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2015年11月29日日曜日

ユダヤ人とユダヤ教 #3 Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism"

  • Steve Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism: Problems of Categorization in Ancient History," Journal for the Study of Judaism 38 (2007), pp. 457-512.

このエントリーでは、第3章と結論部分(pp. 489-512)をまとめたい。第1章では、後200年までユダイスモスという語に「ユダヤ教」という意味はなかったこと、そして第2章では、そもそも古代には「宗教」という概念すらなかったことが語られたが、第3章では、それゆえにギリシア語のユダイオス(Ἰουδαῖος)という語を宗教としてのユダヤ教の信者、すなわち「ユダヤ教徒(Jew)」と訳すのは不適切であり、むしろ民族としての「ユダヤ人(Judaean)」と訳すべきであるということが語られる。

論文著者によれば、ユダイオス/ユダイオイという語は常に「民族(ἔθνος)」としての「ユダヤ人」という意味で使われてきたという。異教徒のギリシア・ラテン作家たちの中では、たとえばストラボン、ポセイドニオス、タキトゥス、そしてディオ・カッシウスが、そしてギリシア語・ラテン語で書いたユダヤ人作家たちの中では、たとえばフィロンとヨセフスが明らかにそのような用法でこの語を用いている。

フィロンは、土地、血縁、祭儀の習慣などといった民族的なつながりの全範囲を含む意味合いでユダイオスという語を用いている。それゆえに、そうした文脈におけるconversionとは、市民権の変化において、ある民族から別の民族に「転向」するという意味であって、決して宗教的に「改宗」するという意味ではなかった。

ヨセフスは、『ユダヤ戦記』において、すでに民族としてのユダヤ人という意味でユダイオスという語を用いている。『ユダヤ古代誌』では、哲学や祭儀と密接に関わる文脈で用いることが多いが、そこからただちに「宗教」を導くことは誤りであると論文著者は述べる。さらに『アピオーンへの反論』では、ユダヤ人は、バビロニア人、エジプト人、カルデア人、アテーナイ人、スパルタ人などと比較されており、またそれぞれの民族は、故国、立法者、父祖の習慣、聖なるテクスト、祭司や貴族、そして市民権を持っているとされている。論文著者によれば、これは現代におけるインド系カナダ人や中国系カナダ人といった移民グループのようなものだという。

むろん、研究者の中には、ユダイオスを少なくともある場合には「ユダヤ教徒(Jew)」と訳すべきだと主張する者たちもいる。その代表として、論文著者はDaniel R. SchwartzとShaye Cohenを挙げている。Schwartzは、バビロン捕囚のような大きな変化によって、ユダイオスは単なる民族から宗教へとなっていったと主張するが、論文著者はどんな民族であれある程度の変化を被り、先祖伝来の政治形態を維持することに苦労しているのだから、ユダヤ人だけを特別に「宗教」へと還元する必要はないと反論する。さらにSchwartzは、『ユダヤ戦記』でのユダイオスは民族的な意味合いだが、『ユダヤ古代誌』でのユダイオスは宗教的な意味合いであるといった妥協案も出すが、論文著者は認めない。一方でCohenは、ハスモン朝の時代になると異教徒の中にユダヤ教徒へと宗教的に「改宗」する者たちが出てきたと述べるが、論文著者は、第1章で見たようにヘレニスモスという概念がそもそも文化や宗教を意味するものではないのだから、ユダイスモスだけ突然に文化や宗教の範疇に置くのはおかしいと反論する。SchwartzもCohenも、古代においてユダイオスという語の用法に途中で変化があったと考えるわけだが、論文著者は文献学上そうした変化は認められないし、もっと後代になって本当にユダヤ人に質的な変化が訪れたときには、ユダイオスではなくヘブライオスという語が使われるようになったと説明している。

こうしたことから、論文著者は以下のように結論を出している:まず、我々は古代の状況、用語、カテゴリーが自分自身のそれらとは異なっていることを知らなければならない。ユダイオス/ユダイオイに関しては、他の民族との類比において、「ユダヤ教徒(Jew)」ではなく「ユダヤ人(Judaean)」と訳すべきである。ユダヤ人は前200年から後200年にかけて民族としての「ユダヤ人」であり続けたのであって、ギリシア・ローマ時代には宗教としての「ユダヤ教」は存在しなかった。稀に「ユダイスモス」という語が使われても、それはユダヤの法や生活に向かうこと、という特別な文脈においてものみ用いられた(「ユダヤ化」)。「ユダイスモス」という語が抽象化された信仰システムとしての「ユダヤ教」という意味合いで使用されたのは、3世紀から5世紀にかけて「クリスティアニスモス」との対比においてであった。ただクリスティアニスモスという概念自体は民族、祭儀、哲学、集団、魔術システムなどの新しい集合体であったので、完全なる「宗教」概念としての「ユダヤ教」は啓蒙時代、すなわち近代の産物である。

2015年11月26日木曜日

ユダヤ人とユダヤ教 #2 Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism"

  • Steve Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism: Problems of Categorization in Ancient History," Journal for the Study of Judaism 38 (2007), pp. 457-512.

本エントリーでは、第2章(pp. 480-88)をまとめたい。前章で、古代にはシステムとしての「ユダヤ教」なるものは存在しなかったことを確認した(代わりに、たとえばヨセフスは、「ユダヤ人の父祖伝来の伝統(πάτρια)」「ユダヤ人の習慣(ἔθη)」という言葉を用いている。)。それゆえに、ヨセフスが記録しているアピオーンによるユダヤ人批判も、あくまで「民族(エトノス)」としてのユダヤ人を扱っているのであって、「宗教」としてのユダヤ教ではなかった。ヨセフスは、アピオーンを他宗教のメンバーとして描くことはできなかったのである。なぜなら、そのようなカテゴリーが存在しなかったからである。

西洋における「宗教」の概念が近代の産物(おそらくフランス革命やアメリカの独立戦争以降)であって、古代にはそのようなカテゴリーは存在しなかったことは、非西洋の伝統から見ればすぐに分かることである。儒教、道教、ヒンドゥー教、仏教、神道といった、さまざまな側面を含む東洋の伝統を、西洋は-ismの名をつけて宗教というカテゴリーに当てはめたが、これは西洋の信仰との比較を簡単にするために、文化のすべてを信仰システムに抽象化する試みに他ならなかった。我々が「宗教」として理解しているものは、政治、軍事、建築、社会生活、家族などといった各要素のそれぞれに浸透していたのである。

そこで論文著者は、「宗教」に近接する6つの領域を挙げている。これらは「宗教的」な古代の概念だが、現代の「宗教」が表すすべての領域と同等のものではない:

第一に、「民族(ἔθνος)」。それぞれの民族は、父祖(シュンゲネイア)伝来の固有の伝統(パトリア)に表明されている、個別の特徴(フュシス、エートス)を持ち、また神話(ミュトイ)、習慣、規範、集会、法(ノモイ、エテー、ノミマ)、そして政治形態(ポリテイア)を持っている。そうした意味で、ユダイオイもまた、エジプト人、シリア人、ローマ人と同様のエトノスなのである。

第二に、そうしたエトノスが持っている「祭儀(τὰ θεῖα, τὰ ἱερά, θρησκεία, θεῶν θεραπεία, cura / cultus deorum, ritus, religio)」である。これは、祭司、神殿、動物犠牲などを含む。また祭儀を司る祭司はしばしば、貴族やエリート階級の人間でもある。エトノスと祭儀とは必ずしも一対一対応ではなく、いくつもの祭儀を行う都市もあった。犠牲祭儀は古代においては「宗教的」な言葉(聖化、清浄、神の臨在)を最も用いるカテゴリーであるにもかかわらず、現代の意味での「宗教」とは最もかけ離れたものとなっている。

第三に、「哲学(philosophia)」。西洋の宗教に見られる多くの基本的な要素(生活上の実践と結びついた神的存在への信仰、権威ある書物の学習、倫理的な規範の奨励)が、古代の哲学にも見られる。それゆえに、フィロンやヨセフスもまた、「宗教」と最も近いカテゴリーである「哲学」の中で、我々から見れば「宗教的」なグループを哲学者として描いたのである。

第四に、「家族の伝統」。たとえば、誕生、結婚、死、法に関する初歩的な教育、文化の創造の物語、食物の聖別、死者の追悼などといった要素である。

第五に、「集会/交際(θίασοι / collegia)」。これは、教会、シナゴーグ、モスクなどに相当するもので、ある場合には祭儀的な性格を持ち、またある場合には商売上のギルドのような性格を持つ。

そして第六に、「占星術」や「魔術」。バビロニアやペルシアにおける、カルデア人やマギの得意分野として知られている。占星術も魔術も現実や運命を扱うものであり、人間の生の意味を考えることもある。魔術においては、しばしば神の名を含んだ呪文を唱えることもある。

以上のような「宗教的」な活動はどこにでもあったが、これらすべてを「宗教」として理解するという現象は存在しなかったのである。4世紀になって、キリスト教が自己規定を図るために、システムとしてのユダイスモスとクリスティアニスモスという対比をするようになり、この考え方はかなり近代的な意味での「宗教」に近かった。キリスト教的な要素は、ローマの祭儀、市民生活、哲学の学派などを急速に統合していった。しかし、論文著者によれば、それでもキリスト教は我々の「宗教」とはわずかに異なるものであり、どこまでいっても「宗教」とは近代の産物であったという。

ユダヤ人とユダヤ教 #1 Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism"

  • Steve Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism: Problems of Categorization in Ancient History," Journal for the Study of Judaism 38 (2007), pp. 457-512.

