することはないが、『反キリスト教論』には頻繁に触れる。ただし、ポルフュリオスの著作のすべてを直接読んだわけではないと考えられる。むしろポルフュリオスに対する駁論、たとえばオリュンポスのメトディオス、カイサリアのエウセビオス、ラオディキアのアポリナリオスらから彼の教説を紹介することもある。特にエウセビオスに主に依拠している。

ギリシア歴史家に関しては、ヒエロニュムスは必ずしもすべてを原典で読んだわけではないし、そもそも名前を挙げているだけの場合もある。彼が目を通したのは聖書研究に有益な歴史家の作品である。それはたとえば、トゥキュディデスやヘロドトスであったが、それらの引用はプルタルコスやアレクサンドリアのクレメンスからの孫引きであった。クセノフォン『オイコノミコス』はキケローの翻訳で読んだ。

ユダヤ人歴史家としてフィロンとヨセフスにしばしば言及している。フィロンの著作を所有していると述べていたが、しばしばエウセビオスを通じた引用をしている。ヒエロニュムスは、フィロンを哲学者というよりは歴史家として重んじていた。ヨセフスについては、ヒエロニュムス自身は何度も否定しているが、伝統的に彼がヨセフス著作の翻訳者だと考えられてきた。ユダヤ人の歴史と文明の知識については、ヒエロニュムスはヨセフスに負っている。また他の古代作家たち、たとえばベロソス、ムナセアス、ダマスコスのニコラオス、アレクサンデル・ポリュヒストル、クレオデモス・マルコスらの著作にも、実際にはヨセフス経由で触れている。

ギリシア医学に関しては、ヒッポクラテスやガレノスに言及している。前者はオリゲネス経由での知識と考えられる。ギリシア自然学については、アリストテレス、テオフラストス、シデのマルケッロス、ディオスコリデス、オッピアノスに触れているが、それはテルトゥリアヌス、パキアヌス、アンブロシウスらキリスト教作家からの又聞きである。ギリシア鉱物学については、エピファニオスに負っている。彼は大プリニウスを自分で読んでいたにもかかわらず、ほとんどのギリシア自然学者については名前だけ知っていたにすぎなかった。

2019年3月12日火曜日

ヒエロニュムスとギリシア語 Courcelle, "Christian Hellenism: St. Jerome #1: Jerome and the Greek Language"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 48-58.

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ヒエロニュムスはドナトゥスの学塾にいた頃に、当時の慣例に沿って、ギリシア文法家のもとでも学んでいたはずである。また修辞学を学び始めるに当たって、古典ギリシア文学の手ほどきを受けたと思われる。とはいえ、ギリシア語が母語の人たちの間で暮らしたのは、373年にアンティオキアに移ってからだった。ヒエロニュムスは語学の才能があったが、アンティオキアで6年を過ごしてもギリシア語をそれほど流暢には話さなかった。ここではポルフュリオスの著作を通してアリストテレスの弁証法などを学んだり、ラオディキアのアポリナリオスに師事した。カルキス砂漠滞在を挟んで、コンスタンティノポリスに移ると、ナジアンゾスのグレゴリオスをはじめとするギリシア教父と交流した。キプロスではエピファニオスに、エジプトではディデュモスに会った。ベツレヘムではラテン語のみならずギリシア語でも説教をした。

ヒエロニュムスの霊的な成長には二段階あった。第一に、異教的なラテン文化のみを享受していた時代と、第二に、教会の召命によってギリシア語を話す国に行った時代である。

ヒエロニュムスはラテン語で相当する語が見つからないときにはそのままギリシア語で書くほど、この言語に習熟した。それは比喩表現や言葉の調子に関するものの場合もあれば、哲学用語の場合もあった。

ヒエロニュムスにとっては、特定のギリシア語テクストはラテン語訳よりも明晰であった。ラテン語はギリシア語をきちんとした言い回しで翻訳することができないときがある。もしあるギリシア語の訳し方に複数の可能性がある場合、ヒエロニュムスは両方を学んだ。

