2011年11月28日月曜日

七十人訳の成立縁起に関する議論


  • W. Schwarz, "Discussions on the Origin of the Septuagint," in Id., Principles and Problems of Biblical Translation: Some Reformation Controversies and Their Background (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 17-44.

Principles and Problems of Biblical Translation: Some Reformation Controversies and their BackgroundPrinciples and Problems of Biblical Translation: Some Reformation Controversies and their Background
W. Schwarz

Cambridge University Press 2009-01-08
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先日読んだ第1章に引き続いて、七十人訳の成立縁起に関して書かれている第2章を読みました。この部分は再読でしたが、やはりいい論文は何度読んでも新しい発見があります。

Schwarzは、ここでは『アリステアスの手紙』、フィロン、ヒエロニュムス、アウグスティヌスの四者の思想を取り上げて、実に手際よく料理しています。この論文を読むにあたっては、まず大枠として、第1章で示された、翻訳における「文献学的原理」(philological principle)と「霊感的原理」(inspirational principle)という二項対立に注意が払われなければならないでしょう。この二項対立の中で、アリステアスとヒエロニュムスは前者に、フィロンとアウグスティヌスは後者に配置されています。まず『アリステアスの手紙』では、翻訳作業があくまで人間の手によって行われたことが強調されていますが、一方ユダヤ教と新プラトン主義の影響下にあるフィロンの著作では、七十人訳の翻訳には神の介入があったことが強調されました。つまり七十人訳者たちは単なる人間の翻訳者としてではなく、いわば預言者として翻訳をしたということになるのです。そしてそうであるならば、当然その訳業の産物である七十人訳もまた新たな啓示というにふさわしく、まさに神の言葉そのものといえるのです。しかしここで注意せねばならないのは、フィロンのいう預言者とは単に神の言葉を人々に伝える道具としての役割だけでなく、それを解釈=翻訳する能動的な役割をも持った存在でもあったことです。つまり預言と翻訳とは別のはたらきを持っているといえます。フィロンの七十人訳に対する神聖視はその後アウグスティヌスに引き継がれていきますが、一方で彼の預言者理解はヒエロニュムスに引き継がれていくことになります。フィロンは「霊感的原理」側ではありますが、「文献学的原理」側のヒエロニュムスにも影響を与えているわけです。

さて、こうして「文献学的原理」と「霊的原理」はすでにキリスト教成立以前から用意されていたわけですが、この二つが本当の意味で衝突するのは4世紀になってからのことでした。フィロンの「霊感的原理」に対し、ヒエロニュムスは最初はほのめかし程度に、やがてはっきりと七十人訳の霊感を否定していきます。というのも、彼はヘブライ語テキストと七十人訳とが相違していることを問題にしたわけです。なぜ七十人訳は原典であるヘブライ語テキストから異なるのか。1)写字生のミス、2)七十人訳者自身の付加。このうち七十人訳者自身の付加はさらに二種類に分けられます。a)文体上の必要性による付加、b)聖霊の権威による付加。本当に七十人訳が霊感を得て訳されてものであるならば、後者は問題ないでしょうが、少なくとも前者は言語のシンタックスに強いられて言葉を付加しているわけですから、このことは七十人訳が人間の手によるものであることを示しています。翻訳に必要なのは原典の理解と言語能力であって、預言ではないのです(「翻訳と預言とは異なる」)。

また逆に、新約聖書における旧約引用が七十人訳ではなくヘブライ語テキストと一致していることは、ヘブライ語テキストの優位を証明するものとなります。とはいえヒエロニュムスは七十人訳者が訳したのは五書だけであって、他の文書には七十人訳の霊感が及んでいないことを知っていました。すると逃げ道として、五書はともかく他の文書が七十人訳の権威を主張することはできず、翻って考えれば五書だけには権威があるというロジックも成り立ちます。このような七十人訳擁護ともとれることを交えないとならないのは、当時七十人訳派の敵対者たちからヒエロニュムスがしばしば非難を浴びせられていたからでした。しかし最終的には、プトレマイオス王をあざむくために七十人訳者たちが訳文を変えていたという『アリステアスの手紙』の記述から、ヒエロニュムスは七十人訳全体の霊感を否定します。

また新約聖書における旧約引用の問題は非常に重要で、なぜなら七十人訳と同じように霊感を得ている使徒たちが七十人訳と異なるとなれば、聖霊が矛盾していることになってしまいます。しかしそんなことはありえないので、七十人訳よりあとの使徒の方が正しいのは当然のことになります(神学的理由)。一方『アリステアスの手紙』やヨセフスの記述には、フィロン以降の七十人訳霊感説の源となった、「七十人訳者が小部屋に分かれて訳したにもかかわらず訳文が一致した」というくだりが出てきません(歴史的理由)。このように、ヒエロニュムスによれば、神学的理由からも歴史的理由からも、七十人訳が霊感を受けていたなどということは言えないということになります。

