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2012年12月24日月曜日

イマニュエル・トーブの七十人訳講読

久しぶりの更新になりました。今日はクリスマスイブですが、イスラエルでは特にいつもと変わりない普通の日になっています。

最近私は、ヘブライ語集中講座ウルパンと並行して、イマニュエル・トーブ先生の七十人訳講読の授業にも参加しています。トーブ先生については、もはや説明するのも野暮ですが、最も知られた業績としては、死海文書の校訂版(Discoveries in the Judean Desert)監修の仕事などが挙げられるでしょうか。また最近では、旧著のアップデート版(第3版)を出版しています。

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ほかにも無数の著作・論文があるので、詳しくはご本人のサイトをご覧ください。
http://www.emanueltov.info/

トーブ先生はすでにヘブライ大学を退官して名誉教授になっているのですが、今でも少数のためのゼミを開講しています。しかし、どうもヘブライ大の学生でもギリシア語をまともにやっている人があまりいないようで(どこでも同じですね)、今期は私を含めて10名ほどしか参加者がいません。しかし逆に言えば、なんて贅沢なことでしょう。世界的な学者とこんなに少人数のゼミで、しかも週2のペースで会えるなんて、はるばるイスラエルくんだりまで来た甲斐があるというものです。

さて、授業では何をしているかというと、七十人訳サムエル記の講読をしています(http://www4.huji.ac.il/htph/shnaton/index.php/Simple/21857/2013%3C/a)。授業はヘブライ語で行われますから、当然訳すのも(現代)ヘブライ語訳していくことになります。つまり、もともとヘブライ語で書かれたサムエル記をギリシア語訳した七十人訳サムエル記を、再度ヘブライ語に訳していくわけです。これがなかなか難しく、イスラエル人の学生でも、ヘブライ語原文に引っ張られてしまうのをきらって、あえて英語訳してくる人もいます。何となれば、原文を見ないで訳していても、フタを開けてみたらほとんど原文と同じ訳になることすらあるくらいです。当ブログの裏テーマである、「翻訳」について考えさせられますね。とはいえ、私にとってはヘブライ語のいい勉強にもなりますので、がんばって毎回ヘブライ語訳していってます。ちなみに、その訳はともかく、ギリシア語の発音をトーブ先生から褒められました。これは向こう50年は自慢させてもらいます笑。

訳すときに参考にしている辞書として、たぶんヘブライ大の本屋でしか売っていないヘブライ語―ギリシア語辞書があります。これはヘブライ語訳新約聖書で使われているヘブライ語と、原文のギリシア語を簡単にまとめたもののようです(どうやら出版に日本のクリスチャンが関わっているようなのですが、詳細は分かりません)。七十人訳の単語は載ってないものもあるのですが、あると何となく心強いです。一応書誌情報を書いておきます(ちなみに編者の一人であるツビ・サダンは、バルイラン大学のツビ・サダン(佐々木嗣也)氏とは別人です)。

צבי סדן וליאת קרן, מילון ביקורתי לחרגום דליטש לברית החדשה, ירושלים, אקדמון, 2006.
http://www.worldcat.org/title/milon-bikorti-le-targum-delitsh-la-berit-ha-hadashah/oclc/78531907

以下では、サムエル記上17:1-11(ダビデとゴリアテの話)の原文、七十人訳、私訳を例として挙げておきます(ちょっと私訳のところは翻訳とはいえないような直訳ばかりですが、あくまでサンプルということで)。


 וַיַּאַסְפ֨וּ פְלִשְׁתִּ֤ים אֶת־מַֽחֲנֵיהֶם֙ לַמִּלְחָמָ֔ה וַיֵּאָ֣סְפ֔וּ שֹׂכֹ֖ה אֲשֶׁ֣ר לִיהוּדָ֑ה וַֽיַּחֲנ֛וּ בֵּין־שֹׂוכֹ֥ה וּבֵין־עֲזֵקָ֖ה בְּאֶ֥פֶס דַּמִּֽים׃
1 Κα συνάγουσιν λλόφυλοι τς παρεμβολς ατν ες πόλεμον κα συνάγονται ες Σοκχωθ τς Ιουδαίας κα παρεμβάλλουσιν ν μέσον Σοκχωθ κα νὰ μέσον Αζηκα ν Εφερμεμ.
ואוספים פלשתים את המהנות שלהם למלחמה והם נאספים לשכה של יהודה וחנים בין שובה ובין עזקה באפרמם