翻訳技法については、『書簡57』が詳しい。しかし、自身の翻訳原理については、エウセビオス『年代記』翻訳序文においてすでにはっきりと述べていた。『書簡57』では聖書翻訳のみは例外的に原典に忠実であるべきと述べていたが、聖書翻訳を扱った『書簡106』では、逐語的でありすぎる翻訳者の弊害を非難している。ヒエロニュムスはラテン語翻訳の先達の方法論を保とうとした。『書簡57』での聖書の逐語訳への志向は、古ラテン語訳の信奉者に対し最も辛辣でないやり方で、ギリシア語写本の聖書テクストを改訂するための方便に過ぎなかったのだろう。実際、古ラテン語訳があまりに逐語的であったりラテン語として悪文になっているとき、彼はそれを躊躇なく修正した。

重要な要素はテクストの意味を保存し、それが訳される目標言語への敬意を失わないことである。『書簡106』ではエウフォニアという語を用いているが、これは「調和」ではなく、ラテン語としての「いい響き」を意味している。ヒエロニュムスは原典のリズムもまた保存されるべきと述べる。

聖書という最も原典に対する忠実性が求められる書物の翻訳に際しても、ヒエロニュムスは逐語訳と格闘することをやめなかった。ただし、その非逐語訳への志向はキケローほど大胆なものでもなかった。またキケローを範としていたので、新造語をキケローの権威に拠らずして用いることはなかった。

ヒエロニュムスの説教にはギリシア語的な言い回しが出てくるが、彼が完全にヘレニズム化されたのかというと、そういうことはなく、やはりラテン語としての純粋性を保存しようという意思の方が強い。彼のギリシア文化への通暁とギリシア教父文学の読書は、ヒエロニュムスのうちにあるラテン文化や異教文化を消すには至らなかった。

古代末期ラテン作家のギリシア知識 Courcelle, "Introduction"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 1-9.

Late Latin Writers and Their Greek Sources
Pierre Courcelle
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一般的には5世紀から6世紀にかけてはデカダンスの時代と言われているが、この時代の文化がギリシア的であり続けたのか、あるいはギリシア化したのかと本書は問うている。ギリシア文学がキケローを生み、ギリシア・ローマ文化はその頂点に達したが、2世紀にもなるとギリシア語は下火になり、ラテン語が東方においても公式言語となった。ギリシア語が復権するのはユスティニアヌス帝の登場を待たねばならないが、それ以降はもはやビザンツ帝国の時代が始まっている。

これが一般的な理解だが、あまりに要約的である。実際には、Henri Pirenneが主張するように、東方と西方は7世紀のアラブ侵攻まで通常の交流を持っていたはずである。そこには、著者が言うように、ギリシア文学とラテン文学との密接な関係も含まれていた。なぜなら、多くの素材がギリシア思想と文化が生き延びていたことを示しているからである。こうした観点は、実はこれまであまりなかった。研究者たちのうちには、わずかに触れる者たち(F. Craemer, E. Renan)、一般書で触れる者たち(E. Egger, C. Gidel, J.E. Sandys)、古典期の教育分野のみ分析した者たち(E. Jullien, A. Gwynn)、異教の学校に対する教会の姿勢を研究した者たち(G. Bardy)などがいた。しかし、いずれもラテン教会の教父たちのギリシア文化レベルがいったいどの程度のものだったのかに真正面から取り組んだ研究はほとんどなかった。

興味深いことに、研究者たちはラテン新プラトン主義の歴史について誰も注目してこなかった。そもそもギリシア新プラトン主義についてもほとんど知られていないので、これは当然といえば当然かもしれない。3つの例外のひとつが、W. Theilerのもので、この中で彼はアウグスティヌスのプロティヌス知識はポルフュリオス経由だと主張した。P. Henryは、アウグスティヌスをはじめとする西方世界に深い影響を与えたのはポルフュリオスではなくプロティヌスその人だったと結論付ける。F. Boemerは、クラウディアヌス・マメルトゥスの言語とスタイルを研究することで、ラテン新プラトン主義と新ピタゴラス主義を知ることができると述べた。

