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2012年3月26日月曜日

ヒエロニュムスとアウグスティヌス

  • Alfons Fürst, "Hieronymus und Augustinus," in Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien zur antiken Theologiegeschichte (Berlin/Boston: Walter de Gruyter, 2011), 337-58.
Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien Zur Antiken Theologiegeschichte (Arbeiten Zur Kirchengeschichte)Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien Zur Antiken Theologiegeschichte (Arbeiten Zur Kirchengeschichte)
Alfons Furst

Walter De Gruyter Inc 2011-06-15
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ヒエロニュムスとアウグスティヌスの関係についてまとめた論文を読みました。この論文は、次の辞典項目の再録です。

    3796508545Augustinus-Lexikon (German Edition)
    Schwabe 1986by G-Tools

    辞典項目だけあってさほど目新しいことは書いてませんが、よくまとまっています。最初にヒエロニュムスのバイオグラフィをなぞったあと、ヒエロニュムスの人となりが説明されます。それによると、彼にはダイアローグの才能が乏しく、アウグスティヌスに限らず批判者とのやり取りがへたくそだったといいます。またアウグスティヌスとヒエロニュムスそれぞれの神学的な人物像については、以下のように上手にまとめられています。
    Während der spekulative Denker Augustinus sich im Kontext der zeitgenössischen Religionsphilosophie und eng verknüpft mit der Erfahrungen seiner geistigen und religiösen Biographie kreativ mit den philosophischen und theologishen Urfragen nach Glück, Leid und Gewissheit auseinandersetze, hat der an Fragen der christlichen Lebenspraxis interessierte Asket und weniger philosophisch als philologisch geschulte Wissenschaftler Hieronymus sich auf die Übersetzung und Kommentierung der Bibel konzentriert... (p. 342)
    要するに、アウグスティヌスが「思弁的な思想家」であるのに対し、ヒエロニュムスは「禁欲主義者」であり、かつ「哲学者というよりも文献学者」であるという対比がなされているわけです。Fürstによると、二人はペラギウス派の教えを拒否するということについては意見の一致を見ていましたが、アウグスティヌスから見ると、ヒエロニュムスの見解は半ペラギウス派的に思えたらしく、そうした箇所をヒエロニュムスの著作から引いて反駁を加えています。

    Fürstはこの二人の手紙のやりとりを二つの段階に分けて考えており、394/395–405年を第1段階、415–419年を第2段階としています。この第1段階の時期にあって、ヒエロニュムスに対するアウグスティヌスからの批判は、1)ヨブ記の翻訳、2)ガラテヤ書2:11-14の解釈の2点に絞ることができます。まず第1点目に関していうと、七十人訳のヨブ記はヘブライ語のヨブ記の6分の1に当たる部分が欠けており、少し短くなっているわけですが、オリゲネスのヘクサプラにおいては、その欠損部分をテオドティオン訳から補っていました。この付加部分がそうと分かるようにオリゲネスはアステリスコス記号を付し、ヒエロニュムスもヘクサプラを底本とした訳のときにはその記号を残していました。こういった経緯をアウグスティヌスは知らず、しるしはヒエロニュムスが勝手に付けたものと勘違いして、外すように述べています。またヒエロニュムスはその後ヘブライ語を底本とした翻訳も作成しますが、アウグスティヌスはこの新訳の意義が理解できないとして、ヘクサプラからの翻訳を続けるようにと諭します。アウグスティヌスはヒエロニュムス同様、古ラテン語訳の不備には不満を覚えており、新しいラテン語訳聖書の出版という目標は共有していましたが、七十人訳の権威と、七十人訳以外の底本を使用した場合に会衆から反乱を起こされるかもしれないという心配から、七十人訳を底本とすることに強く拘りました。また彼は、そもそもそうした重要な事柄をヒエロニュムス個人の判断でするのではなく、教会の権威に従う(教会の決めたLXXを使う)べきだと考えていましたし、さらにはヒエロニュムスが相談していたユダヤ人たちは信用ならないと思っていました(ep. 71)。第2点目のガラテヤ書の解釈とは、パウロとペテロの衝突のことで、おもにep. 75(J→A)において詳しく論じられています。

    第1段階の時期には、両者の手紙がきちんと届かなかったということも大きな問題でした。例えば、ep. 67(A→J)においてアウグスティヌスはep. 40の返事を催促していますが、すでにそのときヒエロニュムスはep. 68(J→A)を発送済みでした。その返事が着かないままに、アウグスティヌスは2通(失われた手紙とep. 71)をヒエロニュムスに送っています。ヒエロニュムスは前者の手紙に腹を立て、ep. 72(J→A)を送ります。この発送後にep. 71がヒエロニュムスに届いたので、彼はep. 75(J→A)という長い手紙を書いて送りました。ちょうどそのころアウグスティヌスの方ではヒエロニュムスからのep. 68がようやく手元に届き、このときアウグスティヌスは初めてヒエロニュムスがep. 40の件(ヒエロニュムスの手元に届く前に配達人が公開してしまった)で怒っていることを知り、慌てて謝罪の手紙であるep. 73(A→J)を送ります。するとep. 72とep. 75がヒエロニュムスから届きましたが、当然これはアウグスティヌスの謝罪を知らないときの手紙ということになります。さらにヒエロニュムスからep. 81(J→A)も届きますが、内容的に和解の姿勢が明白でなく、まだ彼はep. 73を読んでいなかった可能性が高いようです。その後アウグスティヌスはep. 82(A→J)という最も長い手紙を送っています。かように、手紙の到着にタイムラグがあるために、しょっちゅうすれちがいをしていました。

    415–419年の第2段階では、アウグスティヌスは魂と原罪の問題についてと、ペラギウス派の教説におけるヤコブ2:10の解釈についてヒエロニュムスの意見を求めています。ヒエロニュムスは積極的に議論しようとはしませんでしたが、アウグスティヌスの対ペラギウス派の活動には理解を示していたようです。このやりとりは、ヒエロニュムスの死まで6通のやりとりとして残っています。

    最後に、Fürstは二人が相互にどの程度影響を受けあっていたかについて説明をしています。結論から言うと、ヒエロニュムスはさほどアウグスティヌスの著作や言説に興味を持っていませんでしたが、アウグスティヌスはヒエロニュムスの著作をかなり読み込み、大いに関心を持っていたようです。アウグスティヌスが利用したヒエロニュムスの著作としては、以下のようなものがあります。『著名者列伝』、『ガラテヤ書注解』、『マタイ書注解』、『ヨナ書注解』、『ダニエル書注解』、『イザヤ書注解』、『エゼキエル書注解』、『ヨウィニアヌス駁論』、『ルフィヌス駁論』、『ペラギウス派駁論』、書簡集などです。

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