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2019年1月12日土曜日

ヒエロニュムスによって形作られたオリゲネス Fürst, "Origen Losing his Text"

  • Alfons Fürst, "Origen Losing his Text: The Fate of Origen as a Writer in Jerome's Latin Translation of the Homilies on Isaiah," in Origeniana Decima: Origen as Writer: Papers of the 10th International Origen Congress, University School of Philosophy and Education "Ignatianum," Kraków, Poland, 31 August - 4 September 2009, ed. Sylwia Kaczmarek, Henryk Pietras, and Andrzej Dziadowiec (Bibliotheca Ephemeridum theologicarum Lovaniensium 244; Leuven: Peeters, 2011), 689-701.
説教は、昨今のオリゲネス研究において中心的な課題とは見なされていないが、彼の思想の重要な側面を教えてくれる。西方神学の伝統において読まれたオリゲネスは、ヒエロニュムスによって形作られたオリゲネス、いわば「ヒエロニュムスの」オリゲネス(あるいは「ルフィヌスの」オリゲネス)であった。著者は、オリゲネスの多くの著作がヒエロニュムスらによって翻訳されたために保存されたことを認めつつも、同時に、そうした翻訳によって失われたものもあると主張している。

オリゲネスの神学について何かを学ぶためには、そのラテン語訳を用心深く用いることは有益かつ不可避である。しかし、著述家としてのオリゲネスについて何かを学ぶためには、ギリシア語で現存する著作を分析する必要がある。

『イザヤ書説教』には、もともと25か32の説教があったが、そのうちヒエロニュムスは9篇を翻訳した。この9篇は聖書テクストの順番になっていない。9篇のうち5篇(Ⅰ, Ⅳ, Ⅴ, Ⅵ, Ⅸ)がイザヤ書6章の幻視を扱っていることが特徴的である。説教Ⅰ-ⅣまでとⅤ-Ⅸまででは、説教のタイトルのスタイルが異なっているので(後者はDe eo, quod scriptum estで始まる)、おそらく別のグループの写本から翻訳したのだろう。Ⅰ, Ⅵ, Ⅶ, Ⅷ以外の説教はテクストが不完全のようである。とりわけⅡ, Ⅲ, Ⅴには問題が多い。Ⅱではイザ7:14が引用されているものの、その内容についてまるで触れていない。Ⅲではイザ4:1の一節しか解説されていない。

最も問題のあるⅤは、イザ41:1に関する言及から始まるものの、最終的にはその箇所とまるで関係ないイザ11:1-3に依拠している。この逸脱は、どうやら聴衆からの呼びかけに応えるうちにしてしまったものらしい。オリゲネスの説教は無人ではなく多くの人がいる教会で行われたのであるから、しばしば聴衆とのやりとりがあった。またオリゲネス自身が書いているように、その聴衆は落ち着きがなかったり不注意であったりした。中には朗読の途中で出て行く者、教会の隅で別の話に興じる者などもいた(『エゼ説教』12.2など)。説教Ⅴもまた、まさにそうした状況下で行われたのであろう。オリゲネスにとっては、喧騒に邪魔されて、不十分な出来であったに違いない。

ではなぜそのような不完全な説教をヒエロニュムスは翻訳したのか?そこで注目されるのが、翻訳された9篇の中5篇がイザヤ書6章の幻視を扱っている事実である(Ⅴもそうである)。ヒエロニュムスがこの翻訳を行った380年頃のコンスタンティノポリスでは、三位一体についての論争があった。父、子、聖霊の位格に序列をつけるアレイオス主義者たちに対抗して、ニカイア信条の支持者たちは三位が等しくあることを証明しなければならなかった。そのときに彼らが注目したのがイザ6:9-10の幻視であった。この箇所はヨハ12:39-41と使28:25-27でも引用されているが、イザヤ書では神が語り、ヨハネ福音書では子が語り、使徒行伝では聖霊が語っているので、三位一体を表していると考えられたのである。

この説明は、アレクサンドリアのディデュモスやニュッサのグレゴリオスに見られる。これに対し、オリゲネスの解釈――イザヤ書6章に出てくる2人のセラフィムを子と聖霊の象徴と見なす――は異端的と考えられた。実際、テオフィロスは『イザヤの幻視に関するオリゲネス駁論』(ヒエロニュムスがラテン語訳した)を著し、ヒエロニュムス自身も380年にコンスタンティノポリスで『セラフィムについて』を書いて、オリゲネスを批判した。ただし、ヒエロニュムスはこのとき同時にオリゲネスの聖書解釈の卓越さにも感銘を受け、『エレミヤ書説教』14篇と『エゼキエル書説教』14篇を訳している。『イザヤ書説教』についても、『セラフィムについて』を書く前には読んでおり、訳したのもこの時期であろう。

いずれにせよ、『イザヤ書説教』の9篇の選択は奇妙なものではない。イザヤの幻視とその解釈は議論の的だったので、ヒエロニュムスはオリゲネスの解釈に関心を持っていたのである。いわばヒエロニュムスが訳したかったのは『イザヤ書説教』そのものではなく、この説教におけるオリゲネスの幻視解釈だったのである。確かにこの説教の著者はオリゲネスであるが、我々が読んでいるのは翻訳者ヒエロニュムスが関心を持っていることである。『イザヤ書説教』は、オリゲネスのイザヤ書解釈そのものよりも、むしろ380年のコンスタンティノポリスにおいて彼の解釈の何が重要であったかを我々に示している。その意味で、著者オリゲネスは翻訳において失われてしまった。たとえそのテクストが残っていようとも。

ヒエロニュムスの翻訳自体は、修辞的強調、装飾的比喩、多少の説明の付加などがあるにせよ、極めて信頼できるものである。これは『エレミヤ書説教』のギリシア語原典と彼のラテン語訳を比較してみれば分かる。『イザヤ書説教』については、それでもなおヒエロニュムスはルフィヌスによる批判を免れなかった(『ヒ駁論』2.31)。ヒエロニュムスはオリゲネスを4世紀の正統信仰に近づけるための改変を施しているのである(『イザ説教』9.1)。またテオフィロスの『オリゲネス駁論』のラテン語訳には、オリゲネスの『イザヤ書説教』のラテン語訳にはない箇所が引用されている。つまり、両方を訳したヒエロニュムスが、後者では異端的な箇所を削除したわけである。ただし、こうした改変は、殊に三位一体に関しては、オリゲネス神学の単なる改竄とはいえない。なぜなら、ヒエロニュムスによる改変は、しばしばオリゲネスの他の著作(そちらでは正統的なことを書いている)に依拠しているからである。しかしながら、やはり翻訳においては著者オリゲネスが失われていることに変わりはない。

オリゲネス著作のラテン語訳の研究は、特に『諸原理について』に関してはかなり進んでいるが、ニカイア信条と一致するような箇所はルフィヌスやヒエロニュムスの修正・干渉だと見なす傾向がある。解釈を含まざるを得ない翻訳というプロセスは、著者とテクストの間に断絶をもたらす。『イザヤ書説教』は明らかに、その順番も言い回しもヒエロニュムスのものであって、オリゲネスのものではない。ヒエロニュムスは、著者オリゲネスとそのギリシア語テクストの間にある避けられない繋ぎ目であり、同時に障害物である。

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