著者はというと、研究の方法論として、教義論は信頼に足らず、文法は危険であるので、ただ文献学的方法論のみが最も説得的であるという。つまり、頻繁にギリシア語テクストとラテン語テクストの平行箇所を比較することで、ラテン新プラトン主義のギリシア・ソースを明らかにすることができるのである。問題は、特定の概念、信仰、方法論はどのようなギリシア・グループからローマ人に伝えられたのか、またそれはどのようにか、である。ただし、しばしばギリシア語原典は失われているので、研究は純粋に推測的にならざるを得ないことがある。またギリシア語原典が原典のまま読まれたのか、それともラテン語訳で読まれたのか、という点も重要である。

ルフィヌスとヒエロニュムスの翻訳論 Winkelmann, "Einige Bemerkungen zu den Aussagen des Rufinus von Aquileia und des Hieronymus"

  • Friedhelm Winkelmann, "Einige Bemerkungen zu den Aussagen des Rufinus von Aquileia und des Hieronymus über ihre Übersetzungstheorie und -methode," in Kyriakon: Festschrift Johannes Quasten, ed. Patrick Granfield and Josef A. Jungmann (2 vols.; Münster: Aschendorff, 1970), 2:532-47.

古代の翻訳には2つの問題がある。第一に、翻訳の質の問題である。原典が絶望的な状態のときに、我々の方法と理解の範囲で翻訳が扱われるということである。第二に、翻訳の成果の正しい評価という問題である。ここで問われる動機、目的、方法論、理論などはその時代から理解される。ルフィヌスについて、第一の問題を扱った研究はたくさんあるが、本論文は第二の問題を扱う。

20世紀はじめまでの研究者たちは、ルフィヌスについてほぼ否定的な見解だった。F. Cavalleraはヒエロニュムスとの論争におけるルフィヌスの信頼性を証明しようとした。G. Bardyは特に翻訳問題に注目し、ルフィヌスの翻訳に近代的な基準を当てはめるべきではないと主張した。現在ではルフィヌスへの見解は分かれている。肯定的なのはM. Wagner, F.X. Murphyで、否定的なのはV. Buchheitである。

ルフィヌスは翻訳理論や方法論を組織的・根本的に説明することはない。論文著者によれば、ルフィヌスに関しては2つの観点があるという。第一に、『弁明』や翻訳の前書・後書は弁明的な動機から作成されている。つまり、その文章は名宛人だけではなく、オリゲネスとルフィヌスの神学的な論敵全体に向けられている。第二に、しばしば見られるスタイル上・学術上の謙虚さや無能さの告白は古代の文筆スタイルである。

ルフィヌスが翻訳理論に言及するときは、ヒエロニュムスを論じるときが多い。『諸原理について』序文では、ルフィヌスは自分がヒエロニュムスの翻訳論を受け継いでいると主張した。『オリゲネスの書物の改竄について』でも、ヒエロニュムスに言及している。より大きな議論は『弁明』第2巻に見られる。ここでルフィヌスはヒエロニュムスの理論の正確な定義を試みるが、弁明や非難が目的なので結局包括的ではない。偽クレメンスの翻訳序文では、ヒエロニュムスを含む多くの論敵への反論として翻訳を論じている。

『改竄』は、ルフィヌスがオリゲネスの正統信仰を証明し、自分の翻訳を正当化するために書いたものであるが、この中でオリゲネスの文書は異端者による改竄があったと主張している。ルフィヌスはこうしたテクストへの後代の介入を削除したのである。『弁明』でもそうした介入を抜かしつつ、あとは文字通り訳したと述べている。これらはいずれも、神学的な非難に対する弁護であり防衛である。偽クレメンスの翻訳でも「改竄」の議論に基づいて修正を加えたが、ヒエロニュムスからの批判を受けて、神学的な議論の修正についは用心深く行った。オリゲネスの『ロマ書注解』の翻訳後書では、やはり「改竄」があったと主張しているが、それがどの程度だったのかについては触れていない。

