2018年7月26日木曜日

父祖の系譜としての『4Q創世記注解』 Saukkonen, "Selection, Election, and Rejection"

  • Juhana M. Saukkonen, "Selection, Election, and Rejection: Interpretation of Genesis in 4Q252," in Northern Lights on the Dead Sea Scrolls: Proceedings of the Nordic Qumran Network 2003-2006, ed. Anders K. Petersen, Torleif Elgvin, Cecilia Wassen, Hanne von Weissenberg, and Mikael Winninge (Studies on the Texts of the Desert of Judah 80; Leiden: Brill, 2010), 63-81.
Northern Lights on the Dead Sea Scrolls: Proceedings of the Nordic Qumran Network 2003-2006 (STUDIES ON THE TEXTS OF THE DESERT OF JUDAH)Northern Lights on the Dead Sea Scrolls: Proceedings of the Nordic Qumran Network 2003-2006 (STUDIES ON THE TEXTS OF THE DESERT OF JUDAH)
Aandres Klostergaard Petersen

Brill Academic Pub 2009-05-15
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論文著者は『4Q創世記注解』で博士論文を書いただけあって、たいへん説得的な論文である。
  • The Story behind the Text: Scriptural Interpretation in 4Q252 (Diss.; University of Helsinki, 2005).
全体として読むと、4Q252は困惑するような文書である。テクストのセクションをつなぐリンクや、全体を統合するはっきりとしたテーマのようなものを見つけることは困難である。聖書解釈のテクニックや方法論は、箇所によって大きく異なっている。文学的ジャンルへの分類や文学様式の同定も困難である。

このテクストの性質と目的については、とりわけGeorge BrookeとMoshe Bernsteinによって議論が交わされてきた。Bernsteinは4Q252を「シンプルな意味の釈義(simple-sense exegesis)」あるいは、主題的な統一性や特定のセクト的神学やイデオロギーを求めない創世記の釈義セレクションと見なしている(Niccumも同様の主張)。一方で、Brookeはテクストの背後に神学的・クムラン的なアジェンダがあると考える。

そこで、論文著者は4Q252を、形式、焦点、解釈テクニックに注目して検証する。まず文学形式について、論文著者は、再話聖書(rewritten scriptural text)、釈義的敷衍(exegetical paraphrase)、注解(commentary)、抜粋釈義(anthological exegesis)に分けている。これらのうち最初の3つは4Q252の中に見られる形式である。3つのうちでは、再話聖書と釈義的敷衍はより古い時代からあったが、注解形式が用いられるようになってからも、ヨセフスの聖書解釈に見られるように再話と敷衍は行われ続けた。

再話聖書とは、第一に、宗教的権威を持つベース・テクストに従い敷衍するものであり、第二に、ベース・テクストに織り込まれた付加的な編纂的、改訂的、解釈的な素材を含むものであり、そして第三に、独立したものである。4Q252でこの定義を完全に満たすのは洪水前の120年の解釈である。部分的には、洪水物語やアブラムの時系列などもこの形式の特徴を有しているが、これらはソースの物語から独立していない。

洪水物語やアブラムの時系列は、むしろ釈義的敷衍と呼ぶことができる。こちらはソースの物語から独立しておらず、また聖書テクストの代替的あるいは付加的な版を示そうともしていない。釈義的敷衍は聖書で語られている物語の筋や構造よりも、釈義上の問題に関心を持つ。

注解は、引用と解釈という形式で定義される。引用は省略されることもあるが、多くの場合にはある。引用と解釈とがはっきりとそれと分かるように、何らかの定式が置かれることもある。注解の代表例はラビ的なミドラッシュである。第二神殿時代には、クムランのテクスト以外にはあまり見られない。4Q252ではカナンの呪い、アマレクの物語、ルベンの祝福がこれに当たる。とりわけルベンの祝福には「ピシュロ・アシェル」という定式がある。ところで、実はペシェル定式は多くの場合預言テクストか詩篇で使われているので、それが五書で使われている4Q252は珍しい例である。

解釈の焦点を分類すると、「シンプルな意味の釈義」(Berstein)と「実現の釈義」(Vermes)に分けられる。シンプルな意味の釈義とは、テクストの難解なところや不明瞭なところを明らかにし、矛盾を解決するものである。この場合の矛盾とは、内的、間テクスト的、外的なものがあり得る。代表例は再話聖書やラビ的なミドラッシュ。一方で、実現の釈義とは、テクストのメッセージを正当化したり適応させたりして、新しい歴史的な状況の中で理解する試みである。その性質上、実現の釈義にはイデオロギーの要素がつきまとう。その最たる例が終末論的解釈である。代表例はクムランのペシェルである。興味深いことに、4Q252にはこのシンプルな意味の釈義と実現の釈義が両方見出される。