本論文は、ブリル書店から発行されているヨセフスの翻訳と注解シリーズの編者による長尺論文である。同シリーズにおいて「ユダヤ人」と書くに際し、Masonは一般的なJewsではなくJudaeansを採用したのだが、本論文はこの方針への批判に対する弁明にもなっている。このエントリーでは、pp. 457-80の序章および第1章をまとめたい。

歴史学においては、古代の文脈から離れ、今日的な視点から対象を研究する、主として社会科学で用いられるエティックな方法論(統計学、人類学、経済学など)と、古代の文脈に即しつつ、その内的な思考パターン、カテゴリー、そして言語を研究するエミックな方法論とがあるが、本論文は、「ユダヤ」や「ユダヤ人」という用語をエミックな観点から探究したものである。

論文著者は、まず3つの文献学的事実を指摘する:
  1. 古代におけるヘブライ語およびアラム語テクストには、我々にとっての「ユダヤ教」を意味する言葉はない。「ユダヤ人(יהודים)」や地名としての「ユダヤ(יהודה)」はあるが、「ユダヤ教(יהדות)」は存在しないのである。
  2. ギリシア語やラテン語において、「ユダヤ人(Ioudaioi)」という語は頻出するにも関わらず、「ユダヤ教」に相当するἸουδαισμός / Iudaismusは、第二マカベア書で4回および第四マカベア書で1回使われている以外は存在しない。
  3. パウロとアンティオキアのイグナティオスでは限定的な用法に限られるが、後200年から500年にかけてのキリスト教作家は、「ユダヤ教(Ἰουδαισμός / Iudaismus)」という語を気前よく使っている。
「ユダヤ教(Judaism)」における-ismとは、思想や実践が体系化されたものを指すが、キリスト教作家以前のギリシア語やラテン語の用法は、そのような意味ではないということである。むしろ-ismのもととなる-izoという語尾を含む動詞は、自分以外の民族や文化へと渡ったり、それを採用したり、またそれと提携したりすることを指すことが多かった。こうした民族的な-izoは通常、別の潜在的な交友関係、運動、あるいは傾向とのコントラスト(それが明確であれ暗示的であれ)をつける際に用いられた。それゆえに、Ἑλληνισμόςはβαρβαρισμόςとのコントラストの中で用いられ、またἸουδαισμόςもἙλληνισμόςへのリアクションとして用いられたのである(Ἑλληνισμόςは、第二マカベア書においてἸουδαισμόςとの対比の中で初めて出てくる)。

論文著者は、第二マカベア書(2:21, 8:1, 14:38×2)、第四マカベア書(4:26)、パウロ(ガラ1:13-14)、アンティオキアのイグナティオスにおけるユダイスモスの用法をつぶさに検証する。それによると、ユダイスモスという語は、システムとしての「ユダヤ教」という意味ではなく、むしろヘレニスモスへの対抗策として新たに作り出された「ユダヤ化(Judaizing/Judaization)」という意味で取るべきであるという。つまり、ユダイスモスとは、単に信仰によって「ユダヤ人」である状態を保っている状態、すなわち「ユダヤ教」という意味ではなく、脱ユダヤ化(κατάλυσις)した他のユダヤ人を元に戻し、父祖の律法を復権させるという「ユダヤ化」という意味なのである。反対に、パウロやイグナティオスによるΧριστιανισμόςという語は、信徒が「ユダヤ化」(ユダイスモス)する危険に対して、キリストへ戻るという「キリスト化(Christianizing)」を意味していた。いわば、第二マカベア書はヘレニスモスの脅威に対してユダイスモスを擁護していたが、パウロやイグナティオスはユダイスモスの脅威に対する救済策としてクリスティアニスモスという語を作ったのである。

このように2世紀末までは、ユダイスモスという語は、包括的なシステムや生活の規範としての「ユダヤ教」の意味では用いられなかったが、3世紀になると多くのキリスト教作家が過去にさかのぼってユダヤ人の歴史全体をユダイスモスと呼ぶようになった。そのような作家としては、テルトゥリアヌス、オリゲネス、エウセビオス、エピファニオス、ヨアンネス・クリュソストモス、ウィクトリヌス、偽アンブロシウス、アウグスティヌスなどがいる。エウセビオスの時代になるまでには、ユダイスモスという語はユダヤの地における生活から切り離され、明らかに思想のシステムという意味で神学的に用いられるようになった。エウセビオスは、クリスティアニスモスはユダイスモスでもヘレニスモスでもなく、新しい真の神的な哲学であると述べている。自己規定に躍起になっていた教会は、既存のカテゴリーである「ユダヤ人」に自らの信仰を当てはめるのをやめ、キリストへの献身を独立したものとして見なそうとした。そうした対比の中で、ユダイスモスという語がシステマティックに抽象化されていったのである。論文著者によると、3世紀から4世紀のギリシア語で書かれた碑文の中にも同様の変化が見られるという。

2015年11月24日火曜日

クレアルコスはなぜユダヤ人をアリストテレスに会わせたのか? Bar-Kochva, "The Wisdom of the Jew and the Wisdom of Aristotle"

  • Bezalel Bar-Kochva, "The Wisdom of the Jew and the Wisdom of Aristotle," in Internationales Josephus-Kolloquium Brüssel 1998, ed. Jürgen U. Kalms and Folker Siegert (Münsteraner Judaistische Studien 4; Münster: LIT, 1999), pp. 241-50.
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本論文は、ヨセフス『アピオーンへの反論』180-81において引用されている、ソリのクレアルコスが伝えるユダヤ人とアリストテレスとの邂逅譚が、ユダヤ人がアリストテレスよりも賢いという意味合いを本当に伝えようとしているのかを再考したものである。通常、この箇所において、あるユダヤ人がアリストテレスとそのサークルの知的レベルを試し、なおかつ彼らから学ぶよりも多くを彼らに教えたとされている。しかしながら、論文著者は、アリストテレスの弟子であるクレアルコスが、自分の師よりも学識に優れている者としてユダヤ人を描くだろうかという当然の疑問を呈している。

そこで論文著者が注目するのが、παρεδίδου τι μᾶλλον ὧν εἶχενという表現のμᾶλλονの使い方である:
ὡς δὲ πολλοῖς τῶν ἐν παιδείᾳ συνῳκείωτο, παρεδίδου τι μᾶλλον ὧν εἶχεν.
しかしながら、彼が多くの学識ある者たちと共に住んだとき、彼はむしろ自分が持っているもののうちから何らかのものを伝えた〔or 彼はアリストテレスが持っているより多くの何かを伝えた〕。
論文著者は、この箇所のμᾶλλονについて、比較の意味で「より多くの」という意味と、絶対的な意味で「むしろ」という意味との二つがあり得ると述べている。アリストテレスよりもユダヤ人の方が知恵において優れている、という読みを採用したい研究者たちは、これを前者の意味で取るが、論文著者は、ギリシア散文での用法およびコンテクストから、これは後者の意味で取るべきであると述べる。なぜなら、クレアルコスが自分の師であるアリストテレスよりもユダヤ人を優れた者として描くのは不自然だからである。

この読みは、アレクサンドリアのクレメンスによる引用からも支持される。クレメンスは、ギリシアの知恵がユダヤ人に由来することを証明しようとする文書の中で(『ストロマテイス』1.15)、クレアルコスがユダヤ人とアリストテレスとの邂逅を物語っていることを記録している。仮にクレアルコスがユダヤ人の卓越性を描こうとしていたのなら、それをクレメンスが見逃すはずはないが、この箇所においてそのような記述はないのである。

以上から、クレアルコスが述べているのはユダヤ人の知恵がアリストテレスに勝っているということではないと論文著者は結論する。ただし、クレアルコスがユダヤ人に対して好意的な描き方をしていることは疑いない。ギリシアから離れ、違う言葉を話す民族が、自らをギリシア文化と結びつけ、偉大なるアリストテレスとの対話において、ギリシア精神を示したことを言祝いでいることは確かである。

論文著者によれば、クレアルコスは当時キュニコス派と論争をしていたのだが、その論争の中で、東方の「哲学者たち」の理想像を用いて、自らの逍遥学派的なアイデアを表明しようとしていたのだという。言い換えれば、クレアルコスは、ユダヤ人哲学者の持っている自制心(カルテリア)や節制(ソーフロシュネー)は、キュニコス派のそれとは相反するものであると言いたいのである。その際に、より東方のイメージのあるインド人を持ち出さずに、ユダヤ人を出したのは、アリストテレスが小アジアで出くわす可能性がより高かったからである。であるならば、この物語はユダヤ人に関する情報を提供しようとするものではなかったのだといえる。そしてヨセフスもまたこのことに気付いていたので、クレアルコスの記述の全体を引用せず、部分的な引用に留まったのだと考えられる。

さらなる参考文献
The Image of the Jews in Greek Literature: The Hellenistic Period (Hellenistic Culture and Society)The Image of the Jews in Greek Literature: The Hellenistic Period (Hellenistic Culture and Society)
Bezalel Bar-Kochva

University of California Press 2016-03
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2015年11月23日月曜日

テオフラストスにおける哲学者としてのユダヤ人 Satlow, "Theophrastus's Jewish Philosophers"

  • Michael L. Satlow, "Theophrastus's Jewish Philosophers," Journal of Jewish Studies 59 (2008), pp. 1-20.