ルフィヌスは自分の翻訳中の介入の方法を3つ挙げている。第一に、原典の神学的に不快な箇所の削除。これは翻訳活動の初期から主張していたことだが、のちにより用心深く行うようになった。第二に、原典の再構成での介入。これは『諸原理について』序文で最初に言及している方法である。第三に、これらの加えて、はっきりしない方法で恣意的にテクストを扱うこともある。これは『ロマ書注解』後書の中でヒエロニュムスに対抗するかたちで主張されている。以上より明らかなように、ルフィヌスの翻訳理論や方法論は弁明的なものであるため、不正確で不十分なものである。

ルフィヌスの発言をよりよく理解するためには、ヒエロニュムスの翻訳論を見なければならない。380年から407年にかけてのヒエロニュムスの記述から明らかなように、彼が目指しているのは、第一に、原典のキャラクターとスタイルに合わせ、著者の考えを歪曲しないこと、第二に、理解のために読者を方向付け、またそれを伝える言語を方向付けることである。ただし翻訳は分かりやすくあるべきなので、第二の観点がしばしば優先される。

ヒエロニュムスの翻訳論というと『書簡57』が取り上げられる。ここでは聖書以外の文書は自由訳こそが相応しいとヒエロニュムスが主張していると見なされてきたが、これはおそらく誤った解釈である。『詩篇注解』や『エフェソ書注解』などではそれとは反対のことも主張している。『書簡84』と『ルフィヌス駁論』1巻および3巻でヒエロニュムスが仄めかしていることには、彼は原典に対して小さな神学的修正を加え、異端的な見解は省略したという。ただしこれらの文書の目的は翻訳を論じることではなく、オリゲネス信奉者からの神学的批判をかわすことである。キケローの規範と一致するキリスト教的な翻訳例はあまりに少なかった。

個々の翻訳文書については、さまざまな研究がある。E. Klostermannは、オリゲネス『エレミヤ書説教』の翻訳について、「読者の理解を助けるための敷衍、省略、挿入と共に、表現の強化と誇張、画家の色塗り、難解さの優雅な隠蔽、様式上の付加、虚栄心と学識ある衒学」が見られると主張するが、それがどこの部分なのかを明らかにしない。おそらくはルフィヌス『弁明』第2巻の受け売りであろう。Klostermannのこの評価は、説教という文学ジャンルへの考慮もなく、また確実な校訂テクストに基づいてもいない。彼自身曰く、校訂テクストが確立すれば別の結論に至る可能性もあるという。さらにKlostermannによれば、そもそもヒエロニュムスの翻訳には直接的な誤りはさほど見られず、またルフィヌスが批判したような独断的な修正も見られないのである。

F. CavalleraはKlostermannとはまるで反対の評価を下している。前者によれば、『エレミヤ書説教』の翻訳はオリゲネスのスタイルに対し、唯一例外的なことに、雄弁な調子と華々しい色彩を与えているという。言い換えると、この翻訳はオリゲネス本来のシンプルな優雅さをほとんど保存していない。一方で、Cavellera曰く、ヒエロニュムスは人が翻訳者に期待する適度に忠実な翻訳を作成してもいるという。原典と翻訳を比較すると、ヒエロニュムスが翻訳者としてきちんと自分の役目を果たし、神学的正統性に関して問題ないところをローマに聞かせようとしたことが分かる。

Klostermannによれば、エウセビオス『名前について』にも『エレミヤ書説教』での翻訳方法の痕跡が見られる。原典に対して翻訳が省略しているところはないが、概念や名前の短い敷衍や西方での理解のための注釈などがある。いずれにせよ、ヒエロニュムスの翻訳は信頼に足るものといえる。オリゲネス『ルカ福音書説教』にもギリシア語断片が残っており、それとヒエロニュムスの翻訳を比較すると、その翻訳は信頼できるものだと評価できる。M. Rauerによれば、ヒエロニュムスの翻訳は経験者によるスムーズでしなやかなスタイルであるという。パコミオスの修道規則に関してもヒエロニュムスの翻訳は信頼できる。L.Th. Lefortによるコプト語断片との比較研究がある。ギリシア語の平行テクストがない文書についても、ヒエロニュムスの翻訳の信頼性は高いと考えられている。なぜなら、Cavalleraが言うように、彼の翻訳は正統信仰の観点からは都合の悪い箇所を修正していないからである。とはいえ、ヒエロニュムスの翻訳は現代的な基準から見て忠実とは言えない。

