2016年9月11日日曜日

レイノルズ、ウィルソン『古典の継承者たち』 #2

  • L.D. レイノルズ、N.G. ウィルソン「第二章:東のギリシア語圏」、『古典の継承者たち:ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史』(西村賀子、吉武純夫訳)国文社、1996年、75-124頁。
古典の継承者たち―ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史古典の継承者たち―ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史
L.D. レイノルズ N.G. ウィルソン L.D. Reynolds

国文社 1996-03
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帝政ローマの学問と文学。ローマの帝政期、ギリシアと東地中海のギリシア化された属州では、知的生活の衰退が見られた。文学研究に顕著な進歩はなく、力点は次第に修辞学の研究に移った。後二世紀になると、たとえもはや過去の偉大な時代に匹敵する活動を達成できないにしても、少なくとも文学上の技法において過去の偉大な時代に張り合おうとする動きはあった。そのひとつがアッティカ風文体の模倣であった。トゥキュディデスやアリアノスを模した、極めて人工的な文体の擬古主義がはるかビザンツ時代末期まで続いた。それに伴い、アテナイの文学が学校で盛んに読まれた。

キリスト教会と古典研究。多くのキリスト者は古典テクストを読もうとしなかったために、多くの作品が失われた。ただし、教養ある異教徒に訴えるキリスト教作品を書くために、ユスティノスやクレメンスは、ストア派やプラトンから借用した専門用語を用いた。オリゲネスは、テクスト批判の領域でも異教徒文化に学ぼうとして、『ヘクサプラ』を作成した。バシレイオスやナジアンゾスのグレゴリオスは、異教の作品にも有益なものがあることを認めた。アポリナリスは、学校カリキュラムを完全にキリスト教化するために、詩篇をヘクサメトロスに、あるいは福音書をプラトンの対話篇風にアレンジした。とはいえ、基本的には、学校では依然として古典作品が講義された。教会が敵対的だったのは、むしろ異端の書いた本だった。

ビザンツ時代初期。古代世界の大学においては、きちんとしたアッティカ風文体を書くことのできる行政官になるための訓練が施された。この修辞学とアッティカ風文体の興隆に伴い、「スコリア」、すなわち注を別冊の独立した本とせずに、テクストの欄外に書くことが発明された。四世紀から五世紀のことである。また、ガザのプロコピオスは、「カティーナ」、すなわち複数の解釈者たちの意見を一語一句引用しながら編集した、聖書のランニング・コメンタリーを発明した。この時期には、通常読まれる文献の範囲が次第に狭まった(ヴィラモーヴィッツ)。また六世紀の後半まで、古典教育と古典研究がほとんど行なわれなかった。

オリエントにおけるギリシア語テクスト。ニシビスとエデッサで、ギリシア語テクストがシリア語に翻訳された。四世紀から五世紀にかけて、新約聖書や教父文学のみならず、アリストテレス、テオフラストス、ルキアノス、ディオニュシオス・トラクスなどがその対象となった。これらにはアラビア語訳もあったが、すでにあるシリア語訳からの重訳だった。アラビア人は、ほとんど科学と哲学にのみ関心を持った。代表的な人物としては、フナイン・イブン・イスハークが挙げられる。また、アルメニア語訳の聖書、フィロン、エウセビオス、プラトン、ディオニュシオス・トラクス、カリマコス、そしてエウリピデスなどもあった。

九世紀の古典復興。ビザンツ時代の学問的偉業は、九世紀になって現れるようになった。羊皮紙の需要が増え、大文字ではなく小文字体で写本が作成された。もともとアンシャル字体で書かれていた写本を小文字に書き直す作業も行なわれた。ギリシア語テクストには同じ出所に由来すると見られる現存写本すべてに共通する誤りが多くあり、しかもこの出所はたいてい九世紀の写本だと考えられている。この時代の高名な学者としては、ポティオスがいる。彼はユダヤ人の魔法使いと取引をして、知識を手に入れたという伝説がある。彼はたくさんの書物を要約した『ビブリオテケ』を著し、書評を発明したとされている。その範囲は広く、ギリシアの小説家、異端の作家、そして反キリスト教の作家の著作まで読んだが、詩はほとんど扱わなかった。これはアレタスなども同様であった。

ビザンツ時代後期。10世紀になると、辞書と初歩的な百科事典を合わせたものである『スーダ』が編纂された。これはアルファベット順の配列を有する最も古い百科事典である。またギリシア詞華集や重要な写本類も、この時代に作成された。写字生の筆跡鑑定をすると、これらの写本がごく少数の学者と教師と専門的写字生の手によって作成されたことが分かる。この時代の代表的な人物はミカエル・プセロスである。彼は哲学、異教文学、そして教父文学にも強い関心を抱いた。特にナジアンゾスのグレゴリオスに傾倒したようである。12世紀には、テッサロニカ司教エウスタティオスが古典の注釈書を寓意的解釈によって著した。彼よりもやや格が落ちるが、ツェツェスやコルニテスといった注釈家たちも活躍した。

しかしながら、1204年の第四次十字軍によってコンスタンティノポリスが占領・略奪されたことによる被害は甚大だった。1261年にふたたびギリシア人皇帝が同市を統治できるようになると、ラテン語の知識を持つマクシモス・プラヌデスが、ラテン世界の学識をギリシア語に翻訳した。またデメトリオス・トリクリニオスは、ビザンツの学者にあって珍しく、詩の韻律に関する研究を残している。彼はまた、さまざまな作家へのスコリアを書き改めたことなどにより、近代の校訂者の先駆者と見なされている。

古典研究は非常に広く行なわれていた。つまり、文学が読まれていただけでなく、古代に書かれた技術書や科学書はなお十分注目に値し、読めばそれだけ見返りもあるほど最新情報を含んでいた。こうした古典研究の興隆は、パライオロゴス朝ルネサンスと呼ばれている。ビザンツ人の主な功績は、広い範囲に渡る古典のテクストに興味を抱き、他の国の学者たちがそれらを利用してその真価を認める立場に立つまでテクストを保存したことであった。

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