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2015年3月9日月曜日

『律法儀礼遵守論』と新約聖書の比較 Reinhartz, "We, You, They"

  • Adele Reinhartz, "We, You, They: Boundary Language in 4QMMT and the New Testament Epistles," in Text, Thought, and Practice in Qumran and Early Christianity, ed. Ruth A. Clements and Daniel R. Schwartz (Studies on the Texts of the Desert of Judah Vol. 84; Leiden: Brill, 2009), pp. 89-105.
本論文は、『律法儀礼遵守論』(以下『律法』)を新約聖書の書簡と比較することで、前者の特徴を明らかにしたものである。『律法』の第三部7行目には、以下のような文章がある。
あなたがたは知っていることだが、私たちは大多数の人々とその不浄から自分たちを引き離した。
ここから明らかなのは、著者が「私たち」で相手が「あなたがた」であること、そして「私たち」と「大多数の人々」との線引きがあることである。このとき、「私たち」と「あなたがた」は同じグループなのだろうか、それとも違うグループなのだろうか。前者の場合、ここには2つのグループがいることになり、後者の場合、3つのグループがいることになる。2グループ説を取った研究者には、John Kampen, George Brooke, Steven Fraadeがいる。彼らによると、「あなたがた」は「私たち」と同じ運動の中にいるが、地理的・神学的要因により距離がある者たちと考えられる。いうなれば、『律法』は外部に対する文書ではなく、共同体内のあるグループに対する文書であるということである。

一方で、大多数の研究者たちは3グループ説を取っている。Elisha Qimronは、「私たち」はクムラン・セクト(義の教師)、「あなたがた」は当時のハスモン家の指導者に共感する人々(悪の祭司)、そして「彼ら」はパリサイ派であると考えている。特に、「私たち」と「あなたがた」の間に敵意が感じられないので、義の教師と悪の祭司とはもともとサドカイ派的思想を共有していたということになる。そしてこの文書の目的は、ハスモン家の指導者をクムラン・グループがよしとする法的解釈に従うように説得するものだった。John Strugnell, Larry Schiffmanも同様の見解を述べる。Hana EshelやDaniel Schwartzは、これとは異なり、「私たち」はクムラン・セクトだが「あなたがた」はハスモン家の祭司ではなくパリサイ派であり、「彼ら」はハスモン家以前の神殿祭司でのちにサドカイ派となる者たちであるという。そしてこの文書の目的は、自分たちのグループが他の祭司グループと異なることを政治的指導者に説明するものだという。

これらの3グループ説の研究者たちは、『律法』の背景を、ハスモン家の君主制とパリサイ・サドカイ派グループとの関係の中で捉えており、同書とクムラン共同体の成立を前2世紀中盤と考える。そしてこのハスモン朝時代にパリサイ派とサドカイ派のハラハー的差異が形成されていったと考える。3つのグループ説の内的根拠は、二人称に単数形と複数形があることが挙げられ、そして外的根拠としては、第一に、他の死海文書との比較、第二に、ヨセフス著作との比較、そして第三に、ミシュナーなどラビ文学との比較が挙げられる。

さて、ここで著者は、ある文書の中で「私たち」「あなたがた」「彼ら」がどのような関係性の中で語られているかを確認するために新約聖書との比較を試みる。これは明らかにアナクロニズムではあるが、比較対象として考えられる他のもの(ヨセフス、ラビ文学)なども同様にアナクロニズムには変わりないので、あえて新約聖書と比較している。これまで、J. Kampen, R. Bauckham, G.J. Brookeらによって、福音書や使徒行伝との比較はなされてきたが、新約聖書の書簡との比較はなかった。そこで著者は、ガラテヤ書、第二ペトロ、第一ヨハネを例に挙げる。ガラテヤ書における「私」はパウロ、「あなたがた」はガラテヤの異邦人キリスト教徒、そして「彼ら」は福音に反するユダヤ主義者たちである。第二ペトロにおける「私」はペトロに帰される共同体の指導者、「あなたがた」はその共同体の成員、そして「彼ら」は「私」と「あなたがた」との間に亀裂をもたらそうとする者たちのことである。第一ヨハネにおける「私」はヨハネに帰される筆者、「あなたがた」は「私」の共同体の内部の人間たち、そして「彼ら」は「私」と「あなたがた」の両者から離れようとする分離主義者たちのことである。すなわち、どの文書においても、著者である「私」は、同じ集団の中にいる「あなたがた」が、「彼ら」のやり方に従ってしまい、「私たち」から離れていってしまうことを恐れている。それを防ぐために、「私たち」は「あなたがた」の信仰を強めることを目的として文書を書いているのである。

こうした新約聖書の例に照らして『律法』の構造を再考すると、3グループ説よりも2グループ説の方が少なくとも新約聖書では一般的だということが分かる。一箇所だけ「あなたとあなたのグループ」という記述があり(C 26-27)、あたかも3グループ説を支持するようだが、著者はさまざまな理由により、これは必ずしも3グループ説を支持する例ではないと断言する。フィロンやヨセフスのエッセネ派に関する証言も、2グループ説の方とより親和性が高い。

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