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2019年10月24日木曜日

「たとえの書」の成立時期 Knibb, "The Date of the Parables of Enoch"

  • Michael A. Knibb, "The Date of the Parables of Enoch: A Critical Review," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 143-60.

Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (STUDIA IN VETERIS TESTAMENTI PSEUDEPIGRAPHA)
Michael A. Knibb
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J.T. Milikが提起した諸問題のうち、「たとえの書」の成立時期に関するものは最も重要なもののひとつである。多くの研究者は「たとえの書」を後70年以前のユダヤ教由来の文書と考えるが、Milikはそれをキリスト教由来でありかつ後270年の成立と考える。

この主張の根拠には否定的な側面と肯定的な側面がある。否定的な側面としては、クムランから「たとえの書」が発見されなかったのはキリスト教時代より前には存在しなかったから、とMilikは考えた。またMilikによれば、1世紀から4世紀のキリスト教作家が「たとえの書」をまったく引用していないのは、それがキリスト教初期の作品ではないからだという。ここからMilikは、5世紀にはギリシア語訳のエノク伝承はクムランと同じように2巻本として回覧されていたが、「たとえの書」ではなく「巨人の書」が入っていたと主張する(「巨人の書」はビザンツ歴史家シュンケッロスのソースも持っていた)。

しかし、論文著者によれば、ギリシア語訳のエノク伝承がクムランでのように2巻本で読まれていたというMilikの主張の証拠は弱い。また5世紀に「天文の書」が独立した文書として存在したかどうかについては、シュンケッロスの暗示的記述とオクシュリンコス・パピルスの断片が証拠として挙げられるが、確実でない。言い換えると、われわれは『エノク書』がどのようにして現在のエチオピア語訳のような形式を獲得したのかも、いつ「たとえの書」が挿入されたのかもよく分からない。また「たとえの書」がエッセネ派文書ではなさそうであるからといって、それがキリスト教文書であると結論付けることはできない。

一方で、Milikによる肯定的な側面からの説明としては、「たとえの書」の文学形式がキリスト教文書である『シビュラの託宣』に極めて近いことが明らかである。Milikは2つの類似点を挙げる。第一に、『エノク書』61:6は『シビュラ』2.233-7に依拠している。第二に、『シビュラ』5.104-10は「たとえの書」56:5-7について論者に影響を及ぼした。後者の箇所については、「パルティア人とメディア人」に関する記述は、Milikによると、実は260-70年に起こったパルティア人対ローマ人の戦争のことを示しているのだという。ここから「たとえの書」の成立もその頃とMilikは考えた。

ところが、論文著者はこれらの肯定的な側面からの証拠も確かではないと述べる。『エノク書』と『シビュラ』の間に存在する類似点は、前者が後者に依拠していることを示すために十分なものではない。そもそも論文著者は両者が文学的ジャンルにおいて近いということすら認めていない。そして「パルティア人とメディア人」の記述についても、まったく別の解釈が可能だと論じている。たとえば、『エノク書』56:7にある「右」という記述をMilikは「西」と読み、それゆえにこれはパルミラ人を指すと解釈するが、一般的な理解では「右」は「南」と読み替えるべきである(サム上23:19)。

以上から、「たとえの書」が270年頃に成立したキリスト教文書であるというMilikの主張は説得的であるとはいえない。キリスト教文書であるなら、キリストへの言及がないのは理解しがたい。むしろ同書ははっきりとユダヤ文書だと考えられる。その理由は、第一に、「たとえの書」はヘブライ語であるかアラム語であるかはともかく、はっきりとセム語で書かれている特徴があるからである(たとえば45:3、52:9)。そして第二に、内容的にユダヤ的な特徴があるからである。J. Theisohnによる「人の子」伝承に関する研究によると、この表現はイザ11:1や詩110など旧約聖書に基づくものであり、「たとえの書」もその延長線上にある。

上でも触れた『エノク書』56:5-8の「パルティア人とメディア人」への言及は、年代特定のために重要なものだが、これを基にして算定される「たとえの書」の成立は、Robert H. Charlesによると前64年以前、Erik Sjoebergによると前40-37年以前、そしてMilikによると後3世紀であるという。さらに、論文著者が長く紹介しているJohn C. Hindleyによると、113-17年のトラヤヌス帝のパルティア人遠征を指しているという。論文著者はHindleyの年代特定には同意しているが、その議論はあまり説得的でないと感じている。というのも、Hindleyが年代を特定する際に依拠している『シビュラ』の年代が不明だからである。しかし、それが間違っていると証明することもできない。すなわち、「たとえの書」の年代特定のために56:5-8の記述を用いることがそもそも間違っているのである。

研究者の中には、新約聖書の多くの表現が「たとえの書」に直接依拠したものだと考える者がいるが、論文著者はこのアプローチにも懐疑的である。Charlesはそうした影響関係のリストを作成しているが、思想や言語の一般的な類似がほとんどである。論じるに値するのは黙6:15-16(と『エノク書』62:3-5)である。両者は共通のテーマを持っているように見えるが、本当の接触があるとは言いがたい。Theisohnのように、直接的な影響関係を論じるのではなく、別の伝承の層を別々に検証するべきである。Theisohnはさらに、マタ19:28(と『エノク書』9:4)とマタ13:40-43(と『エノク書』54:6, 39:7, 58:3)などを比較している。しかし、論文著者はいずれも「たとえの書」との特定の影響関係を見出していない。

こうした議論をまとめたあと、論文著者は、「たとえの書」の成立時期を本当の意味で特定することは不可能だが、バランスを取って考えると、後1世紀の終わり頃と考えることができると主張する。第一に、Sjoebergのように、エルサレム陥落がその中に書かれていないから「たとえの書」は70年以前に成立したに違いないという主張は受け入れがたい。一方で、クムランから出てきていないという事実からは、「たとえの書」はクムランが放棄されたあとに書かれた可能性が高いといえる。第二に、「人の子」表現は後1世紀の終わり頃に用いられたと考えるのが自然である。それは、その頃に成立したことが分かっている『第二エズラ記』や『第二バルク書』から分かる。つまり、「たとえの書」はユダヤ戦争へのリアクションとして書かれたが、成立はそれよりあとのことだったということである。

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