解釈テクニックについて、紙幅の都合から論文著者は詳述していないが、同定、時系列の計算、引用や暗示の使用などが認められるという。

さて、こうした4Q252の形式面を確認した後、論文著者はそのテーマの検証へと移る。著者はいくつかのテーマが繰り返されていると主張する。創世記のテーマは4Q252と当然共通しているが、創世記のすべてのテーマが扱われているわけではない。研究史においては、4Q252のテーマとして、「祝福と呪い」「性的な罪」「土地」「時系列」などさまざまに提案されてきたが、どれも十分ではない。「性的な罪」は、編纂者の目的にとっては偶然扱われているのであって、必然的ではない。それは創6章におけるネフィリムの問題を扱っていないことから明らかである。「祝福と呪い」についても、神によるノアの祝福が扱われていないことから、比較的重要ではないといえる。「土地」と「時系列」はより重要なものとして扱われているが、やはりすべてではない。

そこで論文著者は、「継続的な父祖の系譜」という観点を導入する。編纂者は意図的な神学的かつイデオロギー的なアジェンダに合致するような節を選んでいる。つまり、4Q252は創世記のコンピレーションではあるが、ランダムではなく意図的な選択に基づいているのである。この「継続的な父祖の系譜」は、歴史における選出と拒絶の繰り返しである。これはそもそも創世記そのものから4Q252が受け継いだ特徴である。

このように、4Q252は、世代を通じた前進のようなものと見なすことができる。その中には、イスラエルの祖先のつながりにおける重要なときが描かれている。ノアから始まるのは、新たな始まりとしての洪水は、新鮮な出発点だからである。そして多くの父祖の系譜は絶たれ、ただノアの系譜のみが続いていく。洪水物語は土地の再生でもある。ここで、父祖の系譜が土地の問題とつながっていく。

アブラハム、イサク、ヤコブの子孫の扱われ方を分析すると、父祖の系譜を受け継いでいるのは長男ではないことが分かる。アブラハムの長男イシュマエルとイサクの長男エサウは言及すらされず、ヤコブの長男ルベンは否定的に扱われている(「性的な罪」がここで少し扱われる)。つまり息子たちは年功序列で系譜を受け継ぐのではなく、選出されたり拒絶されたりしているのである。また、たとえばイサクはヤコブに対し、カナン人の女性と結婚するのではなく、レベッカの家族、すなわちテラの子孫から誰かをめとるように言っていることから、父祖の系譜を純粋なものに保つ傾向が見られる。アマレクについても同様である。アマレクの父親エリファズは、エサウとヘト人の妻アダの息子なので、アマレクはカナン人である。そうしたイメージから、アマレクは編纂者の同時代の敵を表している。

4Q252では、ヨセフの物語がまったく言及されていないことが特徴的である。論文著者はその理由を二つ挙げる。第一に、クムラン文書の中には、ヨセフやその子孫エフライムとマナセに対して、神学的あるいはイデオロギー的な嫌悪を持っているものがあるから。彼らの名前は共同体の敵として用いられるのである。第二に、ヨセフ物語の主な舞台はエジプトであるが、4Q252の主たる関心はカナンの土地のそこで起きた出来事だから。

いずれにせよ、祖父の特定の系譜(カナン、イシュマエル?、エサウ?、アマレク、ルベン)は、道徳的な失敗や不明瞭な出自ゆえに、はっきりと拒絶されている。また別の系譜(ヤペテ、アブラハムの兄弟、おそらくルベンやユダの兄弟たちも)は、無視されたりより中立的に扱われている。そして選ばれた者たちは、創世記での扱いよりも積極的に扱われている。そして長男が特権を奪われ、下の兄弟がそれを得ることが多い。つまり、4Q252は創世記を、ある子孫の選出、そして別の子孫の拒絶の物語として読んでいる。そのとき、拒絶され、のちに敵となる子孫もまた同じ系譜にいた者だったという事実は、敵は外側から来るものではないという考えがあるともいえる。ただし、この父祖の系譜の選出と拒絶とは、全体を覆うテーマというよりは、編纂者の視点の問題と捉えた方がよい。

4Q252は一見その構造が分かりづらい。個々のセクションだけでは、その神学的かつイデオロギー的な実体に厚みがない。しかしながら、全体として読むと、より強いメッセージが浮かび上がるのである。この意味で、Brookeの研究は核心を突いている。文書全体のジャンルの特定は不可能である。再話聖書と釈義的敷衍と注解の形式が同居する文書は、4Q252の他にはない。しいて言えば、「選択的な主題別の注解(selective thematic commentary)」であろうか。

4Q252は、ペシェル形式、太陽暦、アマレクへの言及などクムラン写本の特徴となる要素を用いている。ただし、注解の対象である創世記は、必ずしもクムランでは主要な聖書文書ではない。クムランでは申命記、イザヤ書、詩篇などの方がより重視されていた。おそらく編纂者は、あえて創世記を扱うことで、共同体の歴史と立場に異なった視座を与えようとしたのだろう。

以上より、4Q252の目的は、それをイスラエルの系譜の遡りとして、そして父祖の歴史における一連の選出と拒絶の連続的な語りなおしとして読んだときに、よく理解できる。編纂者は共同体の立場を神の選びとして正当化し、構成員の自信を強めようとしたのである。

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