2015年2月22日日曜日

『会衆の規則』(1QSa)における女性 Grossman, "Women and Men in the Rule of the Congregation"

  • Maxine L. Grossman, "Women and Men in the Rule of Congregation," in Rediscovering the Dead Sea Scrolls: An Assessment of Old and New Approaches and Methods, ed. Mexine L. Grossman (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2010), pp. 229-45.
Rediscovering the Dead Sea Scrolls: An Assessment of Old and New Approaches and MethodsRediscovering the Dead Sea Scrolls: An Assessment of Old and New Approaches and Methods
Maxine L. Grossman

Eerdmans Pub Co 2010-06-28
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本論文は、『会衆の規則』(1QSa)を女性の立場から読むことで、男性中心主義的な観点の再考を促すものである。フィロン、プリニウス、ヨセフスらの記述をもとに、クムラン共同体をエッセネ派の集団と考える初期の研究者たちの中には、共同体を独身主義の集団であると考える者もいた。こうした研究者たちには、中庸な社会的カテゴリーを想定する場合も当然それは男性であり、女性は例外的な存在に過ぎないという男性中心主義的なバイアスがかかっているのである。しかし実際には、独身主義を明確にしている文書はないのであり、フェミニスト的な視点を導入することで、男性中心主義的な視点では見えないことが見えてくると著者は主張する。

『会衆の規則』は、『共同体の規則』(1QS)と異なり、はっきりと女性や子供について言及している文書である。共同体の構成員のことも、『共同体の規則』が「自発的な者たち(ナドゥビーム)」と呼ぶのに対し、『ダマスコ文書』同様「イスラエルの民衆(ハエズラハ・ビイスラエル)」と呼んでいる。本論文の中で特に著者が注目しているのは、1QSa 1:6-16の部分である。それによると、男女が結婚すると、「女性は夫の律法遵守について証言をするために、また裁判の事情聴取のために受け入れられる」とされている。この記述は、他のユダヤ文学には類を見ない、証言者としての女性の役割を示唆している。

この記述について、ある研究者たちは言葉通りにクムラン共同体における女性の役割を想定した。しかしJ. Baumgartenは、三つの理由をもとに、上の記述における主語を女性ではなく男性にして、「男性はトーラーの法に従って証言をするために受け入れられる」と読み替えた。その理由は、第一に、男性のための規則を示している文脈の中で女性が突然主語になるのはおかしいから。第二に、夫の年齢の問題と女性の証言の問題とを結びつける理由がないから。第三に、アテーナイでもローマ法でも、さらにはパウロの教会でも、女性が公の場で証言をすることは許されていなかったから。

しかし、著者はBaumgartenのような読み替えをする必然性はないと主張する。そしてフェミニスト的な批判的な読み方は、これまで資料を解釈してきた基礎的な文化フレームを再考するよすがになるという。男性中心主義的な読み方は、中庸であるふりをしているが、その実、実際の社会状況よりも多くのことを隠してしまうのである。たとえば、第四洞窟で発見された『ダマスコ文書』断片(4Q266-73)をもとに、著者は二つの指摘をしている。第一に、結婚前の女性で姦通の疑いがある者は、信頼の置ける女性監督者によって吟味されるのだという。『ダマスコ文書』(CD)によると、裁判における信頼性の高い証言者は、構成員の中で罰されていないよい状態である必要があるので、まさにこの女性監督者は、共同体の中で役割を持った人物として見なされている。第二に、『会衆の規則』が会衆の中の「父親」にのみ言及しているのに対し、『ダマスコ文書』断片は「父親」と「母親」の両方に言及している。これも、共同体における女性の役割を明らかにしている(ただし、両者のステータスは厳密には同じではない)。いずれにせよ、男性中心主義的な読み方が当初想定していたよりも多くの役割を、共同体の中で女性は担っていたと想定されるのである。

2 件のコメント:

  1. 第二神殿時代においては現代人が考えている以上に女性には発言する場があった、という指摘をS・サフライ教授がどこかでしていたように記憶していますが、しかしフェミニズムありきで考えてしまうと、それはそれで逆の意味のバイアスのようにも思われます。

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  2. Josephologyさん、コメントをありがとうございます。おっしゃるとおり、フェミニスト的見方もひとつのバイアスになりえるでしょうね。ただ『会衆の規則』1:11に関しては、原文を見てみるとGrossmanの説明は説得力があります。Baumgartenのような読み替えは必ずしも必要ないように思います。

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