本論文において著者は、テオフラストス、メガステネス、クレアルコスがユダヤ人を「哲学者」であると述べていることに関して、なぜそのような同一視がなされるようになったのかを探究している。結論から先に言えば、それは第一に、彼らギリシア人が「哲学者」と分類していた、東方の諸国における「賢者」や「祭司」という分類の中に、ユダヤ人が(誤って)含まれてしまったためであり、第二に、ユダヤ人の習慣として知られていた反偶像主義(aniconism)が、ギリシアにおける哲学的なそれと同一視されたためである。言い換えれば、ユダヤ人は、誤って入れられた賢者/祭司の階級、そしてギリシアの哲学的な反偶像主義との類似という、二重の意味で「哲学的」であると見なされたのである。

テオフラストスは、ユダヤ人が「哲学者というゲノス」であると述べているが、論文著者はその意味を、「民族」「国家」「人種」などいろいろあるなかで、「階級」という意味で取っている。つまり、彼はユダヤ人を、シリア人の内部にある哲学的な階級の一種として見なしているのである。これまで、Hans Lewyの研究などから、一旦ギリシア人が自分たちの思い込みによってユダヤ人の起源に適したカテゴリーを見出すと、彼らはユダヤ人を哲学者と見なし、彼らに適当な性格付けをしてきたことが明らかになっている。
これは古代ギリシアの民俗学や歴史学における次の二つの傾向とも一致している。すなわち、第一に、東方にエキゾチックな知が存在するという理想化の傾向、そして第二に、すでに流布している神話や先行者たちの報告に従って、自分で見てもいないにもかかわらず、「科学的な」説明をするという傾向である。こうした傾向によって、ユダヤ人が「東方の祭司/賢者」と一度見なされてしまうと、その先の説明は最初から決まってしまうのである。

そこから著者は、「ではなぜそもそもギリシア人歴史家たちはユダヤ人を祭司/賢者カテゴリーに入れたのか」と問う。インド人に最初に言及したギリシア人は、オネシクリトスであり、そのあとにメガステネスが続くわけだが、彼らのインド人描写といえば、犬儒派をモデルとした空想の産物に過ぎなかった。つまり、二人ともインド人賢者の思想をつぶさに研究した上で彼らを「哲学者」と呼んでいるわけではない。ここの「哲学者」は、深い知識を持った孤立した思想家を指すわけでも、ある哲学の学派に属するメンバーのことを指すわけでもない。そもそも前4世紀における「哲学」とは、第一に、実用的な訓練であり、第二に、政治的あるいは法律上の理論であった。それゆえに、ギリシア人はインド人賢者たちの持つ奇妙だが訓練された振る舞いを見たり、彼らが王たちに政治的なアドバイスをする姿を見たりしたことから、彼らを自分たちの知る最も近いカテゴリーである「哲学者」に当てはめたのである。この意味での「哲学者」の姿は、儀式を司ったり、実用的な技術(癒しなど)を提供したりする、古代近東における「賢者」のそれに近い。

論文著者はさらに、テオフラストスがブラフマンをインド人の中の一階級と見なしているのと同様に、彼がユダヤ人をシリア人の中の一階級と見なしていることに注目する(本来ならばユダヤ人は別の民族であるのだから、これは奇妙である)。また特に彼がユダヤ人の犠牲の作法に興味を持っていることにも注目する。ここから、論文著者は、テオフラストスが言及しているのはユダヤ人全体ではなく、ユダヤ人の中でも祭司のことだったと推論する。ユダヤ人の祭司は、祭儀を司る者であるから、東方の賢者イメージとオーバーラップする。そして、一度ユダヤ人の祭司が「哲学者」と規定されると、すべてのユダヤ人まで「哲学者」になってしまったのである。

さらにテオフラストスは、ユダヤ人が夜に犠牲を供するのは、すべてを見そなわす太陽から隠れるためであると述べている。おそらく彼は夕方に行われるタミッドかペサハの子羊の犠牲についての断片的な知識を持っていたのだと思われるが、ここで注目すべきは、ユダヤ人が星や太陽を含めた天に何らかの重要性を認めているとテオフラストスが考えていたことである。同様の記述は、ヘカタイオスの記録にも残されており、そちらではよりはっきりと、ユダヤ人が天を神的なものと考えている旨が記されている。ここから論文著者は、両者はここでユダヤ人の反偶像主義を暗示しているのだと考えた。そしてそのことが、特にテオフラストスをして、ユダヤ人を哲学者であると考えしめたのであるとする。ギリシアにおいても、神の姿をどのように考えるかについては、長い伝統があった。コロフォンのクセノファネスやヘラクリトスは、神人同型的な神観を否定し、より哲学的な神概念を提示した。このギリシア的な形而上学的な神概念を下敷きに、テオフラストスはユダヤ教の反偶像主義を「哲学的」と評価したのだと考えられる。

さらなる参考文献(順不同)
  • John Gager, The Origins of Anti-Semitism: Attitudes Toward Judaism in Pagan and Christian Antiquity (New York, 1985).
  • Louis H. Feldman, Jew and Gentile in the Ancient World (Princeton, 1993).
  • Peter Schäfer, Judeophobia: Attitudes toward the Jews in the Ancient World (Cambridge, 1997).
  • Bezalel Bar-Kochva, Pseudo-Hecataeus, "On the Jews": Legitimising the Jewish Diaspora (Berkeley, 1996).
  • Idem, "The Wisdom of the Jew and the Wisdom of Aristotle," in Internationales Josephus-Kolloquium Brüssel 1998, ed. Jürgen U. Kalms and Folker Siegert (Münster, 1999), pp. 241-50.
  • Shaye J.D. Cohen, The Beginnings of Jewishness: Boundaries, Varieties, Uncertainties (Berkeley, 1999).
  • Emilio Gabba, "The Growth of Anti-Judaism or the Greek Attitude towards the Jews," in Cambridge History of Judaism 2, ed. W.D. Davies and L. Finkelstein (Cambridge, 1984), pp. 618-24.

2015年11月20日金曜日

ギリシア哲学者としてのアブラハム Feldman, "Abraham the Greek Philosopher in Josephus"

  • Louis H. Feldman, "Abraham the Greek Philosopher in Josephus," Transactions and Proceedings of the American Philological Association 99 (1968), pp. 143-56.

本論文の中で著者は、アピオーンやアポロニオス・モロンによるユダヤ人批判に反論するヨセフスの護教的テクニックの一つとして、アブラハムをギリシア哲学者として描くことを挙げている。ヨセフスのアブラハムは、神の存在に関する目的論的議論を洗練された方法で逆転させる鋭さを持ちつつも、相手の話を聞く柔軟さを併せ持ち、しかも自身の科学的知識をエジプトの哲学者たちと共有する気前良さをも持っていた。

『古代誌』におけるヨセフスの護教論の目的は、非ユダヤ人からの批判に対抗することであったので、そうした非ユダヤ人読者にアピールするようなアブラハム像を創り出したのだった。ヨセフスは、トゥーキュディデースが描いた政治家ペリクレスのように、論理学と説得能力を持ったアブラハムを描いた。そもそも、古代における哲学の目的は、相手を説得し、転向させることであった。

論文著者は、そうしたアブラハムの論理的な演繹法のうちでも最も重要なものとして、神の唯一性の証明を挙げている。ユダヤ文学の中では、『アブラハムの黙示録』、『ヨベル書』、『創世記ラバー』などで、アブラハムが自身の理性を通じてこの見解に至ったことが描かれている。ただし、ヨセフスのアブラハムは、ストア派などギリシア哲学における証明方法を用いているのが特徴的である。しかも、多くの哲学者が天体の秩序だった動きに基づいて神の存在を証明するの対し、ヨセフスのみは――論文著者の調べた限りでは――ただ一人、天体の無秩序な動きに基づいてそれをしているという。キケロー『神々の本姓について』で描かれるクレアンテスは、神の存在を証明するものとして、嵐や地震といったこの世界における異常な出来事と共に、天体の秩序だった動きを挙げている。ヨセフスは、完全な自由意思を持った非物質的なユダヤ的な神概念を持っているがゆえに、クレアンテスの二つの議論を一つにまとめたような証明に至ったのだと考えられる(ただし、論文著者によれば、ヨセフスは哲学者というガラではないという)。

こうしたアブラハムを賢者として描く方法は偽エウポレモスにも見られるものであるから、ヨセフスの独創ではないが、ヨセフスはアブラハムを天文学者かつ論理学者として、より強調して描いている。ラビ文学や偽フィロンが、アブラハムが巻き込まれるカルデアでの騒動を、主に信仰の問題として描くのに対し、ヨセフスは、アブラハムが科学的かつ哲学的な議論において反発されたとしている。

ピタゴラスやソロンのようなソクラテス以前の哲学者たちが、マギ、インド人、エジプト人などの賢者たちと哲学的な議論するという典型的なイメージがヘレニズム時代にはあったが(フィロストラトス、プラトン『ティマイオス』)、アブラハムがエジプトを訪れたこともこのイメージを下敷きにして描かれている。事実、ヨセフスは『アピオーンへの反論』の中で、教養あるユダヤ人が小アジアにいたアリストテレスを訪ねて、知識を交換する様子を描いている。
ラビ文学にも同様の描写はあるが(ベホロット8b)、そちらではアブラハムは伝道者として描かれることが多く、ヘレニズム的な様式の哲学的な議論はほとんど出てこない。ヨセフスの描くエジプト人と対話するアブラハムは、論理学、哲学、修辞学、科学に秀でた極めて知性的で教養あるヘレニズム的紳士であった。それどころか、アブラハムは、のちにエジプト人が名声を得るに至った計算術や天文学に関する知識を、当のエジプト人に教えた人物となった。そうした知識を惜しげもなく与えるほど気前のよい人物としてアブラハムを描きたかったのである。ラビ文学においては、天文学の知識を持つアブラハムを肯定的に描く伝統は、中世になるまでなかった。むしろ、ラビたちは天文学や占星術を魔術と見なしていたので、アブラハムがそれを知っているがゆえに子供をなかなか得ることができなかったと説明していたほどである。

天文学者としてアブラハムを描くのは、先に述べたように偽エウポレモスにも見られるものであったので、ヨセフスはそれを流用して、ギリシアの読者にアピールするように、天文学のような科学的な精神を持った人物としてアブラハムを描いた。しかしながら、興味深いことに、フィロンはアブラハムはカルデアで天文学の知識を持っていたが、それは目に見える世界への執着であり、そこから出て目に見えない世界へと入ることによって、純粋な哲学者になったとした。ラビ文学は、アブラハムが占星術に関する知識を持っていたとしているが、神がアブラハムを説得して占星術を手放させたと伝えている。

ヨセフスは護教的理由から、哲学者かつ科学者としての側面を強調しつつ、アブラハムを典型的な国民的ヒーローとして描こうとしたのだった。

2015年11月19日木曜日

エビオン派キリスト教徒について Schoeps, "Ebionite Christianity"

  • H.J. Schoeps, "Ebionite Christianity," Journal of Theological Studies 4 (1953), pp. 219-24.

