2011年6月10日金曜日

クリュソストモス『マタイ講話』50.4

クリュソストモスは、「これらのこと」と「あれらのこと」という言葉を用いながら、今自分たちがしている聖餐式に過度な装飾を施すことと、外に出て貧しい者に施しをすることとを対比し、前者を戒め、後者を促しています。途中の、「まず飢えている彼を満腹にし、それから彼の食卓を豊かに飾りなさい」や、「遍歴者や外国人がさまよいながら屋根を必要としていたら、これをキリストに即しても考えなさい」という言葉は、古代のキリスト教が持っていた素朴ながら最も重要な精神を表しているように思われます。



50.4
私がこうしたことを言うのは、これらの献げものを準備するのを妨げようというのではなく、これらのものと共に、そしてこれらのものより前に、施しをなすことを〔あなたがたに〕要求しているのです。なぜなら、彼〔キリスト〕はこれらのもの〔献げもの〕も受け取ってくださいますが、あれらのもの〔施しをすること〕をより多く受け取ってくださるからです*1。というのも、こちらでは献げものをする人だけが助けられたわけですが、あちらでは受け取る人もまた助けられたからです*2。こちらでは行為は野心の基礎でもあるように見えますが、あちらではすべてのことは施しと人間愛なのです。食卓が彼のために黄金の杯で満ちていながら、彼自身は飢えで苦しんでいるようなとき、何が助けになるでしょうか。まず飢えている彼を満腹にし、それから彼の食卓を豊かに飾りなさい。あなたは黄金の杯を作りながら、冷たい〔水の入った〕杯を与えないというのですか。それが何の助けになるでしょうか。あなたは金を散らした覆いを食卓に準備していますが、彼に必要な覆いを提供しないというのですか。ここから得るものは何でしょう。私に言ってみてください、もし誰かが必要な食糧に事欠いているのをあなたが見て、彼の飢えを解放することを怠り、食卓を銀で上塗りするだけならば、彼はあなたに感謝するでしょうか。むしろその者は怒りを覚えるのではないでしょうか。では〔次のような例は〕どうでしょう。ボロきれを身にまとい、寒さで凍えている者をあなたが見て、彼に衣服を与えるのを怠り、黄金の柱を準備し、かのお方〔イエス〕のために作ったんだと嘯いているならば、彼はあなたが〔自分を〕侮辱していると言うのではないでしょうか。傲慢さ、しかも最大の傲慢さだと考えるのではないでしょうか。遍歴者や外国人がさまよいながら屋根を必要としていたら、これをキリストに即しても考えなさい。あなたが彼を受け入れることを怠り、床や壁や柱頭を磨き、銀の鎖をランプで固定している一方で、彼が監獄に繋がれていることを見たくないのならば。私がこういうことを言うのは、これらのこと〔装飾〕を熱心にするのを妨げているのではなく、これらのこと〔装飾〕をあれらのこと〔施し〕と共に、むしろこれらのことをあれらのことより先にするのを妨げているのです*3。かつてこれらのことしないからといって、誰も非難された者はいませんが、あれらのことをしないことについては、ゲヘナや消えることのない火やダイモーンと共にある罰が恐れとなっていました。それゆえに、家〔教会〕を飾り立てるのをやめなさい。苦しんでいる兄弟を見過ごしてはなりません。なぜなら、家よりもその兄弟こそが、より正しい意味での神殿なのですから。

*1 「これらのこと」(tauta)と「あれらのこと」(ekeina)が対比されていますが、前者はクリュソストモスの信者たちが準備していた華美な奉献物のことで、後者は貧者へ施しをすることのことを指しています。

*2 entauthaとekeiとが対比されています。

*3 同様にtautaとekeinaが対比されています。

0 件のコメント:

コメントを投稿