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2019年10月18日金曜日

J.T. Milikへの反論 Greenfield and Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes"

  • Jonas C. Greenfield and Michael E. Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes," Harvard Theological Review 70 (1977): 51-65.

本論文は、『エノク書』のアラム語断片の校訂者であるJ.T. Milikの主張に対して反論するものである。論点はMilikの次の2つの主張である。第一に、クムランには五書形式の『エノク書』があった。第二に、「たとえの書」は後代のキリスト教文書である。論文著者らはこのいずれの点にも同意しない。

五書形式について。Milikによれば、4QEn(c)は「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書間」を含んでいるが、それに加えておそらく「巨人の書」を含んでいたはずだという(4QEn(d)と4QEn(e)も同様)。そして、この4書と、別の写本に書かれた「天文の書」とが一緒になって、クムランのアラム語エノク五書を形成していたのだという。さらに後400年までにはギリシア語訳のエノク五書が発展し、のちのエチオピア語訳のかたちにつながっていく。アラム語版とギリシア語訳は次の3つの点で異なる。第一に、「天文の書」が第三部に移動し、第二に、「巨人の書」の代わりに「たとえの書」が入り、そして第三に、第108章が全体の最後に入った。

ただし、論文著者が言うように、これはあくまでMilikの仮説である。アラム語の段階でもギリシア語訳の段階でも五書形式であった証拠はない。そもそもアラム語の段階で「巨人の書」が「たとえの書」のようにエノク五書の一角を担っていたかどうかは分からない。上の4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)といった断片に「巨人の書」が含まれていたわけではないのである。また1Q19、いわゆる「ノアの書」も『エノク書』に入っていた可能性がある。それゆえに、クムランにあった『エノク書』が「五書」だったと証明することはできない。

論文著者が考えるには、より古い写本である4QEn(a), 4QEn(b), 4QEn(g)はひとつの書のみを持っており、前1世紀の中ごろまでに4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)では2つか3つの書が写された(後者のグループでは「巨人の書」の写本も写されたが、同じ写本にではなかった)。そしてクムラン居住期の最後のころには「天文の書」と「巨人の書」のみが写されていたという。

そもそも『エノク書』が五書であったという主張は1926年のG.H. Dixにさかのぼる。彼はエノク五書のそれぞれの文書がモーセ五書のそれぞれに対応していると示そうとした。ただし、第一に、そうした対応関係のほとんどはこじつけであり、第二に、Dixの議論は「たとえの書」を想定しているのでクムランの写本状況とは相容れず、第三に、歴史的現実を反映していない。

「たとえの書」について。Milikは「たとえの書」のクムランにおける欠如をもって、同書が後代の作であると主張するが、それは必ずしも自明でない。エステル記もクムランからは見つかっていないが、その理由にはさまざまな可能性がある。第一に、クムランでは知られていなかったから、第二に、正典として受け入れられていなかったから、第三に、クムランでは学ぶ価値がないと見なされていたから、第四に、純粋に偶然なかったから、などである。クムランにないからといって、その時代にエステル記や「たとえの書」が存在していなかったとは言えない。

David Flusserは、41章で太陽と月が同等に扱われていることから、仮に「たとえの書」があってもクムランでは受け入れられなかったはずと主張するが、論文著者はこれにも反論する。むしろ「たとえの書」で使われている用語にはある種の党派性が見られるという。ルーアハとその派生形、ブヒール、ゴレル、破壊の天使などがそうである。ここから、「たとえの書」はクムランではないにしても、似たような党派性を持つ集団で同時期に書かれたものと考えられる。

Milikは「たとえの書」で使われている「人の子」という表現を新約聖書への依拠のしるしと見なすが、これは『第四エズラ記』などにも見られるユダヤ的表現である。そもそも第71章で「人の子」はエノクであると同定されているが、本当にキリスト教文書であるならばこれはありそうにないことである。

「たとえの書」の成立年代については議論があるが、論文著者は同書の中に2箇所、同時代の歴史を反映しているところがあると主張する。第一に、56:5-7は、前40年のパルティア人によるパレスチナ侵攻を現している。J.C. Hindleyはこれに反対するが、論文著者はそこに妥当性を認めない。Milikは同箇所を、260年のペルシアによるウァレリアヌス帝の捕囚を表していると考えているが、論文著者はこの説を「純粋なフィクション」と切り捨てる。第二の箇所として67:8-9では、善人が水を浴びれば癒されるが悪人には逆効果になるというカリロエーの泉でヘロデが水浴びしたことが示されているという。これはヨセフスの記録にも見られるものである。これら2つの言及から、論文著者は「たとえの書」の成立は後1世紀、すなわちクムランのテクストと同時期であると主張する。

さらにMilikは、ビザンツ作家が「たとえの書」をまったく引用していないことを、同書の後代の成立の証拠とするが、論文著者は、その事実はむしろギリシア語訳が存在しなかったことを示すかもしれないと述べる。Nathaniel SchmidtやEdward Ullendorffらは、「たとえの書」のエチオピア語訳はアラム語から直接なされたものであると考えている。Matthew Blackはこの説に反対しているが、論文著者が見る限り反論に成功していない。

Milikは「たとえの書」が「巨人の書」に取って代わったと主張するが、この点についても論文著者は慎重である。論文著者は、「巨人の書」が含まれないものと含まれるものがさまざまにあったと考える。ケルンで発見されたマニ・コーデックスは「エノクの黙示録」なる文書からの抜粋を含んでいる。この抜粋は内容的に『エノク書』のさまざまな箇所との類似を示している。むろん完全にエチオピア語訳の『エノク書』そのものではないが、エノク文書コーパスの中に位置していることは明らかである。

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