エビオン派のキリスト教とは、ローマの偽クレメンス、シュンマコス、福音書系の黙示文学、ラビ文学や教父文学などによって知られる、2世紀のユダヤ・キリスト者の共同体である。彼らはエルサレムを離れてコイレ・シリアやトランス・ヨルダンに移住した、最初期のキリスト教徒たちであった。論文著者はこのエビオン派について、そのキリスト論、反パウロ主義、そしてユダヤ法への姿勢という3つの観点から説明する。

キリスト論。エビオン派はイエスのことを、律法を完全に遵守する預言者だと考えていた。すなわち、イエスは神の子ではなく、あくまで人の子と見なされたのである。イエスが神の力を得たのは、誕生のときや先在のときではなく、洗礼を受けたその日からであった。いわば、イエスは神の実の子ではなく、洗礼によって縁組した養子なのである(adoptionist Christology)。この人の子は、天へと上ったあとも、救済のときに最後の審判のために再臨することが期待されていたが、再臨の遅れによって、エビオン派の神学は次第に廃れ、カトリック教会の発展につながることになる。一方で、イエスはモーセのような「真の預言者」と見なされていた。モーセがユダヤ人にとっての世話役であったのと同様に、イエスは異邦人にとっての世話役であった。

反パウロ主義。エビオン派は教会におけるパウロの役割をまったく重視しなかった。パウロの使徒性がビジョンと啓示によってのみ担保されていたのに対し、真の使徒性はイエスとの直接の個人的な関わりこそが裏打ちするのだと彼らは考えたのである。それゆえにパウロは、真の使徒たちと共同する者といった役割にまで格下げされたのだった。この理由の一つとしては、回心前のパウロによるキリスト教への非道な行為もあったと考えられる。

エビオン派の律法理解。エビオン派は自他共に認める律法の熱狂的な支持者であり、それを厳格に守るあまり、菜食主義、清貧、そして清浄を旨としていた。一方で、モーセの律法を組織的に変更した点もある。彼らは律法の変更によって、以下のことを否定した:動物犠牲の血なまぐさい祭儀、イスラエルの王政、聖書の中で成就しなかった預言、そして神人同型説である。彼らにとって、イエスは律法の遵守者であると同時に、律法の改革者でもあったのである。中でも、動物祭儀の否定は、エビオン派による反パウロ主義とつながっていて重要である。というのも、パウロによるイエスの死の救済論的評価とは、まさにイエスを贖いの犠牲とすることに他ならなかったからである。いわば、イエスは洗礼の水によって、犠牲という火を鎮火したのだった。このように、一見矛盾する、律法の厳守と改革とは、律法と神の意志との乖離を埋めるためのものであった。

歴史の中でのエビオン派の位置。すでに見たように、エビオン派の考え方は、祭儀の場所としてのエルサレム神殿の否定であった。これと似た考え方は、エッセネ派にも見られる。論文著者は、アイン・フェシュカのツァドク派、ダマスカス教会、エッセネ派、そしてエビオン派が教義上の関連性を持っていると指摘する。

2015年11月17日火曜日

アブラハム神殿放火物語に見るビザンツ・シリア・ユダヤの聖書解釈の関係性 Adler, "Abraham and the Burning of the Temple of Idols"

  • William Adler, "Abraham and the Burning of the Temple of Idols: Jubilees' Traditions in Christian Chronography," Jewish Quarterly Review 77 (1986), pp. 95-117.

本論文の中で著者は、エデッサのヤコブやバル・ヘブラエウスといったシリア語聖書解釈の中にある、アブラハムの偶像破壊に関するユダヤ教由来の聖書解釈が、『ヨベル書』のようなユダヤ文献に直接基づくものではなく、実はシュンケッロスらビザンツ時代の古代誌家たちが保存するより古代のギリシア語伝承(エウセビオス、アンドロニコス、アフリカノス、アンニアノスら)に基づくものであると論じている。

ビザンツの古代誌家たちは、アブラハムの偶像破壊やそれに続くハランからの脱出というユダヤ教ミドラッシュを知っており、それを『ヨベル書』から引用したとさえ主張しているが(ゲオルギオス・ケドレノス)、しばしばそれは現在残っているエチオピア語訳『ヨベル書』の内容とは異なっている。論文著者は、4種類の聖書解釈(何人かのロゴセテス古代誌家たちの要約、ゲオルギオス・シュンケッロス、ゲオルギオス・ケドレノス、修道士ゲオルギオス)をまず紹介する。それによると、ロゴセテス歴史家とシュンケッロスの解釈がより古いものであるという。しかし、修道士ゲオルギオスの解釈はエピファニオス『パナリオン』を翻訳し、かつヨアンネス・マララスの解釈を折衷したものであったり、ロゴセテス歴史家の解釈はユリオス・アフリカノスからのものであったりする。つまり、エチオピア語訳『ヨベル書』から直接引用したものではない。

シュンケッロスは、アブラハムとテラの年齢に関する時系列の矛盾を解決するための解釈を保存している。時系列ではハランでのテラの死の方がアブラハムのハラン出発より先に来ているが、それはテラが先に実際に死んだのではなく、アブラハム出発後のテラは精神的には死んだも同然だったからだという解釈である。これはユダヤ教文書である『創世記ラバー』に収録されている解釈である。『創世記ラバー』の解釈とはこうである:年齢だけを見ると、アブラハムは明らかにテラの死より先にハランを出発したことになっているが、聖書ではテラの死を先に書くことで、父を置いて出て行ったという罪状からアブラハムを解放し、同時に偶像崇拝者であるテラの生など死も同然だと指摘している。ただし、シュンケッロスと『創世記ラバー』では細部が異なるので、論文著者は、シュンケッロスのネタ元は、5世紀のアレクサンドリアの古代誌家であるアンニアノスとパノドロスではないかと述べている。

著者はさらに、アブラハムに関する同様の解釈を、なぜシリア語で著作した古代誌家たちも知っていたのかを検証する。そこで彼が議論の叩き台とするのが、次のSebastian Brockの論文である。
この中でBrockは、ヒエロニュムスが保存するアブラハムに関するユダヤ伝承と『ヨベル書』とをまず比較し、両者共に、アブラハムがウルを出発したのが60歳であったと言及していることに注目する。同時にこの60歳という数字は、シリア語伝承にも残されている。しかし、Brockは『ヨベル書』とシリア語伝承との相違も指摘している:アブラハムの神殿放火とウルからの出発を因果関係で結ぶシリア語伝承に対し、『ヨベル書』ではそれが薄く、神殿放火とウルからの出発との間に3年のブランクを置いているため、創世記の時系列と矛盾をきたしている。こうしたことから、Brockは、シリア語伝承は現在の『ヨベル書』に依拠しているのではなく、むしろ『ヨベル書』と共通のより古く純粋なソースに依拠していると論じている。

しかしながらAdlerは、このBrockの主張に対し、次の2点を反論する:第一に、ヒエロニュムスが保存するユダヤ伝承とシリア語伝承とは同じものではない。シリア語伝承は、時系列の矛盾に関する関心が薄いのである。第二に、ヒエロニュムスが保存するユダヤ伝承の時系列とシリア語伝承のそれとは異なっている。前者ではアブラハムがハランで75年過ごしたとされるのに対し、後者では14年である。ヒエロニュムス、シリア語伝承、『ヨベル書』が共有しているのは、アブラハムが偶像崇拝にはっきりと反対したのは60歳のときだったということである。

こうしたことから、Adlerは以下のように主張する:シリア語伝承は、Brockの言うように『ヨベル書』のプロトタイプからのものではなく、ビザンツ古代誌家に知られていたギリシア古代誌家たちの解釈からのものである。そもそもBrock自身が、シリア語伝承の中にギリシア語からの影響を認めているではないか。つまり、しばしばあるシリア語伝承がユダヤ伝承由来とされることがあるが、ことはそう単純ではない。その伝承は、直接ユダヤ教聖書解釈から来たものではなく、ビザンツ古代誌家がギリシア古代誌家から知り得た解釈を通して来たものなのである。

2015年11月16日月曜日

アブラハム物語の時系列における矛盾 Brock, "Abraham and the Ravens"

  • S. P. Brock, "Abraham and the Ravens: A Syriac Counterpart to Jubilees 11-12 and Its Implications," Journal for the Study of Judaism 9 (1978), pp. 135-52.

