2012年3月15日木曜日

逐語訳か意訳か

Pursuing the Text: Studies in Honor of Ben Zion Wacholder on the Occasion of His Seventieth Birthday (The Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies: Journal for the Study of the Old Testament Supplement)Pursuing the Text: Studies in Honor of Ben Zion Wacholder on the Occasion of His Seventieth Birthday (The Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies: Journal for the Study of the Old Testament Supplement)
John C. Reeves

Sheffield Academic Pr 2009-11
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4世紀におけるラテン語翻訳論のキリスト教化について書かれた論文を読みました。翻訳の方法としては逐語訳と意訳とに大別されますが、これまでヒエロニュムスは意訳支持派と考えられてきました。これは彼自身があちこちでキケローの翻訳論(やはり意訳支持)を引きながらそのように述べていたことに由来するものでした。しかしAdlerはさまざまな理由から、ヒエロニュムスが本当の自分の立場と考えていたのは逐語訳の方だという議論をしています。

そもそもキケローとヒエロニュムスとでは時代がかなり異なりますから、当然置かれていた環境も異なります。翻訳論に関して言えば、キケローの時代の翻訳は修辞学の練習・実践の一つとして考えられ、原典から大きく逸脱した意訳も許される、原典と同等の文学と見なされていました。つまり意訳することによって原典のスタイルがラテン語でも似たようなかたちで表現されると考えられていたのです。しかし古代末期になるとそうした華々しさは敬遠され、翻訳が果たしていたラテン語を豊かにするという役割もなくなり、翻訳は原典に従属するものと見なされるようになりました。翻訳が原典に従属すると考える場合、翻訳であっても、原典を透かし見ることのできるような逐語訳が好まれるのは言うまでもありません。まずこうした状況証拠から、古代末期に生きたヒエロニュムスは逐語訳寄りだったはずと考えられます。

ではヒエロニュムスが意訳寄りと見なされるに至った最大の根拠である書簡57はどう考えられるでしょうか。あるときヒエロニュムスが、友人の個人的な頼みでギリシア教父の著作のラフな翻訳を作ってやったところ、それが公けに出回ってしまい、かつ誤訳であると糾弾されてしまいました。これに反論するために書かれたのが書簡57で、彼の論法としては、七十人訳者や福音書記者(のような権威ある者)たちだって必ずしも原典を忠実に反映していない場合があるんだから、自分の誤訳も大目に見るべきというものでした。もし本当に意訳の方が逐語訳よりも効果的だと言うためなら、七十人訳の意訳された部分が、アクィラ訳のような逐語訳よりも正確に内容を伝えている例を挙げればいいはずですが、彼がここで意訳支持を表明しているのは、自分だけが誤訳したわけではないと弁解したいがためでした。つまり、キケローは、翻訳者が自分の修辞学の腕前を発揮できるから意訳の方がいいと考えていましたが、ヒエロニュムスは、意訳を支持しておけば、仮に原典を忠実に反映していなくても言い訳が効くに違いないと逃げの一手を打っていたわけです。すると、彼の意訳支持とは結局のところ批判を避けるためのレトリックであって、彼の翻訳論の本質とはまったく別問題だということになります。

一見同じ意訳支持に見えても、キケローとヒエロニュムスは他にも違うところがあります。ヒエロニュムスは自分の訳は、技巧的でないシンプルで質素な文体だと述べていますが、こうした質素さは、キケローの時代にあっては逐語訳の特徴でした。つまり逐語訳するとラテン語としての美しさが削がれて(質素になって)しまうので、意訳しなければならないと彼らは考えていたのです。しかしヒエロニュムスの時代になると、文章のエレガンスは美徳ではなくなり、むしろキリスト教的な倫理から価値観が逆転し、質素さこそが美徳と考えられるようになりました。するとこの時代の論理では、華美な言葉づかいや流麗な言い回しではなく、文章の内容、すなわち意味こそが大事なのだから、言葉に拘泥せずに意味を訳さなければならないということになります。つまり、同じ意訳支持でありながら、キケローとはまったく正反対の翻訳スタイルを導いてしまうわけです。こうしてヒエロニュムスは、訳が正確でない(逐語的でない)という批判を受けたら、キケローに依拠しながら「意味が大事なのだ」とやり返し、一方で訳文に華がないという批判を受けたら、キリスト教的倫理に則って「意味が大事なのだ」と反論できるようになりました。いずれにせよ、ヒエロニュムスは意訳支持の立場を取っているように見せかけて、実際には批判を避けるためのポーズに使っていただけなのです。

さて、ここまでヒエロニュムスの意訳支持に積極的な理由がないことをAdlerは述べているわけですが、ではどのようなときに必然的に逐語訳をしなければならなくなったかというと、それはオリゲネスの著作を訳すときのことでした。ルフィヌスは、オリゲネスの異端嫌疑を晴らすために、『諸原理について』をラテン語訳しましたが、その際に異端的に見える部分は削除し、また削除しないまでもかなり意訳してしまいました。オリゲネス論争で、反オリゲネス派にまわったヒエロニュムスは、かつての友であるルフィヌスのその訳を批判し、『諸原理について』の新たな訳を作ります。これを逐語的に訳すことによって、ルフィヌスが削除・改変したところを洗い出し、かつオリゲネスの異端性をあますところなく伝えようとしたのです。このように逐語訳を前提とすることによって、訳文の中に仮に異端的な思想があっても、それは翻訳者の思想ではなく著者自身に帰すべきものだと示すことができます。こうした責任の所在を明らかにするための逐語訳という考え方は、のちにボエティウスをはじめとする中世の翻訳者たちに広く受け入れられたものですが、どうやらこれはヒエロニュムスに端を発するものだったようです。

私の知りたい点としては、以下の2点。ヒエロニュムスは翻訳の仕方について、聖書とその他の文学とを分けて考えていましたが、いずれの場合も逐語訳支持とするならば、ウルガータにおける意訳をどう説明するのかということ、また逐語訳にするか意訳にするかを決定する要因として、読者が原典を読めるか読めないかというのはAdlerもp. 337で簡単に触れているように大事な点だが、これについてもう少し説明がほしいこと。

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