2015年3月7日土曜日

『律法儀礼遵守論』における神殿の重要性 Von Weissenberg, "The Centrality of the Temple in 4QMMT"

  • Hanne von Weissenberg, "The Centrality of the Temple in 4QMMT," in The Dead Sea Scrolls: Texts and Context, ed. Charlotte Hempel (Studies on the Texts of the Desert of Judah Vol. 90; Leiden: Brill, 2010), pp. 293-305.
The Dead Sea Scrolls: Texts and Context (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)The Dead Sea Scrolls: Texts and Context (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)
Charlotte Hempel

Brill Academic Pub 2010-06-30
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本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)において、いかに神殿が中心的な役割を果たしているかを検証したものである。『律法』の背景には、クムラン共同体とエルサレム神殿の祭司たちとの議論がある。多くの初期の研究者たちの解釈では、この書物はクムラン共同体が自らのセクト的な離反を正当化するためのものであり、そこにはいかなる和解の努力もなかったということになっている。Eyal Regevは同書の成立をクムラン共同体成立後のごく初期に設定し、彼らはエルサレムの神殿祭儀から自らを引き離したと考えた。Stephan Hultgrenは、同書の成立をクムラン共同体以前に設定し、最初から同書はエルサレムの神殿祭儀をボイコットしたと主張した。いずれにせよ、初期の学説では、クムラン共同体はエルサレム神殿を完全に拒絶し、その代わりに新たな礼拝の形式を作り上げようとしたということになっている。

しかしながら、1990年以降になると、クムラン共同体のエルサレム神殿に対する態度には多様性があることが分かってきた。Geroge Brookeは、クムラン共同体は神殿に対し、少なくとも10通りの顔を持っていると考えている。そしてそれは究極的には3通りになるという:第一に、地上の神殿、第二に、神殿としての天上の礼拝、そして第三に、未来の終末的な神殿に代わる一時的な共同体である。特に、『律法』においては神殿の完全な拒絶という説明は見られない。Steven FraadeとMaxine Grossmanは初期の通説に反して新しい『律法』の解釈を提供したが、クムラン共同体が神殿祭儀の純粋性に関して強い関心を示していることについては見落としている。そこで著者は、『律法』において、エルサレム神殿がいかに重要な意味を持っているか、そしてそこでの祭儀の純粋性にいかに関心を持っているかに注目した。

『律法』における法的部分(第二部)では、祭儀の清浄さや神殿に関わる議論がなされているが、それだけでなく、申命記12章に基づく、祭儀の中央集権化についても二箇所において語られている(B 27-33, B 58-62)。申命記の発明のひとつは、動物犠牲をエルサレムだけに制限したことである。またレビ記17:3-7では、犠牲は神殿で集中的になされるものとされている。そこで、B 27-33では、レビ記17章と申命記12章をもとにして、エルサレム神殿における祭儀の中央集権化が語られている。その際には、レビ17:3の「キャンプ」を申命記12章の「神が選んだ場所」と同一視し、しかもそれらは共にエルサレムを指すと解釈している。B 58-62では、神殿の犠牲を横取りするかもしれない犬をエルサレムに入れないようにすることで、エルサレム神殿における祭儀の清浄さを保つべきとされている。すなわち、神殿と聖なる町の清浄さ、祭儀の中央集権化、エルサレムを神が選んだ土地として見なすことなどから、『律法』は明らかにエルサレムとその神殿の聖性と重要性を認識しているといえる。

『律法』の説教的結論部分(第三部)では、神殿とその祭儀に関する契約への忠実さへの関心が伺われる。著者によると、『律法』は、ヘブライ語聖書や古代近東の法的テクストから知られる契約パターンに合わせるような構成になっているという。第三部は、第一に、歴史に基づいた奨励(祝福や呪いにも言及)、第二に、祭儀の清浄さを維持するための訓戒(分離を前提とする)、第三に、改悛と回帰への奨励(祝福と呪いにも言及)、そして第四に、ハラハー的解釈に関する結論である。この中で、歴史への言及は申命記的な改悛(3:1-2; 31:29; 4:29-30)と結びつき、契約への回帰へとたどりつく。『律法』の著者が申命記的な言葉遣いをしているのは、そうすることで聴衆が、清浄さを回復するために、エルサレム神殿の改革と、神との契約を守ることとが必要であることを認識できるようにするためである。『律法』は、申命記と自らの時代の問題とを結び付けているのである。

以上より、『律法』は神殿、祭儀、清浄などについて強い関心を持っていることが分かる。そしてその解釈は、神殿の祭司たちとは異なっており、自分たちをエルサレム神殿から離していることは確かである。しかし、それは完全な分離ではなく、『律法』もまた、現状に問題はあれどエルサレム神殿こそが本来の正当な聖地であると認めている。彼らにとっても依然として、正しい祭儀はエルサレムに中央集権化されなければならないのである。

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