ページ

2015年2月13日金曜日

ラシュバムのプシャット Lockshin, "Rashbam as a 'Literary' Exegete"

  • Martin Lockshin, "Rashbam as a 'Literary' Exegete," in With Reverence for the Word: Medieval Scriptural Exegesis in Judaism, Christianity, and Islam, ed. Jane Dammen McAuliffe, Barry D. Walfish and Joseph W. Goering (Oxford: Oxford University Press, 2003), pp. 83-91.
With Reverence for the Word: Medieval Scriptural Exegesis in Judaism, Christianity, and IslamWith Reverence for the Word: Medieval Scriptural Exegesis in Judaism, Christianity, and Islam
Jane Dammen McAuliffe

Oxford Univ Pr on Demand 2003-01-02
売り上げランキング : 2033233

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
プシャット的聖書解釈は、聖書のプレーンな意味を求める方法論とされている。これはいうなれば、聖書テクストの一字一句にこだわるクロース・リーディングをするということである。しかしながら、実際にはプシャットを奉ずる注解者たちはクロース・リーディングを避ける傾向にあった。たとえばアブラハム・イブン・エズラはこうした読み方を批判し、聖書における言葉の選択には必ずしも重要な意味はないと喝破した。それゆえに、創41章のように、ファラオの夢が地の文で語られ、さらに登場人物によって再度語られるような現象から、ことごとしく違いを見出す必要もないというのである。同様の見解はダヴィッド・キムヒ、ヨセフ・イブン・カスピ、そしてヨセフ・カラなどにも見られる。すなわち、ひとくちにプシャットといってもバリエーションがあるということである。対して、現代の読者は同じ事件の語りなおしに意味を見出そうとする。

ラシュバムもプシャット主義者として、イブン・エズラと極めて似通った聖書解釈のアプローチを取ったが、聖書物語の文学類型を決定するやり方において大きく異なっている。たとえば、両者は共にラビ的ミドラッシュの有効性を認めているが、イブン・エズラがそれを釈義としてではなく伝統としてのみ認めるのに対し、ラシュバムはそれを釈義としても認めている。ことにタルムードの釈義において、ラシュバムはプシャットと共にイトゥリーム(過剰な読み込み)をも用いている。ただし、聖書解釈の場合、ラシュバムはそうした読み込みを参考情報(referential)としてではなく、あくまで修辞的な(rhetorical)な意味として読者に与えているのだった。

たとえば、出22:23における繰り返し表現も、ラシがそれを読者に新しい情報を与えるためのreferentialな意味を読み込んでいるのに対し、ラシュバムはその場面を強調をするためのrhetoricalな意味だと説明する。なぜならば、繰り返しは読者に何らの新しい情報を与えないからである。ただし、そうした強調を、著者がなぜその箇所で用いたのかといった問題を追及することはない(ヨセフ・カラはこうした点にも言及する)。

ラシュバムはプシャットを用いて聖書テクストを解釈するときに、そこから教育的・倫理的な教訓を引き出すことがないのである。いうなれば、彼はユダヤ教を「教える」ために聖書解釈をしているのではないのだといえる。ただし、聖書の中に教育的・倫理的教え自体は含まれているので、それを知りたければ自分のプシャット注解ではなくミドラッシュを読めばいいのだと考えた。そして自分自身の役割を聖書の文学的な表現を明らかにすることに制限しているのだった。

0 件のコメント:

コメントを投稿