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2015年2月11日水曜日

ヒエロニュムスとユダヤ人 Stemberger, "Hieronymus und die Juden seiner Zeit"

  • Günter Stemberger, "Hieronymus und die Juden seiner Zeit," in Begegnungen zwischen Christentum und Judentum in Antike und Mittelalter, ed. Dietrich-Alex Koch and Hermann Lichtenberger (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1993), pp. 347-64.
3525542003Begegnungen zwischen Christentum und Judentum in Antike und Mittelalter
Heinz Schreckenberg
Vandenhoeck + Ruprecht Gm 1997-03-01by G-Tools

本論文は、ヒエロニュムスが当時のユダヤ人とどのような関係を持っていたかについて、彼自身の証言を検証したものである。ヒエロニュムスの持っているユダヤ伝承の由来や彼のヘブライ語能力についてはしばしば議論されてきたが、ここではそういった個別の問題よりも、むしろ彼が持っていたユダヤ教に関する情報一般に関して議論されている。

372年から381年にかけて、ヒエロニュムスはアンティオキア、カルキス砂漠、コンスタンティノポリスにいた。カルキス砂漠では、ヘブラエウスと彼が呼ぶユダヤ・キリスト者からシリア語(アラム語)を学び、加えてヘブライ語も学んだという(書簡125.12、ダニエル書の序文)。このヘブラエウスの母語はギリシア語かアラム語だったと考えられる。この時点でのヒエロニュムスのヘブライ語能力は、かろうじて聖書を読むことができるほどであった。381年にコンスタンティノポリスにおいて、彼はカルダエウスと呼ばれる人物からヘブライ語を習ったという(書簡18A.15)。ただしこの書簡で彼が「ヘブライ人から聞いた」として説明している聖書解釈はオリゲネス由来だとされている。

382年から385年にかけて、ヒエロニュムスはローマで過ごした。ここで彼はローマの貴婦人たちにヘブライ語聖書を教えたが、この頃には彼のヘブライ語は抜きん出たものになっていたと見られる。それはヘブライ語に熱中するあまり、ラテン語がおかしくなってしまったほどであった(書簡29.7)。この時代の証言として重要なのは、教皇ダマスス宛の書簡36で、この中でヒエロニュムスはシナゴーグにおいて聖書のみならず、聖書以外のヘブライ語文献(ミドラッシュか?)をも読んでいたと述べている。ただし、この書簡は後年のアンブロシウスとの論争の中で書かれた架空の書簡だという説があることと、ローマにおける滞在が比較的短いことから、この時代に本当にヒエロニュムスがユダヤ人との交流を持っていたか疑問視する向きがある。そこから著者は、ヘブラエウスとカルダエウスらユダヤ・キリスト者との交流を除けば、ベツレヘム滞在より前のヒエロニュムスはほとんどユダヤ人との交流を持っておらず、主な情報源は書物であったと結論付ける。

385年にローマを出ると、ヒエロニュムスはパレスチナを周遊し、最終的にベツレヘムに住むことになる。周遊の際には、ユダヤ人のガイドを得て、パレスチナの地理の知識を得たようである(七十人訳歴代誌の序文)。地理に関しては、ヒエロニュムスはエウセビオスの『オノマスティコン』を翻訳している。ただし翻訳に際し、ヒエロニュムス当時の状況をあまり反映させていない。彼自身が訪れたはずの土地についても、聖書以外の情報を付け加えることはなかった。他の彼の地理情報の提供者は、パレスチナへの巡礼者や彼の修道院の修道士たちであった。また『ハバクク書注解』2:15やヨブ記の序文においては、リダ出身の教師なる人物を挙げている。興味深いことに、彼はタナイームのことをデウテロテース、パリサイ派のことをデウテローセイス、ハハミームのことをソフォイなどというように、ヘブライ語の用語をギリシア語で説明することがある(書簡121)。これはJ. Barrの言うように、彼がこのリダ出身の教師とギリシア語で会話していたからかもしれない。

386年からのその死の420年まで、ヒエロニュムスはベツレヘムに住んだ。ただし、エルサレムは当時ユダヤ人が入ることを禁じられていたために(彼自身がそう証言している)、この時代に本当に彼がユダヤ人と会えたのかは疑わしい。なおかつ、ユダヤ人側も非ユダヤ人にトーラーを教えることに積極的でなかったと考えられる。それでも、この時代のヒエロニュムスのユダヤ教師として、バル・ハニナという人物が知られている(書簡84.3)。ユダヤ人居住区はベツレヘムより南のヘブロンやリダだったので、バル・ハニナはわざわざそうしたところからヒエロニュムスを訪ねてきたことになる。著者はバル・ハニナをキリスト教に共感するユダヤ・キリスト者だと見ている。ヒエロニュムスの敵対者たるルフィヌスは、彼がユダヤ人に聖書を習っていることを攻撃してきた。また「歴代誌の序文」に出てくるティベリア出身の教師、『コヘレト注解』1.14および「トビト記序文」に出てくる教師などもいるが、これら人物もユダヤ・キリスト者と考えられる。こうした人物たちをヒエロニュムスは「ヘブラエイ」と呼んでいる。

ヒエロニュムスの著作から当時のユダヤ人の生活を再現できると考える研究者たちもいたが、彼の証言は、先行者や聖書からのものであることが多い。たとえば、ヒエロニュムスのユダヤ人評は新約聖書上のパリサイ派の描写から来ている。S. Kraussはヒエロニュムスの証言から当時のシナゴーグ礼拝の様子を再現しようとしたが、ヒエロニュムス自身は礼拝に出席したことがないようである。『イザヤ書注解』45:18-26では、ユダヤ人が跪いて礼拝すると述べているが、これは正しくない。またフィロンとオリゲネスの著作を混ぜ合わせたような証言もある。

以上から、著者はヒエロニュムスの証言の再検討の必要性を説く。ユダヤ人との接触もそれほど頻繁ではなかったし、ヘブライ語能力もさほど高くなかったと考えられる。ユダヤ人教師はラビではなく、一般の住民であったため、彼が聞いたユダヤ伝承にも信頼が置けない。

2 件のコメント:

  1. お久しぶりです。
    いつもながら興味深い論文の御紹介、ありがとうございます。

    ところで、4世紀後半という時点における「ユダヤ・キリスト者」の実態が一体どのようなものであったのか、それはそれで大いに議論の余地がある話題であると思われますが、その辺に関しては、この論文の筆者はどのくらい言及しているのでしょうか?

    また、『著名人列伝』3章にある、シリアのベレア市でヘブライ語の福音書を見せてくれたという「ナザレ派」との関連については、触れられているのでしょうか?

    もしよろしければ、御教示お願いします。

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  2. Josephologyさん、コメントをどうもありがとうございます。

    著者はユダヤ・キリスト者について本論文では触れていませんが、おそらくJuden und Christen im spätantiken Palästinaという著作の中では触れていると思います。この本は英訳Jews and Christians in the Holy Landもあります。

    ヘブライ語の福音書についても本論文では触れていませんが、思いつくものとして以下の論文がありますのでご参照ください。
    Timothy C. G. Thornton, "Jerome and the 'Hebrew Gospel according to Matthew,'" in Studia Patristica 28 (Louvain: Peeters, 1993), pp. 118-122.

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