2014年10月19日日曜日

フィロン、第四マカバイ記、初期キリスト教の情念理解 Aune, "Mastery of the Passions"

  • David C. Aune, "Mastery of the Passions: Philo, 4 Maccabees and Earliest Christianity," in Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response within the Greco-Roman World, ed. Wendy E. Helleman (Lanham: University Press of America, 1994), pp.125-58.
Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response Within the Greco-Roman World (Institute for Christian Studies S)Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response Within the Greco-Roman World (Institute for Christian Studies S)
Institute for Christian Studies

Univ Pr of Amer 1994-10-18
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この論文では、フィロンと第四マカバイ記著者(以下四マカ著者)の情念理解が比較されつつ、それらが初期キリスト教思想でどのように受容されたかが議論されている。ストア哲学では、魂の病的・非理性的衝動を情念(パテー)と呼んでいるが、その情念は快楽(ヘドネー)、欲望(エピテュミア)、悲しみ(リュペー)、恐怖(フォボス)に分類されている。そしてこの病的な感情である情念の根絶こそがアパテイアと呼ばれる状態である。

フィロンは、プラトンによる魂の三部構造(理性的な部分ロギコス、活発な部分テュミコス、欲望的な部分エピテュメーティコス)と、ストア派の情念論(情念とは魂の非理性的・非自然的・病的な状態である)とを組み合わせ、魂の非理性的部分(=ロギコス以外)は、その本性において非理性的・非自然的・病的であると考えた。またフィロンは、倫理的に完全な者は自らこの病的部分であるテュミコスとエピテュメーティコスとを切り離すことができるが、他の者たちはロギコスによって病的部分を支配するに留まるとしている。そして、トーラーこそが真の哲学を含んでいるのであるから、トーラーを遵守することこそがこのロギコスによる病的部分の支配を可能にさせるのだというのである。

フィロンにとって最高の目標は、情念を根絶してアパテイアに至ることではある。しかし、これは神のように倫理的に完全な者以外にはほぼ不可能なことである。そこで、フィロンは自制の獲得に段階を設けた。すなわち、アパテイアほど高度に理想的な状態ではなくても、ある程度情念を支配しているメトリオパテイアに至ることができれば僥倖であるし、さらにそこまでも至っていない者でも、向上する努力を続けている限り、そのこと自体が善であると考えたのである。そして聖書の登場人物たちの中にも、さまざまな段階が見られるとして、具体例を挙げている。フィロンによれば、モーセは外科医のように情念を根絶し、完全なるアパテイアに至った人物であり、なおかつそれを何らの痛みあるいは労苦なく(アネウ・ポノン)成し遂げた点が重要である。アロンは倫理的向上の途中にある者(プロコプトン)であり、情念の完全な根絶はできなかった。しかし、理性と徳という薬を使って情念を癒し、メトリオパテイアに至った。アブラハム、イサク、ヤコブのうちでは、フィロンは、生まれ持った徳でアパテイアを達成したイサクを最上としている。アブラハムはいくつかの情念を克服することはできたが(イサク奉献やサラの死のときなど)、残りのものは緩和できただけであった。ヤコブは訓練(アスケーシス)によって神を見ることができるようになったが、高度の徳が得られる場合とそうでない場合とがあった。フィロンは、他にもエッセネ派やテラペウタイの修道生活や自分自身の例を挙げて、徳の獲得には、個人の能力差や段階があることを示している。言い換えれば、アパテイアに至ることができる者はほとんどいないが、トーラーの学習と遵守によって、プロコプトンでも段階的に情念のない状態に近づくことができるのである。

一方で、四マカ著者は、プラトンの魂の三部構造の否定と、快楽(ヘドネー)と苦痛(ポノス)を中心とした情念理解という特徴を持っている。四マカ著者の魂理解は、理性的部分である精神(ヌース)が、非理性的部分である情念(パテー)と特性(エーテー)とを支配しているというモデルである。しかも情念と特性とは神が人間の魂に植えつけたものなので、根絶することは不可能である(中期ストア派のポセイドニオスの教説からの影響)。それゆえに、彼にとってアパテイアとは、情念の根絶ではなく、情念の完全な支配のことといえる。またストア派の通常の情念理解は上に述べたとおりで四分類だが、四マカ著者はそれに喜び(カラー)と痛み(ポノス)を加えて六分類に増やしている。肉体に由来する情念である快楽を中心に、欲望(エピテュミア)と喜び(カラー)があり、一方で魂に由来する情念である苦痛を中心に、恐怖(フォボス)と悲しみ(リュペー)がある。そして、快楽と苦痛とは、怒り(テュモス)によって結ばれている。詳細はともかく、四マカ著者の特徴は、情念の基礎を快楽と苦痛に置いていることであり、それによって、マカバイ戦争の殉教者たちが世俗的な快楽に溺れず、拷問の苦痛にも耐えたことを哲学的に解釈したのである。

そして四マカ著者はこうした情念を支配し、アパテイアを獲得するために重要になるのが「敬虔な理性(ホ・エウセベース・ロギスモス)」、すなわちトーラーの厳密な解釈および適用に合致した理性的思考であるとした。この考え方は、トーラー遵守を前提としていることから、フィロンでいうところのプロコプトンによる情念支配の状態と近い考え方といえるが、四マカ著者は徳の獲得に個人の能力差や段階を認めない。つまり、フィロンのように徳を獲得できない人々への寛容さをあまり持たず、より厳格なのである。それは、作中で挙げているマカバイ戦争での殉教者たちの例、すなわちエレアザル(老人)、7人の青年(若者)、そしてその母親(女性)からも見て取れる。いわば彼は、エウセベース・ロギスモスを持ちさえすれば、すべての人が情念(快楽+苦痛)を支配し、アポノス・アパテイア(痛みのないアパテイア)を獲得することが可能だと主張しているのである。

初期キリスト教もまた、聖書がいかに徳をもたらすものかを証明することに腐心した。といっても、特に新約聖書においては、パトスという語の多くはキリストの受難を表すものであり、プラトン・ストア派的な哲学上の意味合いはない。これはヘドネーやエピテュミアといった情念の内容を表す語に関しても同様である。ギリシア哲学のような情念支配を新約聖書の考え方に当てはめるならば、それはキリストによって魂が完全に新しくされることで達成されるものであり、その際にはフィロンや四マカ著者のようにトーラーの遵守は前提とされないといえる。いわば、情念はキリストと共に十字架に架けられるべきということである。ただし、情念を支配するという姿勢自体はキリスト教でも歓迎されるものであるため、二世紀になるとキリスト者もギリシア哲学を取り入れるようになっていった。特に代表的なのがアレクサンドリアのクレメンスであり、彼はフィロンの多大なる影響下にあって、ギリシア哲学のよいところは吸収しようとした。それどころかトーラー遵守(特に食餌規定)でさえ情念支配を可能にする要件と考えた。むろん両者を手放しで受け入れたわけではなく、彼にとってはギリシア哲学とユダヤ教とは、キリスト教の準備(praeparatio evangelica)のためのものだったのである。彼の思想の背景にはフィロンからの色濃い影響があったが、フィロンが個々人の能力と段階を考慮したのに対し、クレメンスは、キリストの導きがあるのだから、すべての人がアパテイアを獲得できるはずと考えた。この点で、クレメンス自身はおそらく四マカを読んだことがなかったにもかかわらず、四マカ著者の思想に近づいているといえる。クレメンスの思想は、オリゲネス、カッパドキア教父、アンブロシウス、ヒエロニュムスらに引き継がれていくことになる。

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