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2019年10月10日木曜日

「寝ずの番人の書」受容史の導入 Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity #1

  • Annette Yoshiko Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity: The Reception of Enochic Literature (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 1-23.

本書は『エノク書』のうちでも「寝ずの番人の書」を、そのはじめ(前3世紀)から、ラビ運動による拒絶、初期キリスト教徒による採用、のちの教会による抑圧、そして西方での最終的な喪失まで辿った、いわゆる受容史の研究である。

中世以降『エノク書』はほぼ失われたが、クリスチャン・カバリストは関心を持っていた。ピコ・デラ・ミランドラやジョン・ディーも興味を持っていた。ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記』には抜粋が残されていたので、ヨセフ・スカリゲルが1606年に出版している。エチオピア教会が『マシャファ・ヘノク・ナビイー』として保持していたエチオピア語訳はジェームズ・ブルースが欧州にもたらした。19世紀の終わりにはギリシア語訳も発見された。R.H.チャールズの先駆的な研究により『エノク書』が五部構成であることが明らかになった。死海文書中から発見されたアラム語訳はJ.T.ミリクによって出版された。こうした研究により、「天文の書」と「寝ずの番人の書」は最古の黙示文学にして最古の非聖書的ユダヤ文学だと明らかになった。

Milikは、ユダヤ教とキリスト教における『エノク書』の受容史の全体を研究した数少ない研究者である。多くの研究者はキリスト教の伝統のみか、ユダヤ教を取り上げてもキリスト教以前のユダヤ教のみしか範囲に含めなかった(James VanderKam, William Adler, Birger Pearson, Sebastian Brock)。エチオピア教会における伝統を特に取り上げたものもある(M. Knibb)。一方で、ユダヤ教におけるNachlebenと70年以降のユダヤ教を扱ったものは、Gershom SholemやIthmar Gruenwaldのような例外を除き、ほとんどなかった。初期キリスト教、古代末期キリスト教、ビザンツ期キリスト教における発展が研究されてきたように、第二神殿時代ユダヤ教、ラビ・ユダヤ教、中世初期ユダヤ教における受容史が研究されなければならない。

著者は特に堕天使のテーマを中心的に取り上げる。これは創世記6:1-4に端を発するものであり、「寝ずの番人の書」以外でもしばしば言及されてきたが、同書に特徴的なのは、ここで出てくる罪が天使の教唆によるものだということである。

「寝ずの番人の書」についてわれわれが持っている資料としては、アラム語原典、ギリシア語訳(ユダヤ人によって訳され、キリスト者によって保持された)、エチオピア語訳(ギリシア語訳をベースとしたキリスト者による訳)、ユダヤ・キリスト教文学中の言及やコメントなどがある。

聖書研究やラビ文学をはじめとして、テクストそのものよりも、その背後にある口承に注目する研究は多い。テクストは口承の純粋な神話や物語の不完全な反映でしかないと考えられているのである。しかしながら、最近の聖書研究では本文批判やソース批判の欠点が意識され、文芸批判的な観点からテクストの最終形態が注目され、また文学の成立における編集の役割が重視されるようになってきた。著者によれば、「寝ずの番人の書」の研究においても、テクストの背後にある純粋な口承だけを見るのは不適当であり、まずテクストそのものを見なければならない。古代の文学研究において、口承とテクスト化の活動を別物と捉え、前者による後者への優越を前提とすることを、著者は疑問視している。テクスト伝承に注目することには、現存する証拠の制約を反映するという実利的な目的もある。

これまでの研究は、キリスト教以前のユダヤ教をキリスト教の成立を照らし出すためのものとして扱い、以後のユダヤ教を外界から閉じられた世界として描いた。キリスト教が成立したことで、ユダヤ教とキリスト教の分岐が完成され、以後の相互作用は制限されていたと見なしているのである。しかしながら、実際には2世紀以後にも両者には交流があった。

この前提をもとに、第1章では「寝ずの番人の書」の編集と成立が、第2~3章ではラビ・ユダヤ教以前、キリスト教成立期における受容、第4~5章ではラビ・ユダヤ教による放棄とキリスト教サークルによる保存、とりわけユスティノスによる受容、第6章ではローマ帝国における教会による拒絶とその正当化、そして最終章ではタルムード期以後におけるエノク伝承の復活(ヘイハロット文学)が描かれる。

「寝ずの番人の書」(および「天文の書」)は4QEn(a,b)では独立した作品として回覧されていたが、4QEn(c,d,e)では他のエノク派文学と共に収録されていたことが分かる。Milikは特に後者の証拠を基に、クムランにはエノク五書があり、「天文の書」だけを含む1巻と、他の諸書を含む別の1巻の、2巻構成だったと主張した。そしてMilikによれば、エチオピア語訳に収録されている「たとえの書」はキリスト教徒による著作であって、4世紀以降に「巨人の書」と入れ替えられたのだという。Milikによるアラム語「エノク五書」仮説は、Jonas GreenfieldやMichael E. Stoneらによって否定される。

George Nickelsburgは4QEn(c)を取り上げて、「遺訓」形式で統一されことになる新たなエノク派テクストの広がりにおける一段階だと解釈している。とりわけ「寝ずの番人の書」はエノクの「遺訓」の核心に当たるという。Nickelsburgの仮説は、クムランの『エノク書』素材をエチオピア語訳とつなぐ単一で一直線上の発展があったという観点をMilikと共有している。これはギリシア語訳の価値を引き下げることになっている。Nickelsburgの仮説は、「寝ずの番人の書」が独立した文書ではなく『エノク書』の一部分としてどの程度読まれていたのかという観点を与えてくれる。

印刷術が発明されたあとの書物と同じような感覚で『エノク書』を扱ってはいけない。単一の著者や単一の編集者がいたわけではなく、複数の者たちが関わっているのである。

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