2011年11月24日木曜日

聖書と翻訳者


  • W. Schwarz, "The Bible and The Translator," in Id., Principles and Problems of Biblical Translation: Some Reformation controversies and their Background (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 1-16.

Principles and Problems of Biblical Translation: Some Reformation Controversies and their BackgroundPrinciples and Problems of Biblical Translation: Some Reformation Controversies and their Background
W. Schwarz

Cambridge University Press 2009-01-08
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聖書翻訳に関する歴史的研究の古典的名著のイントロを読みました。この人の本はこれしか読んだことないのですが、著者はおそらく宗教改革史の専門ではないかと思われます。本書も基本的にはロイヒリン、エラスムス、ルターの論争を中心的に扱っているのですが、彼らの論争の基底にはヒエロニュムスとアウグスティヌスの論争があるという観点から古代にも一章割いています。目次は以下の通り。

I.   The Bible and The Translator
II.  Discussions on the Origin of the Septuagint
III. The Traditional View
IV. The Philological View: Reuchlin
V.  The Philological View: Erasmus of Rotterdam
VI. The Inspirational View: Luther

今日はこの一章目を読んだわけですが、具体的な歴史上の問題よりも概論的な内容でした。翻訳とはそもそも、原典の持っている思想、イメージ、リズム、韻律(詩の場合)、調子、雰囲気などを別の言語に移すものですから、その性質からして短命なものです。なぜなら翻訳=解釈にはその時代の考え方が反映せざるを得ないからです。しかし翻って聖書について考えてみると、このことは自明ではないかもしれません。なぜなら七十人訳やウルガータ、欽定訳などはずいぶん長生きしているように思われます。

なぜ聖書においてはこのようなことが起こるのかというと、宗教共同体がそこに、伝統だとか、文言や祈りの言い回しの永続性などを求めるからです。その言い回しが仮に近代語から見ると意味不明になってしまっていても、共同体内の伝統への固執(Schwartzはこれをsentimental feelingsと言いますが、p.4)は、それをむしろ有難がり、価値が高いものであると見なしさえしてきました。ですから、英語訳だけを見ても、これまで多くの翻訳がありましたが、そこには新しい訳を作ろうとする意志はあまりなく、以前の訳の改訂に留まろうとする傾向があります。

これは、翻訳者たちが自らの判断で訳したがゆえに非難されるということがないように、教会の権威に照らして翻訳を作ってきたからでした。むろんこの権威に対する姿勢には二面あり、ひとつはそれを喜んで受け入れるという姿勢で、非難を簡単に回避することができます。しかし一方では権威を受け入れたくないという姿勢もあり、彼にとってそれは重荷にしかなりません。これは別の(カトリックでない)宗教共同体に属する者にとっては当然のことで、同じ聖書箇所であっても違う宗教共同体の者たちでは異なった解釈が生まれてくることになります。

しかし同一の宗教共同体の中でも多様な解釈が許される場合があり、1)ある種の有益さがあるとき、2)聖書の学習のためのとき、3)教会を守るときには、伝統的な解釈に従わずとも特別に許されました。これ以外の信仰や道徳に関する解釈は、権威=教会に従わねばなりません。ウルガータが聖典として認められたのは16世紀とずいぶん後代のことですが、これはそれまで上のような規範、すなわちヘブライ語あるいはギリシア語原典ではなく教会こそが権威であるという規範が徹底していたために、あえて公認する必要がなかったからだったと考えられます。

また、翻訳は神の導きなしにはなしえないものだとも考えられていました。神の導きである霊感があったとき、翻訳は原典と同等の価値を有することになるわけですが、ある翻訳に霊感があったかどうかを決定するのはもちろん教会の役割でした。そのような意味で、古代では七十人訳がそれに当たるものと考えられ、また下ってはウルガータがそれに当たるものと見なされてきました。しかし翻訳には、こうした霊感的な原理(inspirational principle)とは別の原理も働いているはずです。すなわち、翻訳とはとりもなおさず人間の手によってなされているものだという意識であり、そういった立場に立てば、常に原典こそが権威となるために、それを超えるいかなる権威も存在することはできません。Schwartzはこちらの原理を文献学的原理(philological principle)と呼び、古代から中世の聖書翻訳にはこの二律背反がしばしば問題となってきたと考えます。そしてこの二つの原理の最初の衝突こそが5世紀のヒエロニュムスとアウグスティヌスの論争であり、二回目の衝突が16世紀に起こったと述べています。

本書は基本的にはこの二回目の衝突に焦点を当てているわけですが、これを十全に理解するためには最初の衝突の検証が必要不可欠です。その成果が2章の"Discussions on the Origin of the Septuagint"になります。イントロなので話があっちこっちに飛んでまとめにくいですが、とにかくSchwartzが単なる一般論からでなく、説得力をもって聖書翻訳の転換点を5世紀と16世紀に置いていることが読み取れます。

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