本論文において、著者は『ヨベル書』11-12章におけるアブラハムの物語に関して、『ヨベル書』と、それと似た内容を保存するシリア語伝承とを比較することで、後者が実は単なる前者の翻訳ではなく、むしろ同じソースを共有していること、なおかつ後者の方が元来の解釈意図に沿っていることを示している。このシリア語伝承は、『カテーナ・セウェリ(Catena Severi)』と、エデッサのヤコブによるリタルバのヨハネ宛て書簡に保存されている。

『カテーナ』と『ヤコブ書簡』とは、共に同じソースに依拠していると考えられる。論文著者は、この2つのシリア語伝承と『ヨベル書』とを比較しつつ、いくつかの類似点と相違点とを明らかにしている。そのうち特に以下のことを挙げておきたい:
  • 両者共に、アブラハムが異教の神殿を燃やしたときの年齢を60歳にしている;
  • 『ヨベル書』はアブラハムによる神殿放火と、ウルからの出発とを結びつけていないが(実際、神殿放火のあとも彼らは3年間ウルに住み続けている)、シリア語伝承はこの2つの出来事を因果関係として結びつけている。
  • 『ヨベル書』では、アブラハムがハラン移住後に父テラと14年間共に住んだことが明らかにされているが、テラの死には触れられていないのに対し、シリア語伝承では、ウル出発から14年後にテラがハランで死に、そのときアブラハムは74歳だったことが言及されている。
こうした比較から、論文著者は、シリア語伝承の方が『ヨベル書』よりも、特に時系列の矛盾の解決に関して、物語の発展における古代の状態を維持していると述べる。では、その時系列の矛盾とは何か。

創世記11章から12章にかけて、アブラハムの年齢とテラの年齢には矛盾がある。11:26において、テラは70歳のときにアブラハムが生まれたとされており、11:32では、テラは205歳で死んだことになっている。しかしながら、テラの死に言及したあとの12:4で、アブラハムがハランを75歳で出発したことになっているが、それだとテラはアブラハムのハラン出発のあとさらに60年生きていたことになってしまう。この矛盾は早くから知られており、『創世記ラバー』39:7や使徒行伝7:4などに、その解決の一端を見ることができる。最もラディカルなのはサマリヤ五書で、何とテラが死亡した年齢を変えて、145歳で死んだことにしている。こうすると、70歳(アブラハムが生まれたときのテラの年齢)+75歳(アブラハムがハランを出発したときの年齢)=145歳となり、アブラハムはテラが145歳で死んでからハランを出発したことになる。

しかし、これでは聖書本文を改変せざるを得なくなる。聖書本文を変えずにこの矛盾を解消する方法としては、2つ考えられる。第一に、バル・ヘブラエウスのように、アブラハムは75歳のときに一度ハランを出発し(テラ145歳)、その後ウルに戻ってきて、テラが205歳で死んでから(アブラハム135歳)、再びハランを出発したという解釈である。この二度の出発のうち、聖書は最初の出発のみに言及しているとバル・ヘブラエウスは考える。

第二に、ヒエロニュムスのように、テラが死んだ205歳のときにアブラハムが135歳ではなく75歳であるようにするために、アブラハムが60歳の時に火をくぐることで生まれ変わり、そこを0歳として数えなおすという解釈である。つまり、ヒエロニュムスは火事に関わる出来事がアブラハムが60歳のときに起こったことだという解釈を保存しているわけだが、すでに見たように、60歳という数字は『ヨベル書』にもシリア語伝承にも残されている。

ただし、ヒエロニュムスはテラの死との関係性をもとに60歳という数字を出しており、テラの死はシリア語伝承でも言及されているわけだが、『ヨベル書』には言及がないので、論文著者は、『ヨベル書』は60歳という数字を知っているだけにすぎず、その背後にある解釈のロジックには無知であると主張する。また、ウルからの出発と火事の出来事とを因果関係で結んでいることから、ヒエロニュムスが保存する伝承は、『ヨベル書』よりもシリア語伝承により近いものだと言える。

他にもいくつかの理由から、論文著者は、以下のような結論を導いている:第一に、シリア語伝承は、『ヨベル書』そのものではなく、『ヨベル書』が下敷きにしたソースに由来するものであること、第二に、両者は創世記の時系列の矛盾を解消するために腐心しているが、シリア語伝承の方がより古い状態を保存しており、『ヨベル書』はその解釈の背後にある論理を無視したまま、いくつかの要素を再利用しているにすぎないこと、などである。

死海文書に関するイマニュエル・トーヴのインタビュー

わりと最近公開されたらしきイマニュエル・トーヴ(Emanuel Tov)先生のインタビューがありました。どうやら、2013年にウクライナ・カトリック大学で開催されたコンフェレンス(International Biblical Conference "Biblical Studies, West and East: Trends, Challenges and Prospects")でのインタビューのようです。トーヴ先生は、いわずもがなですが、ヘブライ語聖書と七十人訳の本文批評の専門家であり、また死海文書の校訂テクスト出版のメイン・エディターとして、Discoveries in the Judean Desert(DJD)シリーズを完結に導いた功労者です。ビデオの中では、死海文書研究について、平易な英語で分かりやすく語っています。

ヨセフスとパリサイ派 Neusner, "Josephus's Pherisees"

  • ジェイコブ・ノイズナー「ヨセフスとパリサイ派」、L.H. フェルトマンと秦剛平(編)『ヨセフス研究2:ヨセフスとキリスト教』山本書店、1985年、117-60頁=Jacob Neusner, "Josephus's Pharisees: A Complete Repertoire," in Josephus, Judaism, and Christianity, ed. Louis H. Feldman and Gohei Hata (Detroit: Wayne State University Press, 1987), pp. 274-92.
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秦 剛平

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本論文で、著者は、ヨセフスによるパリサイ派に関する記述を比較検討することで、モートン・スミスによるパリサイ派理解が正しいことを論証しつつ、それまでの理解を批判している。そのスミスによるパリサイ派理解とは、要約すると以下のようなものである:
ヨセフスの『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』とを比較すると、前者においてヨセフスはパリサイ派についてさほど詳述していないし、描いたとしてもアレクサンドラ・サロメの迷信に付け込んで政治的権力を手に入れた偽善者として描写している。しかしながら後者において、ヨセフスはパリサイ派が民衆の間で人気がある者たちとして描いている。しかも、サロメの夫であるアレクサンドロス・ヤンナイオス(反パリサイ派)ですら、死ぬ間際にパリサイ派を認めていたという記述を付け加えている。いわば、『古代誌』においてヨセフスは、エルサレムを占領したローマに対する政治的配慮から、手を組むならパリサイ派にしろと推奨しているのである。
つまり、ヨセフスが『古代誌』で描くパリサイ派の姿は、ヨセフスのプロパガンダによる歪曲である。これまでの多くの研究者たちは、『古代誌』の記述をもとに、後70年以前におけるユダヤ教の規範的宗派はパリサイ派だったという「汎パリサイ・汎ラビ的」見解を持っていたが、スミスとノイズナーは、『古代誌』の記述はパリサイ派の実際を描いたものではないし、またおそらく後70年以前のパリサイ派は多くの諸派のうちの一つにすぎなかったと主張するのである。

論文著者はまず、『自伝』における記述から、ヨセフスが自分をパリサイ派であると見なしていたこと、そしてガリラヤで指揮官を務めていたときに、パリサイ派のシメオン・ベン・ガマリエルと対立したために解任されたことに触れている。

次に、著者は、『戦記』のパリサイ派について、アレクサンドラ・サロメとの関係、ヘロデの宮廷で賄賂を受け取っていたこと、そして哲学の学派の一つとして説明されていることなどから検証していく。ここではパリサイ派は、宗教の実践や律法の解釈では卓越しているが、マカベア王朝で政治的実権を握り、敵対者を殺害した者たちとして描かれている。しかしながら、彼はここでは、パリサイ派が最も人気がある宗派であるとか、民衆に支持があるなどとは述べていない。

一方で、『古代誌』のパリサイ派は目立つ存在として描かれている。それどころか、パリサイ派の協力なしではパレスチナ統治は成り立たないとさえ述べている。著者は、パリサイ派について、哲学の学派の一つ、ヨアネス・ヒュルカノスとの関係性、アレクサンドラ・サロメとの関係性、ヘロデの宮廷での出来事などから説明していく。それによると、パリサイ派は市井の人々によって支持されており、アレクサンドロス・ヤンナイオスにも最終的には認められ、アレクサンドラ・サロメの後ろ盾を得ている。さらには、『戦記』では描かれていた、パリサイ派による敵対勢力へのリンチも、『古代誌』では隠ぺいされている。

こうしたことから、著者は、パリサイ派を後70年以前のパレスチナ・ユダヤ教の中の規範的宗派として言及することはできないと結論付ける。歴史上のパリサイ派について我々が学ぶことができるのは、パリサイ派の影響力や権力ではなく、第一に、ハスモン王朝の政治に深くかかわる政治結社だったこと、第二に、ユダヤ社会の主流の民族哲学とは異なる特有の哲学を持った学派だったことである。そして政党としてのパリサイ派は前1世紀の最初の50年は有効に機能したが、それ以後は、個々人のパリサイ派は存在しても、派としてのグループはヒレル時代までには政治的活動を停止したのである。

参考エントリー

2015年11月14日土曜日

秦「ヘレニズム・ローマ世界のモーセ像」

  • 秦剛平「ヘレニズム・ローマ世界のモーセ像」、L.H. フェルトマンと秦剛平(編)『ヨセフス研究4:ヨセフス・ヘレニズム・ヘブライズムII』山本書店、1986年、145-86、328-32頁。

本論文で、著者はヘレニズム・ローマ時代のモーセ像を、(1)異民族に対する好奇心からモーセを紹介したり、言及したりしている資料、(2)ユダヤ人の律法制定者に否定的な価値判断を加えている資料、そして(3)明確なアンチ・セミティズムの立場から、モーセの人となりや、出エジプトの物語を創作している資料、の三種類から明らかにし、なおかつそのようなモーセ像を創出するに至ったギリシア人とユダヤ人との関係性を説明している。

