2017年3月20日月曜日

セルウィウスの「ヒストリア」理解 Dietz, Historia in the Commentry of Servius

  • David B. Dietz, "Historia in the Commentary of Servius," Transactions of the American Philological Association 125 (1995), pp. 61-97.

本論文は、ウェルギリウスの注解者であるセルウィウスが用いる「ヒストリア」という言葉がさまざまな意味を持っていること、そしてそれらが古代の文学的・歴史的理論および実践を反映していることを明らかにしたものである。

セルウィウスの校訂版テクストには、古いが完成しているThilo-Hagen版と、新しいが未完成のHarvard版がある。またそもそもそのテクスト自体に、短い版と長い版(Servius Danielisと呼ばれる)とがある。研究者たちは、長い版は短い版のソースではなく、共通の資料の発展の結果だと考えている。またある研究者たちは、長い版のソースは存在しないアエリウス・ドナトゥスの注解だと考えているが、最近では疑問視されている。

ヒストリアに関連して、クインティリアヌス(およびキケローと『ヘレンニウスへの修辞』)は、fabulaとargumentumをも加えて三区分としている。
  • ヒストリア:事実(factual)かつ現実的(realistic)な過去の出来事の語り。
  • ファーブラ:非事実(non-factual)かつ非現実的(unrealistic)な語り。悲劇や詩歌に適している。
  • アルグメントゥム:非事実(non-factual)だが現実的(realistic)な語り。喜劇に適している。
これに対し、セルウィウス(『アエネーイス注解』1.235)は、上の定義を次のように改変している:
知らなければならないのは、ファーブラとアルグメントゥムの間、すなわちヒストリアが次のように異なっていることである。ファーブラとは、それが事実であろうとなかろうと、自然に反して(contra naturam)言われていることを指している。ちょうどパシファエについてのように。一方で、ヒストリアとは、それが事実であろうとなかろうと、自然に即して(secundum naturam)言われている何らかのことを指している。ちょうどファイドラについてのように。
セルウィウスによれば、アルグメントゥムがヒストリアに吸収されることで、議論がヒストリアとファーブラとの二区分に収斂するという。セルウィウスによるアルグメントゥムの用法は、クインティリアヌスと異なり喜劇のような劇作上の文脈がなくなり、多くの場合は「証明」や「推論」といった蓋然性(probability)を表わす修辞的・論理的な文脈と関係している。そしてこの「蓋然性(λόγος/ratio)」という要素こそが、セルウィウスにとって、ヒストリアにはあるがファーブラにはないものの一つだった。また、ヒストリアにしかないもうひとつの要素が「自然さ(φύσις/natura)」である。つまり、ヒストリアが自然である(secundum naturam)のに対し、ファーブラは自然でない(contra naturam)のである。

つまり、セルウィウスによる区分は次のようになる:
  • ファーブラ:不自然(unnatural)かつ非現実的(unrealistic)な語り。
  • ヒストリア:自然(natural)かつ現実的(realistic)な語り。
いわばヒストリアについて、クインティリアヌスは基本的に現実に起こった過去の出来事(res gesta/factum)のことだと考えているのに対し、セルウィウスはそれをある程度受け継ぎつつ、さらに独自の見解として、実際に起こった事実であるかどうかに関わらず、第一に「あり得そうな/現実的な(argumentum)」、そして第二に「自然な/物理的な(secundum naturam)」語りだと考えている。つまり、セルウィウスにとってヒストリアは、事実性を問題とする現代的な意味での「歴史」ではない。また、ヘロドトスらに見られるような「自然に関する批判的な研究」という意味でもない。

セルウィウスは、ヒストリアを実際に起こった出来事に限定していないので、あり得ないような神話的な出来事(ファーブラ)でも、それがあり得るように合理化されればヒストリアと見なすことを許容している。こうした標準化の手法(normalizing methodology)は、古代の歴史学や詩歌の常套手段でもあった。それゆえに、たとえば作中に神からの干渉が見られる場合、それは拒絶されるか、エウヘメリズム的に解釈することであり得なさを減らされた。すなわち、神話的な物語は寓意的解釈の結果として、究極的には自然界にあるものを意味していると見なされたのである(nature allegory)。

現代的な意味での客観的・歴史学的な基準でなく、ある出来事があり得るかどうか(argumentum)、そして自然であるかどうか(natura)、さらには時系列や物語が一貫しているかどうかを基準にしているので、セルウィウスの注解は歴史的知識を欠いている。なぜなら、彼はそれが実際の出来事であるかどうかという歴史的な関心ではなく、文学的な関心のみを持っていたからである。

ある物語が現実的であるかどうかや自然であるかどうかではなく、時系列や物語が一貫しているかどうかをもとにヒストリアを語るときには、ファーブラの代わりに「叙事詩(heroicum)」が比較の対象となるときがある。すなわち、ヒストリアが実際の出来事であるかどうかにかかわらず「真実(veritas)」を語るときには、詩歌が「虚偽(fictus)」を代表するのである。

ちなみに、より遠く離れた歴史的事実を書いた文書(annales)を語るときには、同時代の歴史的事実を書いた文書としてヒストリアという語を使うときもある。ヒストリアはこの文脈においては、自分で見ることができることを書いたものを指すのである。

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