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2012年3月27日火曜日

理論の要求

  • ジョージ・スタイナー(亀山健吉訳)「理論の要求」、『バベルの後に:言葉と翻訳の諸相』(下)、法政大学出版局、2009年、421-529頁。
バベルの後に〈下〉 (叢書・ウニベルシタス)バベルの後に〈下〉 (叢書・ウニベルシタス)
ジョージ スタイナー George Steiner

法政大学出版局 2009-06
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『バベルの後に』の下巻を読み始めました。上巻は翻訳についてというよりも、翻訳について考えるための言語学的・哲学的な議論が展開されていましたが、下巻に入って、だんだんと翻訳の本質的なところに議論が及んできました。

スタイナーは翻訳の歴史を四期に分けています。第一期はキケローからヘルダーリンまでの非常に長い期間となっており、直接的で経験に基づくものに焦点が当てられていました。第二期はタイトラーとシュライエルマッハーからヴァレリー・ラルボーまでで、翻訳の理論の追究と解釈学的視点の確立を特徴としています。そして第三期は現代の潮流の中のことであり、機械による翻訳や言語理論、および楮言語学などの時代であるといえます。そしてスタイナーによれば、我々はいまこの第三段階にいるということができるそうです。スタイナーは「四期」と書いているのですが、現在が三期であるとして、第四期がどのようなものなのかについては、(私の読みが正しければ)ここでは書いていません。もしかしたらそのうち出てくるのかもしれませんが、どうなんでしょうか。

スタイナーによれば、翻訳は可能か?という問いに対し否定する側も肯定する側も、宗教的な議論から非宗教的な議論へと移っていく特徴があると述べています。たとえば翻訳など不可能とする側の代表選手として最初に挙げられるのはパウロであり、彼は、啓示の含まれた言葉を翻訳したり解釈したりしてしまうと、価値の低下は避けられないと考えました。パウロのこうした考え方は、時代が下るとハイネ、リルケ、ナボコフなどに見出すことができます。宗教の翻訳不可能性は、詩(や哲学)においても同様であるということでしょう。一方、肯定側もまた、宗教的・神秘的な議論から始まります。バベルの塔について考えてみると、この話には世界の言語が再び統一されることが見込まれているわけですから、翻訳という営みはそれを達成するために是非とも必要なものであるということになります。こうした姿勢はカバラーなどに見られますが、スタイナーによればこのユダヤ的な考え方はヴァルター・ベンヤミンに脈々と受け継がれているそうです。あるいはキリスト教の伝道においても、翻訳は福音書を多くの民に伝えたいという欲求から生まれてきたといえますが、中世からルネサンス期になると学問の伝達のために、修道院において異教の書物も本格的に翻訳されるようになります。かように、翻訳の否定側も肯定側も長い歴史の中でさまざまな意見を戦わせてきたわけですが、実際問題として翻訳が存在する以上、それについて考えてみることが必要なはずです。

翻訳の歴史の中で、翻訳の段階はよく3つの段階に分けられてきました。その例として、スタイナーはドライデン(逐語訳、模倣、意訳)、ゲーテ(自分の感覚で異国の文化に親しむ、翻訳者を代理人として異国の文化を我が物にする、原典と翻訳が完全な同一性を獲得する)、ヤコブソン(言い換え、本来の翻訳、変成)の理論を紹介しています。ここではそれぞれの紹介は省きますが、スタイナーはこうした近代の諸理論も、要するに古くからある議論の発展形にすぎないのだと述べます。
さて、翻訳についてのすべての理論—形式的、実践的、年代的な—は、たったひとつの避けられない問題の変形にすぎない。このひとつの問題とは、原典に対する忠実度はどのようにして達成され得るのか、また達成されるべきなのか、というものである。別の言い方をすれば、もとの言語におけるAというテクストと、移し入れられる受け手の言語のBというテクストの間の最善の相互関係は何か、というものである。この問題は、実は、二千年以上にわたって論じ尽くされてきたものである。しかし、聖ジェロームの述べている彼の直面した二者択一に加えて付言すべき実質的なものが、果していまあるだろうか。その二者択一とは次の如きものである。聖典の神秘の語の如く、語から語へ(verbum e verbo)訳すべきなのか、それとも、意味から意味へと訳す(sed sensum exprimere de sensu)のがよいのか、との選択の問題である。(470-71頁)
 しかしスタイナーは、こうした原典に対する忠実性を取り上げる議論というのは、〈語〉と〈意味〉という意味論上の二極性を要請しておいて、それから、この〈二極の間にある空間〉を巧妙に利用しているだけだと批判します。しかもこれまでは、こうした問題があたかも解決済みであり、解決策は翻訳活動を続けていれば自ずと明らかになってくるかのように、すなわち、翻訳の場合、理論が実践に先立つ資格がないかのように考えられていたと述べています。

そこでスタイナーは自分自身の翻訳理論の骨格を整理して提示しています。それによると、翻訳の理論には、次の2つのモデル、すなわち「意味の伝達すべての関わり、意味の交通の総体を示す実効あるモデル」と、「言語相互間の交換、すなわち、異言語間における有意の情報の発信と受容とに特に留意して関連させたモデル」があるわけですが、これらは共に「言語の理論」に関連しています。さらに翻訳の理論と言語の理論とにも二様の関係性があり、ひとつは、「翻訳の理論は、事実上、言語の理論である」というものであり、もうひとつは、「言語理論は全体であり、翻訳の理論はその一部でしかない」というものです。しかしスタイナーによれば、ここで翻訳の理論を保証する言語の理論というもの自体を我々はそもそも手にしてはいない状態にあるとのことです。すると当然ながら、存在しない言語の理論をもとに翻訳の理論を確立することなど不可能ということになります。
いままで論じてきたところを要約するとこうなる:基本的な神経科学を説明する実効あるモデルもなければ、人間の言語の起源を歴史的に解明するモデルもない。また、人間の言語が何千もの言葉に分化している理由や分化の年代的過程を、人類学の立場から証明することもできない。我々の学習の過程や記憶の機構を説明する考え方には、素晴らしいものがあるのは確かであるが、しかし、未だに基本的な段階にあり、推測にすぎないものが多い。さらに、ある同一の人物の心の中に、第一言語のほかにいくつかの他の言語が習得され蓄積されて共存しているとき、その仕組がどうなっているのか、我々は全く知らないのも同然である。そんな状態にありながら、厳しい意味における〈翻訳の理論〉など、そもそも何処にあり得るのだろうか。(527頁)
そこでスタイナーとしては、翻訳という問題に取り組む場合、「科学」を目指すのではなく、「厳密な営み・芸術」(an exact art)を目指すべきとしてこの章を締めくくっています。

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