第一のカテゴリーでは、ヘカタイオス、ポセイドニオス、ポンペイウス・トログス、ディオドロスが扱われている。ヘカタイオスはユダヤ人をエジプトにおける外国人として描いている。悪疫の発生が外国人の存在に帰されたので、ユダヤ人も他の外国人と共に追放された。ただし、描き方は敵対的というより、民俗学的な関心に基づいている。事実、モーセは高く評価されている。あたかも聖書を引用しているように見える箇所があるが、その可能性は低い。なぜなら、シナゴーグに関する記述がほとんどないからである。ストラボン『地誌』に引用されるポセイドニオスは、ユダヤ人の起源はエジプト人であり、彼らはエジプト人が動物を神とすることを不満に思い、エジプトを出たと説明する。ただし、批判的ではない。ポンペイウス・トログスは、疥癬とらい病にかかった者たちがモーセと共に追放されたと述べる。ただし、モーセの容姿の美しさを高く評価している。ディオドロスは、やはりレプラに罹った病人たちが追放され、彼らが他の民族と食卓を共にしないと説明している。またエルサレムの神殿にはロバに乗ったモーセの像があると述べる。

第二のカテゴリーでは、クインティリアヌス、タキトゥス、ユウェナリスが扱われる。クインティリアヌスは、モーセを「ユダヤ人の迷信の創始者」と述べる。タキトゥスは、ユダヤ人がかつて豚肉を食べたために疥癬にかかったので、今では口にしないと説明する。またユダヤ人は怠惰ゆえに安息日と7年ごとに休養することにも触れている。このことについてはセネカも述べている。ユウェナリスは、ユダヤ人が同胞以外には道を尋ねられても教えず、泉に案内することもしないと説明する。

第三のカテゴリーでは、マネトン、リュシマコス、カイレモン、アピオーンが扱われる。このうちマネトンとカイレモンはエジプトの聖職者である。マネトンは、モーセをヘリオポリスの神官だったとし、また神々を跪拝しない無神論者と説明する。リュシマコスは、疥癬とらい病の件に触れつつ、モーセの教えが「他人に善意を示すな、最悪のことを忠告せよ、神々の聖所を破壊せよ」というものだったと述べる。またユダヤ人を無神論者として描く。カイレモンは、エジプトを追放された浮上の者たちの指導者がモーセとヨセフであったと述べる。アピオーンは、ユダヤ人がレプラ患者、盲人、ちんばのエジプト人であり、ロバを崇拝している(ディオドロス同様)と述べている。彼らの文書はギリシア・ローマ世界で広まり、タキトゥスには、リュシマコス、アピオーンらの文書からの影響が見られる。

こうした文書が書かれるに至った経緯として、論文著者は、アレクサンドリアでの出来事に注目する。プトレマイオス王朝支配のアレクサンドリアでは、反ユダヤ感情はまだ文書上に留まっていたが、同地がローマの属州となったときに、ユダヤ人がローマに対し、他のギリシア人と同等の市民権イソポリテイアを求めたことが、ギリシア人の反ユダヤ感情に火をつけた。後38年に、ローマでユダヤの王として認められたアグリッパがアレクサンドリアに立ち寄ると、当地のユダヤ人がアグリッパ王を中傷する寸劇を上演した。そして、それに興奮したギリシア人の民衆がシナゴーグを襲ったのである。フィロン率いるユダヤ人使節と、アピオーン率いるギリシア人使節とが、皇帝カリグラと接見したが、カリグラはエルサレム神殿に自分の像を立てるように命じた。

41年にカリグラが死ぬと、新皇帝クラウディウスは、ディアスポラ・ユダヤ人の権利と特権を保証する勅令を発布した。論文著者は、この勅令がユダヤ人に有利なものであったがゆえに、ギリシア人の反ユダヤ感情は収まらず、のちに70年にエルサレムが陥落したときも、アレクサンドリアのユダヤ人が援軍を送ることもできない状況になったのではないかと考察する。事実、73年に落ち延びてきたシカリオイが反ローマ宣伝をしようとすると、アレクサンドリアのユダヤ社会は彼らを官憲に引き渡した。

こうした事情から、上の作家たちの中には、ユダヤ人とモーセを批判的に描く者が多かったわけだが、彼らは七十人訳を実際に読んでいたわけではない。七十人訳は、翻訳であっても、あくまで聖なる書物としてシナゴーグで読まれていたはずであると、論文著者は考える。

参考エントリー

2015年11月9日月曜日

ギリシア文学において最初にユダヤ人に言及したのは誰か? Stern and Murray, "Hecataeus of Abdera and Theophrastus"

  • Menahem Stern and Oswyn Murray, "Hecataeus of Abdera and Theophrastus on Jews and Egyptians," Journal of Egyptian Archaeology 59 (1973), pp. 159-68.

本論文は、ギリシア人によるユダヤ人への言及はアブデラのヘカタイオスとテオフラストスのどちらが先であるかについて、SternとMurrayがそれぞれ議論している2本の論考を、1本の論文として出版したものである。

テオフラストス『敬虔について』の断片を発見したJacob Bernayは、1866年に、テオフラストスこそがギリシア文学において最初にユダヤ人に言及した人物であると指摘した。この説はTh. Reinachによっても支持された。しかしながら、1938年にWerner Jaegerは、テオフラストスの記述はアブデラのヘカタイオスに依拠していると反論したのだった。Jaegerの説は、O. Regenbogen, F. Jacoby, A.D. Noch, E.J. Bickerman, J. Gutman, M. Hengelといった多くの研究者に受け入れられ、なかば定説となった。

Jaegerは、ヘカタイオス『エジプト史』の成立を前305年以降と考えている。一方で、Jaegerによれば、テオフラストス『鉱物について』という書物はいくつかの理由から前300年以降の成立と考えることができ、なおかつその中にヘカタイオスの著作からの情報と思しき記述が見受けられるために、テオフラストスは『鉱物』でヘカタイオスに依拠しているのだから、『敬虔』でのユダヤ人描写においても同様であるに違いないというのである。

本論文の著者は両方とも、このJaegerの時期設定はどこかしら受け入れがたいと考えている。短く言えば、SternはJaegerによるヘカタイオスの成立年代は正しいが、テオフラストス(『敬虔』)の成立年代はもっと古いはずなので、テオフラストスの方が先だと考えている。一方で、Murrayは、Jaegerによるテオフラストスの成立年代は誤っており、テオフラストスに関するSternの修正は基本的には正しいが、JaegerもSternもヘカタイオスの成立年代については誤っており、実はもっと古いはずなので、ヘカタイオスの方が先だと考えている。

Sternによれば、テオフラストス『鉱物』を吟味すると、言及されている年号から、おそらくは前315年頃には同書が成立していたと述べている。すなわち、Jaegerによってヘカタイオス『エジプト史』が成立したと考えられている前305年より10年も前である。そもそもある著作(『鉱物』)でヘカタイオスに依拠しているからといって、別の著作(『敬虔』)でも同様とは限らない。また、ユダヤ教に関しては、テオフラストスよりヘカタイオスの方が正確なので、後者の方がより後代である可能性が高い。さらに、テオフラストスは前319年に不敬虔であることを咎められ、裁判沙汰になっており、『敬虔』はそれに対する自己弁護として書かれた可能性もある。となれば、同書の成立は少なくとも前320年から前310年頃と考えるべきである。

以上から、Sternは、ユダヤ人に最初に言及したギリシア人はテオフラストスであり、彼はヘカタイオスに依拠してはいないと結論付けた。

一方で、Murrayは、Sternによるテオフラストス『鉱物』(前315年)の成立年代は正しいが、ヘカタイオス『エジプト史』が前305年の成立であると考える必要はないと述べる。このことを彼は、むしろヘカタイオスの著作を吟味することで、以下の5つの理由から正当化している。第一に、『エジプト史』において言及されている最後の出来事は、前320年に行われたアピスの葬礼であること。第二に、前305年に王となったプトレマイオスがどこにも王としては言及されていないこと。第三に、ユダヤ人への関心が強く、その知識はおそらく前320-前318年に行われたペルシア遠征で得られた可能性が高いこと。第四に、前321年から前312年頃に首都になったアレクサンドリアへの言及はなく、それ以前の首都であったメンフィスへの言及はたくさんあること。そして第五に、Murrayの以前の研究で明らかにされたとおり、ヘカタイオスの姿勢がプトレマイオス朝初期の傾向に即してあること。

以上から、Murrayは、少なくともヘカタイオス『エジプト史』は前312年以前には書かれていたと主張する。前3世紀になってから『インド史』を書いたメガステネスは、すでにヘカタイオスを民族誌のスタンダードと考えていたことも、ヘカタイオスが古いことを支持する。さらに、Murrayによれば、テオフラストス『鉱物』には、ヘカタイオス『エジプト史』の記述に依拠していると思しき箇所がいくつかあるので、少なくとも『鉱物』を書いたときに、テオフラストスはヘカタイオスを参照していた可能性が高いとする。では、『敬虔』はどうかというと、Murrayは、確信はないが、『鉱物』と同時期に書かれたものであると考えており、そうであるならばやはりヘカタイオスの記述をもとに書かれた可能性を否定できないと述べる。

読んでみると、両者共に、ヘカタイオス『エジプト史』とテオフラストス『鉱物』との関係性については、ある程度しっかりした議論をしているが、こと『敬虔』に関しては、かなり推測に頼らざるを得ないようである。

2015年11月7日土曜日

ギリシア人とユダヤ人 Jaeger, "Greeks and Jews"

  • Werner Jaeger, "Greeks and Jews: The First Greek Records of Jewish Religion and Civilization," Journal of Religion 18 (1938), pp. 127-43.

