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2014年10月12日日曜日

6つのヒエロニュムス像 Fürst, "Hieronymus"

  • Alfons Fürst, "Hieronymus: Theologie als Wissenschaft," in id., Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien zur antiken Theologiegeschichte (Arbeiten zur Kirchengeschichte 115; Berlin: De Gruyter, 2011), 25-42.
Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien Zur Antiken Theologiegeschichte (Arbeiten Zur Kirchengeschichte)Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien Zur Antiken Theologiegeschichte (Arbeiten Zur Kirchengeschichte)
Alfons Furst

Walter De Gruyter Inc 2011-06-15
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ヒエロニュムスは同時代の教父たちの中で、ほとんど孤立した存在であるといっていい。その特徴は教義上の問題への無関心であるといえる。当時アウグスティヌスらによって盛んに論じられていた、三位一体論やキリスト論、あるいは創造と救済の出来事における自由論、恩寵論、認識論といった事柄についてはわずかなコメントを残しているばかりである。本論文の著者によれば、ヒエロニュムスの貢献は、むしろ苦行運動と学術活動の二つに代表されるという。そうした見取り図をもとに、著者はヒエロニュムスの6つの人物的側面に光を当てている。以下興味を持った点のみ挙げる。

苦行者としてのヒエロニュムス。ヒエロニュムスはアクィレイアおよびカルキス砂漠で苦行生活をし、さまざまな苦行者たちの伝記を書いていたが、都会人である本人はそうした生活に向いていなかった。彼は、文化も文明も捨ててしまうようなシリアの隠遁者たちの極端な苦行を求めていたわけではなく、むしろ古代の異教文化・教養を捨てることなく、キリスト教的・苦行的生活を送ろうとしていたのである。すなわち、福音と(世俗的)文化、あるいはキリスト教的・修道的霊性と古代の学術とを結び付けようとした。ただし彼は、ペラギウスに代表される誰もが参加できるスタイルの苦行ではなく、少数のエリートのための苦行こそが理想的であると考えていた。

学者としてのヒエロニュムス。学者として、個人の図書館を持っていたことが重要な点である。彼は、キリスト教の著作、さまざまな言語の聖書の版、聖書注解などをすぐに参照できる場所に置いていたが、416年にベドウィンたちの襲撃で焼かれてしまった(彼自身はペラギウス派による襲撃だと思い込んでいた)。また学友であったパンマキウスなど、貴族のパトロンを多く持っていたために、金銭的な援助を受けることができていた。言語に関しては、母語であるラテン語に加えて、ギリシア語、シリア語、アラム語、ヘブライ語に通じていた。

翻訳者としてのヒエロニュムス。ラテン語世界全体のギリシア語リテラシーが落ちていた時代だったので、彼はオリゲネス、カイサリアのエウセビオス、アレクサンドリアのディデュモス、サラミスのエピファニオス、アレクサンドリアのテオフィロス、パコミオス、ギリシア語訳されたコプト語文書などを盛んにラテン語に翻訳していた。同様の翻訳活動をしていた人物としては、アクィレイアのルフィヌスとケレダのアニアヌスなどが挙げられる。また最初の翻訳理論家でもある。聖書とそれ以外の書物との翻訳に関してはフレキシブルに対応したために、自身の理論との矛盾が生じたが、なるべく首尾一貫した理論とエレガントなラテン語訳を目指していた。

聖書翻訳者としてのヒエロニュムス。聖書翻訳を可能にしたのは、さまざまな言語の聖書を所蔵する図書館と、彼のギリシア語およびヘブライ語への精通であった。最初から彼の基本方針は、極力原文を参照するということだった。それゆえに、聖書翻訳において、それぞれ「ヘブライ語の真理(Hebraica veritas)」、「アラム語の真理(Chaldaica veritas)」、「ギリシア語の真理(Graeca veritas)」という言葉を残している。彼のヘブライ語からの翻訳は確かに死後には評価されたが、生前はアウグスティヌスらによって七十人訳の権威を貶めるものとの評価を受けていた。しかしヒエロニュムス自身は柔軟な考え方をしていた。すなわち、学問的には、七十人訳およびそれに基づくラテン語訳は不正確なので自分の新しい訳に取って代わられるべきだが、教会的には、使い慣れたものが礼拝で用いられるべきであり、自分の訳と注は参照されればよいと考えていた。

聖書注解者としてのヒエロニュムス。ヒエロニュムスの注解はアレクサンドリア学派(オリゲネス、ナジアンゾスのグレゴリオス、アレクサンドリアのディデュモス)とアンティオキア学派(ラオディケイアのアポリナリオス)の折衷である。前者からの影響としては、類型論と寓意的解釈を方法論として用いている。オリゲネスの注解には特に大きく依拠しており、ときに盗作とさえいえるような内容もある。一方で、後者からの影響としては、本文批評(特に写本伝承への関心)、緒論学(著者、成立年代、歴史背景、地名、人物像、語源学)の重視などが挙げられる。これにユダヤ的な聖書解釈が加わることで、ヒエロニュムスの注解は特に個性的なものとなった。

教義学者としてのヒエロニュムス。彼が関与した代表的な教義論争は三つ。第一に、コンスタンティノポリスやニケーアでの公会議で議論されていた存在論については、ヒエロニュムスは複雑な競技的・教会政治的な状況をよく分かっておらず、また現実の教義史の発展を誤解してもいた。第二に、オリゲネス主義論争では、オリゲネス批判派にまわり、擁護派のルフィヌスとの不和を招いた。ヒエロニュムスは、教義理解に関してはオリゲネスを異端と見たが、聖書解釈に関しては継続的に参照していた。第三に、ペラギウス派論争では、意志の力によって罪のない生を生きることができると主張したペラギウスに対し反論した。ヒエロニュムスは、反ペラギウスということでアウグスティヌスと結託していたが、アウグスティヌスの恩寵論や原罪論のような思弁的な議論にはついに馴染まないままだった。

ヒエロニュムスは、神学的には秀でていなかったが、アンブロシウスやアウグスティヌスらと共に有力な教父と見られていた。彼は古代の学識(philologie)とキリスト教的霊性(theologie)とをつなぎ、苦行運動(asketischen Bewegung)と世俗的な成果(weltlichen Errungenschaft)とをつなぎ、また修道制(Askese)と聖書学(Bibelgelehrsamkeit)とをつないだ。さらに、学識ある修道士や、学術の中心としての図書館を持つ修道院といったイメージのもとにもなった。彼の為したこととは、古代の文化、修道的な霊性、そして学術的な神学を、ユダヤの聖書解釈を含めつつ、キリスト教的に統合したことであるといっていい。

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