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2016年10月14日金曜日

教会とユダヤ人 De Lange, Origen and the Jews #7

  • Nicholas de Lange, Origen and the Jews: Studies in Jewish-Christian Relations in Third-Century Palestine (University of Cambridge Oriental Publications 25; Cambridge: Cambridge University Press, 1976), pp. 75-87.
前章ではオリゲネスがユダヤ人批判において、比較的偏見から自由だったことが論じられていたが、本章では、彼がそれでも行なった批判が扱われている。オリゲネスによる聖書の寓意的解釈の核心は、教会の誕生と、神の庇護がユダヤ人から異教徒へと移ったことを証明することだった。神がユダヤ人を拒絶したことは、彼らがエルサレムから追放され、迫害に遭っていることから明らかである。しかし、オリゲネスはそのユダヤ人を必要以上に糾弾せず、むしろ守ろうとさえした。

ユダヤ人に対するキリスト者からの攻撃の理由と言えば、ユダヤ人によるイエス殺しが大きい。新約聖書では、イエスの死の本当の理由は神が定めのためであり、必ずしもユダヤ人のせいであるとは描かれていないにもかかわらず、教会はユダヤ人を犯人として攻撃した。論文著者は、このイエス殺しがユダヤ人批判の理由の第一となるのは、2世紀になってからだったと主張する(それ以前のキリスト者の反発は、むしろユダヤ人の律法遵守に向けられていた)。オリゲネスは、ユダヤ人が預言者たちの警告を無視して神の不興を買い続け、ついにはイエス殺しにまで手を染めたために、異教徒の教会が神によって選ばれることになったと解釈した。オリゲネスにとって歴史とは、神の人間に対する関係性の舞台であり、すべての歴史的出来事は、神の好悪の証拠として解釈されるのである。

キリスト者が聖書の中でほのめかされている神秘を感じ取ることができるのに対し、ユダヤ人はテクストを厳格に字義的に解釈するだけであった。それゆえに、ユダヤ人は、イエスとは預言者たちに律法を与えた神の子であることや、モーセの宗教は預言書は実際にはキリスト教信仰の呼び水にすぎないことを、解釈しそこなったのである。こうして、ユダヤ人によるイエスの拒否は、ユダヤ人の字義的な聖書解釈と結びつけられたのだった。

オリゲネスは、三種類の聖書解釈を提案している。それぞれ体の部分、すなわち肉、魂、そして精神と結びつけられている。素朴な人間は、聖書の肉部分しか味わうことができない。解釈の階梯を登ろうと努力する者は聖書の魂に触れることができる。そして、完全な者のみが聖書の精神へと至ることができる。この精神のレベルでの解釈こそが、オリゲネスによって最も重要な「寓意的解釈」と「予型論的解釈」を含んでいる。こうした異教徒のホメロス解釈やフィロンの旧約聖書解釈のテクニックを用いることで、オリゲネスは、旧約聖書が実際にはユダヤ人ではなく教会に属するものであり、また新約聖書において必要不可欠なものであることを示そうとした。

ユダヤ人が教会の迫害に責任があるという言説に関して、オリゲネスにその出所が帰されることがある。他の証言者としてはユスティノスやテルトゥリアヌスがいるわけだが、詳しく見ると、オリゲネスは実際にはそこまで言っていない。何といっても、彼とユダヤ人との関係性はそれほど悪くなかったのである。

オリゲネスは、『トルドット・イェシュ』に結実することになるイエスの生涯のスキャンダラスな解釈を知っていた。またシュモネ・エスレと呼ばれるユダヤ教の祈りの文言にある、キリスト者への呪いをも知っていたと見られる。しかしながら、彼はユダヤ人の字義的な聖書解釈を批判するに留まったのだった。

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