本論文は、ヘレニズム期におけるギリシア人とユダヤ人との関係を明快に解き明かしたマスターピースである。たとえ自身はユダヤ人に関する記述を残してはいなくとも、ユダヤ人を含む東方世界の諸民族の理解への道を整えたのは、アリストテレスその人であった、と論文著者は述べる。彼のキャリアの初期に書かれた、完全には現存しない作品の中で、アリストテレスは東方世界の宗教への関心を見せていた。そうした作品群のひとつである『哲学について』において、アリストテレスはオリエントの「哲学」に言及している。論文著者は、ここでの「哲学」とは厳密な意味でのギリシア哲学のことではなく、いわばゾロアスター教のマギが持つ知恵、すなわち「神学」というほどの意味であると指摘する。

一方で、アリストテレスと同時期のプラトン主義哲学者たちもまた、プラトンによる善の原理を彷彿とさせる、ゾロアスター教の形而上学的な二元論に関心を持っていた。しかし、アリストテレスは彼らのプラトン的二元論に反対し、それを彼の厳格な一元論、さらには神学的な観点から言えば、一神教に取り換えたのである。論文著者曰く、こうした傾向を持つアリストテレスがもしユダヤ教を知っていれば、間違いなく言及していたであろうし、逆にアリストテレスがユダヤ教に好意的に言及していたならば、後代のユダヤ人歴史家たちは間違いなくそれを引用していたはずである。しかし、残念ながらそうした事実はない。

代わりに、アリストテレスの弟子であるソリのクレアルコスは、師匠がユダヤ人と出くわした場面を描いている。おそらくクレアルコスは、ユダヤ人口の多かったキプロスあたりで、実際にユダヤ人に出会っていた可能性は十分ある。また、同様にアリストテレスの弟子であるテオフラストスもまた、新プラトン主義者ポルフュリオスの『自制について』に引用されている、『敬虔について』の中でユダヤ人に言及している。

テオフラストスはユダヤ人を「哲学的な人種である」と述べている。そのこころとして、彼は2点ユダヤ人の哲学的な性質を挙げる。第一に、ユダヤ人が自分では食べない動物を犠牲に奉げる習慣を持っていること、第二に、ユダヤ人が祭りの夜に神を賛美し、神に関する議論をしながら星を観ることである。これは、ヘレニズム期に新しく生まれてきた、自然神学的な特徴を示している。加えて、テオフラストスははっきりとは明言していないが、彼は間違いなくユダヤ人が唯一なる神を信仰していることを知っていたはずであり、そうであるがゆえにユダヤ人を「哲学的な人種である」と説明しているのだと考えられる。

テオフラストスはさらに、ユダヤ人が動物のみならず人間をも犠牲として神に捧げた最初の民族であると述べている。これは、彼が部分的にでも聖書の物語を知っていたことを意味する。なぜならば、カインとアベルは初めて神に犠牲を捧げた人間であり、イサクを犠牲にしようとしたアブラハムは始めて人を犠牲にしようとした人間であるからである。むろん、七十人訳の翻訳がまだ完成していなかった時代に生きたテオフラストスが聖書を読めたはずもないので、おそらく彼は何らかのソースを持っていたと考えられる。

こうした記述を残すテオフラストスのソースは何であろうか?論文著者は、それは『エジプト史』を書いたアブデラのヘカタイオスであると考えた。エジプトの歴史資料を自由に使うことのできる位置にいたヘカタイオスは、エジプトの君主制をプラトン的な理想の国家像として描いた。そしてすべての文明がエジプトに由来するという説明をする中で、ユダヤ人がいかにしてエジプトを出ていったかについて触れているのである。前288年に死んだテオフラストスが、前300年頃に書かれたとされるヘカタイオスの『エジプト史』を読んでいた可能性は十分ある。

ただし、ヘカタイオス自身がユダヤを訪れたことがあるとは考えにくい。おそらく彼はアレクサンドリアなどで、ギリシア語を話せるユダヤ人と接触したのであろう。彼は、七十人訳完成以前であるにも関わらず、申命記の一節らしき文章も引用している。一方で、ヘカタイオスにはユダヤ人の歴史を誤解している部分も少なくない。特に、モーセがエジプトを出てエルサレムの町を作っていくところなど、明らかな誤りだが、もしかしたらそれは彼がモーセの逸話を、ギリシアにおける通常の植民地の作り方に合わせて変更したからかもしれない。さらにヘカタイオスは、明言はしていないが、やはりテオフラストスと同じように、ユダヤ人が純粋な一神教を奉持していると考えていた節がある。

テオフラストスもヘカタイオスも、ユダヤ人たちが持っている、普遍的な一神教に基づいた宗教システムと、神権政治的なヒエラルキーに基づいた政治システムを考慮することで、ユダヤ人が「哲学的な人種である」という結論に至ったのである。

アリストテレスとユダヤ賢者の邂逅 Lewy, "Aristotle and the Jewish Sage"

  • Hans Lewy, "Aristotle and the Jewish Sage according to Clearchus of Soli," Harvard Theological Review 31 (1938), pp. 205-35.

以下かなり長文かつ、途中から話の流れが分かりづらくなるが、それは筆者がまだ論文の内容を完全には消化しきれていないためである。ここではとりあえずのまとめを残しておきたい。

(I)ヨセフスは『アピオーンへの反論』1.177-81において、逍遥学派哲学者であるソリのクレアルコスがユダヤ人に言及している箇所を引用している。クレアルコスの著書『眠りについて』の中では、彼の師匠であるアリストテレスがあるユダヤ賢者と出会い、哲学的な議論をした場面が描かれている。ヨセフスはここでの彼らの議論がどのようなものであったかまでは引用していないので、その内容はよく分からない。ヨセフスの意図はただ、ユダヤ人が古くから教養あるギリシア人とつきあいがあったことを示すことで、ユダヤ人が新しい民族であるというアピオーンの主張に反論することだった。引用から分かることはただ、アリストテレスがこのユダヤ賢者の「不思議な性質と哲学」を称えており、なおかつ「何らかの驚くべき夢のようなこと」を学んだということである。

ところで、新プラトン主義者であるプロクロスもまた、『プラトン「国家」注解』の中で、クレアルコスの『眠りについて』を引用している。そこには、眠っている子供から魂を引き出す実験をした魔術師の逸話が残されている。論文著者(および先行研究者ら)は、この魔術師こそ、ヨセフスの引用でアリストテレスと会ったユダヤ人その人であると指摘する。論文著者は、この推論をもとに、不明な点の多いヨセフスの引用におけるユダヤ人を、プロクロスの引用における魔術師の描写から解き明かしていく。

そこで論文著者が注目するのが、プロクロスの引用における、肉体から解き放たれた魂の議論である。魂がどのように肉体から解き放たれるのかというのは、プラトンの時代からの議論であった。そして、眠りは、魂が本来のかたちを取り戻すひとつの契機であると考えられていた。それゆえに、ヨセフスの引用におけるアリストテレスとユダヤ人とが交わした哲学的な会話にも、この眠りと夢に関する事柄があったかもしれないと論文著者は考える。ヨセフスの引用における「何らかの驚くべき夢のようなこと」という記述もこれを暗示している。

ただし、本来ならば、こうした催眠術師のような存在と、通常の理解でのユダヤ人のイメージとは相いれないものであるはずである。しかし、論文著者は、ユダヤ人の起源に関するクレアルコスの見解をもとにこの矛盾を説明しようとする。ヨセフスの引用において、クレアルコスはユダヤ人がインドの哲学者の末裔であると説明している。すなわち、インドにおいては哲学者は「カラノス」と呼ばれ、シリアにおいては「ユダヤ人」と呼ばれていたというのである。このカラノスとはインドの裸形者たちのことであり、あるカラノスがアレクサンドロスの東方遠征において、王の前で自らを火の中に投じたことが知られていた。またギリシアではこのカラノスたちは、東方における他の宗教共同体と関連付けられていた。それゆえに、クレアルコスは他の著作において、裸形者たちがゾロアスター教におけるマギの末裔でもあると説明している。そして、これらマギたちは、魂の不死性を信じていることが知られていた。いうなれば、ユダヤ人もまたこれら東方の聖職者たちの間接的な末裔であると見なされていたので、ユダヤ人が魂の不死性を信じる催眠術師であるという同一視も成り立つわけである。

ヨセフスがアリストテレスとユダヤ人との邂逅において、催眠術師のくだりを省いたのは、それがギリシア人の目から見てばかばかしく見える可能性があるからで、一方で、プロクロスが魔術師のくだりでその正体がユダヤ人であることを隠したのは、アリストテレスと議論したという名誉をユダヤ人に与えるのを惜しんだからであると考えられる。

(II)ただし、ヨセフスの引用において、このユダヤ人は「言語においてのみならず、魂においてもギリシア人であった」とも描写されているが、それはなぜなのか。論文著者は、これをクレアルコスの執筆意図から説明しようとする。クレアルコスの『眠りについて』は、アリストテレスを主人公にしたプラトン的な対話文学である。論文著者は、この作品をプラトン『国家』第10巻と比較する。プラトン『国家』は、有名な知恵の教師が出てきて、魂が実在することを証明するために、奇妙な神話的・寓話的な体験をするという新しい文学形式となっていた。プロクロスの魔術師と同一視されうる、クレアルコスにおけるユダヤ人も、こうした対話文学における登場人物の中に組み込まれるのである。

ただし、以下の2点には注意すべきである:後代のプラトン主義者たちが創作した、この文学形式の作品の中で、奇妙な体験をするのはギリシア人であるのに対し、プラトン『国家』それ自体とクレアルコス『眠りについて』では、バルバロイがそうした体験をしている。また他の作品では、語り手が他の人に起こったことを語っているのに対し、クレアルコスでは語り手としてのアリストテレスが自分自身に起こったことを語っている。