 וְשָׁא֤וּל וְאִֽישׁ־יִשְׂרָאֵל֙ נֶאֶסְפ֔וּ וַֽיַּחֲנ֖וּ בְּעֵ֣מֶק הָאֵלָ֑ה וַיַּעַרְכ֥וּ מִלְחָמָ֖ה לִקְרַ֥את פְּלִשְׁתִּֽים׃
2 κα Σαουλ κα ο νδρες Ισραηλ συνάγονται κα παρεμβάλλουσιν ν τ κοιλάδι· ατο παρατάσσονται ες πόλεμον ξ ναντίας λλοφύλων. 
ושאול ואנשי ישראל נאספים והם חנים בעמק. הם עורכים למלחמה מאויבים של פלשתים

וּפְלִשְׁתִּ֞ים עֹמְדִ֤ים אֶל־הָהָר֙ מִזֶּ֔ה וְיִשְׂרָאֵ֛ל עֹמְדִ֥ים אֶל־הָהָ֖ר מִזֶּ֑ה וְהַגַּ֖יְא בֵּינֵיהֶֽם׃
3 κα λλόφυλοι στανται π το ρους νταθα, κα Ισραηλ σταται π το ρους νταθα, κα αλν ν μέσον ατν. 
ופלשתים עומדים על ההר מצד אחד, וישראל עומדים על ההר מצד שני, והגַּיְא ביניהם.  

וַיֵּצֵ֤א אִֽישׁ־הַבֵּנַ֨יִם֙ מִמַּחֲנֹ֣ות פְּלִשְׁתִּ֔ים גָּלְיָ֥ת שְׁמֹ֖ו מִגַּ֑ת גָּבְהֹ֕ו שֵׁ֥שׁ אַמֹּ֖ות וָזָֽרֶת׃
4 κα ξλθεν νρ δυνατς κ τς παρατάξεως τν λλοφύλων, Γολιαθ νομα ατ κ Γεθ, ψος ατο τεσσάρων πήχεων κα σπιθαμς· 
 ויצא איש (גיבור) חזק ממערכת פלשתים, גלית הוא שם שלו לפי גת, גובה שלו ארבעה פקיוס וספיתמה

וְכֹ֤ובַע נְחֹ֨שֶׁת֙ עַל־רֹאשֹׁ֔ו וְשִׁרְיֹ֥ון קַשְׂקַשִּׂ֖ים ה֣וּא לָב֑וּשׁ וּמִשְׁקַל֙ הַשִּׁרְיֹ֔ון חֲמֵשֶׁת־אֲלָפִ֥ים שְׁקָלִ֖ים נְחֹֽשֶֽׁת׃
5 κα περικεφαλαία π τς κεφαλς ατο, κα θώρακα λυσιδωτν ατς νδεδυκώς, κα σταθμς το θώρακος ατο πέντε χιλιάδες σίκλων χαλκο κα σιδήρου· 
 והוא לובש את הכובע על הראש שלו ואת השריון שנעשה מכברים, ומשקל של השריון חמשה אלפים של שקלים ושל ברזל 
  
וּמִצְחַ֥ת נְחֹ֖שֶׁת עַל־רַגְלָ֑יו וְכִידֹ֥ון נְחֹ֖שֶׁת בֵּ֥ין כְּתֵפָֽיו׃
6 κα κνημδες χαλκα πάνω τν σκελν ατο, κα σπς χαλκ ν μέσον τν μων ατο·
ושריונות לרגל מנחושת על הרגל שלו, ומגן עגול מנחושת בתוך שכם שלו

וְחָץ חֲנִיתֹ֗ו כִּמְנֹור֙ אֹֽרְגִ֔ים וְלַהֶ֣בֶת חֲנִיתֹ֔ו שֵׁשׁ־מֵאֹ֥ות שְׁקָלִ֖ים בַּרְזֶ֑ל וְנֹשֵׂ֥א הַצִּנָּ֖ה הֹלֵ֥ךְ לְפָנָֽיו׃ 
7 κα κοντς το δόρατος ατο σε μέσακλον φαινόντων, κα λόγχη ατο ξακοσίων σίκλων σιδήρου· κα αρων τ πλα ατο προεπορεύετο ατο.
והחץ של חנית שלו כמו אריגה של אורגים, והחנית שלו שש מאות שקלים ברזל. והנושא את הכלי נשק שלו הלך לפניו

