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2018年7月24日火曜日

非メシア待望、非終末論的テクストとしての『4Q創世記注解』 Niccum, "The Blessing of Judah in 4Q252"

  • Curt Niccum, "The Blessing of Judah in 4Q252," in Studies in the Hebrew Bible, Qumran, and the Septuagint Presented to Eugene Ulrich, ed. Peter W. Flint, Emanuel Tov, and James C. VanderKam (VTSup 101; Leiden: Brill, 2006), 250-60.
創49章の解釈である4Q252の断片6(第5欄)は1956年にJohn Allegroによって出版されている。メシアとヤハッドについて語っていることから、Yigael Yadinらから党派的文書と見なされてきた。Moshe Bernsteinは、4Q252の主題上の統一性のなさから、著者の意図は党派的な関心から形成されたというより、創世記の釈義上の問題点を解決することだったと考えた。その一方で、Bernsteinは、断片6に限っては「党派的」かつ「メシア的/終末論的」であり、またクムランにおける他の一節の背景の中で読むと、極めて「クムラン的」であると結論付けた。

論文著者は、Bernsteinの4Q252全体に関する立場を支持しながらも、断片6についての見解は疑問視する。他の断片の中で見ても、断片6におけるユダへの祈りの注解は釈義上の困難を解決しようとするものであり、他の断片と同じように、クムランやメシア待望と関連するものとは限らない。

創49のヤコブの祝福は、ユダヤの聖書解釈では終末論的に読まれてきた。とりわけ10節の「王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」は、待望されたダビデの後継者の軍事的成功と、その支配の千年王国的な性質のことだと理解された。

創49のこのような解釈史は、ゼカ9:9-17に始まる。ここでは創49:10-12のテクストが軍事的な用語や終末論的な用語と関連付けられている。メシア的とまでは言わなくとも、預言者はユダへの祈りの成就が捕囚後のエルサレムにおけるダビデ的指導力になると考えている。次に、より後代のユダヤ解釈も同じ主題を展開する。たとえば、タルグム・オンケロス、『バビロニア・タルムード』、『創世記ラバー』などである。興味深いことに、イスラエルの敵を征圧するメシアというイメージは、ラビ文学でも後代に現れるものであり、そのときはいつも創49はイザ63章と関連付けられている(タルグム・偽ヨナタン、ナオフィティ、イザヤ・タルグム)。

ただし、これらのどれも4Q252における解釈とは異なっている。そこで関連付けられているエレ33:14-26は、創49章に関する何らかの伝承に依拠しており、ダビデのつながりと関連している。ここでは、第一に、神自身がその預言が未来のある時のことを指していると述べており(「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める……」)、第二に、ダビデへの約束はレビ人への約束と関連しており、イスラエルの世俗的な支配と霊的な支配が結び付けられている(「量り知れない海の砂のように、わが僕ダビデの子孫と、わたしに使えるレビ人の数を増やす)。こうして、ユダへの祝福はメシアの到来までの現在進行中の聖書解釈となる。このとき、トーラーの学習はダビデ専制の最終的な到来を確かなものとすることに役立つ。すなわち、4Q252は、軍事的かつ千年王国的な解釈と共に発展した、創49章のハラハー的解釈でもある。

これと似たような解釈は、ユスティノス『対話』1.52に見られる。ただし、キリストの時代までは、イスラエルが霊的および政治的指導力を持っていたが、それ以来失ったという裏面からの論理である。またタルグム・オンケロスや『創世記ラバー』にも似た解釈がある。

以上より、ユダへの祝福を解釈する場合、もし注解者がメシアの到来に注目するときには、軍事的かつ千年王国的な考えが前面に出てくる。しかし、もしメシアの到来以前の状態に注目するときには、イスラエルの法的教えの同時代的な状態が強調される。4Q252はこのうち後者の立場に近い。

4Q252のテクスト上での「幾千もの人々」や「旗」への言及は、軍事的なメシアを想起させる。事実、Y. Yadinはこの箇所と『戦いの巻物』とを比較している。あるいは、他の研究者もダビデ的な軍事王をイメージしているが、これらの解釈は適当でない。なぜなら、第一に、創49を軍事と結びつけるのはイザ63章と関連付ける後代の解釈に見られるものであり、第二に、これ以外のヒントがないからである。

結論としては、4Q252は、創49章の3つの主なユダヤ的解釈のうち、ハラハー的なものに近い。このテクストは聖書解釈上の問題を解決しようとし、メシア待望とは離れた鍵語を持ち、契約と律法への関心が見られる。メシアの来臨を考えてはいるが、編纂者の関心は未来よりも現在であり、軍事的な制圧や千年王国的強調よりはトーラーの解釈である。この結論は、Bernsteinによる、4Q252は創世記の難解な箇所の注解だという主張を支持する。ただし、Bernsteinがこの箇所を他の部分とは異質なものと見たのは間違いである。なぜなら、中心的な課題はメシア的でも終末論的でもないからである。また「ヤハド」の語が見られるが、それ以外はクムラン的な感じは受けない。

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