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2014年11月9日日曜日

第四マカバイ記における殉教者 O'Hagan, "The Martyr in the Fourth Book of Maccabees"

  • Angelo P. O'Hagan, "The Martyr in the Fourth Book of Maccabees," Studii Biblici Franciscani Liber Annuus 24 (1974): 94-120.
本論文の中で、著者は第四マカバイ記において殉教者たちがどのように解釈・理解されているかを、二つの立場、すなわち他の人間たちに対する殉教者の立場、そして神の前における殉教者の立場の双方から検証している。前者の立場においては、証人(witness)、競技者(champion)、そして徳の模範(paradigm of consummate virtue)としての殉教者としての殉教者の役割が、そして後者の立場においては、仲裁者(interceding)、贖罪者(atoning)、そして犠牲にされた者(being sacrificed)としての殉教者の役割が語られている。

証人としての殉教者。四マカにおいては使われていないものの、マルテュスという語は法廷における意味(forensic)と倫理的・宗教的な文脈における比喩的な意味(tropological)とを持っている。四マカに出てくるこれと関連した語としては、ディアマルテュリアがあるが(16.16)、この箇所にも両方の意味が重なっている(四マカにおける殉教者たちは、実際王の前で裁判にかけられている)。一方では神に成り代わって法廷に立ち、他方では民の代表者でもある四マカの殉教者は、キリスト教における殉教理解のさきがけになったともいえる。

競技者としての殉教者は、さらに三つのイメージとも重なっている。第一に、戦争における戦士のイメージ。オリンピックなどでもそうであるように、競技者とは、代理戦争としてのスポーツを通してある集団の卓越性を示す戦士の役割をも担っていた。しかも四マカにおける殉教者たちは、ただユダヤ民族の代表であるばかりか、神のために戦う者たちでもあった。第二に、神の定めた歴史を遂行する者のイメージ。彼らの理解によれば、歴史は神がすでに定めたものであり、人は定められたとおりに進んでいくのみである。その宇宙的な秩序を遂行するのが殉教者なのである。第三に、死によって勝利する勝利者のイメージ。殉教者たちは、忍耐(ヒュポモネー)によって、迫害者の野蛮さに勝利する。四マカはそれを表現する際に、復活などの黙示的用語は避け、代わりに知恵文学などに見られる個人における終末論的用語を用いている。そこでは、肉体の復活ではなく、天上における終わりなき生が語られる。

徳の模範としての殉教者。旧約聖書においてもギリシア文学においても、模範となるべき徳を備えた登場人物の描写を通して教育するという例はあったが、四マカなどヘレニズム・ユダヤ文学において両者が融合した。ただし、四マカは殉教者たちを殉教の模範として描いているわけではなく、あくまでも理性が情念を支配できることを体現する徳の模範として描いている。しかしその際には、ストア派の最高の徳であるアパテイアの高みではなく、むしろ宗教的な理性(エウセース・ロギスモス)を通して苦痛を耐えるヒュポモネーを中心に据えている。これは、ヘレニズム化された聴衆に、反ヘレニズム的なヘブライ的徳としてのエウセベイアを教えるためであった。このエウセベイアは、律法の遵守によって可能になる。死に至るまでに律法を信じることの例は、『モーセの昇天』、『第四エズラ記』、ヨセフス、ミシュナーなどにも見られるものであった。

以上が、人間に対する殉教者の役割で、以下は神に対する殉教者の役割である。

仲裁者としての殉教者。当時のユダヤ教では、ある者が他の者に代わって神との仲裁の役割を担うことができると信じられていた。そうした仲裁者は、法廷における弁護士のように、ある種の特権的な代表者としての地位が与えられた。この仲裁者としての役割は、以下の贖罪者および犠牲者としての役割にも密接に結びついている。

贖罪者としての殉教者。殉教者の祈りは、罪人に対する神の恵みを願う和解の祈りである。四マカ当時のユダヤ文学では、人々の罪の意識が顕著であり、それはぜひとも贖われなければならなかった。しかし次第に、それは罪人自身ではなく、犠牲による身代わりでも果たされるものだという考え方(theology of vicarious satisfaction)が生まれていった(ただしこれはパリサイ派など、のちにユダヤ教の中心的な思想を形成する派閥にはない考え方だった)。四マカにおける「身代わりの贖罪」という考え方の直接的な背景は、第二マカバイ記における並行記事である。二マカにおいて、殉教者たちは、自らの死によって、民全体にもたらされた神の怒りを静めようとしていた。二マカと四マカとの違いは、殉教者の民との距離である。二マカにおいては、殉教者は罪のある民と自らとを同一視しているように描かれている。一方で四マカにおいては、殉教者本人はまったく潔白であるにもかかわらず、罪ある民のためにそれを肩代わりしてあげたように描かれている。

犠牲にされた者としての殉教者。四マカにおいて殉教者たちの死は、神と人とを仲裁し、人々の罪を贖うための自発的な犠牲として解釈される。一方で、二マカにおいて殉教者たちの死は、神殿とそこでの犠牲という文脈において解釈される。両者の違いを検証するために、論文著者はさまざまな犠牲にまつわる語の使用を調べた。なかでも興味深いことに、二マカが犠牲(テュシア)とその類語を頻繁に使うのに対し、四マカには一切出てこず、また二マカが血(ハイマ)を犠牲とも殉教とも関係ない文脈でしか使っていないのに対し、四マカは犠牲としての殉教者の血という意味合いでこの語をしばしば使っている。つまり、二マカが神殿と神殿祭儀に大いに関心を持っているのに対し、四マカはそうではなく、むしろ犠牲用語を殉教者と結びつけることに腐心している。さらに清めにまつわる語の使用を見ると、二マカが聖なる(ヒエロス)という語を神殿に言及する際に用いているのに対し、四マカは殉教および殉教者を形容する際に用いている。以上のような比較の結果として、著者は四つのポイントを指摘している。
  1. 二マカも四マカも共に犠牲に関心を持っているが、それぞれの使用の文脈は異なる。
  2. 二マカが伝統的な神殿の清めや犠牲を描いているのに対し、四マカは神殿犠牲にまったく頓着していない。
  3. 二マカが殉教者の死を犠牲祭儀としては見ていないのに対し、四マカはそのように見ている。
  4. 二マカが殉教者の受難や死を犠牲祭儀の用語と関連付けないのに対し、四マカは殉教者を犠牲祭儀の用語で描写している。
すなわち、四マカは意図的に、二マカで描かれている殉教を神学的に解釈し、犠牲祭儀の用語を殉教者の描写に用いることで、殉教者の死を贖罪の犠牲のアナロジーと見なしているのだった。旧約聖書における動物犠牲やイサクの奉献と同様に、四マカにおいて殉教者たちの命は神に捧げられ、それによって民の罪が贖われたのである。さらには、殉教者たちの犠牲は自己の弱さや悪に打ち勝って、自発的に行なわれた気高い犠牲であった分、神殿祭儀よりもさらに尊いものであったということができる。

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