וַֽיַּעֲמֹ֗ד וַיִּקְרָא֙ אֶל־מַעַרְכֹ֣ת יִשְׂרָאֵ֔ל וַיֹּ֣אמֶר לָהֶ֔ם לָ֥מָּה תֵצְא֖וּ לַעֲרֹ֣ךְ מִלְחָמָ֑ה הֲלֹ֧וא אָנֹכִ֣י הַפְּלִשְׁתִּ֗י וְאַתֶּם֙ עֲבָדִ֣ים לְשָׁא֔וּל בְּרוּ־לָכֶ֥ם אִ֖ישׁ וְיֵרֵ֥ד אֵלָֽי׃ 
8 κα στη κα νεβόησεν ες τν παράταξιν Ισραηλ κα επεν ατος Τί κπορεύεσθε παρατάξασθαι πολέμ ξ ναντίας μν; οκ γώ εμι λλόφυλος κα μες Εβραοι το Σαουλ; κλέξασθε αυτος νδρα κα καταβήτω πρός με,
 והוא (גלית) עמד וצעק אל מערכת ישראל ואמר להם. "למה אתם יוצאים להעריך מלחמה בניגוד לנו? הלא אני פלשתי ואתם עברים של שאול? תבחרו לכם איש וירד אליי
 
אִם־יוּכַ֞ל לְהִלָּחֵ֤ם אִתִּי֙ וְהִכָּ֔נִי וְהָיִ֥ינוּ לָכֶ֖ם לַעֲבָדִ֑ים וְאִם־אֲנִ֤י אֽוּכַל־לֹו֙ וְהִכִּיתִ֔יו וִהְיִ֤יתֶם לָ֨נוּ֙ לַעֲבָדִ֔ים וַעֲבַדְתֶּ֖ם אֹתָֽנוּ׃
9 κα ἐὰν δυνηθ πρς μ πολεμσαι κα ἐὰν πατάξ με, κα σόμεθα μν ες δούλους, ἐὰν δ γ δυνηθ κα πατάξω ατόν, σεσθε μν ες δούλους κα δουλεύσετε μν. 
ואם יוכל להילחם איתי ואם יַכֶּה אותי, ונהיה לכם לעובדים, אך אם אני אוכל ואַכֶּה אותו, תהיו לנו לעובדים ותעבדו לנו"

וַיֹּ֨אמֶר֙ הַפְּלִשְׁתִּ֔י אֲנִ֗י חֵרַ֛פְתִּי אֶת־מַעַרְכֹ֥ות יִשְׂרָאֵ֖ל הַיֹּ֣ום הַזֶּ֑ה תְּנוּ־לִ֣י אִ֔ישׁ וְנִֽלָּחֲמָ֖ה יָֽחַד׃
10 κα επεν λλόφυλος ᾿Ιδο γ νείδισα τν παράταξιν Ισραηλ σήμερον ν τ μέρ ταύτ· δότε μοι νδρα, κα μονομαχήσομεν μφότεροι.
ואמר הפלשתי, "הנה אני חירפתי את מערכת ישראל היום ביום הזה. תנו לי איש, ונִלָחֵם יחד שנינו."

וַיִּשְׁמַ֤ע שָׁאוּל֙ וְכָל־יִשְׂרָאֵ֔ל אֶת־דִּבְרֵ֥י הַפְּלִשְׁתִּ֖י הָאֵ֑לֶּה וַיֵּחַ֥תּוּ וַיִּֽרְא֖וּ מְאֹֽד׃ פ 
11 κα κουσεν Σαουλ κα πς Ισραηλ τ ῥήματα το λλοφύλου τατα κα ξέστησαν κα φοβήθησαν σφόδρα.
ושמע שאול ו(שמע) כל ישראל את הדברים של הפלשתי הזה ותמהו ויראו מאוד


ちょっと、というかかなりいい加減なところもありますが、まあこれからうまくなっていくということでご海容ください。週2回の授業なので、なかなかペースも早いです。明日は上サム9章の講読です。

最後に、授業第1回目のときの話をひとつ。最初の授業なので、プリントを見ながら参考図書の説明をしていたのですが、辞書の項目になったところでトーブ先生が、「あ、しまった、一冊リストに入れ忘れていた」とやおら立ち上がるや、「素晴らしい辞書(ミローン・ミツヤン)があるから、これをぜひ参照してください」と言いつつ、白板に、

