2017年3月1日水曜日

セルウィウスの寓意的解釈 Jones, "Allegorical Interpretation in Servius"

  • J.W. Jones, Jr., "Allegorical Interpretation in Servius," Classical Journal 56 (1960-1), pp. 217-26.

本論文は、ウェルギリウスの注解で知られるセルウィウスがどのように寓意的解釈を用いたかを検証した論文である。ラテン作家たちにとっての「寓意(allegoria)」とは、後代での用法のように解釈のひとつの種類のことではなく、いわゆる「比喩(figure of speech)」のことを指していた。つまり、セルウィウス自身はウェルギリウスの詩を寓意的に解釈したつもりはなく、ウェルギリウスが用いていた比喩表現を発見したと考えていたのである。

古代においては、現代で言うところの「寓意的解釈」に当たるものとして、四つの解釈法が考案された:第一に、「歴史的(historical)解釈」では、実在の人物や出来事が何らかの意味を暗示していると見なされた。第二に、「自然的(physical)解釈」では、神々が自然現象や力と同一視された。第三に、「倫理的(moral/ethical)解釈」では、神々が抽象的な概念に同一視されたり、表面上は悪の行為や状況に倫理的な価値が見出された。第四に、「エウヘメリズム的(euhemeristic)解釈」では、神々が神格化された人間の英雄たちのことだと理解された。著者は、これら四つの「寓意的解釈」に加え、セルウィウスの注解の中には第五の解釈として「ローマの祭儀からの(ex ritu Romano)寓意的解釈」とでも言うべきものがあると指摘している。

「歴史的解釈」は53例あり、あちこちで見られるが散発的であると言える。セルウィウスの考えでは、ウェルギリウスは『アエネーイス』の主人公であるアエネーアースの人物像をローマ皇帝に匹敵するものだと見なしていたが、実際にはそれはセルウィウス自身の考えであった。そこで、セルウィウスはウェルギリウスによってアエネーアースに帰されている行為を、皇帝による同様の行為の先駆けと見なしたのだった。

「自然的解釈」は35例ある。これは、ウェルギリウスが神々を描写するときに、あるときには神人同型的に扱い、またあるときには単純な自然現象として扱ったことに由来する。セルウィウスは「自然的解釈」を施すときには、ギリシアの自然哲学者たち(physici)に直接的に依拠したり、あるいは間接的に依拠したりした。間接的の場合には、ストア派のコルヌートス、偽ヘラクリトス、キケロー、ウァッローらを参照したようである。

「倫理的解釈」は18例あり、特に『アエネーイス』第6巻に集中している。セルウィウスはこの巻に出てくる冥界のシーンの全体を寓意だと見なしている。彼は特にエピクロス派詩人のルクレティウスや、ピタゴラスなどに依拠しながら、作中の出来事に倫理的な意味を持たせた。

「エウヘメリズム的解釈」は44例もある。多くの場合セルウィウスは、ウェルギリウスによって言及されている神話的な獣や怪物などは、もともとは別の存在が獣化・怪物化したものだと解釈しようとした。エウヘメリズムとは神々の起源を神格化された英雄に求める考え方であるが、セルウィウスの時代には神々は「自然的解釈」をされることが多かった。パラエファロスやポリュビオスのように、セルウィウスもまた神話のような物語(fabula)の元には何らかの真理が存すると考えた。そこで、セルウィウスはウェルギリウス作品中の獣や怪物とは、もともとは障がいを持った人や現実の動物を詩人が比喩的に表現したものだと解釈した。ただし多くの場合、セルウィウスの解釈には出典があった(ウァッロー、サルスティウス、ヒュギアノス、セプティミウス・セレヌス、エラトステネス、シチリアのディオドロスら)。

これらに加えて、著者は「ローマの祭儀からの寓意的解釈」を20例挙げている。これらの中で、宗教的な事柄に関するウェルギリウスの知識が執拗に議論されている。一見、あたかもウェルギリウスの見解であるかのように見えるが、『ダニエルのスコリア』と呼ばれるスコリアの中に収められたセルウィウスの注解は、実は彼自身のものではなく、アエリウス・ドナトゥスの失われた注解ではないかと考えられている。それゆえに、セルウィウス自身の注解ではこれらの解釈を否定することもある。なぜなら、第一に、セルウィウスの見解はより哲学的なものであり、第二に、少し前の世代であるドナトゥスの読者にとっては祭儀の問題は重要でも、セルウィウスの時代にはすでにそうではなかったからである。

以上より、セルウィウスが中世の寓意的解釈と異なり、単一のプランによって『アエネーイス』を寓意的に扱っているわけではないことが分かる。また一般的に、セルウィウスが言及している寓意は、ウェルギリウス自身が用いた寓意を明らかにしようとするものではなく、むしろ注解者自身の声や彼が影響を受けた者の声だと言える。

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