ちなみにこのあたり、Schwarzはヒエロニュムスに関する記述に熱が入っており、次のように(わりと感動的に)述べています。
It is the philologist's method to compare the different texts and to rely on the ability of human understanding to find out the truth. In this research there can be no halt. When after a long period of uncertainty he at last found what he believed to be the truth, he drew the logical conclusion, even when this meant a fight against a long tradition and against strong opposition to all new ideas and thoughts. (p.32)
さてヒエロニュムスのこの「文献学的原理」に対し、アウグスティヌスは「霊感的原理」で応えます。彼はヒエロニュムスのヘブライ語からの翻訳を歓迎しませんでした。アウグスティヌスは七十人訳にヘブライ語と異なる訳文があることは知っていましたが、教会が七十人訳(あるいは古ラテン語訳)を統一的に読んでいる限り、そうした違いは問題にならないと考えていたからです(ちなみに彼はヘブライ語はできません)。そこにヒエロニュムスの新しい翻訳が現れるとなると、最悪の場合教会の分裂をも引き起こしかねないと危惧したのです(教会の事情)。同時に神学的にも、アウグスティヌスはフィロンの説を受け入れ、七十人訳の霊感性を主張しました。七十人訳が霊感を得て訳されたものだとすると、それは原典を更新したものであるということになります。アウグスティヌスによれば、ヒエロニュムスの訳を受け入れることができないのは、彼が更新される前のテキスト、すなわちヘブライ語テキストを底本にしているからであり、本来であれば最新版である七十人訳を底本として訳さなければならないのです。このあたり、当時の最高の知性同士のぶつかりあいなわけですから、古代の議論として簡単に済ますのではなく、双方の言説に隠れているロジックを読み解いていかなければなりません。その点で、Schwarzの説明は実に明晰なものでした。

2 件のコメント:

  1. ブログのコメント欄では、はじめまして。学会等でお世話になっておりますKと申します。
    フィロン(時代的に、新プラトン主義ではなく中期プラトン主義かと思われます)・アウグスティヌスとヒエロニュムスの間に見られる、翻訳原理の相違に関する議論を興味深く拝見致しました。特にフィロンとヒエロニュムスでは、ヘブライ語とギリシア語の位置づけ、及びLXX翻訳の意義が随分異なるのかなぁと感じ、そこが面白かったです。御紹介の文献、読んで学ばなければ-と思いました。
    フィロンによるギリシア語聖書(LXX)の成立縁起は主にMos.2.26(25)-44の記述に基づくものかと存じますが、彼は、原語(いつも「カルデア語」と呼んでいます)のままでは[トーラーの]美しさが[ヘブライ語を解さない]他の人々には未だ明かされていないこと、原語ではその内容の素晴らしさが人類の半分にしか知られないと恥じる人々がいたこと等々を記しながら、ヘブライ語聖書が王命によりギリシア語(共通語)に訳されること=ヘブライ語を解さない他の人々に公とされることの重要性と意義を、常に意識しているようです。と共に、彼はLXXをオリジナルの逐語訳と考えていたようなので(Mos. 2.38-39)、ヘブライ語聖書とLXXにある相違については、全く問題視しないようにも思われます。(無論、フィロンは果たしてヘブライ語が読めたのだろうか?という疑問も、生じます)
    また、アウグスティヌスに言及される際に記しておられる「七十人訳が霊感を得て訳されたものだとすると、それは原典を更新したものであるということになります。」というくだりは、フィロンにはありえない、新約を経たキリスト教徒ならではなのかな、という気もして興味深く拝見しました。と言うのもフィロンは、LXXがオリジナルの言語を一語も損なわず翻訳表現の多様性を認めずに、逐語的に訳されていると信ずればこそ、LXXもまた翻訳者によってではなく(モーセの)霊感による(秘儀)祭司や預言者たちによって記されたものであって、あたかも原典の姉妹、寧ろ同一物として崇敬対象になるものである、と見做しているように思われるからです。原典の「更新」という考え方はここには当てはまり難いように感じます。フィロンにとってのLXXは、オリジナルに比して優りも劣りもしない完全な法であり、且つ、ギリシア語であることによってカルデア語に精通しない他の人々にも開かれた(言語的普遍性を獲得した?)ものとなったという点に、その重要性が存するのかな、と個人的には感じます。
    他にも、預言と翻訳(解釈)の関係性(フィロンにおいて両者の関係性はやや複雑だと思われます)や、引用しておられる、「翻訳と預言とは異なる」という一文の典拠と原文等、色々と気になることがありますが、長くなりましたので、この辺りで失礼致します。

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  2. K. Hana様
    コメントをいただき、また私の理解が及んでいないところを訂正していただき、ありがとうございます。フィロンの議論を補足してしていただいたので、どのような背景があったかがとてもよく分かりました。
    同じ「霊感的原理」といっても、フィロンが、本来翻訳でしかないLXXが霊感によってヘブライ語テキストと同等のものとなったのだと考えていたのに対し(HT=LXX)、アウグスティヌスは霊感ゆえにむしろLXXこそがヘブライ語テキストより真正なものとなったと考えていたのでしょうね(HT<LXX)。そういう意味で、「原典の更新」云々のところは、まったくおっしゃるとおり、実にキリスト教的なものの見方だなあと思います。ご存知のように、フィロンとアウグスティヌスの間には、偽ユスティノスやエイレナイオスなどギリシア教父のLXX理解が挟まっており、議論にも少しずつ発展があるわけですが、そうした中でキリスト教的な立場からLXXの地位が上がっていったのですね。
    「翻訳と預言とは異なる」というのは、SchwarzがMos.II.191の「解釈と預言とは異なる」という箇所のヘルメーネイアを「解釈=翻訳」と読んだものです。ここからフィロンは「翻訳と預言は異なるのだから、預言者の霊感を受けたLXXは預言である」と考えるのに対し、ヒエロニュムスは「翻訳と預言は異なるのだから、人の手で作られた単なる翻訳であるLXXは預言などではない」と考えたとSchwarzは説明します。そうした意味で、アウグスティヌスだけではなくヒエロニュムスにもフィロンの考え方が影響しているのですが、解釈が反対だったというのがミソのようです。
    私の拙い説明はともかく、論文自体はよくまとまっているので、ぜひご一読ください(ただヒエロニュムスとヘブライ語の関係など、私も少々首肯しかねる部分があるのも確かですが)。

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