M U R A O K A

と大書したのでした。やはりトーブ先生から見ても、村岡先生の七十人訳ギリシア語辞書はおススメの一冊のようです。ギリシア語を勉強している人はぜひ手に入れましょう。

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2012年10月31日水曜日

芦名「キリスト教と翻訳の問題」

最近、京大の芦名定道氏のブログで「キリスト教と翻訳の問題」という一連のエントリーがアップされています。

2012年10月15日 キリスト教と翻訳の問題(1)
http://logosoffice.blog90.fc2.com/blog-entry-700.html
2012年10月27日 キリスト教と翻訳の問題(2)
http://logosoffice.blog90.fc2.com/blog-entry-712.html
2012年10月30日 キリスト教と翻訳の問題(3)
http://logosoffice.blog90.fc2.com/blog-entry-717.html

これらのエントリー中ではさまざまな重要なポイントが述べられていますが、私にとっては特に次の指摘が重要に思われました。
キリスト教において聖書原典が重要な位置を占めることは言うまでもないが、それは、近代以降の文献学の発展による批判的な原典テキストの校訂作業の成果であって、生きられた宗教としてのキリスト教にとって、中心は翻訳された聖書にあるのである。 (「キリスト教と翻訳の問題(1)」より)
これまでの七十人訳研究(および少数ながらウルガータ研究)は、なんだかんだいってUrtextの再現のために仕方なく七十人訳を検討するという側面が強く、そうした翻訳を読者たちがどのように受容していたかということにまで思いを馳せることが少なかったように思います。つまり、翻訳そのものを見るのではなく、いつも原典を透かし見るための道具として翻訳を用いてきました。翻訳はどこまでいっても翻訳でしかない、という側面が確かにある一方で、原典の言語を読めない読者たちは、あたかもそれが原典であるかのように翻訳を読み、その枠内で議論をしてきたことを忘れてはなりません。原典に対して劣るものとして翻訳を切り捨てるのは、そうした議論をも切り捨てることに等しいと言えます。

そもそも、原典に対して翻訳を低く見ようとする考え方の中は、むしろ翻訳というものをむやみに過信しようとする心の機微が隠れているようにも思われます。翻訳が原典の正確な反映であると信じているからこそ、翻訳は原典以上(あるいは以下)のものたり得ないという結論に至ることができるのではないでしょうか。しかし、翻訳はそんなに単純なものではないはずです。オリゲネスがヘクサプラを作ったときに、七十人訳の欄において、原典にはなかったのに付加された部分、また原典にはあったのに削除された部分に、それぞれオべロス記号、アステリスコス記号をつけていますが、それと同じように、翻訳には、原典に対するさまざまな凹凸があります。この凹凸の中にこそ、おそらく翻訳者たちの人生までもが浮かび上がってくるようなドラマが隠れているはずなのですが、はたしてそういうものを見つけられるといいのですが。

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追加:
2012年10月31日 キリスト教と翻訳の問題(4)
http://logosoffice.blog90.fc2.com/blog-entry-718.html

2012年10月18日木曜日

ネストレ=アーラント28版

新約聖書の新しい校訂版が出版されたようです。いわゆるネストレ=アーラントの第28版です。
www.scholarly-bibles.com/products/Original-Texts/New-Testament/Greek/Novum-Testamentum-Graece-Nestle-Aland2.html?XTCsid=1kdm337nccbg9sg7ma8bhthqk4

出版社のサイトによると、以下の修正が施されているようです(サイトにマタイ1-8章の本文PDFあり)。

1.脚注での記号の簡略化
2.新たに発見された
Papyri 117-127の読みを追加(特に使徒行伝
3.公同書簡の本文に30箇所以上の修正

4.欄外にある聖書外資料へのクロス・リファレンスの改訂

特に2と3は大きな変更だと思うんだけど、キリスト教会の反応はどうなのだろう?これだけ修正されてると一応手に入れておきたいものです。以下のブログ記事に実際入手された方の説明が載っています(http://gospels.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/2827-9bf0.html「ネストレ28版は27版の改訂版?」The Text of Gospels)。

2012年8月22日水曜日

テルアビブ

韓国経由でイスラエルに来て2週間ほど経ちました。私は普段はエルサレムに住んで、エルサレム・ヘブライ大学で開講されているウルパン(ヘブライ語集中講座)に通ってヘブライ語を勉強しています。ヘブライ大学に併設されているロスバーグ国際校から客員研究員の肩書をもらっているので、学生ビザで1年ほど滞在します。ビザが切れる前にヘブライ語講座を修了できるといいのですが。

毎日朝9時から昼2時すぎまでヘブライ語の授業に出て、寮に帰ってからは宿題をこなすのに精いっぱいで、ほとんど出歩くこともできないのですが、先日の平日休みを使ってテルアビブに行ってきました。

