2014年9月11日木曜日

ミシュナー・ゼライームに見るラビ・ユダヤ教の農業観 Avery-Peck, "Ch. 1: The Mishnaic Division of Agriculture"

  • Alan J. Avery-Peck, "Chapter One: The Mishnaic Division of Agriculture," in Mishnah's Division of Agriculture: A History and Theology of Seder Zeraim (Brown Judaic Studies 79; Chico, California: Scholars Press, 1985), pp. 13-32.
Mishnah's Division of Agriculture: A History and Theology of Seder Zeraim (Brown Judaic Studies)Mishnah's Division of Agriculture: A History and Theology of Seder Zeraim (Brown Judaic Studies)
Alan J. Avery-Peck

Scholars Pr 1985
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イスラエルでは古代より人々に十分の一税が課せられてきた。これは収穫の十分の一を税として神殿に収めるというものである。聖書における十分の一税の現代的な理解としては、貧者や祭司およびレビ人の生活を維持するためのものだったのだろうと考えられている。ではラビ・ユダヤ教ではどうだったのだろうか。ミシュナーの中でこの問題を扱っているのはゼライーム篇だが、Avery-Peckによれば、神殿祭儀がなくなったあとの世界に生きていたミシュナーのラビたちは、現代の経済的な観点からまったく離れ、独自の理解をしているという。

農業に関して、ミシュナーのラビたちにとって最も重要な概念は、すべての土地は神の所有であり、人間はそれを使わせてもらっているだけということであった。それゆえに、農業をするときには、神の土地にふさわしい仕方でしなければならない。そしてひとたび収穫があれば、十分の一税を支払って、いわばその収穫についている「神の抵当権」を放棄してもらうのである。つまり、ラビたちにとって十分の一税とは単なる神殿祭儀の一環ではなく、神による創造に相応しい仕方で農業をすることで、神とイスラエルとの特別な関係を維持していく手段だったのである。

ところで、特に第二神殿時代のユダヤ教文学には、農業に関する記述があまり多くない。そこで、ミシュナーが成立していった時代の比較対象としては、ギリシア・ラテン文学が適切である。具体的には、テオフラストス、クセノフォン、ワッロ、コルメッラ、大プリニウスなどが挙げられる。Avery-Peckによると、ギリシア・ラテン文学における農業観は、「経済」と「科学」が主眼だったという。つまり、農業を営むに際し、彼らの焦点は、商業的な意味でいかに農作物から利益を得るかということと、それを遂行するためにどのよな科学的な方法があるかということだったのである。これに対し、ラビ・ユダヤ教にとっては、経済も科学も農業をする際の主眼ではなかった。むろんラビたちもギリシア・ラテン文学における農業と同じように、取れ高の向上を願ったが、その同じ目的を達成するために、ギリシア・ラテン文学が科学的なアプローチを取ったのに対し、ラビ・ユダヤ教は律法遵守を主眼に置いた。すなわち、土地は神のものなのだから、神の法を遵守すれば取れ高も増えると考えたのである。

ではミシュナーは農業に関して聖書に完全に依拠しているのであろうか。むろん両者には基本的な部分で大きな連続性が認められるが、一方で、先に述べたように、神殿祭儀の有無により、ミシュナーは農業を律法に則って行なうことにより、神との関係性を維持していくことを目的としていた。いうなれば、聖書が貧者や神殿祭儀を見据えていたのに対し、ミシュナーは個人個人の生活を基にしているのである。

