2016年10月16日日曜日

オリゲネスとユダヤ人の議論 De Lange, Origen and the Jews #8

  • Nicholas de Lange, Origen and the Jews: Studies in Jewish-Christian Relations in Third-Century Palestine (University of Cambridge Oriental Publications 25; Cambridge: Cambridge University Press, 1976), pp. 89-102.
本章では、オリゲネスとユダヤ人との議論の実際がどのようなものであったかが検証されている。ユスティノスやキュプリアヌスらの理解では、モーセの律法は決して永続するものではなく、より全体的で霊的な律法が表れるまでイスラエルの民に与えられた一時的なものだった。つまり、旧約聖書は新約聖書によって乗り越えられるということである。一方で、オリゲネスはむしろ寓意的解釈を用いることで、モーセの律法とは、のちになって初めて明らかになる真の意味を蔵する予型や影であると考えた。すなわち、オリゲネスは必ずしも律法の字義的な遵守を否定しているわけではない。このような考えを持っていたオリゲネスは、しかしながら、ユダヤ人の特徴である割礼、安息日、そして食餌規定について、以下のような見解を持っていた。

割礼。オリゲネスは、エゼ44:9における「心の割礼」という言葉を基に、あくまで割礼を比喩的に捉えていた。彼が引用しているユダヤ人の見解では、心の割礼だけではなく、肉の割礼もまた必要であるとされていたが、オリゲネスは、エレ6:10の「耳は無割礼」や出4:10「唇は無割礼」という表現から、やはり割礼とは、性的な放縦や悪口などといった悪行から身を清めることを指した比喩的な表現であると考えた。

安息日。ユダヤ人は、安息日こそが人間と動物を区別する要であり、また文明に対する自分たちの最大の貢献であると考えていたが、オリゲネスは安息日の具体的な戒律――「七日目は自分のところに留まれ」(出16:29)、「安息日に荷を運ぶな」(エレ17:21)――を守ることはほぼ不可能だと考えた。第一の戒律については、ユダヤ教では2000キュビトまでは移動可能とされており、また第二の戒律についてはある種のサンダルを特定の運び方をする限り許されていた。これらの解釈をオリゲネスも知っていたが、こうした字義的解釈ではなく霊的な解釈をすべきだと述べている。彼にとって本当の安息日は来るべき世そのものだったからである。安息日が土曜日なのか日曜日(主日)なのかについては、出16:22のマナの降る日に関する記述をもとに、神がマナを降らせる日曜日の方が本当の安息日だと考えた。過越祭に関する決まりもまた、神殿が崩壊した今となっては字義的に遵守することは不可能である。オリゲネスは、過越祭の語源についてヘブライ語から説明を加えている。

食餌規定。神話上の動物に関する記述までを含む食餌規定は、字義的に解釈することは不可能である(レビ11:13や申14:5)。それゆえに、寓意的解釈をする必要があるわけだが、オリゲネスはそうするためにヘレニズム期のユダヤ人作家たち(アリストブロス、偽アリステアス、フィロン)やパウロに依拠した。

このように、キリスト者とラビたちの律法への姿勢は根本的に異なっている。ラビたちは律法を実用的なものとし、自分たちが生きている時代に適用しようとしたが、オリゲネスはラビたちのそうしたハラハー的な洗練を否定しようとしたのだった。

オリゲネスが究極的に証明しようとしていたのは、神によるユダヤ人の否定と、それに代わる異邦人の選びとであった。とりわけ異邦人の選びが、実はヘブライ語聖書の中で預言されており、しかもそれがユダヤ教とキリスト教の歴史的経緯(イエス・キリストの到来がユダヤ人の国の滅亡とほぼ同時期に起こったこと)によって裏付けられていることを示そうとしたのだった。オリゲネスによれば、神はユダヤ人の罪を利用して、異邦人を神の国へと誘おうとしたのである。

そのときに重要となってくるのが、イエスのメシア性である。聖書の預言がイエスをメシアであると証明しているなら、それはイエスの最も力強い権威となる。そのために、以下のような聖書引照箇所が議論の的となった。すなわち、イザ7章の処女懐胎(論文著者によると、オリゲネスの解釈はヒエロニュムスによって引用されているという)、ミカ1章のメシアがベツレヘム生まれであること、ゼカ9章のロバに乗ってのエルサレム入城、イザヤ書の耐えるしもべのイメージなどである。

モーセとの比較。オリゲネスをイエスをモーセと比較している。イエスがキリスト者にとって権威があることを、モーセがユダヤ人にとって権威があることから説明するのである。特に、キリスト者はモーセが預言者であることを否定することなしに、そのモーセ自身の預言によってイエスに関する真理を証明することができる。もしユダヤ人が、キリスト者がイエスを信じる理由を聞きたいならば、なぜ自分がモーセを信じるかを先に示さなければならない。

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