テルアビブに着いてまず驚くのが暑さ。エルサレムは砂漠気候でかつ丘の上にあるので、日中は暑くても夕方になるとかなり涼しい風が吹いてきますが、テルアビブは地中海性の湿度の高さもあり、日本の夏のような暑さでした。

暑すぎるので、確かに彼みたいにランニング一丁になりたくなる気持ちも分かります(そもそも上半身裸で歩いてる人もけっこういた)。

着いてからの行先は特に決めてなかったので、とりあえずテルアビブ美術館に行ってみました。どちらかというとモダンアートが専門のようでしたが、オーセンティックな近代絵画も多数ありました(ユトリロと藤田嗣治があったので私は満足)。

実は美術館の裏手には日本大使館があります。独立した建物ではなく、各国の大使館と一緒にビルの中に入っています(ほとんどの国がエルサレムではなくテルアビブをイスラエルの首都と考えています)。特に用はなかったのですが、これから何かお世話になるかもしれないので、入口まで行ってきました。

カルメル市場はにぎわっていました。マゲン・ダビッド広場から入るとしばらく服屋や日用品の露店が続き、しばらくすると野菜や果物の露店が軒を連ねていました。

市場を抜けてさらに歩いて行くと地中海に出ます。海岸沿いには高級ホテルが並んでいて、広場でサッカーをして遊んでいる人などがいました。

街頭インタビューに何やらしたり顔で答える路上ミュージシャン。

これは私の印象であって、実際のところどうなのかよく分かりませんが、テルアビブにはエチオピア系の人が割と多かったような気がします。これはアムハラ語で書かれたポスターだと思いますが、おしゃれですね。

テルアビブは確かに暑かったですが、私はとてもいい印象を持ちました。道をきくと皆嫌な顔をせず答えてくれますし(エルサレムではすごく嫌な顔をされる)、バスの乗り心地もいいですし(エルサレムのバスは乗るだけで酔う)、住むならテルアビブの方がいいかもしれません。

2012年8月4日土曜日

カトリック明洞大教会

久しぶりの更新になりました。数日前から韓国のソウルに滞在しています。

南大門市場にて。豚肉を使った料理がいかにもおいしそうです。

滞在中にカトリックの明洞(ミョンドン)大教会を訪れました。入口のところは工事中のようでした。

明洞大教会は、1892年にコスト神 父によって建設がはじめられ、1898年に完成したカトリックのソウル司教座聖堂です。鐘塔の高さは45メートルもあるそうで、確かにかなり立派な塔でした。

 入口に彫られたイエスのレリーフも韓国風(?)になっているようです。

 私が訪れたときはちょうどミサの時間でした。堂内には信徒の方々がたくさん集まっていました。

 皆で讃美歌を歌っているところ。穹窿に響いてとてもきれいでした。

 明日は韓国からイスラエルに向かいます。

2012年7月6日金曜日

『一神教世界』第3巻(2011年)

『一神教世界』の第3巻です。今号は論文3本のみの掲載ということで、ちょっと論文数が少なくなっています。編集後記によると、「本誌は、掲載論文の研究対象として、厳密な意味でのセム系一神教に限らず、日本をはじめとするアジア諸国やその他の地域における「一神教」も含みます。恐らくはいつの時代、いずれの文明、いずこの社会にも存在すると思われる「一神教」の諸相が、若手研究者の努力によって発掘されて発表されることを期待しています」(55頁)とのことですので、どんどん投稿しましょう。以下もくじ。

浜本一典「イスラームと自然法に関する諸言説の批判的検討:啓示解釈の観点から」

貴得「日本組合教会の朝鮮伝道における一考察:渡瀬常吉の初期朝鮮伝道を中心に」

BARVE, Tejaswini Ramesh, "Bhagvad Gita and the Idea of One God: Aurobindo Ghosh and Shumei Okawa"

『基督教研究』74巻1号(2012年)

『基督教研究』の新しい号です。以下もくじ。

シンポジウム
徐正敏「同志社と韓国神学:聖範と徐南同を中心に」

講演
マルチン・ライナー(中野泰治訳)「和解」

論文
崔弘徳「カール・バルトの『ローマ書』第2版におけるキリスト論」

前川裕「ヨハネ福音書7章の救済思想:物語批評の視点から」

金珍「韓国の土着化神学における問題意識と神学的な課題に関する一考察:八木誠一からJ・ヒックにいたるビョン・ソンファンの神学的な道をたどって」

木谷佳楠「アメリカ映画におけるイエス像の時代的変遷」

藤原佐和子「プラカイ・ノンタワシー再読:アジアの女性たちの神学における翻訳の問題」