クレアルコスは、プラトン以来のギリシア知識人の例にもれず、主として正確な知識を欠いているがゆえの憧れから、親オリエント的傾向を持っており、それは同時に親ユダヤ人的傾向にもなっていた。ただし、ユダヤ人に関する知識が極めて限られていたがゆえに、彼らを独立した人種と見なさず、ペルシアにおけるマギやインドにおけるブラフマンのように、シリアにおける祭司集団だと見なしたのだった。そして、そうした祭司階級への高い評価から、クレアルコスは、ユダヤ人を神学や天文学に生涯を捧げる哲学的なセクトの一員と信じたのである。

こうしたギリシア人のオリエント趣味は、初期ヘレニズムの文学作品に大きな影響を及ぼしている。特に、ギリシア賢者の伝記文学においては、タレスやピタゴラスらがオリエントに行って東方の賢者たちから知恵を授かるという形式が好まれた。アリストテレスの弟子であるタレントゥムのアリストクセノスは、ソクラテスがインド人と出会う物語を書いた。また実際にインドに行ったとされるメガステネスはインド思想について著述を残しており、なおかつ哲学はインド人にもユダヤ人にも昔から知られていたと書いている。アリストクセノスのような文学の流行と、メガステネスによるインド人とユダヤ人との共通性とから、クレアルコスはユダヤ人をインド人の末裔としたのかもしれない。

(III)いうなれば、クレアルコスのユダヤ人は、現実のユダヤ人ではなく、作家の想像力による創作の中の人物である可能性が高い。ところ、ヨセフスは182節において最後にユダヤ人が「驚くべき自制心と節制」について語ったと、結論めいたものを述べているが、そこからは、ヨセフスが引用しているクレアルコスの記述には続きがあり、そこにはユダヤ教の食餌規定などの決まりが書かれていたことがうかがわれる。しかし、それをヨセフスが省いたのは、おそらく実際のユダヤ人から見るとやや都合の悪いことが書かれていたからであり、ギリシア人を超えたユダヤ人のイメージを植え付けようとしていた彼の意図にそぐわなかったからかもしれない。

ところが、論文著者は、この省略部分には、むしろ禁欲主義と眠りとの関係が書かれていた可能性を指摘する。新プラトン主義者のオリュンピオドロスは、『プラトン「パイドン」注解』の中で、アリストテレスがある男と会った物語を語っている。それによると、その男はまったく眠ることがなく、また太陽のような空気のみを糧としているという。この描写はいかにもプラトン的かつピタゴラス的なものである。「太陽のような空気」とはエーテルのことに違いない。またエーテルのみを糧にする禁欲的な生活をすることで、不死なる魂を清浄に保とうとしている。この魂の不死性という考え方は東方の賢者たちに共有されていたもので、彼らと比較されていたユダヤ人も当然持っているものとされていた(ヘルミッポス)。もしこのようなことが書かれていたならば、ヨセフスはやはりこれをあまりに馬鹿げているとして省かなければならなかった。

(IV)クレアルコスは、このように当時の文学的流行やステレオタイプなどをもとにユダヤ人を描いているため、あまり批判的な目を持っていない。彼の作品のテーマは、友情、動物、格言、なぞなぞ、性的なもの、プラトンの称賛など多岐に渡っており、文字通りさまざまなテーマを逍遥してはいる。しかし、また聞きをもとにした紋切り型の作品ばかりなので、アリストテレス的な経験主義に基づいた批判精神には欠けている。むしろ、クレアルコスのテーマはプラトンの弟子であるスペウシッポスなどと共通の要素が見受けられる。またピタゴラス主義の影響も多大である。こうしたことから、よく言えば、クレアルコスはプラトンとアリストテレスの教えの矛盾を調和させようとした最初の者たちのうちの一人であるともいえる。

(V)魂が肉体から分離可能であると考えたプラトンに対し、アリストテレスは肉体と、それと共に死ぬ魂との不可分な調和を説いた。すると、魂を肉体から引き出す魔術師の話を語る、クレアルコスのアリストテレスは実は完全なるプラトン主義者になってしまっている。むろん、この逸話自体は、プラトンが死んでアリストテレスがアカデミアを去り、小アジアにいた時代なので、まだプラトンの影響下にあったということもできる。が、やはりクレアルコスは意図的にアリストテレスの権威を用いてプラトンの説を正しいものとして描こうとしていると考えられる。

2015年11月3日火曜日

フィロンにおける魂の上昇 Schäfer, "Philo: The Ascent of the Soul"

  • Peter Schäfer, The Origins of Jewish Mysticism (Tübingen: Mohr Siebeck, 2009), pp. 154-74.
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哲学者としてのフィロンは独自の思想家ではないが、中期プラトン主義、中期ストア派、新ピタゴラス主義を折衷した思想を持っているばかりか、のちに新プラトン主義と呼ばれることになる思想の萌芽すら持っている。ただし、ラビ・ユダヤ教文学における影響はほぼ皆無であり、後代のユダヤ思想家によるフィロンへの言及は、16世紀のアザリヤ・デイ・ロッシを待たなければならなかった。

フィロンの神概念。フィロンにとっての神は、プラトン的な用語のト・オンで表されるような完全に超越的な神である。『律法詳論』において、フィロンは、神が存在するか、神の本質とは何かという問いを立てる。第一の問いについては、現実世界がいかに秩序だっているかを見れば、それが理性を持った何かによって前もって計画され、創造されたことが分かるという。第二の問いについては、究極的に人は神の本質を見ることはできないと答える。代わりに、不可知で、到達不可能で、そして超越的な神の栄光を表す力(デュナミス)を見ることができるのである。またこの神の力によって創造された、永遠かつ不変のイデアの宇宙が、人間の知性(mind)によって認識されうる可知的世界(intelligible world/kosmos noetos)である。一方で、人間の感覚(sense)によって知覚されうるのは、可感的世界(sence-perceptible [visible] world/kosmos aisthetos)である。フィロンは、可知的世界を兄、そして可感的世界を弟としつつ、可感的世界は可知的世界のコピーであると説明している。

この神の力を代表するのが、ロゴスとソフィアである。ロゴスは、可知的世界の起源に関わる力である。神はロゴスという創造的な力を用いて、建築家のようにまず可知的世界を思い浮かべ、それからソフィアを用いて可感的世界を作るのである。可感的世界は、父としての神と、母としての知識(エピステーメー=ソフィア)とが一つになることで生まれた若い方の息子なのである。年長の息子は、神とロゴスとの子である可知的世界である。ただし、これはソフィアの方がロゴスより劣ることを意味するのではなく、存在論的に両者は同一だと見なされる。

肉体と魂、感覚と知性。聖書において、肉体と魂との区別というのは重要ではなかったが、ヘレニズム期になるとギリシア思想の影響で、両者が区別されるようになった。フィロンは、悪しき肉体が魂を閉じ込めていると考えた。普通の人間は、最も気高い部分である魂や知性ではなく、肉体にかかずらってしまっているが、魂は本当の哲学を持ち、不滅かつ非物質的な存在を部分的に持っている。ここで、フィロンは魂(soul)と知性(mind)とを同じような意味で用いているが、魂がより広義の意味を持つのに対し、知性は魂のうちでも特に理性的な部分のみを指している。この知性によって、人間は可感的世界を超えて、イデアの可知的世界につながることができるのである。ロゴスやソフィアが超越的な神の反映であったように、人間の知性もまたロゴスやソフィアの反映になっている。すなわち、神のロゴスと人間の知性(ロゴス)とは密接に関わっているのである。この神のロゴスは、哲学者の知恵とは異なり、教育によって獲得できるものではなく、self-inspiredかつself-taughtなものである。

魂が見る神。預言者は、神を見ることのできる特権を有する存在である。フィロンによると、太陽が我々の知性であるとすると、昼は通常の状態であるが、日没になると、エクスタシー、神的憑依、霊的狂乱が訪れるという。言い換えれば、フィロンは神の光は人間の光と反発し合うものではなく、神の光が預言者に訪れると、人間の知性は肉体から退くのである。すなわち、人間の知性は段階的に上昇して神の光に至るのではなく、まったく別物に入れ替わるということである。

預言者の中でも最も重要なのは、言うまでもなくモーセである。出24:2の解釈において、モーセは神のそばもとに近づける唯一の預言者であり、彼の側近であるアロン、ナダブ、アビフらはモーセと共に山に登ることは許されたが、神の近くにはいけない者たち、そして民衆は山のふもとにいなければならない存在であると解釈されている。モーセの神的かつ霊的な預言者の知性は、肉体と魂という二項対立を離れ、純粋な知性である単一の実体、すなわちモナドへと変化する。アルメニア語訳でのみ残されている『出エジプト記問答』においては、この二項対立から統一体へ、肉体と魂から純粋な魂へ、そして可死の世界から不死の世界へと至るモーセの変化は、モーセの存命中に起こったとさえ説明されている。とはいえ、神の高みへと至ることができるのはモーセだけではなく、正しい手順を踏めば、いかなる人も同様に純粋な魂を持つことができるという。

『世界の創造』によると、魂は、憑依状態になったコリュバンテスのように、神によって神的な狂乱に満たされると、可感的世界を離れ、神のロゴスによって創造された可知的世界へと至る。そして魂は神を見ようとするが、その願いはかなわない。魂は神の光の奔流によって目をくらまされ、何も見えなくなってしまうのである。『アブラハムの移住』によると、フィロン自身もこうした経験をしたことがあり、哲学的な著作もまた、真の預言者のように神的な霊感を受けた者のみが書くことができると述べている。