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2015年2月9日月曜日

クムランと周辺地域との交流 Schofield, "Between Center and Periphery"

  • Alison Schofield, "Between Center and Periphery: The Yahad in Context," Dead Sea Discoveries 16 (2009): 330-50.

本論文の中で、著者はクムランにおけるセクトとしてのヤハッドを、エルサレムなどの都市との関係の中で相対化する試みをしている。すなわち、ヤハッドとは、クムラン遺跡そのものだけに留まらない現象なのである。そのために、セクト的共同体の新しい理解をもたらす社会人類学的なモデルと、そうしたダイナミックなパラダイム中でその共同体の刑法がいかに新しい理解を得られるかを提示している。

そのために、著者はRobert Redfieldによる「大伝統と小伝統の相克論(great and little traditions)」というモデルにヒントを得ている。すなわち、文化の中心地で体系化された伝統と、それを周辺地域の非エリートが日々の生活に合うものにするために受容・再解釈する伝統との相互関係である。彼によれば、いかなる小伝統も大伝統における文化的・宗教的文化から分離して発展することはないという。小伝統は、大伝統で生まれた普遍的な遺産や知識を、自分たちのローカルな遺産や知識に混ぜるのである。これを当てはめると、クムラン共同体の自己理解も、エルサレムのエリートによって体系化された大伝統と、それに対する自分たちの多様な小伝統との相互作用を通して捉えることができる。すなわち、彼らの自己理解は、ユダヤ教の大伝統との同一性とそれに対して境界を引く異質性とを併せ持っているのである。

著者はRedfieldのモデルを敷衍しつつ、クムラン共同体の特徴を「伝統の放射的・対話的交換(radial-dialogic exchange of traditions)」というモデルで説明する。『律法儀礼遵守論』(4QMMT)の中では、この文書の著者グループが自分たちのことを中心的な権威を通じ、あるいはそれに反発することで定義している様子を見ることができる。彼らは暦法に関して太陽暦を採用したが、これは太陰暦を採用していたエルサレムとの対話の中から出てきたことだと理解できる。すなわち、ヤハッドは常にユダヤ的な中心地に照らして自分たちを理解していたのである。こうしたエルサレムに代表される文化的中心地とクムランとの交流の様子は、考古学的にも証明されている。死海文書が入っていた壺はエリコからもたらされたものだとされている。

刑法もまたセクト共同体の新しいパラダイムを示す好例である。『共同体の規則』、『ダマスコ文書』、そして4Q265など比べると、三つのことが分かる。第一に、それぞれの規則に合致しないことがあることから、クムランの刑法はクムランのみで出来上がったものではない。第二に、これら三つの法規は順番に時系列的に発展したものではない。第三に、それぞれが独自の法規を持っていることから、4Q265の作成者がほか二つの抜粋をつなげたわけではない。著者は他にも5Q13と4Q504も比較対象にしている。すなわち、クムランの刑法は決してその場所だけでできあがったものではなく、同様の刑法を持つさまざまなオーディエンスとの交流の中でできあがってきたものといえる。

Redfieldの「大伝統・小伝統」モデルに準じると、『共同体の規則』は周辺的な特徴を備えた文書であり、また『ダマスコ文書』は統一的な中心地の文書であるということができる。確かにクムラン共同体はエルサレムの権威や神殿とのコンタクトを通じてできあがっていった。しかし本論文の著者が提唱する「放射的・対話的」モデルは、この二項対立的な「大伝統と小伝統」モデルと異なり、クムラン共同体がよりミクロのレベルではもっとさまざまな影響関係の中にあったことを説明できる。

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