こうしたミシュナー・ゼライーム篇の特徴を示すために、Avery-Peckはトピックに従って各項を並べている。

1.作物の生産過程について
  • シェビイット(安息年)項:土地は神のものなので、創造のときに神が7日目に休んだように、7年ごとに土地を休ませなければならない。
  • キルアイム(混合の禁止)項:神が創造のときに定めた種の違いを維持するために、違う作物を一緒に育ててはならない。
2.作物を捧げ物として聖別する条件について
  • マアセロット(十分の一税)項:どのような作物が十分の一税を課されるべきものかについて。ここでは、支払う者の意図も重要である。つまり捨ててもいいようなものではなく、実際本人が食べようと思い、実際自分の食事に供するつもりのものを税として支払わなければならない。
  • ハラー(麦粉の初物)項:民15:17-21参照。しかし聖書と異なり、麦粉の初物で作ったすべてのパン生地が捧げ物になるわけではなく、特定の材料および方法でできたものでなければならない。この項はマアセロットを補完するものである。
3.捧げ物が捧げられるための条件について
  • テルモット(挙祭、祭司の取り分)項1.1-4.6:捧げ物が有効なものとなるための、捧げる本人の意図について。つまり、取り分けておいた作物も、捧げる本人がそれを捧げ物として聖なるものと見なければ、それは捧げ物にはならないのである。
  • ペアー(隅の刈り残し)項:テルモットと関連して、収穫の十分の一を貧者のために取り分けることについて。貧者への施しも、規定に則って行なわれなければならない。
  • ビクリーム(初物)項:申26:1-11、レビ23:9参照。作物の初物はエルサレムに捧げ物として収めなければならない。この項では、捧げ物を捧げる際のさまざまな要件について説明しつつ、テルモットの議論である捧げる本人の意図を問題とする。
4.捧げ物の取り扱いについて
  • テルモット項4.7-10.12:捧げ物をするときに不適切な条件について。捧げ物が単品で条件を満たしていても、聖別されていないものと混ざってしまったり、祭司以外に食べられてしまってはならない。しかし、テルモット1.1-4.6で示されているとおり、捧げ物をする者の意図もまた重要な条件となる。
  • マアセル・シェニー(第二の十分の一税)項:申14:22-26参照。エルサレムの神殿に十分の一税を支払うときに、作物そのものを持っていくのではなく、それを売って金にし、その金を持ってエルサレムに行き、現地で作物を買いなおすことがよいかについて。
5.作物や捧げ物の食べ方について
  • デマイ(十分の一税に認められにくいもの)項:この項の主要な問題は、きちんと十分の一税を守る人が、どうしたら守らない人の巻き添えを食わないかということである。自分が作物の十分の一税を支払っていても、人の家や公共の場所で食べたものが十分の一税をきちんと支払ったものかどうかは分からない。もしこれを食べると、律法違反に加担したことになってしまう。それを防ぐためには、自分の所有を離れたものは必ず十分の一税を払うようにすればよいという(自分が所有するものは確実に支払っているので)。
  • オルラー(捨てるべき初物)項:すべての初物を捧げるわけではなく、たとえば木の実は、木に実がなるようになってから3年経ってからでなければ捧げ物にしてはならない(レビ19:23参照)。こうした、初物は初物でも捧げることのできないものを分類している。
  • テルモット項11.1-10:捧げ物は、いったん聖別されて捧げられると、祭司によってしか消費されてはならない。仮にいくつか条件を満たさなくても、まだ捧げ物として有効なうちは祭司のみが扱える。
こうした分類を経て、Avery-Peckはゼライーム篇の重要なポイントを2点指摘している。第一に、それぞれの項は一貫した関心によって繋がれている。第二に、聖書でもともと問題とされていた側面とは別の側面に光が当たることが多い。ラビたちは、神殿を失ったイスラエルの人々が守るべき農業の決まりを定めることで、イスラエルの個人個人を祭司のいる王国へと変えようとしたのである。

さらに、ゼライーム篇には当時の歴史的なコンテクストに対する感心な薄いという特徴がある。これは、当時ローマによって支配されていたユダヤ人は、自分たちの弱さをあらわす歴史そのものに関心を持てなかったからと考えられる。むしろ、律法を遵守することで神の創造した世界を完全なものにする使命を与えられていると考えていた彼らは、農業をするときにも、その使命を遂行することを第一義に考えていたのであった。

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