2つの問いがある。第一に、ルフィヌスはヒエロニュムスの議論と翻訳の何を知っていたのか。第二に、なぜルフィヌスはそれらを不完全で不正確なものと見なしていたのか。まず両者がもともと友人だったことを勘案すると、ルフィヌスがヒエロニュムスの考え方を知らなかったはずはない。『諸原理について』の翻訳序文でも、ルフィヌスはヒエロニュムスによる『雅歌説教』と『エゼキエル書説教』の翻訳序文を引用している。『弁明』の中でもヒエロニュムスの翻訳作品を列挙している。またルフィヌスがヒエロニュムス同様に神学的問題にまるで関心を持っていなかったことを勘案すると、ヒエロニュムスの翻訳論を大雑把なものと見なすことで、自分がそれを模倣したという印象を与えようとした。

ルフィヌス翻訳の目的。M. Wagnerによると、ルフィヌスの翻訳には、神学から離れた実務的・倫理的目的があったという。それは読者の「倫理的進歩(moral advancement)」や「霊的進歩(spiritual advancement)」を促すことである。この目的がルフィヌスの翻訳の方法論を規定したのだった。確かに、オリゲネス『詩篇注解』、バシレイオス説教、セクストスの言葉、またグレゴリオス説教などの翻訳には「教化(Erbauung)」の目的が垣間見える。またこうした霊的進歩は自然と修道文書を対象とするので、エウアグリオスの著作の翻訳もこちらに含まれる。

ただし、ルフィヌスの翻訳の目的はそうした倫理的な教化だけではなく、「なぐさめ(Trost)」を試みることでもあった。当時ローマはアラリックによる侵攻を受け、壊滅的な打撃を受けていた。そのようなときにあって、学術的な情報を伝えようとしていたというよりは、なぐさめを与えようとしていたと考える方が自然であろう。こうした意図はオリゲネス『民数記説教』、エウセビオス『教会史』の翻訳などに見られる。ただし、オリゲネス『六書説教』、『サムエル記説教』、『雅歌注解』の翻訳などには、「教化」の傾向も「なぐさめ」の傾向も見られない。

残りの翻訳(カイサリアのゲラシオス『教会史』、偽クレメンス文書、パンフィロス『オリゲネス弁明』、アダマンティオス対話、オリゲネス『諸原理について』、同『ロマ書注解』、エルサレムのキュリロスのカテキズムなど)は、論文著者の考えでは、情報や神学的な関心を伝えることが目的となっている。そもそもこれらの翻訳は教養人からの提案にによって作成されたものであった。

ルフィヌスは、学問的才能や関心についてはヒエロニュムスに劣っていたかもしれないが、ギリシア神学、修道制、教化文学の仲介者であることに使命を感じ、また自覚的であった。そして読者がルフィヌスに期待していたのも、敷衍や独断的な修正ではなく、翻訳であった。修正する場合でも、それは神学的・実用的事情と関係していた。

結論。以上より、3つの結論が引き出せる。第一に、ルフィヌスが自身の翻訳理論や方法論を不明瞭にするのは戦略的な熟慮からであって、理論への無関心からでも、情報を隠蔽しようとしたからでも、精神的な無能さからでもない。ルフィヌスは正直には語らないのである。

第二に、ルフィヌスが翻訳活動の実践を欺くようにして表現するのは、自分がヒエロニュムスの仕事を引き継いだという印象を与えるためである。両者は共に逐語訳を忌避したが、その理由は互いに異なっている。

第三に、ルフィヌスの翻訳方法は十分に明らかにはならない。なぜなら、彼の第一の目的は教化やなぐさめにあったからである。しかし、神学的・学術的な情報への要求という観点も見逃せない。