ページ

2015年11月14日土曜日

秦「ヘレニズム・ローマ世界のモーセ像」

  • 秦剛平「ヘレニズム・ローマ世界のモーセ像」、L.H. フェルトマンと秦剛平(編)『ヨセフス研究4:ヨセフス・ヘレニズム・ヘブライズムII』山本書店、1986年、145-86、328-32頁。

本論文で、著者はヘレニズム・ローマ時代のモーセ像を、(1)異民族に対する好奇心からモーセを紹介したり、言及したりしている資料、(2)ユダヤ人の律法制定者に否定的な価値判断を加えている資料、そして(3)明確なアンチ・セミティズムの立場から、モーセの人となりや、出エジプトの物語を創作している資料、の三種類から明らかにし、なおかつそのようなモーセ像を創出するに至ったギリシア人とユダヤ人との関係性を説明している。

第一のカテゴリーでは、ヘカタイオス、ポセイドニオス、ポンペイウス・トログス、ディオドロスが扱われている。ヘカタイオスはユダヤ人をエジプトにおける外国人として描いている。悪疫の発生が外国人の存在に帰されたので、ユダヤ人も他の外国人と共に追放された。ただし、描き方は敵対的というより、民俗学的な関心に基づいている。事実、モーセは高く評価されている。あたかも聖書を引用しているように見える箇所があるが、その可能性は低い。なぜなら、シナゴーグに関する記述がほとんどないからである。ストラボン『地誌』に引用されるポセイドニオスは、ユダヤ人の起源はエジプト人であり、彼らはエジプト人が動物を神とすることを不満に思い、エジプトを出たと説明する。ただし、批判的ではない。ポンペイウス・トログスは、疥癬とらい病にかかった者たちがモーセと共に追放されたと述べる。ただし、モーセの容姿の美しさを高く評価している。ディオドロスは、やはりレプラに罹った病人たちが追放され、彼らが他の民族と食卓を共にしないと説明している。またエルサレムの神殿にはロバに乗ったモーセの像があると述べる。

第二のカテゴリーでは、クインティリアヌス、タキトゥス、ユウェナリスが扱われる。クインティリアヌスは、モーセを「ユダヤ人の迷信の創始者」と述べる。タキトゥスは、ユダヤ人がかつて豚肉を食べたために疥癬にかかったので、今では口にしないと説明する。またユダヤ人は怠惰ゆえに安息日と7年ごとに休養することにも触れている。このことについてはセネカも述べている。ユウェナリスは、ユダヤ人が同胞以外には道を尋ねられても教えず、泉に案内することもしないと説明する。

第三のカテゴリーでは、マネトン、リュシマコス、カイレモン、アピオーンが扱われる。このうちマネトンとカイレモンはエジプトの聖職者である。マネトンは、モーセをヘリオポリスの神官だったとし、また神々を跪拝しない無神論者と説明する。リュシマコスは、疥癬とらい病の件に触れつつ、モーセの教えが「他人に善意を示すな、最悪のことを忠告せよ、神々の聖所を破壊せよ」というものだったと述べる。またユダヤ人を無神論者として描く。カイレモンは、エジプトを追放された浮上の者たちの指導者がモーセとヨセフであったと述べる。アピオーンは、ユダヤ人がレプラ患者、盲人、ちんばのエジプト人であり、ロバを崇拝している(ディオドロス同様)と述べている。彼らの文書はギリシア・ローマ世界で広まり、タキトゥスには、リュシマコス、アピオーンらの文書からの影響が見られる。

こうした文書が書かれるに至った経緯として、論文著者は、アレクサンドリアでの出来事に注目する。プトレマイオス王朝支配のアレクサンドリアでは、反ユダヤ感情はまだ文書上に留まっていたが、同地がローマの属州となったときに、ユダヤ人がローマに対し、他のギリシア人と同等の市民権イソポリテイアを求めたことが、ギリシア人の反ユダヤ感情に火をつけた。後38年に、ローマでユダヤの王として認められたアグリッパがアレクサンドリアに立ち寄ると、当地のユダヤ人がアグリッパ王を中傷する寸劇を上演した。そして、それに興奮したギリシア人の民衆がシナゴーグを襲ったのである。フィロン率いるユダヤ人使節と、アピオーン率いるギリシア人使節とが、皇帝カリグラと接見したが、カリグラはエルサレム神殿に自分の像を立てるように命じた。

41年にカリグラが死ぬと、新皇帝クラウディウスは、ディアスポラ・ユダヤ人の権利と特権を保証する勅令を発布した。論文著者は、この勅令がユダヤ人に有利なものであったがゆえに、ギリシア人の反ユダヤ感情は収まらず、のちに70年にエルサレムが陥落したときも、アレクサンドリアのユダヤ人が援軍を送ることもできない状況になったのではないかと考察する。事実、73年に落ち延びてきたシカリオイが反ローマ宣伝をしようとすると、アレクサンドリアのユダヤ社会は彼らを官憲に引き渡した。

こうした事情から、上の作家たちの中には、ユダヤ人とモーセを批判的に描く者が多かったわけだが、彼らは七十人訳を実際に読んでいたわけではない。七十人訳は、翻訳であっても、あくまで聖なる書物としてシナゴーグで読まれていたはずであると、論文著者は考える。

参考エントリー

0 件のコメント:

コメントを投稿