2015年3月17日火曜日

『律法儀礼遵守論』の基本的事項について Schiffman, "Miqtsat Ma‘asei ha-Torah"

  • Lawrence H. Schiffman, "Miqtsat Ma‘asei ha-Torah," in Encyclopedia of the Dead Sea Scrolls, ed. Lawrence H. Schiffman and James C. VanderKam (Oxford: Oxford University Press, 2000), 1: 558-60.
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Lawrence H. Schiffman

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本論文は、『律法議論遵守論』(4QMMT、以下『律法』)の基本的事項をまとめた辞典項目である。『律法』は、はっきりとエルサレムの権威に反対するクムラン・セクトの指導者たちから、エルサレムの祭司階級の指導者たちに向けて送られた文書と考えられる。テクストは第四洞窟から発見された六つの断片からなる。内容的に、自分たちのセクトがエルサレム主流派から分離することを正当化しているので、クムラン共同体のごく初期の作品と考えられる。

全体は三部に分けられる。第一部の暦は、『共同体の規則』の写本のうちのひとつにも載っているものなので、もともと『律法』についていたものかは分からない。太陽暦を採用しており、通常の祭りに加えて、新しいワインの祭り、オイルの祭り、木の祭りがある。こうした特徴は、『神殿巻物』にも見られる。

第二部の律法リストは、主に浄不浄の問題と神殿における犠牲の問題を中心とした20の事柄を扱っている。つまり、神学的な問題というよりも、ユダヤ法の適切な実行こそが問題となっているのである。ここで取り上げられている律法議論のいくつかは、ミシュナー・ヤダイムでも見られるものであり、そこではサドカイ派の教説として知られている考え方になっている。通常サドカイ派の律法はパリサイ派あるいはラビたちよりも厳格なものである。

第三部の結論部では、二人称単数と複数で名宛人が言及されている。おそらく単数形は、エルサレムの大祭司のような指導者を指しているのであろう。また、このクムラン・セクトの敵対者は、後代のラビ文学においてパリサイ派あるいはタナイームに帰せられる者たちと考えられる。

以上のことから考えられるのは、以下のようなストーリーである。すなわち、クムラン・セクトの初期のメンバーとは、マカベア戦争(前168-前164)の後に、エルサレムの祭司階級から分離した、現状に不満を持ったサドカイ派であり、自分たちを「ツァドクの子ら」と呼んでいた。一方でエルサレムに残ったサドカイ派の同僚たちは、のちにパリサイ派的な規範となる考え方を採用し、サドカイ派的な考え方を捨てていった。当初、クムラン・セクトはエルサレムの祭司たちと折り合いをつけるつもりだったが、そのうちにそんな望みはなくなり、より過激化して外部を遮断するようになった。さらに死海文書をめぐるエッセネ派説を考慮に入れると、『律法』から分かるとおり、もともとはサドカイ派だった者たちが、エルサレム主流派との軋轢の中で過激化し、独自のセクトとしてのエッセネ派になったと考えるのが自然である。そしてこの分離の理由は、神学的な問題ではなく、浄不浄に関する規則の相違である。

『律法』と他の死海文書との関係としては、暦法と犠牲については『神殿巻物』と、それ以外のさまざまな律法については『ダマスコ文書』や『詞華集』との類似が指摘されている。それぞれの文書は、直接『律法』と影響関係にあるわけではないが、同じソースを持っていると考えられる。ただし、『共同体の規則』との並行箇所は見られないのが特徴である。これらの中では、特に『神殿巻物』と『ダマスコ文書』との比較は重要で、『律法』と『神殿巻物』とは共にセクト的な敵愾心が希薄なのに対し、『ダマスコ文書』にはそうした雰囲気が濃厚である。これを先のストーリーに則して言い換えると、『律法』と『神殿巻物』とは、まだセクトがエルサレムとの和解の希望を持っていたときの文書であるのに対し、『ダマスコ文書』はそうした望みが絶たれたあとの文書であると考えられる。

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