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2011年6月2日木曜日

クリュソストモス『マタイ講話』50.3

『マタイ講話』50.3において、クリュソストモスは、「ここentautha」と「外exo」、「このことtouto」と「あのことekeino」という言葉を用いつつ、自分たちが行っている聖餐式と、外に出て行って貧者に施しをすることとを対比し、後者こそがキリスト自身の望んでいることだと述べます。信徒たちは、聖餐式で華美な装飾や豪華な器具を用いてキリストを崇めようとしますが、クリュソストモスはそれに批判的だったのでしょう。なおこの章は、途中を省略しています。




50.3
それゆえに、今でもかの食事があり、そこには彼(イエス)もまた横になっていると信じましょう*1。というのも、かの食事はこの食事と少しも違わないからです*2。またこの食事は人間がなすもので、かの食事は彼がなしているのではなく、この食事もかの食事も彼がなしているからです。それゆえに、司祭があなたに(パンを)運んでくるのを見たときはいつでも、司祭がそれをしていると考えるのではなく、キリストの手が広げられているのだと考えなさい。〔……〕
あなたはキリストの肉体を崇めたいのですか。(それなら)彼が裸であることを見落としてはなりません。ここでは絹の衣を着ている彼を崇め*3、外では凍えるような寒さと裸でいることによって殺された彼を見落とす、ということがあってはなりません。なぜなら彼は次のように言っています。《これは私の肉である》〔マタ26:26〕。そしてこの言葉によって、物事を確かなものにし*4、彼は言いました。《あなたがたは私が飢えているのを見たのに、食べさせなかった》〔マタ25:42〕、そして、《あなたがたが最も小さい者にしなかったのと同じように、あなたがたは私にもしなかったのだ》〔マタ25:45〕*5。というのも、このことは覆いではなく清い魂を必要としますが、かのことは大きな配慮を必要とするからです*6。それゆえに、知を愛すること、そしてキリストご自身が望むようにキリストを崇めることを学びましょう。なぜなら崇められる者にとって、彼自身が望む崇敬が最も甘美なのであって、我々が考える名誉が甘美なわけではないからです。たとえばペトロもまた、足を洗うことを妨げることで彼を崇めようと考えましたが、起こったことは名誉ではなく、まったく逆のことでした*7〔ヨハ13:1-11参照〕。あなたもまたこのように、彼自身が定めたこの崇敬で彼を崇めるようにしなさい。つまり貧者に財産を使いつくすのです*8〔マタ19:16-22参照〕。なぜなら、神が必要としているのは黄金の壺ではなく、黄金の魂だからです。

*1 「横になる」とは、ローマ時代の横臥して食事するスタイルのこと。

*2 「かの食事」(ekeino [to deipnon])とはイエスの最後の晩餐のことであり、「この食事(touto [to deipnon])とはクリュソストモスと聴衆が現在行っている聖餐式のこと。以下両者の同一性を説いていく。

*3 「絹の衣を着ている彼」とは、比喩的な意味なのか、それとも当時イエスの図像として絹の衣をまとった姿があったのか、興味深い記述です。

*4 pragmaは、deed, thing, occurrence, matterといった意味ですが、訳すのが難しいところです。

*5 マタ25:42の引用はNestle-Alandと異なっていますが、マタ25:45はまったく同じです。クリュソストモスの引用の仕方は、依然よくわかりません。

*6 ここでまたしてもtoutoとekeinoの比較が出てきますが、何を意味しているか判然としません。可能性としては、①前のところで出てきた「この食事」と「かの食事」を再び対比している、②直前のマタ25:45の引用中の、「私」と「最も小さい者たちの一人」とを対比している、③マタ25:45の引用と25:42の引用とを対比している、④「裸のイエス」と「絹の衣を着たイエス」を対比している、⑤現在自分たちがしている聖餐式と外に出て施しをすることを対比している、などが挙げられるでしょうか。このあとの文脈から考えると、⑤が適当かと思われます。

*7 ペトロの洗足の話はヨハ13:1-11にしか出てきません。『マタイ講話』ではありますが、例をマタイ以外から取っているわけですね。

*8 analiskoは、Lampeの辞書によると、destroyなど激しい意味のようです。つまりクリュソストモスはここで、財産を「使いつくす、使いつぶす」ということを述べているわけです。

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