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2012年1月13日金曜日

イザヤ書7:14の「処女」について


確か『スナッチ』という映画の冒頭で、ベニチオ・デル・トロが銀行強盗に入るときに、ユダヤ教のラビに変装して、イザヤ書7:14の「処女」はヘブライ語では単に「乙女」の意味なんだとしゃべってるシーンがあったかと記憶していますが、この論文は、この問題について2世紀から5世紀の教父たちの聖書解釈を検証したものです。毎度のことですが、Adam Kamesarの論文はロジックが鋭くてほれぼれします(が、その分ついていくだけで疲れます)。

הנה העלמה הרה וילדת בן וקראת שמו עמנו אל
ἰδοὺ ἡ παρθένος ἐν γαστρὶ ἕξει καὶ τέξεται υἱόν, καὶ καλέσεις τὸ ὄνομα αὐτοῦ Εμμανουηλ·

イザヤ書7:14のヘブライ語「アルマー」は七十人訳では「パルテノス」(処女)と訳されているわけですが、ユダヤ人たちは「ネアーニス」(νεᾶνις、乙女)と訳すべきだと考えていました(アクィラ訳など)。しかしこの箇所がパルテノスであることは、マタイ1:23におけるイマヌエル預言の大事なポイントなので、教父たちは、是が非でもここを「処女」と読まなければなりませんでした。そこでこれを裏付けるために持ち出されたのが、LXX申命記22:23-29の記述でした。この箇所において、23節のパーイス・パルテノスは24節ではネアーニスと言い換えられており、28-29節でも同様の言い換えがされていることをもとに、ギリシア教父たちは、ネアーニスという語にはパルテノスと同じ意味があるんだと主張したわけです。こうした主張は、『ティモテとアクィラの対話』、エウセビオス、クリュソストモス、テオドレトス、大バシレイオス、エルサレムのキュリロスなどに見られるものです。しかしギリシア教父たちの主張は、申命記の文献学的な読み方をもとに組み立てられたものでありつつも、それはあくまでギリシア語の範疇での話に留まるものでした。

ここから一歩出たのがオリゲネスであり、彼はヘブライ語のアルマーという語には「処女」の意味が含まれていると主張しました。オリゲネスが初めてヘブライ語にまでさかのぼってみるという視点を持ったわけです。ところが彼が依拠したと主張しているLXX申命記のパルテノス、ネアーニスという語に当たるヘブライ語はアルマーではなく、ベトゥラーとナアラーという語でした。

23節 παῖς παρθένος נערה בתולה
24節 τὴν νεᾶνιν את הנערה

28節 τὴν παῖδα τὴν παρθένον איש נערה בתולה
29節 τῆς νεάνιδος הנערה

このような食い違いが起こる原因としては、マソラーとオリゲネスのテクストとが違う読みを持っていたことが考えられますが、どうやらオリゲネスのテクストは限りなく現在のマソラーと近いものだったようです。となると、オリゲネスはギリシア語でできあがっていた議論をヘブライ語化しようとして、ベトゥラーとナアラーと書かれている箇所を確認することを怠り、推測でアルマーとしてしまったのだということになります。つまり、一見ヘブライ語について議論をしているように見えて、オリゲネスは上のギリシア語の議論を下敷きにして、その上にヘブライ語の議論を被せようとしたけれども、ろくにヘブライ語の知識がないためにあえなく間違えたというわけです。このような、原典をきちんと確認しないでヘブライ語の議論をしてしまうというのは、教父の著作を読んでいるとしばしば遭遇することですね。

以上のような、教父たちによるギリシア語だけをもとにした議論、およびオリゲネスによる誤ったヘブライ語の議論(実際はギリシア語の議論と同じもの)に対して、ヒエロニュムスの説明はまったく次元の違うものでした。彼はギリシア語ではなく、ヘブライ語ベースの説明をしており、それによると通常パルテノスの意味になるのはベトゥラーという語であり、ネアーニスの意味になるのはナアラーという語であって、アルマーはそのいずれでもないと述べています。しかし一方でアルマーの語根であるアイン・ラメッド・メムは、「隠す、秘密にする」という意味があるので、これを使ってこの語を解釈すると、「隠された女」→「閉じ込められた女」→「男性との交渉がない女」→「処女」ということができます。こうした読みはラビ的解釈とキリスト教的解釈の複合だと考えられます。つまりヒエロニュムスは、ヘブライ語の正確な知識をもとに、「処女」の意味をもつヘブライ語はベトゥラーであることを一旦指摘しておいて、さらにヘブライ語の語根の知識とラビ的な聖書解釈を用いて、イザヤ書7:14のアルマーを「処女」の意味で読むことが可能であることを示し、キリスト教的な読み方につなげることに成功したわけです。

こうしたヒエロニュムスの解釈を知ることには、私見では2つの大きな意味があります。ひとつは、オリゲネスの解釈がヘブライ語ベースに見せかけて、その実はギリシア語ベースの解釈であったことに対し、ヒエロニュムスがオリジナルの解釈を持っていることが明らかにされている点です。しばしばヒエロニュムスはオリゲネスの聖書解釈を盗用していると考えられてきましたが、少なくともこの箇所ではまるで異なった解釈をしていることが分かります。もうひとつは、ヒエロニュムスの解釈がヘブライ語ベースであることから、彼の高度なヘブライ語能力を見て取れる点です。先のオリゲネスらの聖書解釈の盗用とのからみで、ヒエロニュムスのヘブライ語能力は極めて低かったと考えられる場合がありますが、この点も、ベトゥラー、ナアラー、アルマーの意味論的な区別、および語根をもとにした読み替えなど、かなり高度なヘブライ語能力を認めることができます。

4 件のコメント:

  1. 以下のブログに"ヘブライ語「アルマー」の「隠された」意味"と題されたエントリーがありますので、ご笑覧ください。

    web.me.com/cmsonk1948/Catholic/Contra_Celsum/Contra_Celsum.html

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    1. はじめまして。コメントをありがとうございます。ヒエロニュムスの『ヨウィニアヌス駁論』1.32をお訳しになったのですね。ご存知かもしれませんが、ヒエロニュムスはイザヤ書7:14について、『創世記におけるヘブライ語研究』24:43、『イザヤ書注解』3(7:14)においても注解しておりますし、また示唆的に扱っている箇所としては、『ヘルウィディウス駁論』4、『書簡22』21. 57、『エレミヤ書注解』4. 45. 3(23:5-6)、『アモス書注解』1(3:12)がありますので、併せてご覧ください。

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    2. いろいろと参考になる情報に触れることができ、たいへん感謝しております。
      まだまだ世の中には知らないことが沢山あるのだなと、痛感いたしました。
      ありがとうございました。

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    3. こちらこそ、論文の備忘録のような文章を読んでくださりありがとうございます。お気づきのことがありましたら、ぜひまた教えてください。

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